街中で見かけて「グッときた人」の思い出

北条綱成は「地黄八幡」といわれ、河越夜戦や国府台合戦の活躍からもわかるように北条家一の猛将でした。綱成は若い頃に北条氏綱の娘婿となり北条一門となり、北条氏康からの信任も厚く氏康の名代として軍事・外交の全権を委任されたこともある名実ともに北条家の副将でありました。その息子に北条氏繁という人物がいますが、歴史の本や小説を観ると主君で伯父にあたる氏康の娘を妻に与えられ、父の綱成から玉縄城を継いで武田信玄・上杉謙信の侵攻を防ぎ、また佐竹氏との最前線である下総方面の軍権を氏康・氏政父子から与えられ信任が厚かったといわれています。ただ残念なことに父である綱成より早い1578年に42歳で亡くなりました。ところが、この氏繁という人物、中々優秀であったと思いますが、いまいちこれといったエピソード等がありません。いったいどういう人物だったのか?北条家の中ではどういうランク付け・身分・立場(主君にあたる氏政や氏照・氏邦兄弟らと比較して)だったのか、知っている方は教えてください。また、歴史のIFになりますが、豊臣秀吉の関東征伐のときに北条綱成・氏繁父子が健康な状態で生きていれば、結果はどうなったと思いますか?(氏政・氏直父子や氏照・氏邦兄弟に対する影響力も含めて)想像でよろしいですのでご意見お願いします。

A 回答 (2件)

エピソードというほどのものではありませんが、氏繁は印判に「眞百(←機種依存文字なので、漢字二つで表現しました。

本当は一つの漢字です)趾利出否(てんりしすいふ)」という言葉を用いていました。
 これは中国の「周易」という書物からの引用で「鼎の中にある不要なものをひっくりかえす」という意味だそうです。
 「古いものをひっくり返してやる」という意気込みが、当時彼が対戦していた関東の名門佐竹氏に向けられたものだったのか、それとも新興の一族衆であった玉縄北条家の、北条一族内部での家格向上を目指した決意だったのか、今となってはわかりませんが、相当アグレッシブな人物だったことがうかがえます。
 また、絵が上手で彼の直筆になる鷹の絵が残っているそうです。
 氏繁個人のランク付けについてはなんとも言えませんが、玉縄北条家は江ノ島や円覚寺、鶴岡八幡宮など鎌倉地域の支配を任されており、決して低くはなかったはずです。ただし、玉縄北条家最後の氏勝(氏繁の息子)は小田原合戦の際、山中城へ援軍として入り、命からがら脱出していますが、山中城の城主あるいは城代という資格は与えられず、譜代衆の松田康長の指揮下で戦っています。
 そこから勘案すれば、重要な城を任され、広大なエリアの統括を行っていた氏康チルドレンや松田、大道寺といった譜代の老臣よりはひとつ下のランクぐらいではなかったのかなと想像する次第です。
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エピソード ランクはNO,1さんのとおりでしょう


秀吉の家来の上田宗箇や松永弾正の弟と同じように 
度胸千両の強烈な武人ですね
直接の家来は多く持っていませんから 後はみな与力方式ですので
どうしても度胸対応になってしまいます あたかも現代の軍隊の上官と部下のようにはいきません 命惜しまずの猪突猛進でひっぱる方式になります 大体猛将といはれるのは このタイプです
貴方の好きなIFですが もうおわかりでしょう
きつい言い方すれば北条衆はぜんぜん見えてないし 黒田如水が若い頃の信長を見て 中世の雰囲気じゃないと感じたように 中央の動きをなぜ分析できなかったのか やはり氏正等幹部の資質がローカルを超えてなかったか 地域の問題に没入せざるおえなかった事情は 先代たちが関東を完全制圧できなかったことにあるんですが
秀吉のハイテク 財力 機動部隊の前の
戦の仕方の違いを どこまでわかっていたかだと
彼がいきていたとしても 早々と 是非に及ばず という派
にはなりにく さりとて 早期決戦主戦も受け入れられず 
小田原評定のあげく きれいに 一騎がけして 見事に散ったと
考えてあげたいですね 
 
 
 
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