幼稚園時代「何組」でしたか?

言い方は悪いのですが、日本社会党はどうして万年野党だったのでしょうか?何か原因があるのですよね。それがどうしてもわかりません。1950年代までは勢力を拡大していったのに、高度経済成長期に入ると、急に伸び悩み衰退していきましたよね?

これはいったいどうしてなのでしょうか?お分かりになるかた回答よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

 若干感情論ぽい意見もありますので、もう少し社会学的に分析してみます。



 ひとつ目は、農村部の支持のなさです。社会主義国の国章や社会主義政党の党章の多くには、労働者を表すハンマーと、農民を表す鎌が組み合わされたマークが使われています。(鎌の代わりに稲穂や小麦をあしらう意匠もあります)
 つまり、社会主義は都市部の労働者と農村部の農民を二本柱の支持母体としており、その力を結集して政権奪取を目指すのが普通です。
 しかし、日本社会党は農村部の支持を取り付けることに失敗しました。原因は戦後すぐに行われた農地改革です。
 戦前の日本の農村は、一握りの大地主が多くの農地を所有し、大多数の農民は小作人として使われる立場であり、彼らの不満は小作争議という形で現れていました。その意味では社会主義への支持につながる土壌は日本の農村にもあったわけです。
 しかし、戦後行われた農地改革により、ほとんどの小作人が自作農に転換しました。GHQの指示であったといは言え、この改革が保守政権によって行われたため、日本の農村の政治意識は瞬く間に保守化し、その後農村部は長らく保守政権=自民党の安定した支持基盤になりました。
 反面、社会党は二本柱の一本を失い(どころか敵に獲られ)、都市部の労働者だけに支持基盤を置かざるを得なくなります。これが社会党の勢力が伸び悩んだ原因の一つです。

 二つ目は、都市部の労働者の意識の変化です。高度経済成長が始まると、経営側と対立一辺倒だった労組側にも意識の変化が起こってきます。ストや争議を起こすよりも、経営側と協力して業績を向上させた方が賃上げや待遇改善につながるとして、労使協調路線を取る組合が増えてきます。また、政府自民党や日経連も労使協調路線を積極的に後押しします。経済は右肩上がりだったので、労働者の所得水準も向上していきました。
 そうすると、労働者側も、社会主義政党による社会主義国家で労働者の待遇改善をはかるという発想が希薄になっていきます。社会主義でなくても賃金は上がり、待遇が改善されていくのですから社会党を政権党にしようというインセンティブが無くなるわけです。
 こうして社会党は都市部の労働者層の支持というもう一本の柱も失っていきます。ただし、都市部は農村部よりも比較的政治意識が高く、個々の政策(憲法問題とか自民党の汚職とか)で自民党のスタンスに対するアンチテーゼの受け皿として機能したため、その後も一定数の議席を維持しました。しかし、生活向上と言う多数の労働者が大同団結できるテーマを失っているため、政権を取らせようという機運が有権者側に盛り上がらず、そのうち党内もアンチテーゼの立場に安住して活力を失ったところへソ連が崩壊して社会主義に対する世間一般の信用が完全に崩壊し、さらに民主党という新たなアンチテーゼの受け皿が出ることによって、社会党はその存在価値を完全に失い、消滅していくことになったわけです。
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連立ではありますが、与党になったことがあり、村山首相が誕生しています。


 与党になった途端、自衛隊を認め、阪神大震災では反応が悪く、社会党系の兵庫県知事が災害救助要請を自衛隊に出すのが遅れ、国民は社会党に担う力のないことを十分納得しました。
 社会党は北朝鮮とも友好関係にあり、拉致問題を外交問題として扱うことに反対していました。
 社会党は少数意見を拾い上げてくれる価値は十分ありますが、自ら政権から遠のいている感じです。
 
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古いはなしですが当時 巨人 大鵬 卵焼き ついでに なんでも反対社会党という語呂合わせ言葉がありました


(反対は)
安保自衛隊反対 米艦寄港原子力反対 成田空港米軍基地反対
軍備反対 ブルジョア資本主義反対 憲法改正反対  消費税反対
米帝国主義反対
(スローガン合言葉は)
プロレタリアア独裁日本社会主義建設へ 社会主義インターナショナル
とともに世界社会主義統一参加へ 非武装中立で平和を 北朝鮮と友好を スト権ストは労働者の当然の権利
国労全逓日教組を応援しよう 山が動いたこれからはわが党の時代

今は社会党という党はありませんが、戦後の政党で一定の役割は果たしたようですね
それにしても戦後の日本歴史が感じられますね
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社会党と自民党を語るのなら炭鉱労働者と農民が何故彼らが違う政党を


支持していたかを調べてみるとよくわかる。社会党の支持母体が炭鉱労働者や国鉄労働者にあったのに自民党指示母体が農民であったことが社会党の衰退につながったと思われます。自民党は支持母体の農民を取り込むために毎年米価の値上げを行い、世界から如何に非難されようとも
輸入禁止を長くつずけて来ました。それにより農民の所得も都市労働者
と同等の所得を補償されてきました。しかし社会党の支持者の炭鉱労働者は日本のエネルギー政策が石炭から石油に変更された時に日本政府は
石炭産業の保護政策は何も取らずに経済の成り行きに任せたため大きな炭鉱が次々に閉鎖に追い込まれていき、三池炭鉱争議などが起こりました。このとき社会党は労働者の味方はしましたが会社存続にはなんの力
を発揮することは出来ずに石炭産業の衰退を傍観するだけでした。国鉄
労働者に至ってはスト権ストなどと称して乗客に迷惑をかけても平気な態度に国民は皆国鉄労働者を社会党支持者の組合から解放すべきだとの
認識を持つようになりその結果国鉄は民営化されJ Rとなりサービスが良くなり現在に至っています。社会党の衰退は炭労の消滅と国鉄の民営化により支持母体の消滅にあると思っています。
戦前の2.26事件は陸軍の将校連中がクーデターを企て日本を社会主義の国家にしようとしたが昭和天皇の指示で逮捕され思いは遂げられなかったがその後の政府の政策は社会主義的な経済政策が多く、敗戦後にまで社会主義的な政策が存続して資本主義国でありながら自由の少ない
社会を容認していたようです。日本人はアメリカのような自由ばかりを
求めているのではなくてある程度の不自由でも統制のとれた社会を望む
国民のように思いますが、もし社会党が今のような非現実的なことを言わずにもっと実現可能な政策に転換するなら支持者は増えるかもしれません。
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 一応、記念すべき戦後最初の選挙で第一党に成って片山哲委員長を首相にした党を、万年野党というのはどうかと…。


 (その後も何度か与党として内閣に参画していますし…。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B1%B1% …

 個人的には、内部闘争(片山哲氏の首相親任式に成っても閣僚が決まらず、全閣僚を一人で兼任すると言う恥ずかしい姿を…。)が酷すぎて何度も分裂と合併を繰り返した事が、国民の信頼を失ったのだと思います。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
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安保 反対


自衛隊 反対
原子力 反対
成田空港 反対
つまり何でも反対
 国鉄は年中行事のようにストだらけ 
労働組合員の都合のいい主張ばかり
こんな政党にはあきれますよ

 村山党首の時は与党になりましたよ、安保、自衛隊も認めて
自衛隊機である政府専用機に乗ってましたね
 
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理由は明々白々では。


自民党の池田隼人首相が「所得倍増計画」を発表。
それをもとに政策をおしすすめて経済高度成長を達成。
貧しかった日本社会を豊かにしたのが自民党とくれば、
自民党支持者が増えるのは当然のことでしょう。
自民党の反対勢力、社会党の出る幕がなくなったんです。
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社会党には、卓越した人材がいなかったのも大きな原因だと思います。

政治家の政治家たる所以は、先見の明です。この能力は、役人のように如何に効率よく与えられた情報を処理するかと言うな能力とは全然違う能力で、誰にでも在ると言う能力ではありません。その先見の明で上手に大衆を導くことが望まれるのです。

社会党に比べて自民党には、時々そのような能力の在る政治家が居りました。例えば、吉田茂は、社会党がソ連や中国を天国のように宣伝している時に、
「あれだけ誇りの高い中国人が、その中国人を指導してやろうなどと高飛車に出て来るソ連と仲良く出来るはずがないよ」
と言っていました。そうしたら、その言葉の数年後に、実際中国とソ連は喧嘩をはじめています。社会党の政治家にはそれが読めなかったのに、吉田茂には読めていたようです。この話は、確か吉田茂の自伝に書いてありました。

また悪名高い田中角栄には、こんな逸話が在ります。戦後の経済成長期に自民党の肝いりで多くの公団住宅が建っていた時です。お役人が、田中さんに次のようなことを言いました。
「我々がどんどん公団住宅を作って若い所帯持ち達に安値で部屋を貸しているのに、その若い連中は、どう言うわけか社会党に票を入れてしまう。何か、割が合わないではないか」
それを聞いた田中角栄は、
「そんなこと簡単だ。その公団住宅を安い値段で払い下げなさい。彼等は借りているのではなく、物持ちになったとたんに、自民党に票を入れるようになるから」
と言ったそうです。この話は人から聞いたので、真偽のほどは分かりませんが、人間とは何かを理解していた田中角栄らしい話だと思いました。

滅多には居りませんでしたが、それでも自民党には確かに優れた政治家がいたようです。

それに引き換え、社会党から珍しく総理大臣になった村山富市は、就任直後の国会演説で安保条約肯定、原発肯定、非武装中立の放棄など旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言してしまいました。この骨無しな態度は、その後一気に社会党の求心力は大きく低下させてしまいした。ことほど左様に、社会党は先見の明の在る政治家には恵まれなかったようです。

もちろん社会党を貶してばかりいたら、片手落ちになります。自民党にだって、先見の明のない政治家はいっぱい居りますから。最近のその代表は、小泉純一郎や竹中平蔵などでしょう。自分で考え出した訳ではなく、風見鶏のようにアメリカを真似をして、やたらに、規制緩和や民営化や製造業への派遣の制度化など、今回の経済危機の元凶に加担した先見の明の無さは、特筆に値すると思います。小泉さんの先見の明と言ったら、小泉チルドレンと言う派閥を作って親分になったり、また、自分の祖父、父から引き継いだ3代目として政治家としての既得権を、巧く4代目の息子に引き継がせることができたと言う、自分やその一家を太らすことに関してだけだったように思えてなりません。しかし、国民の皆さんは小泉さんが大好きなようですので、もしかしたら、私は政治音痴なのでしょうか。
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うんと簡単に言いますと、革命なんかいらないよ、な人たちが、高度成長期に激増したからです。

いわゆる「中流」という社会層ですね。
会社で働いていれば、見合った報酬が得られるのに、なんでいまさら革命して、社会主義にしなくてはならんのよ、という人々です。
こういった人たちに「あなた方は搾取されている」と言っても、現実感がなく、政治学で言う「大衆の政治的無関心」が発生するのです。その人たちは、必然的に今の状況を守るため、激変を望みません。

あとは同時期のソ連・中国で、なんかヘンなことがおきている、といった警戒感もあったとおもいます。

で、国鉄解体によって社会党がよって立つ労組基盤が崩壊します。80年代には社会主義がどうもダメらしいと、人々にわかってきます。

このような状況を、軽んじて、投票権をもった人々に「護憲」「社会主義」「非武装平和」と言い続けた結果が、そのようなこととなったのです。
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