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「本物の宗教を知らないから、そんなことを言うのだ」
という批判を私はよく人からされます。しかし
それが正しいなら、本物の宗教というものが存在することになります。
もちろん、偽物という概念も現れます。

でも、それだと一体、本物はなんだ?
といって争います。どこが本物だ?ウチこそ本物だ、と。

典型的な宗教戦争です。

本物なんてあるんですか?

まぁ、宗教のために人間があるのではなく、人間のために宗教がある。と
いえば所詮。ですが、苦行とか戒律とか守っている人もいるので
やっぱり譲れないところもあるわけで。

A 回答 (19件中11~19件)

yukiyama20さま



こんにちは。

あえて精査するなら。

(1)「心の苦しみが減るのか。自分・周りの人に迷惑がかかからないのか。」

が重要なポイントでしょうね。逆ならちょっと危ないでしょ?
次ぎは、ちょっとかぶりますが。

(2)「理性的か、論理的か、道徳的か」

感情的なものでなく、言葉として筋が通っていて、道徳的なものが安全でしょうね。感情的で、言葉として成り立たない、不道徳なものは危険でしょ?

次に

(3)「確かめられるのか」

これも重要な項目の一つといえるでしょう。
頭の中で上記の事柄が大体理解出来ても、実際はどうなのかということも問題になるでしょう。

(1)(2)でだいぶ危険性を回避できるでしょうが、(3)があればより安全といえるでしょう。

「この範囲でこのように考えた結果、このように思う」と言わずに、「これこそ真理だ、他は全部間違いだ」というものも危険をはらみますね。論拠なく自分の正当性を主張する人は社会では危険視されると思います。

質問しても「いいから信じろ!じゃないと~になるぞ!(脅し)」とかは明確な論拠がない限り、明らかに危険ですね。

本物偽者・社会的善悪などは判断不能しょうね。

しかし、宗教を「心の苦しみを減らす為のもの」と定義するなら、「自他の苦しみが減ることを<善>、増やすものを<悪>」とするなら、上記の項目に当てはめて。精査することが可能だと思います。

上記の項目をほとんどクリアすることなく「本物だ」といったことを言っている人の「概念」を「危険な概念だ」と。そう感じます。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教って宗教でしたっけ?それはいいとして、
今回質問して日本における仏教の影響というのを
非常に感じました。苦しみから救われるかどうかという人間の内面を
強調しているのがそれだと思うんですよねぇ…。
個人的に苦しみから救われたいなら病院にいって
宗教など信じないほうがいいと思います。
はっきりいえば宗教はつらいことがいっぱいですよ。

お礼日時:2008/02/20 14:24

>過去存在したが今は存在しない宗教。

たくさんあります。
>それに価値はあると思いますか?(骨董趣味としてではなく)

民族にとって重要な歴史的文化現象が幾つかあると思います。日本なら、神道、仏教、万葉集、戦国時代、幕藩体制(鎖国)、・・・、西洋なら、ユダヤ教、ギリシアの精神文化、ローマ法、中世の封建制度、プロテスタンティズム、・・・ですね。このレベルで名を連ねる宗教は、その歴史的意義や影響が繰り返し語られてきました。仏教を語らずして現代の日本文化は理解できませんし、古代ユダヤ教を通して近代・現代西欧の精神が見えてきます。
では、消滅した異端はどうか。やはり、消滅した理由がありますよね。例えば、現世内世俗生活を拒否して神秘主義に引きこもってしまったとか、有能な弟子が生まれなかった/教祖に人徳がなかったとか、こういうレベルの宗教は歴史の袋小路のような現象であり、骨董品だと思いますね。
たとえ過去の存在であっても、本物の宗教は今の我々に共感できる要素を持っています。社会経済体制がどんなに変わろうとも、古代人も現代人も、人間としてみれば、中身に変わりはないし、悩みは共通です。多少身長が伸びたからといって空を飛べるわけじゃないし、男と女の性差は変わらないし、家族を作らなければ民族の明日はないし、人間の本質は原始から何にもかわっていません。ですから、聖書や経文が相変わらず読まれるのです。本物の宗教は人間の普遍性に触れる教義を持っていますから、新しいか古いかは関係なく、価値があります。異端として歴史に埋もれた宗教は人間の普遍性を掴み損ねたのだろうと思います。

※今回のご質問は少々高級すぎて、信仰心の領域にまで入れませんでした。他の回答者にお預けいたします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
普遍宗教というのは民主主義の時代に評価されそうです。
支持されている数がそのまま肯定的な評価の何ものでもないですからね。

お礼日時:2008/02/20 14:08

本来は宗教は比較するものではない。

比較するから戦争が起こる
自分とその教えの中で自分を見つめていく物

後戦争は宗教によって起こっていない
原因は人間のの欲ですね。絶対になくならないものでしょう。
特にうちの宗教、うちの団体はいいと言ってる間はね
すくなくても教えがいいぐらいにしないと。
本当に教えがいいなら自分も同じようになれるはず
なぜなれないのか?それを問わないといけない。
つまり信じていないから。とまた自分に心を向けなければいけない
と言うこと
相手を否定している間は自分の成長を止めてしまった、自分を見ない
ようにしている。そのほうが楽だからね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
宗教の比較が流行っている昨今はかえって
争いをつくっているのかもしれませんね…。

お礼日時:2008/02/20 13:58

>それが正しいなら、本物の宗教というものが存在することになります。



ということは、本物の宗教をその人は知っていると本人は思っているので、「じゃあ 本物の宗教はどれですか?」って聞けばいいと思うんですね。

正しい宗教というか いい宗教か悪い宗教か見分けるには、、、

良い宗教・・・本人にとってもその人の周りの人にとっても、いい影響を与える。

悪い宗教・・・本人にもまわりの人にも迷惑を与える。


邪教
・金を要求する。

・金じゃなても物とか講座受講料とか写経代とかなど誤魔化して金をむりしとる。

・本人に不幸が迫っているとか、本人じゃなく家族がこのままだと不幸になる とか 恐喝する。

・信者を勧誘する布教活動をする。

・天国とか極楽とかいう言葉を使い、甘い言葉で誘惑する。

・他の宗教の教義をパクっているのに、自分達独自の教義だと言い張る。

・教祖は何度も生まれ変わって、もとは宇宙から来た宇宙人だと言い張る。

・自分は何度も転生をしたことがあり、かつてはイエスや仏陀として生きたこともあると言い張る。

・ナポレオンは私だったと言い張る。

・アトランティスで神官をしていたと言い張る。

もっとぶっとんでいると、何度も宇宙旅行をしたと言い張る。
でも何故か話の中に重力があって、宇宙空間だと重力無いんじゃないですか? 酸素ないけど、どうやって呼吸して声出していました? と突っ込みを入れると、無茶苦茶なことをその場で作り出して、笑わせてくれる。

ある意味 暇つぶししたいときは相手にすると面白い。
それが邪教信者たち。

つっこみすぎて、相手が答えに窮した場合、かわいそすぎて、相手に助け舟出したりして、結構愉快に楽しめます。
「あら 痛烈なパンチすぎて、ノックダウンしちゃった? いやー 立って~ 遊んで~」って、娯楽としては面白いです。

で、邪教の存在する価値としては、それがなくなると、誰かをからかって遊びたいとき遊べなくなる
まあ いなくても他で遊ぶからいいですが、でも相手にすると愉快で、これは他の娯楽では味わえないある種の、、、、愉快さがある。
ビリビリと電波を浴びるわけです。
フグの毒がぴりぴりとしてこれがたまらん という変な人いますが、その心理がなんとなくわかる。


相手が知的障害を持っていると思ったらしないんですが、知的に問題はないと思える人に、誇大妄想話をされると、つついて楽しんでしまう・・・。

でも、結局 その人の生きる価値は、その宗教を決して理解しない人に、延々とその宗教のすばらしさを言うことですから、私が「すばらしい」と賛同しちゃうと、その人は攻略する相手がいなくなり、困った問題になると思うんですね。

そういうこともあり、時々 相手にして「うわーー すごいですね でもそれは幽体離脱じゃなくて、解離性同一性障害という一種の障害により引き起こっているんじゃないかと思いますが、この障害についてどこまで教団はご理解されているのでしょうか」とかフォロー入れて相手にしたりしてます。

ある意味宇宙人と会話しているみたいなもので面白いです。

中にはこういうと怒り出す人がいます。
馬鹿にしているって。
すると、私は「人を知らないと思って騙せると思っているのか。馬鹿にしているのはあんただろう。 他の宗教の教義をパクってあたかも自分達の物であるかのようにここで布教して。こら ペテン師 詐欺師 犯罪者!ドロボー!」って言います。
で、その人は自分の宗教の教義がパクリだと私から聞かされ、自分はドロボーの一味だと自覚することになり、騙されていた となり、、、、。

ですが毒を食わば皿までで、もう生活の一部にまで食い込んだそのパクリ教を手放せず、私にぬすっと と言われながらも布教活動をやめれない と。

ほらね 本人を不幸にしているから邪教。
私が暴かなければ本人は悪事を知ることがないので、私がバラさなければ本人はハッピーだった?
でもね、教団は嘘をその人に教えている時点で騙しているわけでしょ?
そして騙しをその人にもさせているわけだから、私が暴かなくても犯罪をしていることに変わりはないわけで。
しかも犯罪だと知った上でもやるんだから、もう故意に犯罪を犯しているわけで、そうなると真の邪悪になるわけですよ。
知らなかった場合と、知った上でやった犯罪は重さが違うから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どうも、よい宗教悪い宗教の区別は存在するようですね。

お礼日時:2008/02/19 21:01

 宗教社会学の偽者のような回答を試みてみました。


 まず、鰯の頭を信じても宗教になりうるか、考えてみました。否ですね。というのは、宗教の果たす幾つかの役割、例えば、人格の成長や人類愛の肯定、社会貢献意識の向上などが体験できないからです。鰯に願かけたら金を拾ったとかテストで100点取ったとか、宗教以前の迷信やジンクスの一変態ですね。古代ユダヤ教でも、こんな馬鹿馬鹿しい戒律はありません。
 古代ユダヤ教は厳しい戒律を守って信仰心を確認するよう信者に要求しましたが、キリストは律法の遵守よりも信仰心が大切だと述べました。古代ユダヤ教と原始キリスト教との間に優劣があったかどうかですが、律法主義を否定した原始キリスト教が古代ユダヤ教より、フットワークは確実に軽いですよね。古代ユダヤ教のように細かな物品や掟を用意しなくても、いつでもどこでも誰でも神への信仰が確認できる、言わば古代ユダヤ教のウォークマンタイプですね。このフットワークの軽さが様々な異端を産んでしまったので、パウロが教会や聖書の重要性を説いた手紙を各地に送ったりする。異端は、キリストへの信仰以外は教会も聖書もいらないなどと好き勝手な解釈を言い出し、宗派自らが宗教社会規範から外れ、人格や社会を充実させる能力を捨ててしまう。こんな異端宗派は、放っておいても消えていく偽者です。
 仏教に得度とか悟りの境地といった概念がありますよね。あれは本当に存在します。こういう境地に入った人は、ほんとうに強く生きていける。また、儒教と道教はそれぞれ中国社会の支配階層と庶民階層とに普及しましたが、階層が違っても、多くの個人の人格を充実させ社会を作ることに貢献した宗教ですから、本物だと思います。
 ということで、わたしは、宗教にも本物偽者の区別はあるし、個人の人格の充実と社会貢献意識の向上を教えられる宗教はどれでも本物だと言いたいですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

本物の宗教は存在する、とのこと。もちろん偽物も。

差し支えなければお尋ねしたいのですが、
過去存在したが今は存在しない宗教。たくさんあります。
それに価値はあると思いますか?(骨董趣味としてではなく)

お礼日時:2008/02/19 20:48

「本物の宗教」とは、多分、宗教の実践のことで、


相手は、外部から表面的に関わる態度を批判してるんでしょう。

本物かどうかじっくり吟味するのはいいことです。
判断は難しいですが、端的には、心のよい性質が増すかどうかだと思います。
自分に合うかどうかも大事です。

宗教戦争などは、確信ない人が起こしてると思います。
これが本物、と確信あれば、外に求めず。出向いてどうこうしようとしません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
本物の宗教がある。というお考えですね。
そして確信できれば、問題は起こらないとのこと。

お礼日時:2008/02/19 20:20

>「本物の宗教を知らないから、そんなことを言うのだ」



これは強力な言い回しです。自分は知っているということです。
素直にその人に教えてもらいましょう。本物を体感させてもらいましょう。
その人が、理屈をこね回すだけで、結局修行中ならその人がその宗教を本物であると証拠無く思いこんでいるに過ぎないと言うことです。

TVに出てくる霊媒師だか占い師だかが
「私には解るの。あなたには解らないでしょうけど。」
というやり方と差異のない宗教も多いのではないでしょうか。

>本物なんてあるんですか?
宇宙が存在して時間が流れ、人間がいるのですから、その全体こそが本物です。宗教は、所詮、本物を指し示す矢印なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>素直にその人に教えてもらいましょう。
>本物を体感させてもらいましょう。

これはいい考えですね。でも本物とされる宗教はある
ということなんですね。

お礼日時:2008/02/19 20:06

yukiyama20さま



お久しぶりです。

「本物の宗教」って、それぞれの概念ですから本物とだれが判定するのでしょうね。信じ仰ぐものは一人一人の概念でしょう。

それに対して本物はこうだというなら、「私、個人の信じ仰ぐものを本物とするなら、他の全ての概念は間違っている。という概念においてあなたは私の本物を理解していない。」といっているのでしょうね。

相手にする必要はないでしょう。
「あなたは、そのような考えを持っているのですね」とほって置けばいいでしょう。

対抗した時点で争いを生むものとなってしまいそうです。

気になるなら、相手の言葉に対してそれぞれの概念の説明を論理的に求めてみてはいかがでしょう。

論理的に答えないのなら、建設的になる可能性はほぼ無いでしょうから。笑顔で去るのが得策でしょう。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
maggaさま。これはお久しぶりです。

>「本物の宗教」って、それぞれの概念ですから本物とだれが判定するのでしょうね

ここなんですよね。人間は変わりますからね。社会も変わる。
善悪も変わる。どの宗教が善しとされるかも変わる…ん?じゃあ…?
という具合なわけです。

お礼日時:2008/02/19 19:48

教義によって本当、ウソはないと思いますが、宗教団体の姿勢については宗教が本当・ウソがあると思います。



ウソの方から言うと、宗教団体が宗教以外の目的のために宗教を利用しだしたとき、その宗教はウソの宗教、偽りの宗教であると思います。例えば、信者からお金を巻き上げるための宗教団体などが存在しますが、これなどは典型的でしょう。

ただ、本当・ウソともう一つの見方として、狂信というものもあります。例えば、ある宗教・宗派のみを正当とし、それ以外を全て偽りの宗教とする姿勢です。或いは、ある集団乃至は指導者の意見が全てであり、その意見と異なっている意見は全て偽りであるという宗教です。これは宗教が偽りというよりも、宗教が行き過ぎている、といった方が良いかも知れません。
この狂信は、前述の偽りの宗教に非常につながりやすい傾向にあるようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
実際、カルトのように金銭被害や社会的悪影響のある問題を考えると、
宗教には本当、嘘の区別が求められると思います。
ところがこの問題けっこう厄介でして。どこからがそうなのかという
線引きが非常にややこしいところがあります。

お礼日時:2008/02/19 19:41

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