前回の年越しの瞬間、何してた?

宗教に関してはこれまで、幾多の問が成されてきたと思いますが、
私なりのシンプルな質問をさせていただきたいと思います。

⦅学術用語としての宗教の定義は学者の数だけあるといわれ統一し
た見解があるわけではない。辞典類によると、神仏などの超自然的
な存在に対する信仰、教義、儀礼、組織などをもって宗教と定義し
ている。
しかし、宗教と呼ばれる現象が多様化し、しかも宗教と宗教の境界
線が曖昧になってきた現在、改めて定義しなおす必要があろう。
最も包括的には、「宗教は本来自明でない超自然的な存在に関わる
事柄を自明なものに変換し人々をそのように振る舞わせる社会的装
置である」⦆ (岩井洋 関西国際大学教授)

なるほどと思わせる定義ではありますが、この文章を参考にしてい
ただき、宗教の是非を問いたいと思います。

宗教というものは不要である、あるいは害悪であるとお考えの方、
理由を教えてください。

宗教は必要なものであるとお考えの方、理由を教えてください。

A 回答 (24件中1~10件)

私は、偶々縁があってカトリックの洗礼を受けていると同時に、仏教や神道などの宗教、そして、宗教そのものに大変共感を持っている者ですので、「信仰者」として、回答させて頂きます。



「信仰者」でもあるので、当然、私の立場は、「宗教は、人間にとって、必要且つ不可欠のものである。」というものです。

では、その理由とともに、「宗教の本質が何であるか」について述べて行きましょう。

1)先ず、太古から、人類は、人智を超えた自然の営みや生・老・病・死の苦痛に翻弄されてきました。 それは、科学や医学が進んだ現代において少し緩和されたとはいえ、たとえ今日は元気でも、我々の明日は、いつ理不尽な事故や事件で失われるか、わかったものではありません。そうした人間の悲哀を和らげる「装置」・「システム」として、「宗教」は不可欠だと思います。

2)それでは、「宗教」はそうした人間の生きる上での必要性に迫られて、「後付け」で誕生したものでしょうか?
それは違うと思います。
なぜならば、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のような「アブラハムの宗教」は、宇宙・自然そして人間など、万物を創造した絶対神、超越清と考えられていますから、当然、「宗教」の誕生以前から存在していた訳です。(今日では、宇宙のビッグバンなども、神の万物創造にからめて説明がなされているようです。)

3)「宗教」とは、一般的には、こうした個人個人の①「信仰」を束ね、②「教義」・③「儀礼」などを制定して、④「組織」として結集させたものです。
ですから、一般的に我々が「宗教」としてイメージしているものは、そうした①~④などの要件を満たした教団である上記キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、そして仏教などではないでしょうか? こうした宗教は、「創唱宗教」と呼ばれ、多くの人は、こうした宗教こそ宗教だと思い込んでいるのだと思います。

4)一方、多くの日本人は、海外に行った時など、自分は「無宗教」と言わざる負えない、という話をよく聞きますが、この「無宗教」と言う意味は、あくまで前記のような特定の「創唱宗教」に帰属していないと言うだけであり、必ずしも信仰心・宗教心がないという意味ではないようです。(後記過去回答①ご参照)
 本来、「神」とは、人智を超える力・超越的な存在であり、こうした存在を畏怖/畏敬することが「信仰」になるのだと思います。ですから、そうした自然などに対する畏敬の心、「お天道様が見ているから悪いことは出来ない。」という気持ち、伊勢神宮に詣でてその時の感動を詠んだ「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる」という西行法師の歌の例のように、日本人には、自然に気持ちに湧き上がってくる信仰心、宗教心があり、これらを「自然宗教」と呼ぶことがあります。「自然宗教」の要件は「信仰」のみと考えてもよいように思われます。「神道」も、前記4要件の内②「教義」を欠いているので、「自然宗教」のひとつという考えもあります。
 実は、私は、この「自然宗教」的な信仰のあり方に興味を持っており、以前、後記②の質問もしました。この「普通名詞としての神」は、「普遍神」に近いものと考えています。
ただ、あなたの言われる通り、人間は、名前を付けたりして、その対象を特定し、認識しなければ、信ずるなどという芸 当はできないはずですので、便宜的に、名前を付けるのはよろしいでしょう。

さて、長くなってきましたが、もう一息・・・

5)神や宗教の存在理由の続きですが、私たちは、時に科学では説明できない事象に行き当たることがあります。こうした現象の説明の為にも宗教は有効です。
 キリスト教カトリックの「聖人」と認定されるには、その人の徳業や霊性を見極めることと並んで、今でも、何か「奇蹟」と認められることをやったか?、その聖人に神様への取り次ぎをお願いしたことにより、誰かが救われたか、といった項目があります。「奇蹟」はよほどのことでないと認めないカトリックではありますが、人智では説明できない「奇蹟」は確かに存在し、例えば、ルルド・ファチマ・グアダルペでのマリアの出現は、教会がはっきり事実と認めており、マリアを見た子供たちは聖人とされています。又、多くの聖人は、遺体に死後硬直が見られないことも、信じられないでしょうが事実です。
 アメリカはこうした信仰上の奇蹟やテレパシーなどのスピリチュアルな事象を進んで医学や犯罪の加害者・被害者の捜索に利用したりしている国であり、その方面では先進国だと思います。

6)最後に、宗教が果たしている人類の叡智や道徳への貢献について、
A.先ず、「平和」への貢献について:現在は宗教が原因で戦争になることばかり強調されていますが、世界宗教者サミット 或いは 世界宗教者平和会議などと言う組織もあり、キリスト教、仏教、イスラム教など諸宗教が協力して、世界平和のために尽力しています。
又、現教皇(ローマ法王)フランシスコは、長年国交が断絶していたアメリカとキューバの国交再開を仲介しました。

B. 日本の社会は、宗教と道徳が分離しているとのことですが、前記の日本人の信仰心、宗教心は、「人の見ていない所でも良い事をしよう」とする道徳心につながっていると思います。

C. 自力で何でも出来る人といえども、中々自分だけでは、いつもモチベーションを保つことは困難です。神の存在という精神的支柱がある人とない人では、やはり人生の実りは違うのではないかと思います。
 フランクル著『夜と霧」は、ユダヤ人強制収容所に送られた著者が、極限状態の中で、神への信仰を保ち、如何にそれが助けになったかを感動的に語っています。
 宗教を信仰することは「依存」ではありません。それは、人間の生存に際して、必要不可欠のものであり、「祈り」を通して、自分が求める姿に近づく手助けをしてくれるものと信じます。

(私の過去回答・質問)
①日本人は無宗教?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7392484.html
(回答No.22,24, 22に挙げた過去回答もご覧ください。)

②「普通名詞としての神」に祈ること 
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html
(私の質問)
ほかにも、私のプロフィールから、関連質問・回答をご覧ください。
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この回答へのお礼

おもしろい方がいるなと思っていたところ、ご回答を
いただき、嬉しく思っております。
その割には、お礼が遅いとは「どゆこと?」とお思い
かもしれませんが‥あいすみません。

天邪鬼ということですが、私もそうです。人と同じこ
とをしてしまうと、寝られないくらい後悔してしまう
ほど筋金入りです。

今回は、あなたの宗教観の基本を語っていただいたも
のと思います。

私は、宗教は人間にとって必要なことは言うまでもな
いことで、更に言えば、「人間は宗教的存在である」
とまで言えると思っています。
今後も思索を重ねていきたいと思っていますので、よ
ろしくお願いします。

お礼日時:2016/01/23 20:46

お礼、ありがとうございます。



万能感は個人が持つもので、検索をお勧めします。

思い込みの一種になります。
感覚として持っているので、本人には揺るぎない自信が出て
場合によっては、大変なことをしでかしますね。

人間を理解すれば、人間と宗教・人間と科学・人間と環境
人間と経済・人間と○○など、関係性が分かりやすいかと思います。

一緒くたにして考えると、どんどんもつれて煮つまります。

自灯明、つまり自分を明らかにできれば
自分の持つ灯りで、照らして歩いて行けますよ。

自身の中から明確性があれば、全方向
どこを見ても見えるものです。

外にあるものに気をとられてばかりいると、闇に侵食されて行きます。
悪行をする人は皆、必ず外部に悪があると思い込んでます。


仏教は、結構好きです。
別に信じていないし、疑ってもいません。
在るものをやってみて、なるほどねって理解はできます。

科学誌も経典も、自己啓発も哲学もある意味すべて情報ですから
やってみて「なるほど」ってのから使うようにしています。

知ってるだけならお飾りになるので、ちょっと勿体無いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
相変わらずの「カント節」という感じ。

心理学用語の「万能感」の記事を少し読んでみました。
要するに「わがまま」ということと思います。
30年前の若者にすでに強くあったと記憶していますし
現在はもっともっと強いと思います。
一番は教育だと思いますね。

宗教と「万能感」とはあまり関係がないと思います。
先に述べたように、教団組織の「高い立場」を手に入
れたときに、持っている「万能感」が暴れだすのでし
ょう。問題は「権力」です。

宗教の信仰の経験がない人は分かりにくいと思います
が、そして何度も言うことですが、「そんなに信じて
いないんです」そして、仰るように「理解していない
んです」。

やっぱり、日本人は宗教、信仰に関しては、関心が薄
いようです。

お礼日時:2016/01/22 09:24

宗教のおおもととなるもの(無意識)は人間の中に組み込まれています(心理学的見地)


しかし現在の宗教は、表向きのものとは異なり、金儲けや権力などに熱心です(キリスト教などの正規の宗教でも)
特に、国内の新興宗教などは特に問題が多く、本来の宗教への冒涜ではと思ってします団体もあります。

創○○などは、政治団体を作り、幸せになれるなどと語って寄付金を集め、反論する団体(政治団体、競合宗教団体、脱会者)などに対しては、組織的に電話盗聴を繰り返し、暴力団を盾に脅しては、事務所に信者が大勢で詰め掛けて襲撃とか、いつの時代の宗教なのかと問いたくなります。
http://ameblo.jp/worldwordpress/entry-1205438074 …

エホ○の証人は、輸血や医療行為を禁止しており、人命より宗教の教えが優先されるため、社会問題にもなり裁判沙汰にもなっています。
健康問題を軽視する団体は、あらゆる点で人命軽視をする行動を起こしやすいであろうことは言うまでもありません。

列挙してもきりがありませんが、宗教というものは、ある個人が作った哲学的なお話を信じて皆で信仰する演劇のようなものです。
それを、政治や商売に利用する団体が増加傾向にあるということと、
それを必要以上に追求する価値もあまりないということははっきりといえます。
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この回答へのお礼

せっかく回答をいただいたのですが、創価学会を
悪く言うためになされた回答と判断せざるを得ま
せん。

ここに書かれてあることは、ネット上でよく目に
する文言ですが、一般の人が納得できる根拠をお
示しいただくことはできないですよね?
創価学会の全体を論ずることなどなく、一方的に
悪口を列挙するという手法です。

あまりにも多いので、私は数年前に議論をしたこ
とがありますが、相手の方は、言いたいことを並
べ立てた末に、逃げていきました。
随分、時間がかかってしまったので、もうしたく
はないのです。

人に、しょんべんをひっかけて逃げ去るようなこ
とは、是非やめていただきたい。

お礼日時:2016/01/22 16:44

おっしゃっていることは 間違っていないのでしょう。

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この回答へのお礼

それで‥?

お礼日時:2016/01/21 14:14

私も宗教は専門でも何でもありませんが。

多くは「親」ですね

子供には分からない事も親には分かる。子供にはできないことも親には出来る。

多くの人はそうして育つのではないでしょうか?

そして自分が大人になった時、大人にも分からない、大人にも出来ないことが多いことに気づく

そこで昔の人は自然の摂理や恵みを見た時「これは親がしてくれた、上の方だから神と呼ぼう」

と思ったのかもしれません。その様に自然の摂理や恵みを代代伝承し「神様のおかげだ」と思う事に

悪い という気持ちはないですねえ。

私自身、一年間だけカトリック幼稚園に通ったので まだ「天に坐す我らの父よ アーメン」という言葉に

郷愁がありますねえ。白いマリア像にもあこがれがあります。ただ今はクリスチャンでもないし

仏教徒でもない。無宗教、無信仰です。

神の名のもとに喧嘩や戦争ををしているのは良くないですねえ。止めたほうがいいです。

しかし殺してはなりません。一人たりとも殺すべきではないのです。

私はイエスを殺して「これで我々の罪は贖われた」というのも嫌いです。

誰かを犠牲にして「我々は救われた」と言うのはやめてほしい。

沖縄を犠牲にして「これで日本も戦争に負けない」と言うのは間違いです。

私は一概に宗教を否定はしません。尊敬するクリスチャンや仏教徒他にも宗教の人は多いですが

ただ私は無宗教。なぜならみんなと仲良くしたいからです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

宗教の名の下に行われる戦争、争いは結局、権力争いだと思います。
排他的な一神教の教義の影響もあるでしょうが、私は権力欲こそ悪の
元凶だったと見ています。

宗教は、いや、無垢な信仰心は利用されてきたと言えると思います。

一つ言えることは、現代でも「功名心」が信頼を崩していると思いま
す。
布教は、信仰を持つ人間にとって、自然な行為と思います。しかし、
己の功名心によって、その自然な範囲を超えてしまった場合、社会的
迷惑になったり、人間関係を壊すことにつながってしまうでしょう。

権力欲だとか功名心だとか、人間の醜い心が、宗教というものに汚名
を着せてきたと言えると思うんです。

尤も、商売が目的の「宗教」が存在することは事実で、これは実に罪
深い行為ですよね。

お礼日時:2016/01/22 16:20

お久しぶりです。



個人的には宗教はあってもなくてもいいのですが
文化・文明という点において、残しておく方が有意義だと思います。
何と言っても、人間の歴史的背景ですから。

宗教の本質は教義でしょうから、教義が何かを問うなら
知識であり教養であるので、それは人間の豊かさだと思います。

一つの教義を知識の一つであるとし、知識を得て
その知識を使うものとすれば、人生はその分豊かになる
可能性があります。

よく対極で科学が引き合いに出されますが、その科学も
科学と言う知識を使うものとすれば、人生はその分豊かになる
可能性を持つと言うことですね。


宗教でも科学でも他の何であれ、示された共通概念を
鵜呑みにしてただ信じることとするならば、それが何であれ
危険が伴うものになって行くと思います。

都合のいい自己解釈をくっつけて利用しようとする人が
いつか必ず出てくるからですね。

万能説を唱え出すと、つまり人は元々別の理由で
「万能感」と言うものを持ち得ますから、その万能感を
何かにくっつけるとき、危うさが出てしまうと言うことです。


知識を知識の一つとして認めたとき、知識は知恵として用いることが
可能になりますが、万能感を持ってただそれだけが正解とすると
たとえ科学であれ、極端で危険な思想になり得ます。

人間が自己肯定の背景に自分という存在ではなく
宗教でも科学でも何でもいいのですが、そういう別の物を使い
そこに万能感が乗ると、そりゃもう大変さってなるでしょう。


教義の理解が得やすいとかの理由などで、絵とか像とか
儀式的なものがあったりしますが、知識とするか
内容を丸呑みして自分の行動などの肯定の背景として使うか。

つまりは、自分の中心に自分を置くか宗教を置くかで
自分に従って生きるか、宗教(科学でも何でも可)に
従って生きるかになります。

選ぶ個人個人がどういう生き方をするのか・したいのかで
変わるところだと思います。


宗教も存在意義は十分に有りますが、使い方で危険な物になるのは
誰にでも想像できることかと思います。

たとえ自分の中心に自分を置いても、万能感に飲み込まれると
私が宗教(教祖)になり得て、危うい道を歩くことになります。


人間が、自分自身を踏まえることができるのであれば
何が存在しても、うまく付き合って行けばいいことではないでしょうか。

宗教が必要と言うより、宗教を肯定できるというスタンスです。
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この回答へのお礼

お久しぶりです。
あれから、4か月程しか経っていないのに、随分時間が
経った気がしています。

kanto-iさんが宗教を肯定できるというお立場であったと
は少し意外でした。やや否定かな、と思ってました。

私も、宗教に関しての弊害は認めますけれど、例えば「万能
感」においては、科学も変わらないのではないかと思うの
です。
ips細胞などを作り出す科学技術、ITに対する期待など、特
に若い世代の感覚としては、とても大きいのではないでしょ
うか?

ゲームの世界で、究極の技が出るときに、宇宙空間に、難し
い数式が出たりするんです。
かつての「神」に「科学」が成っているんだと思います。

また、宗教の弊害の一つとして「聖職者根性」があると思い
ます。
教団組織の上層部ですね。特別な人間であると思ってしまう
ことです。これは、他の分野より強いでしょう。あえて言え
ば、裁判官の気取り方に近いと言えるかもしれません。

宗教にあって、哲学にないものは「祈る」ということかなと
思っています。

お礼日時:2016/01/21 13:16

ニャンポコさんこんばんわ^^



私は、宇宙の摂理と、人間として正しく生きることとはあまり関係がないと思います。また、科学が進歩していることと、人間として幸せになれるかどうかもまた、関係がないと思います。(具体的な事例では科学(医学など)に命を救われたりすることもあるでしょうが、同じく科学(兵器など)によって命を落としたりすることもあります。)
しかし宗教は違います。宇宙の摂理は分からなくとも、(時代の進歩はさておき)人間の捉えた世界像において、人としての生き方を明示し、それを推奨します。科学がいくら発展しようとも、その推奨する生き方は、折々の時期に生まれ変わりつつ、常に人に指し示されています。

おそらく宗教の原型は、太古の昔に及ぶと思われます。かつて人は、力ある動物や生活に縁の深い動物を神と崇めて、彼のように力強く、賢く生きようとしていました。また、人の力を超えた自然現象、嵐や火山、大洋、星々などを神と崇めて、彼らの動作を自然の摂理として捉え、そこで如何に人は立ちまわるべきかを思索したのです。と同時に、人の営みを助ける存在として、農耕の神や、医学の神などが生じています。これはおそらく、人の志向するその先の存在として、神というものを想定したのでしょう。或いは実在の人物を神格化し、後代にまでその威光の伝わるようにとの願いが込められたのかもしれません。

そのような中で、哲学という営みもまた、叡知の神というものを想定し、行われているように思います。個々の哲学者の中には、神というものを信じていない人もいるでしょうが、彼もまた哲学の志向する知というものへ、方向づけられています。ここでは、神は、人にとっての理想像として機能しているのです。ですので、科学で良いのか?と問われたならば、科学で良いと答えます。科学にもまた、科学の神という、科学者の志向する先の像があるのです。そういう意味では、科学もまた宗教的なるものに支えられて機能していると見れます。勿論、全てを科学に負うという意味ではありません。科学もまた一つの柱だという意味です。
文明の基盤とは一つの柱によって成り立っているのではなく、無数の神々からなる宗教像によって成り立っておるのではないでしょうか。

人権や平和という人類的に価値のある概念が今ひとつ定着していないのは、未だ、民族や地域、言語などによって人間は分かたれており、それぞれが支持する神の像もまた異なるからです。要するに、生き方が異なるのです。そしてまた、人々が持つ、自らの繁栄というものを測るスケールが、まだまだ小さいのです。彼らは異民族であるから、異教徒であるから、他所者であるから、我々の内に入ってはいない者達であるから、という理由で、融和できないでいるのです。そんな中で生まれた人権思想というものは実に大きな宗教であると思います。多くの人々がこれを志向しています。民族、時代、地域の神々を混融して、一つの大きな基盤をなすことができれば、多様性があってしかも争わない平和な地球が実現できるのではないでしょうか。哲学が錯綜している所為で人々が争っているわけではないでしょう。宗教は姿形を変えて、常に人間に寄与してきたと言っても良いし、常に人間を翻弄してきたと言っても良い。宗教が生き方のサンプルであるという観点に立てば、いかなる生き方が優れているのか、見えて来るでしょう。宗教を壊さず、その蜜だけを集めることも可能です。
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この回答へのお礼

あほなさんの「世界観」を語っていただき、ありがとうございます。

人類社会というものは、巨大になり複雑になり、変化しているため
過去の哲学ではまとめることができず、新しいものが生まれては来
ているが、錯綜としている。つまり、「乱世」といっていいと思い
ます。
私は、ある程度まとまる必要があると考えます。根本がグラグラした
状態は、人に、心理的、道徳的に、結果として身体的にも、悪影響を
与えると思うのです。
すでに、社会のあちこちで、それは起こっていると思います。

仰る通り、「スケール」の問題というご指摘は鋭いと思います。
我々は、無限のスケールをもった、哲学を選択すべきです。

お礼日時:2016/01/21 12:48

#3です。



>また、「自明なものに変換する」ということは、宗教にとって命とい
っていいと思います。
何を信じるかということが、ブレてしまったら、違う宗教になってし
まう可能性があると思うからです。これは、また別途お話したいと思
います。

おっしゃることは非常によくわかるつもりです。
ただ、極めて重要な点なのですが、「変換したこと自体」を無視したり、忘れたりしているパターンがほとんどではないでしょうか。ここに大きな問題が潜んでいると思います。
そもそも、信仰とは、人智を超える力に対する畏怖から生まれるはずです。
「人智を超える力」を信仰の対象として変換したのが「神」でしょう。
「人智を超える力」に恣意性(人間に対する配慮など)はありません。
ところが、「神」に変換されたとたんに恣意性が付与される。というか、そのために変換されるのだと思います。
つまり、真理から(若干とはいえ)逸れたところでの信仰が始まる。
よって、真理からそれたものから真理が導かれるはずはないのではないか?
という問いかけが発生せざるを得ないわけです。

神を確認した人はいないはずです。
ですから、「神はいる」と言うことは誤った認識になると思います。
むろん、「神はいない」と言うことも誤った認識になるでしょう。
ですので、「神はいるかもしれない」と言うことはできます。
これは、むろん、「神はいないかもしれない」ということでもあります。
しかし、「いないかもしれない」あるいは「いるかもしれない」ものを「いる」と言ってしまってはまずいですよね?

というのが、神に対する私の基本的なスタンスです。
人間にとって信仰は必要・必須だと思います。
じゃあ、どうすれば良いのか?
について探っていきたい、というのが今の思い。
回答者の立場ですが、むしろ、何かヒントを提示していただければ有り難いと思います。
とはいえ、繰り返しになりますが、
「いないかもしれない」あるいは「いるかもしれない」ものを「いる」と言って解決というのは、(非常にわかりやすくて便利ではあるが)おそらく後顧の憂いを残す(実際、世界を見ればすでに残しているでしょう)ことになると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

非常に難しいです。
「神」ー私は「真理」という言葉を使います。

真理(神)というものは、間違いなく存在すると考えます。
自分の五体を考えただけでも、これを存在たらしめる何ら
かのものがあるはずだと思うからです。

その真理を説く、宗教、哲学、思想はたくさんあります。
しかし、どれが正しいのかの証明は、科学によって成され
ます。その科学が解明していないので当然、証明は難しい
でしょう。

ということは、現代は宗教より科学のほうが信頼されてい
るということですよね。
その割には、人は何か宗教的なものにひかれているのは事
実だと思います。

結局、思考のみで結論を得ようというのはおそらく不可能
なことで、人生にあるいは社会にどのような価値をもたら
したかを、冷静に分析をし、判断をしてゆく以外にないの
ではないでしょうか?

お礼日時:2016/01/19 23:11

お礼ありがとうございます。


カール・マルクスが、「へーゲル法哲学批判序説」で記述している「宗教は阿片である」は、確かに反動的勢力である当時のドイツのキリスト教徒を意味していますが、マルクス・レーニン主義においては、反動的な宗教全てが、共産主義革命の完成時には消滅すると考えています。(日本共産党は、宗教は残るとしているので、除きます)
あくまで、反動的な宗教ですから、個人的な信仰に関しては、何も語っていないのは事実です。
マルクスの真意は、不明ですが、その全文が、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」と言う事なので、いわゆる、ハイデガーの定義する「世人ーdas man」が宗教により本質的な不幸から目をそらしているような状況を意味していたのだと思います。(ハイデガーは哲学は宗教を語らないとしているので、このような表現はしていません)
したがって、宗教がそのような機能を持った場合は、民衆は宗教的解決のみに頼り、革命に対しては反動的になると想定されます。(あくまで、反動となるのは、宗教が既存勢力と密着している場合に限られますけどね)
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この回答へのお礼

「宗教は阿片である」についての解説をいただき
ありがとうございます。

社会の中で「自明」とされる宗教の害悪は、権力
との密着あるいは、権力に利用されることによって
生じたことであり、宗教の本質的なことは理解され
ずに、「悪者」に仕立て上げられた気がしているの
です。

宗教の害悪は、教義即ち思想、哲学の部分から生じ
る、と考えています。

お礼日時:2016/01/19 22:08

★(№14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~


(あ) 姿かたちをイメージさせるものもない、
(い) 何らかの「教え}もない状態で、
信仰など成り立たないでしょう、現実的に。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (う) 確かにミツバチが花の蜜をそれだと当てるのは 何らかの
かたち(花が見えている)や匂い(嗅覚)を根拠としていましょう。

(え) この場合は 本能と呼んでいます。つまり その視覚などとい
った根拠のほかに では どうして花に蜜があると分かるのか? と問
えば 本能としてすでに遺伝子などに埋め込まれているハタラキによる
ということなのでしょう。

(お) だけど《物の怪(お化け)》なら 何らかの《イメージ》があ
るでしょう。つまり・けれども 何でそのような・あのようなイメージ
として描くのか? と問うた場合 じつは根拠はないのです。

(か) 何となくそのようではないかと感じた・思ったとおりにお化け
を描いている。もちろん 想像力の成せるわざなのでしょうが ではど
うしてそういう想像をするのか?

(き) ミツバチのように本能によるのでしょうか? それにしては人
によって 少しづつ違う。でも イメージを湧かせて描く。もともとは
お化けについて 何も知らないのに。

(く) 問題は こうです。――《なんで人は 倫理規範となるオシへ
を持ったのか?》

(け) 社会の中での人間という経験を積んでその中から得て来た一般
性を持つような世界認識としての内容。そしてそこにさらに 良し悪し
を――主観的ながら――つけ添える。しかも 一般性を持つことより 
ほかの人間の主観にとっても 同じような見方として成り立っている場
合がある。――このようなナラハシ そのマナビが根拠だ。と答えるで
しょうか?

(こ) けれども なんで・どうやって そんな慣習法になりうるよう
なオシへをまなんで行くのか?

(さ) オシへとしてまとめ上げられたもの これはゆるい形で言えば
最近出回っている《摂理》であるとも言えるものです。

(し) でもこの摂理あるいはオシへ それらのマナビ これはいった
いどこから来るのか? その根拠は 何ですか?

(す) 神から来る。と答えたとしても そのとき 根拠は無です。あ
りません。堂々巡りの答えです。

(せ) 根拠はある。と答えたなら おそらくその根拠は ものごとの
条理なのだとか あるいはさらにその根源(アルケー)であるとか あ
るいは 摂理なのだとかになりましょう。

(そ) それらは どれも 根拠というには あやふやです。人間には
必ずしも分かっていない。

(た) ミツバチの本能は 摂理によるのだと言った場合 その摂理に
は 根拠はないのではないですか? 神から来るとこたえるなら それ
は 非知です。なぜなら神が何であるかを知った人間は すでに神であ
るでしょうから。非知でなければ おかしい。

(ち) だから 《信じる》のです。そうでなければ オシへなどなど
の根拠がある場合でありそれは 《考える》のです。

(つ) ことさら意識的に信じることもないはずです。むしろ わたし
はすでにこれこれの神なら すでに信じていたと分かるようなかたちで
自覚する。ようになる。そこから信仰という動態は始まるのでしょう。

(て) 根拠を得て考えるを経て 心に受け容れたならそれは マナビ
であり学問であり信念・信条であり座右の銘であり人生訓であり思想で
す。

(と) 思想と同じ信仰などは 要りません。いちいち信仰という必要
がありません。

(な) ところが 宗教は そのオシへを心にそのまま受け容れよ・つ
まり信じよと説くなら トンデモナイ精神錯乱に落ち入っています。人
間があやつることのできる《信仰》を編み出したのです。じんるい最大
の敵でしょうね。
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この回答へのお礼

間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。

「本能」と呼ばれる概念は、非常に興味があります。
科学において、生物は「種」の記憶をすべて共有しているという
説があるそうです。どこまで証明されているか分かりませんが、
おそらく、どこにその情報がストックされているのかが分からな
いのだろうと思います。DNAでは、容量の問題で不可能でありま
しょう。

人間は、「種」の記憶だけでなく、あらゆる生物の記憶、そして
宇宙の深い部分と無意識の部分でつながっているということのよ
うです。もちろんこれも、証明などされていないのでしょうが、
私は、人間も本能的な部分は多く持っていると思いますし、「真
理」(摂理)とつながっていると思います。

しかしながら、これも以前申し上げたことですが、個人の主観の
部分での「ヒラメキ」を「神」からのものであるとするのは、あ
まりにも脳天気ではないでしょうか?
無数の情報が飛び交っているのでしょうから。
しかも、根拠なしに信ぜよということですから、尚更です。

これこそが、精神錯乱の元凶というべきでしょう。

お礼日時:2016/01/19 21:46

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