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某局の24時間テレビのタイトルどおり「愛は地球を救う」のでしょうか?

 「地球が危ない」などと唱える人もいます。もしそれが本当なら一刻を争います。地球を救えるほどの愛はあるのでしょうか?愛はどこまで通じるのでしょうか?

 皆様のお知恵を拝借します。よろしくお願いします。

A 回答 (46件中21~30件)

No.7,9,11です。



携帯からなので引用がうまくできませんが、ご容赦ください。

>>>どこまで祈れば地球は救われますか?
>>それは全くわかりません。どこまで祈るかに意味を見いだしません。今に生きて、最善を尽くすだけです。
>逃げではありませんか?

私も、どこまで祈れば救われるのかを考えないことに、逃げを感じましたが、
意味を見いださないことを結論にしました。

例えば、CO2についてもどこまで削減すれば救われるのかを考えることは、
その都度その都度、専門家に任せることにして、私としては、今できることを精一杯行うだけです。

例えば、祈るにしても、その時その時、精一杯祈るだけです。
(newsを見た時や気づいた時などに。)

常に、今しかないと感じています。

高みに昇るため、計画的に進めることの重要性も知っていますが、私にも私の色々な事情があり、何でもかんでも自分に取り込めませんので、将来の目標値をどのように設定するかは、上の方にお任せすることにして、自分の大事だと思うことを、することにします。

結局、いつもそういうことだと思います。

考えるきっかけを与えてくださることに感謝して、自らも動き続けたいと思います。
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この回答へのお礼

失礼なことをお尋ねしたのはもう少し掘り下げてお考えになったらよいと感じたからです。必ずしも祈りに目的意識を持たなくてもよいかもしれません。祈る意義すら見いだせずにあきらめる者のなんと多いことか。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/29 10:21

#24です。


>正しい運用を教示する度量は必要がないと思われますか?

十分な深みのない段階で人類愛を語るのは危険です。私には以下で紹介する通り、人類を救うに関して提案はあります。ただし、話は簡単ですが、実行はむづかしいです。

幸運なことに、自然科学も社会科学あるいは人文科学も、共に、実証科学として、この2~3百年ほどで大変な進歩を遂げ、その発展は、人類に対して機会均等の概念を確実に広めております。多分、科学の役割の中で最も重要な役割は、それによって知識がごく一部の特権階級の独占物ではなくなり、どんなに貧しいところで生まれても、人類の発展に参加できる機会を与えてくれていることにあるのだと思います。

ですから、我々の今成すべき事は、愛を語ることではなく、自然科学、および人文科学の成果を、貧富の差に関わりなく徹底的に子供達に教育することだと思います。そのようにすれば、特権階級の独善的な人類愛なるものに頼る事なく、あるいはまた、世界的に見て超大金持ちの日本人やアメリカ人の押し付けがましいボランティア番組等の独善的で危険な善意に頼る事なく、人類や地球の在りうべき方向が自ずと創出できるはずです。

しかし日本では残念ながら、ゆとり教育や博士課程倍増計画などの浅薄な思い付きで産み出された子供達やオーバードクター達の悲劇を、日本の社会全体が目の当たりに見てしまい、科学離れがあおられてしまっているようです。その結果、現在の教育に対する態度は、在りうべき姿の逆の方向を向いているようです。

地球を救い人類を救うためには、世界中の大人達が本気で自然および人文科学の教育を徹底的に実行するべきです。自然科学の教育は地球温暖化の防止や疾病の駆除や、地球の微妙なバランスと人類の経済活動の関係を認識させます。人文科学や社会科学は、人間の心理の深層の認識や、人間社会の制度や人間の基本的人権のみならず、社会的正義に関わった社会的人権の認識を深め、人類や地球の崩壊を救うアイデアを産み出すことを可能にしてくれます。科学の発展は、生まれた毛並みに関わらず皆が参加して、それらを提案し実行することを可能にしてくれるのです。教育がやは根幹ですから、先は長いです。

ただし,理念としてはその通りなのですが、アメリカ人や、日本人や、中国人や、韓国人や、、、の独善的な愛がその実行の邪魔をして、おかしな事が起こっているのが現状のようです。独善から抜け出すためにも、教育が根幹です。
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この回答へのお礼

表層的な人類愛を叫ぶ危険性について警鐘を鳴らすことは、これからの教育や啓蒙活動と同じく重要ですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/29 10:13

#18です。



>しかしここで唱えている愛は普遍的な愛です。しかも希薄になりやすい人類愛です。

なるほど、甘く、やさしく、美しく、そして崇高な愛なのですね。

>人類愛や兄弟愛さえも捨て去るべきなのでしょうか?

イエス様は、十二使徒に親兄弟を捨てて自分に着いて来るように勧めました。

人類の歴史を振り返ってみると、人類愛や兄弟愛の名の下に、人類はどれだけの貴重な文明を滅ぼし、又、どれだけ多くの人々が亡くなったり不幸のどん底の落とされたことでしょう。

先ずは十字軍が思い出されます。狐憑きのように取り付かれたキリスト信者達が、突然群れをなしてエルサレム奪回を目指し、平和に暮らしていたイスラムの人々の町や村を焼き尽くしました。それ以来、十字軍という言葉はイスラム教徒にとって悪魔の侵攻を意味するようになりました。ところが、アメリカで信仰心を売りにして当選した息子ブッシュが、イラク侵攻を現在の十字軍だと言ってしまったので、どれだけの米国の若者兵達が死なずに済んだはずなのに、死んでしまったことでしょう。もちろんその百倍、千倍のイラク人が殺されております。

人類愛の名で、中南米の貴重な文明が滅ぼされてしまいました。生物の世界を見ると、進化とは統一化ではなくて、分岐による特殊化の方向に進むものなのです。統一化は明らかに退化です。この分岐の繰り返しで、地球は多様性を手に入れ、途轍もなく複雑で面白く、飽きない、したがって人類を含めた生物達に幸せや満足を恵んでくれました。しかし、それが、人類愛や兄弟愛の名の下に蹂躙されてしまったのです。西欧の世界観ばかりでなく、中国、インド、日本それぞれの違った多様な世界観が存在することが、どれだけ人類を一筋縄では捉えられない複雑な存在としたことか。異なった世界観同士の緊張したぶつかり合いが、新しい創造の契機となって、我々に新しい世界を見せてくれているのです。人類が中南米の文明を失ってしまったお陰で、どれだけの新しい創造が永久に不可能になってしまったことでしょう。

現在のアメリカは世界中に毒を撒いて、人々を苦しめていますが、それを可能にしているのは、3つの柱、すなわち、軍事力と、お金と、彼等のプロテスタント的な人類愛です。現に、息子ブッシュはアメリカで多数派を占め絶大な影響力を持っているキリスト教団体の支持を獲得することで、大統領に当選することが出来ました。息子ブッシュは毎週教会に通い、世界の在り方を神との対話に基づいて考えていると公言しておりました。息子ブッシュは人類愛兄弟愛に基づいたプロテスタント教会の忠告を受け入れ、アメリカの中等教育から性教育を追放し、禁欲教育を徹底させました。そのお陰で、アメリカではこの8年間で高校生の母親がグンと増えました。最近ペリン副大統領候補の高校生の娘さんが母親になり、そして高校生の父親とブレイクアップしたのはその例の一つですが、それは、質問者さんもご存知でしょう。アメリカではキリスト教の人類愛に基づいた生命の尊厳故に、妊娠中絶が殆ど不可能ですので、大金持ちで、外国でそれをする以外に殆ど不可能であり、その結果、多くの若い女性の人生がめちゃめちゃにされております。また、首都のワシントンでは性教育の欠如故にエイズの数が最近際立って増えたことがニュースになりました。

また、つい先日、アフリカを訪れた教皇が、コンドームを使うことが、世界中にエイズを氾濫させているという演説をして、世界中の科学者や医学者から顰蹙を買いました。教皇は、もちろん人類愛、兄弟愛に基づき、神や精霊との対話から出て来た結論だと心から信じて、その言葉を発言しているのです。カソリックでは、教皇の言葉は圧倒的な影響力があります。彼の言葉によって、今後どれだけ多くの人々がエイズで苦しんで死んで行くことでしょう。

事ほど左様に、西洋では、人類愛故に生命の尊厳に関して支離滅裂な状態に陥っております。

インド人のように、
>愛は
執着を元とする部分
慈悲喜捨の部分

の二通りがある事を理解できる程度に、文化が進歩していれば問題はないのですが、今までの西洋人の振る舞いを見ていると、歴史は、西洋人がそこまで進歩してはいないと言うことを、繰り返し教えてくれているようです。そのような未熟で未開な集団にとっては、「愛」は危険な概念であることを、歴史は実証的に教えてくれております。

だから、「人類愛」や「兄弟愛」は、甘く、やさしく、美しく、崇高な、悪魔が発明した言葉だと言っているのです。

果たして、日本人は「愛」なる概念を西洋人並に理解しているのでしょうか。それとも、インド人のレベルまで昇華させて理解しているのでしょうか。もちろん、インド人のレベルまで来ていると言うのは易しいですが、それにしては、カタカナ好き、横文字好き、そして、アメリカや西欧崇拝が文化人まで含めて蔓延している日本人を見ていると、本当にインド人のレベルまで来ているのかと心配になります。

この回答への補足

24時間テレビの唱える崇高な愛を話半分に聞く必要はあります。しかし評価は別れるものの、四半世紀の長きに渡って続けられている点において、掲げた理念から逸れているにせよ一定の成果を上げたと認めています。一方で崇高な愛が悪魔の囁きにせよ、真の愛が具現化される可能性を温存するうちに、それを放棄してもよいのでしょうか?また善意の間違った運用を指摘すると同時に、正しい運用を教示する度量は必要がないと思われますか?

補足日時:2009/03/28 21:44
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この回答へのお礼

例示されたとおり時として善意が大きな悪を行うのです。彼らのうち特にプロテスタント教徒は、聖書を基盤とする教義をあまりに無批判に適用するため、結果的に自家撞着に陥りやすいのです。その危険性は予め排除されるべきです。それには彼らの教義の検証と、教義以外の思想の是認が求められます。言うまでもなくこれらを行うことは信仰の放棄と見做される、そのジレンマから這い上がれません。彼らに別の道を示す時が訪れたのではないでしょうか。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/28 21:57

今のところ祈れば祈るほど


人類を崖っぷちに追いやるということになるんでないだろうか?
確かにそういう意味なら
手遅れにならなければ効果はあるといえるのかもしれない。

肉を切らせて骨を断つ
って?

ポセイドンアドベンチャー
その生死を分けた有り方とは何だったか。
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この回答へのお礼

ポセイドンアドベンチャーの境地に立たされてはもう遅いのです。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/29 10:02

No15です。


>客観としての、あるいは現実の地球はどう救えばよいのでしょうか?

No15で提示した視点において、客観としての地球、現実の地球は、すべて主観の中になります。客観は、主観が客観だと思っている主観に過ぎません。

>どう救えばよいのでしょうか?
如何に救うかは、本質問の主題とは読めませんでした。
これは、個別の事象に対して、具体的な行動を意味すると思いますが、
その行動指針を漠然とお尋ねになっておられるのでしょうか?
あるいは、基本的理念に「愛」を置いて、地球を救得るほどの精神性をもって「愛」を定義なさろうとしているのでしょうか?

No15では、単純な視点を提示させて頂いているに留まります。
ご質問者様の地球が、ご質問者様の愛で、ご質問者様の救済がなされるか。ご質問者様の地球を救済出来る愛がご質問者様にあるのか。その愛がどこまで通じるのかです。

傷ついた地球を必死に救済しようと具体的行動を実施し、その途上にある人々の存在は、地球を救済しているのであって、その根底にあるものを「愛」と呼ぶか「正義」と呼ぶかに関係なく、その人の地球は、救われつつあります。
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この回答へのお礼

質問に書き込まなかったから補足質問したわけです。いかに救うかをあなたが答えなくても、私が補足質問しても何ら問題はないわけです。また客観は主観の集積に他なりません。例えば地球儀を象る「地球」を仮に客観としてみてはいかがでしょうか。当然のことながら私の主観の地球を救済できたとしても、実在する地球を救済したとの実証は不可能です。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/28 17:12

こんにちは。


私なりに書いてみますね。

<<地球を救えるほどの愛はあるのでしょうか?愛はどこまで通じるのでしょうか?>>

愛は
執着を元とする部分
慈悲喜捨の部分

に別けられると考えてます。

執着を元とする部分の愛は、自己が持つ「自分勝手な尺度」に反した途端に「憎」に変わり、怒り・妬み・物惜しみ・後悔の感情を自他に振り撒いて、自他共に多く苦しみが増しますね。そして理性的に物事を観えなくしてしまいます。そうすると失敗する確立がぐんと増すでしょう。

慈悲喜捨の部分は、執着とは離れた、友のような心・悩み苦しみが無いように思う心・成功を喜ぶ心・差別心の無い心で、明るい感情それ自体が自他の役に立ち、心が安定しますので理性的な考え方が出来て成功しやすくなるでしょう。

後者の部分の慈悲喜捨を育成し、執着の部分の愛を滅するようにすれば、具体的に最大限自他の役に立つことが何なのか理解でき、実際に成功しやすくなるでしょう。

そのように感じます

参考になれば幸いです。

この回答への補足

後者の愛を用いてどう地球を救えばよいのでしょうか?仏教においては救済は何を意味しますか?

補足日時:2009/03/28 15:15
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この回答へのお礼

私生活においても前者、後者の愛を選り分ける必要がありますね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/28 15:18

 こんな話を聞いたことがあります。

ケルトの神話に出てくるヘビとフクロウの物語なんですけど、森のなかでフクロウは知恵と知識の象徴でした。けれどそれゆえに、地上に暮らす生き物について、きっと高みからしか見られなかったのでしょう。ヘビのように地表を這うことしか知らず、そこを離れては暮らせない生き物を見て、彼女はヘビにこう囁きました。
「見苦しい様だな。そうして悶えるように這う姿は」
 すると、ヘビは見上げてこう言いました。
「これは知恵の神。けれど、この生き様は変えられないのです。悶えるように見えるのは、少し身体に痛手を負ったからで、治ればまた優雅に動けます」
 それを聞いたフクロウは、
「おやまぁ、ずる賢い生き物だこと。そうやって弱った振りをして獲物を狩るのでしょう」そう言うと、翼をはためかせ森じゅうの生き物たちにヘビの到来を告げ回りました。
 途方に暮れたヘビは、梢に佇む彼女に、こう言います。
「あなたはどうして、そんなにも僕を怖れるのですか」
「怖れてなどいません。企て、騙し、辱めるのがヘビの習性でしょう?」
「ですが、それをどうせよと仰るのですか」
「どうとも言いません。あなたはそうやって生きるのが定めなのです」
「定めについては、重々承知しています。ですから僕は、定めに従って愛します。僕は、あなたの存在を愛しているのです」
「お黙りなさい。厚かましい生き物め」
「いいえ、黙りません。僕はあなたを愛しています」
 怒りに震えたフクロウは、ばさばさと音を立てて飛び去って行きました。後には、フクロウの落とした羽根が一本、何時までも風に揺られて舞っていたそうです。

 僕は、この話を読んで思いました。ヘビは、とても幸せだったのだろうと。「僕は、彼女の存在を愛しています」ヘビは、こうやって話すことができたんです。
 この言葉は、他の何ものをも凌駕します。この言葉を向ける空間がそこにあったということが奇蹟なのです。その空間に結び付く「何か」によって如何なる仕打ちを受けようとも、如何なる誤解があろうとも、その空間が先立つことに比べたら、あとはどうでも良いことなのではないかと僕は思います。その仕打ちを避けず、その誤解に身を任せ、すべてをその空間に委ねるからこそ、ヘビは愛していると言えたのではないかと思うんですね。
 平面世界に暮らすヘビにとって、世界はとても愛すべき広がりを持っていたんです。ですから、心配はご無用です。

この回答への補足

ではそのヘビのような心を持つに至った一個の人間は、地球を救うために何を為すべきなのでしょうか?

補足日時:2009/03/28 14:11
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この回答へのお礼

ケルトの神はフクロウとヘビとでは後者を善とされたと思いますよ。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/28 14:13

 回答番号:No.16 文字化けですね。


 つかんでという字です。
 人間が行為するというのはどうも違うようですね。
 何かが行為させているのではないでしょうか。存在させているのではないでしょうか。
 カルトや信仰とは別にして、感じとしては。
 いいのですよね、人間が自分で行為しているとしか考えられないという、のも別に否定はしませんよ。
 その人間と人間の行為をどう感じるか、思うか、ということでして、物象、物証の世界のことを否定したり、その拠って来る根拠を論じるつもりはありません。個人などの思いでありますが、何か物象、物証の以上とかその前と、その終わりの後とかを考えることもあるということですから。
 架空、空想のことなんか問題ではないという人もおられますからね。
 私がそういう人間でしたからね。
 そんな限定ではなくていいだろうと、契機もなく思ってきただけのことです。中2くらいから。
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この回答へのお礼

私も人間が事を成すとき、主体的に見えても精神が大いに衝き動かされているのだと思います。そのきっかけが偽善的なキャンペーンであろうがかまわないとの立場です。もちろん偽善は指摘して適正化に努めなければなりません。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/28 14:05

今から2千5百年ほど前に、この地球上に殆ど同時に、人類の偉大な教師が3人現れました。

孔子様とソクラテス様とお釈迦様です。その頃に人類は新石器時代から歴史時代への移行が完成しました。そして、都会に人間が集まるようになり、都市問題が深刻な問題となって来たのが、今から丁度2千5百年ほど前だったようです。そのような深刻な状態が、人々をしてこの問題を深刻に考えさせるようにさせ、その結果、この3人を産み出したのでしょう。

でもその問題の解法は一意ではなく、幾つかの方法があるようです。先ず、孔子様は、その都市問題を解決するために、「礼」すなわち、誰にでも納得する「規則」を持ち込むことを提案しました。

別な解として、ソクラテス様は、今まで語られて来た哲学とは違って、それを人間の事象に限ることにして、「倫理」を徹底的に論じることを提案しました。

そして、お釈迦様は、また別の解を見付けました。お釈迦様は、都市問題のよって来たる原因は、人々の「執着」にあると見抜きました。そこで、彼はこの問題の解法として、執着から離れること、すなわち「解脱」を提案しました。そうです、執着から離れることが出来れば、人間は救われるのです。

ところで、我々人間の執着の極みは何でしょうか。それはもちろん「愛」です。愛とは執着そのものです。どんなに奇麗な着物を着せてみたところで、愛が執着であることには変わりがありません。質問者さんもご存知のように、悪魔は決して恐ろしい顔をして出ては来ません。悪魔はそんなに幼稚ではないのです。甘く、やさしく、美しく、崇高な顔で現れるのです。お釈迦様は、そのことを見抜き、愛が諸悪の根源であることを見抜いたのです。ですから、もしお釈迦様の意見が正しいなら、我々が愛に執着せず、愛を語らなくなった時に、人類は救われるのではないでしょうか。

この回答への補足

あなたのおっしゃるところの「愛」はわかります。元来仏教でもこれを煩悩として斥けています。ですから日本にキリスト教が伝来してしばらくまでは愛を「御大切」に置き換えて使っていました。しかしここで唱えている愛は普遍的な愛です。しかも希薄になりやすい人類愛です。ただ言い方が違うだけではありませんか?いわゆるエロスはともかく、人類愛や兄弟愛さえも捨て去るべきなのでしょうか?

補足日時:2009/03/28 13:36
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この回答へのお礼

鬼は恐ろしい顔で脅しては追い回すだけですが、悪魔は美しいものに姿を変えて甘言を弄し取引を持ちかけます。我々は24時間テレビという名の悪魔に騙されているのでしょうか?ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/28 13:41

NO.13です。


>>人類が生き延びるためには何をすればいいのでしょうか?
そんなこと皆わかっていながら、口に出すと憚られるから偽善を続けているのでしょ。

・高速道路1000円で乗り放題は地球温暖化ガス発生の視点からみれば明らかにマイナスです。

・アフリカの子供たちを救おうというより、食糧危機問題の視点から開発途上国の出生率の引き下げが必要です。

・人類が生き延びるためには核兵器は全く必要がありません。

・地デジ移行によって何千万台の従来のテレビが廃棄されることは資源の浪費でしかありません。

・WBCもプロ野球(その他スポーツも芸能)も人類が生き延びるという視点からみれば全く無意味です。
芸能人が24時間マラソンをすることは自己満足でしかありません。

でもこんなことを某局は24時間テレビで主張する度胸がないから、キレイ事で済ませているのでしょ。

この回答への補足

しかしキレイゴトにしても某局は寄附を集め、各企業はキレイゴトを餌に生き延びるに必要な収益を上げていますが、それでも是認するわけにはいきませんか?

補足日時:2009/03/28 10:37
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この回答へのお礼

確かにどの産業も自分の尻拭いには頬被りしています。そこには偽善を感じます。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/28 10:39

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