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「本物の宗教を知らないから、そんなことを言うのだ」
という批判を私はよく人からされます。しかし
それが正しいなら、本物の宗教というものが存在することになります。
もちろん、偽物という概念も現れます。

でも、それだと一体、本物はなんだ?
といって争います。どこが本物だ?ウチこそ本物だ、と。

典型的な宗教戦争です。

本物なんてあるんですか?

まぁ、宗教のために人間があるのではなく、人間のために宗教がある。と
いえば所詮。ですが、苦行とか戒律とか守っている人もいるので
やっぱり譲れないところもあるわけで。

A 回答 (19件中1~10件)

信仰とは自発的な心からするものであって、押しつけるものではないと思っています。


もちろんこの考えを人に押し付けるつもりはありません。

>もう宗教が幸せを求めているといって
>その本当の幸せとやらに支配されるのには、まっぴらごめんなのです。
それならお辞めになるべきなのでは?
日蓮上人、法然上人、その他多数の開祖は、既存の仏教に満足できなかったから
新しく宗派を立ち上げたのではないでしょうか。
新しい宗派を立ち上げるエネルギーがなければ、自分にあったものをお探しになられてはどうでしょう。
宗教も多様化していますので自分にあったものがあるはずです。
個人的には宗教からいったん離れ、また興味が湧いたら勉強すると良いと思います。
冷却期間はとても大切です。

「幸せに支配される」と仰られますが、幸せについての定義、解釈は人それぞれです。
宗教指導者は経典についての解釈権を有しています。
その宗教で言われる「幸せ」というのは指導者の解釈をもって、その宗教を代表する解釈ということになります。
それについていけない。ということなら信仰に値しないのでは?

同じ信仰をしている人であっても、考え方や捉えかたは違います。
集会に参加して、指導者の話を聞いても微妙に違う解釈をしてしまうものです。
読書感想文を宿題で出され、授業で発表したら全員同じ。
ありえないですよね?
だから共通の認識をもった言葉というのが必要であり、統一された解釈にするために
指導者が代表して判断するわけです。
その「幸せ」に疑問を感じたら、自分を無理やり型にはめるか。やめるか。
とりあえず、そういうものなんだ。と、自分の理解を先延ばしにする。
選択するのは個人の自由だと思います。
ちなみに私は違う幸せの解釈をしています。
御質問者様の信仰と違いますが、否定するつもりはありません。

・本物の宗教、偽物の宗教。
信仰している人にとったら、これが最高であり他にはないから信仰しているのであって
偽物だ。と思って信仰している人は特殊な人です。
本物と思うのも個人の自由ですし、偽物と思うのも自由です。
自分の信じているのが本物と思えないのに信仰する意味はあるのですか?
森羅万象すべてのメカニズムが解き明かされたわけではありません。
正解となるものがないのですから、自分が信じられるものを信じるしかないと思います。

・歴史的に見ればオリジナルが本物。
たとえば
日蓮上人が日蓮宗を立ち上げましたが、日蓮上人が説く日蓮宗は本物なのはわかりますよね?
日蓮上人が日蓮宗を立ち上げたのですから。
お釈迦様の教えとは違いがあるので、本来の仏教ではない。
ということが言えます。
日蓮上人の教えはとても良いものだと個人的に認識しております。
本来の仏教と違うので偽物だ。と非難することは私にはできません。

日蓮上人の死後、日蓮宗は分裂していくつかの宗派、会に別れました。
各宗派が対立し、偽物だ。本物だ。と、やりあっていますが
各宗派に別れて対立しろと、日蓮上人の教えにあったか疑問に思います。
日蓮上人のかかげた理想と情熱。そこから生まれた教え。
それを守り、受け継ぐのが本来の日蓮宗ではないでしょうか。
各宗派に別れたいきさつや、それぞれの特色、地域性で信仰する人がいるのだと思います。
信仰している人にしてみれば自分たちが本物であって、他が偽物というのもわかります。
日蓮上人がもし生きていらっしゃったら、どの宗派を本物として認めるのか気になります。
個人的には、新しく宗派を立ち上げるのでは?と想像します。

・社会的に見て本物か、偽物か。
独りよがりでこの宗教は最高だ。これ以上のものはない。と思って布教したとします。
周囲の人の顔を見ると、自分がどう思われているかわかります。
個人的には、周囲の人からも認められる宗教が良い宗教なのだと思います。
社会的に見て、本物、偽物。
これは個人で判断し、人に言ってはいけないことです。
価値観や考え方が違う人を否定することになりますので。
本物、偽物。ではなく、信じる。信じない。
心から信じることができる。これが信仰なのではないでしょうか。

以上、私見です。
信仰をしていると、たまに自分を見失うことがあります。
いろいろな人の意見を聞くことは大変良いことだと思います。
長文失礼いたしました。
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偽物の宗教だと思って信仰している人は特別な事情のある方だと思います。


信仰している人にとっては、唯一無二の正しい宗教であり
他の宗派を参考しても信仰の対象としないのが普通ではないでしょうか。
自分の一番深いところに繋がっていなければ信仰しているとは言えないのでは?

歴史的に考えると、オリジナルが唯一の本物と言えると思います。
宗教は時代と共に変化していくものです。
お釈迦様が今生きていらっしゃったら、時代にあった教えを広めようとすると思います。
もちろん本質的なことに変わりはないはずです。
文明は進みましたが人間の本質は変わっていませんから。

仏教の中でもいろいろな宗派に別れました。
新しく宗派を立ち上げた人が、これが一番イイ!
この教えを広めねば!
と考えたからではないでしょうか。

野球選手は様々なフォームで投げたり打ったりしています。
その人に一番あった方法だから、選手として活躍できるのだと思います。
陸上の選手でも、競技の前に観客に手拍子をさせて気分を高めたり
自分の好きな音楽を聴いたり、呼吸を整えたりして精神を集中させる人がいます。
ベストを尽くすため人それぞれの方法を取り入れています。
この方法がいいから。とコーチに押し付けられても・・・
宗教も同じことが言えるのではないでしょうか。
人としての高みに到達することができればそれでいいと思います。
高みには届かなくても、周囲が喜びや感謝の気持ちであふれるようにするための
道徳的な規範という側面も宗教は担っています。

山の頂上を目指すのに、いろいろなルートがあり人それぞれのスタンスがあって良いと思うのですが
御質問者様はどうお考えになられますか?
自分と違う道を行く人のことが気になりますか?
周囲の人を幸せにすることができれば、良い宗教なのではないでしょうか。
自分の心と向き合うことも必要ですが、人の顔に自分の心が表れることもあります。
周囲の人を笑顔にすることができれば、それでいいと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
他にも回答を寄せられている方がいますが
先にこちらにお礼を。

もう宗教が幸せを求めているといって
その本当の幸せとやらに支配されるのには、まっぴらごめんなのです。

自分で選ぶのであれば、不幸になろうと苦しかろうと
それがその人の信仰であり、宗教だというのであれば
それでいいのではないでしょうか。

それを偽物だとか本物だとか言うのはなんなのでしょう。
人が自由なら。不幸になったって、いいのではないでしょうか。

本当の幸せ、本当の宗教。それがなんだというのでしょう。

お礼日時:2008/02/28 21:46

宗教には善悪、正邪は厳然とありますが、残念ながらそれを見極めてから選択するという人はまれで、ほとんどが先祖代々からとか、冠婚葬祭の時だけとか、受験、縁結び、水子供養等の神頼みが必要な時とかに、ただ漠然と拠り所にするぐらいで、宗教の真の価値については、知る由もないかと思われます。


本物の宗教と言うか、真に価値あるものは我々に生死の意味、生命の実像、運命の仕組み、心の持つ力等々、我々が生きていく上で必要不可欠な真実を解き明かし、我々に常に希望と勇気を与え、その人生を力強く歩ませることができるものなのです。
ですから、もし、ある宗教を拠り所としていても生活は向上しない、心身ともに弱々しい、希望が持てない等々、上記とは反対の現象が出るのであれば、それはエセ宗教ということです。
結局、『理証、文証も現証には過ぎず』という言葉がありますが、これはいくらその良さを説明したり、どこそこの経典に書いてある等、あらゆる手段を用いて賛嘆、推奨しても現実の結果が伴わなければ、何の意味もないということで、つまり、実際に現れる現証に勝るものはないということを言っているのです。
早い話が、様々な宗教を複数の人に「よーいどん」で始めてもらって、その人たちの1年後、3年後、5年後・・・というように経過を調査して、その人たちがどのようになったかを見れば、自ずと宗教の善し悪しの決着はつくのではないでしょうか。
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立場によって異なると思います


教祖を中心とする宗教団体の経営者にとってはどんな宗教でも絶対的に正しく価値あるものです。この場合宗教の為に人間が居るのです。

次に
信者にとっては微妙ですね、生甲斐の人も居るし軽いお付き合いの人も居ますし。教義にのっとった生き方をしている人は教祖に近いような考えになるかも知れません。

また部外者はどんな宗教でも批判的な目で見ます。
自分の価値観とは大きな差が有る場合など特にそうですね。


結局立場によって必要性や価値観が異なる訳で絶対的な基準など存在しようがありません。
宗教と国家間の関係はとても良く似ていてお互い自国がいつも正しいのです。地球上に絶対的に正しい国家など存在しないしそのような定義自体が無理があります。

でも敢えて考えれば正しい宗教の定義をはっきりと決めておきそれと比較して判断すると言うことは理論上は考えられます。
しかし現実は不可能でしょう。
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 No.14です。


★ 本物と偽者はあるとのことですね。
☆ 信仰については あります。消極的に区別できます。 
 精神が神であると表明するばあいは 偽物です。
☆ 信仰者が集まると その信仰が本物であっても 組織・教義そして運営上の規則・儀礼慣習を持つようになって 偽物に成り勝ちです。
 組織にともなう権限を自分自身だと錯覚するとき 支配欲を満たすための動きを伴ない 広く政治的な行動に変わっていきます。信仰とは別だという意味です。
 また この集団を 対外的に組織の存続のためにせよ 自己一人の利己的な目的のためにせよ 営利のために運営するなら 信仰とは別の経済活動になります。
 つまり この集団のことを宗教というと理解しているのですが その意味で宗教にかんしては その誕生の時にすでに 信仰とは別の偽者となると捉えます。
 たとえば営利集団としては 本物だという意味ではないですよね。だとすれば 宗教には 本物はありません。すべて悪いし 偽物だと考えます。
 (たとえば 釈迦の集団が もし宗教だとすれば その宗教としても 一定の期間 一定の国で その社会が受け容れたということだと考えます。そもそも その思想は 信仰ではないようですので 宗教としてという見方が 妥当かどうか 分かりません)。
 (そのようなあいまいな形の宗教の受容としては 国家という《まつりごと》も 一つの見方として必要悪だとも言われつつ 歴史的に 一定の期間 続いています)。
 (そうなると 《宗教》の定義が 問題になるでしょう)。
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 こんにちは。

お邪魔します。

 わたしは どの教会にも属さないキリスト者ですが 本物の信仰者とは 社会生活全般において キリストのキの字も出さないで 対話していける人だと考えます。
 (集団としての宗教については 研究者の集団を除けば よいところが見つけにくいと思っております)。

 ・なお 精神そしてその意味での魂・心は あくまで 脳裡・身体とともに この世の肉に属します。この精神は 神ではありません。さもなければ 人間が神になります。

 ・この世は 経験合理性でその認識が妥当だと互いに理解できるものごとから成り立っています。古い捉え方では 《質料(もの)》と《形相(かたち)》から成っています。《内容と形式》であり 家の素材と設計図とです。
 ところが 両者は 互いに融合していますが それぞれ 単独で取り出すことも可能です。けれども 特に西欧の人びとは ここから そのように単独で取り上げたものを あたかもさらに蒸留して行ったようです。純粋質料としての《第一質料もしくは物質(ヒュレー;マテリア)》と 純粋形相としての《第一形相(エイドス;イデア)もしくは世界精神》 です。
 * エイドス:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E7%9B%B8
 したがって 唯物論というのは もうこの世のものではない《物質》のみが この世の根源であるという思想です。それは この世のものではない《第一形相 / 世界精神》が この世に あたかも 発現してくると見る精神論・観念論と まったく同じ観念形態のものです。もし これらの思考や理念を究極のものだと見ないとすれば すでに 信仰です。
 このような交通整理が 有効ではないかと考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
本物と偽者はあるとのことですね。

この質問の重要な点は、他にも本物はあるだろうが
やはり自分たちが信じているものは、本物である。
よって、それ以外の何ものかが偽物である。
という概念を作り出している。ということになります。

お礼日時:2008/02/22 12:50

私のような不信心者がこういうことを言うとお叱りを受けるかもしれませんが、「善い宗教」「悪い宗教」というのは基本的にはおそらく無いんじゃないかな、という気がします。


その時代時代の背景や、実質的な指導者によって様々に印象や行動は変遷していくことでしょうが、しかし、教義自体が完全なる誤謬の上に成り立っている宗教というものはないのではないか、ということですが。

ただ、「善い信仰者」「本物の宗教者」という方はおられるように思います。
真の信仰とは、真実や崇高を希求する超自我のなせる業であって、人間としては最も高度な精神性を具現化するもののひとつということが言えるでしょう。

私たちは本能の塊として生まれてくるわけですが、やがて自己を守るための自我をまず獲得しようとします。
この自我は、大人になれば生活するために、また、存在証明としての自己アイデンティティを確立するために必須のものです。

自己のみではなく「他者の自我をも尊重したい」という精神性が超自我で、これは、常に自我や本能との闘いにさらされることになるのは理の当然と言えます。
ここに葛藤が生じ、あらゆる悩みの源泉ともなるわけでしょう。
ただ、葛藤が生じるということは本能は無論ですが、自我が健在である、ということでもあります。
バランスを取ろうとするゆえの葛藤なわけです。

信仰するということは、この自我を放棄して、超自我性のみで生きようとすることではないかと個人的には思います。
この場合には、結果として本能や自我への抑圧が求められることになるでしょう。
超自我というのは諸刃の剣のようなもので、善性や崇高性を高める力を持つと同時に、(健全な)本能や、(自己保存のための)自我を抑圧する力も兼ね備えているわけです。

これら3者のバランスが取れた生き方を目指すのが幸福につながると私は考えますが、超自我性のみによって生きようとする方がいても良いと思いますし、それは自由だと思います。
(因みに本能のみによって生きることは動物となることですし、自我のみによって生きようとすれば通常は犯罪者となります。)
ただ、最も重要なことは、真に納得できなければ意味がない、ということです。
「>苦行・戒律」なども真理を感得するプロセスとしてなされるものなのでしょうが、それが売り物になってしまうようでは心から納得できていないことになるでしょう。
納得できないことをしていると精神に無理が生じますから、様々な歪みが当然滲むように(思わぬところで)浮かび上がってくることになると思います。

本物の宗教者は、おそらく自我を捨てているものと私は推測します。
捨てている、と主張すらもしないでしょう。
そして超自我性に自己を捧げる(本能や自我をあくまで否定し続ける)姿勢を堅持しようとする意志の持ち主でしょう。
健全とは思いませんが、崇高である、と私は感じます。
これは、どの宗教であっても同じことが言えるように思われます。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>健全とは思いませんが、崇高である、と私は感じます。

とても重要なことを指摘してくださいました。
これです。宗教を信じれば、もしくは実践になれば
幸せになる、というのは誤魔化し以外の何ものでもないわけです。
人間的には、不幸になります。

お礼日時:2008/02/22 12:45

唯物、無神論者です。


私の考えです。

本物を知るためには、その宗教の最初の姿を見ることが大事だと私は思います。
例えば、仏法なら「ゴーダマ・シッダールタ(お釈迦様)」を、キリスト教なら「イエス・キリスト」の言葉に耳を傾けたい。

 神様が「ああですよ、こうですよ」といったのでしょうか。そうでない限り、またそれが証明できない限り、それぞれに違ったことを言います。他を否定しないと成り立たないからです。他を否定する宗教が、人のための宗教だなんておかしな話です。

 宗教の原点は、形の無い思想です。形の無い物は時間を経ると大きく変化します。それが証拠、日本の仏教は本当に仏教なのか・・と他国に疑われることも多いですから。全ては日本式。
そこに、釈迦の言葉はどれだけ残っているでしょう。

苦行、戒律は、そもそも信仰のために守るのではなく、自分自身を試すものでしょう。ゴーダマも信仰のために苦行を行ったのではなく、「苦しみの先」を知りたかったからではないでしょうか。

本物があるとすれば、人それぞれが持っている生きる道のこだわり。“受け売り”が本物??
人に影響しようとか、否定しようとか思わなければ、共存できるのに。
もう権力の奪い合いですよね。見苦しい(笑)

すみません。信仰心のないものが考えてみました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
本物と偽物との区別はあるようですね。

>宗教の原点は、形の無い思想です。
面白いですね。

私は、自分が信仰心があるのか、ないのかよくわからないですし、
別に気にしなくてもいいですよ。あるなら失礼なこと書いてばかりだし…。
この質問自体…。
何かありましたら、またどうぞ書き込んでください

お礼日時:2008/02/22 00:10

本当の信仰は比較したり相手を攻撃したりしないね


そんな暇があるなら聖典を読んで自分の間違いがどこにあるのか
考えます。いうこと自体間違っている。
教えに相手を傷つけろという教えはないですね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
申し訳ありません…。

お礼日時:2008/02/21 23:47

私の見解としては、仏教(テーラワーダ仏教)は宗教に当てはまらないように思います。

「心の問題・人間関係などの解決法」がこれに当てはまる気がします。

yukiyama20さまの言うとおり、心の問題(悩み苦しみ)を解決し充実感を得たいのであればこの実践法に頼ればいいでしょうね。

その場合宗教は必要ないという見解もあると思います。

yukiyama20さまのいう宗教は人間のためにあるものではなく、辛く苦しい感情を生むものなのですね。

大変な苦行ですね。

何を目的とするかはわかりかねますし、各々の宗教によって違うのでしょうが、皆様の悩み苦しみが少なくありますように心からお祈り申し上げます。

心の問題に関与しない宗教というものに範囲を絞って考えると、何を重要視するかによって、各々が本物なるものの見解を持つよりないでしょうから、やはり客観的な価値決定は叶わないでしょうね。

一人一人に苦行や戒律について実践する理由を聞き、自分なりに解釈していくよりほかないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
maggaさまにとっては、テーラワーダ仏教とは
あくまでも宗教ではないわけですか…。

お礼日時:2008/02/21 19:18

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