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A 回答 (23件中1~10件)
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No.23
- 回答日時:
<<その通りだと思いますが、maggaさんの回答としてはちょっと物足りなかったです。
>>なにやら過分な評価をえているようですねw
物足りないとのことなので、思索に役立つかもしれないので、もう少し体についての考察を書いてみようと思います。
『病気』という視点から始めてみますね。
『病気』とは「肉体的・精神的働きに、不快・苦痛・悩みなどを感じて通常の生活を営みにくくするもの・そのような状態」のことと思います。
そのうちの『肉体の病気』についてみてみましょう。
肉体に生まれる「不快」や「苦痛」は「感覚」の中に分類できると思います。ではどのようなときに「不快」や「苦痛」の感覚を感じるのか考察してみます。
すると
「同じような感覚が続く」
「強い感覚」
になると「不快・苦痛」を感じるのではないかという結論に達しました。(もう一つ、経験や肉体の性質などによってでしょうか個人差のある「好き嫌い」原初的な快・不快があるように感じますが、この分類が肉体に当たるものか精神に当たるものか分別できるほどの観察能力を兼ね備えてないのでここでは無視しますね。)
「同じような感覚が続く」と「強い感覚」になるとも思います。
『止まる』状態でいると同じような感覚を得て強い感覚に感じ「不快・苦痛」が強くなると思います。
苦痛になると、動きますね。他の感覚に移しますね。するとさっきまで感じていた苦痛が減った分「楽になった」「楽を得た」と一般的には言うと思います。
しかし、その次ぎの感覚も感じ続けていると不快苦痛が強くなっていきますね。移った感覚が「楽」であるわけではないと思います。苦痛・不快の少なくなった分を「楽」と呼んでいるだけで、「苦痛・不快」から「苦痛・不快」への引越しで、感覚は「苦」であるといえると思います。
そして生まれた生命には老いて死ぬという性質も発見できると思います。
老いとは「肉体の生理的働き」が異常をきたし「動き」が弱り、「不快・苦痛」を感じ、「通常の生活を営みにくくする」ことであり、死はそれらのはてに営みを終えること。といえると思います。
ということは「老い」という性質自体が「病気」でしょうw
そして肉体は常に必要なものを取り入れ不必要なものを外に出していますね。食を必要として汚物を出し続けていますね。
汚物とは「身体に有害もしくは不必要なもの」です。
汚物は常に悪臭を放ちそれらを、洗ったり何なりしなければ悪臭はより強いものとなってしまい、仕舞には体の維持(老いにはかないませんが)も難しくなりますからますから、我々は体の垢・糞尿・などなど(全て汚物ですよね)を出して、流し落としてなんとか維持していることと思います。
●★●★●★●★●★●★●★●★●★
まとめると
『肉体とは、悪臭を放つ徐々に老いて死をむかえ壊れる定めの汚物の生産工場で、常に苦痛・不快を避けるために、「苦」から「苦」へと引っ越し「動く」もので、病気そのものである』
といえると思います。
そこから見出せる生命の希求は。
幸福でありたい
悩み苦しみは嫌だ避けたい
努力は実ってほしい
今なすべきことがすぐにひらめいてほしい
という希求かと思います。
生命のネットワークの中で、「心を堕落させず。向上すさせる。」には、この生命の希求を自分に・周囲に・全生命に認めること。自他の希求を守ること。肉体や感覚の事実を認めること。
が必須になると思います。
このような認めることの邪魔になる「自分勝手な価値判断・尺度」にどう対処するかだと思います。
「精神的な悩み苦痛」は、自他の希求を認めず、事実を受け入れないで、「自分勝手な価値判断・尺度」によって「『こうあるべき』理想の自分・世界(他者・物質もふくむ)」をつくりだして、現実との軋轢に「自分いじめ・他人いじめ」して苦しむものと思いますので…
「自分勝手な価値判断・尺度」は精神的苦しみの根っこかと思います。
パーリ語の仏典では「パパンチャ」と呼ばれるものと思います。スマナサーラ長老は「捏造・データの捏造」と呼んでいたと記憶しています。
●★●★●★●★●★●★●★●★●★
生命の希求を認め守るための心の育成である
「慈悲喜捨の修習」
生命のネットワーク内で自他を守る
「十善の実行」
十善を善、十悪を悪と知り、邪見を無くし正しい見解を得て、善の根である感情・悪の根である感情を知り、善根を育み・悪根を滅するため
「八正道の実践」
その道の多く修習することが期待できる支援策
「七支の前兆」
このような道が・修習が、精神的な悩み苦しみを滅したい人にとって、必要になると思います。
参考になれば幸いです。
幸福であれノシ
釈尊は人の楽しむ姿を見て、それさえも‘苦’であると見たようですね。
人間の、喜怒哀楽に安らぎの世界を見出せず、出世(世間から脱出)して、涅槃の心を求めました。
そして悟れたからこそ、楽しむ姿も、苦であると思えたのでしょう。
その苦に満ちた世間で生きなければならない、我々に、その苦を軽減するには、八正道の実践が有効であると、教えてくれました。
magga さんの今回の回答に接して、このようなことを思いだしました。
回答ありがとうございました。
No.22
- 回答日時:
その答えは、仏法にあるのですが、特に法華経においては我々の生命は永遠と説きます。
そして、その生命の定義ですが、我々の思いというか、その思いを生じさせる『心』こそが生命そのものとしています。心を精神と言い換えてもよく、つまり、肉体と精神、これを仏法では『色心(しきしん)』と言い、色は色形あるもの(それゆえ、いずれ朽ち果てる無常のもの)と心は色形なきもの(それゆえ、朽ち果てるという終わりがなく永遠なるもの)の二つに分けますが、この世界で活動している我々はその色心で成り立っています。一見すると、目で捕らえられる肉体が主体で、捕らえられない心の方が客体のように思われがちですが、仏法では逆で心というか精神こそが主体、本質となり、肉体はその心の座するところで、いわばガンダムのモビルスーツとそれを操るパイロットのような関係と捉えられればよいかと思われます。
ですから、肉体というものは自分の所有物ではあっても、決して自分自身ではないということです。
たとえば、自分という思いは物心ついた頃から、それこそ死に到る時まで決して変わることはありませんが、その肉体においては子供の頃、成人の頃、壮年、老年とどんどん変化して、傍から見ればまるで別物のような存在かと思われます。まさに仏法の説く色心そのものかと思われます。確かに、有形で変化して様変わりするものが本質であるはずもなく、無形で不変なるものを本質、その実体と捉えることの方が合理的です。
そしてこの点を踏まえて、かのデカルトは『我思う、ゆえに我あ』という言葉を残したのです。つまり、私という思い『心』があってこそ自分自身があるのであって、肉体があるから自分があるのではない、と結論付けたのです。彼は仏法を知らなかったとは思いますが「絶対確実なるものは『心』だ」という、仏法に相通ずる考えを持っていたのでしょう。
ともかく、『心』こそが真の自分自身で、それは決して老いることも朽ちることも果てることもない永遠の存在であるということです。
この回答への補足
abc2008さん。
法華経では生命は永遠と説いているとのことですが、その法華経に、個人という形での生命(心)が存在し続けると説かれているのでしょうか。
法華経について全く知らないので、教えていただけると嬉しいです。
安易なたとえで言うならば、コーヒー(宇宙の精神)にミルク(我が心)を加えると、ミルクはコーヒーに溶け込みます。
私は、心は永遠ということを、こんな形で受け止めているのですが。
どうぞよろしくお願いいたします。
回答ありがとうございました。
この欄をお借りして、回答くださった皆さんにご報告いたします。
おかげさまで結論らしきものを得ることが出来ました。
気力の衰え‥‥これを心の老化、と受け止めたいと思います。
(すこぶる感覚的な感想で、哲学っぽくありませんが)
皆様、本当にありがとうございました。
No.21
- 回答日時:
肉体の老化って、肉体的に処理できることに限界が出来てくることですね。
心の老化とは心での情報処理の能力に限界が出てくることですね。私なんか歳とともに心の情報処理の能力の限界を日々感じています。自分の部屋からある用事で他の方のオフィスに出向いて行って、あれ、私は何しにこの方のオフィスに来たのだろうと、用件忘れているなどということは、日常茶飯事です。私も含めて、男女問わず45才位から皆さん、短期の記憶を忘れてしまうようになって来ます。このことは、精神医学でも心理学でも、さんざん論じられている良く知られた事実ですので、心の老化を今更述べるまでもありません。私事で失礼ですが,私は小学校、中学校の頃宿題を忘れたことは一度もありませんでした。しかし、宿題があることは忘れていないが、表で遊ぶと言う私にとって最も重要な日課がありましたので,宿題をやって行ったことも殆どありませんでした。先生に「宿題は必ずやりましょう」という黒い四角の判子をいつも貰っていたことを良く覚えております。宿題をやって来ると「良く出来ました」という赤い桜の形をした判子を押してもらえるのですが、私のノートはいつも黒い判子ばかりでした。ところが、50を過ぎた頃には、人から頼まれたことで、本当に忘れてしまうことが出て来たのです。こんなこと、若い頃にはなかったから大変驚きました。そんな実経験から私は心も老化するのだと言うことを、体得致しました。
もちろんその老化はどんどん進み、60過ぎになると、自分の言いたい物は、絵としてはすでに頭に浮かんでいるのに、それを表す名詞が頭に浮かんで来ないなんてことがしょっちゅう起こります。老夫婦はが、「婆さんあれ」「はいはい、これですね」なんていう微笑ましい光景を良く見聞きしますが、その会話では,長年の付き添いでツーカーになっている訳ではなく、老夫婦が共に頭に描いていながら、出て来ない言葉に頼ることなく、意思の疎通をやっているだけです。
世の中には、人に教えてもらわなくては、一生気が付かなかったり、理解できなかったりすることがあります。そして、それを認識させ、教えてやることが、教育の本質なのです。しかしまた一方において、誰から教わらなくても、時期が来たら誰にでも分かることもあります。たとえば、 思春期になると突然異姓に興味を抱き、二十代には誰でも夢を描き,三十代では誰でも仕事に熱中し,四十代では誰でも自分の健康を気にし始める等々と言うことは、誰からも教わらなくても分かるようになるのです。それと同じ様に、心が老化することも、貴方も45歳を過ぎた頃から、あるいは遅くとも50歳位になれば、誰にも教わらずに分かるようになります。
蛇足ですが、その時期になれば誰にでも分かるようになるような知識は、人から教わらないといつまでたっても分からない知識よりも、その価値としての優先順位は下であると言う、独断と偏見を私は持っています。
ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
いやいや、これまで回答してくださった方の椅子(希望)に腰掛けていたんですが、その椅子を払いのけられて、嫌というほど尾てい骨を床に打ち付けてしまいました。
いま眼の周囲を星が舞っています。
やっぱり心も歳をとるんですねぇ。
回答ありがとうございます。
No.20
- 回答日時:
僕は年齢にこだわる固定観念をどれだけ持っているか、の問題と捉えてます。
自分の本質が、この世で過ごした時間の長さや、年と共に変化していく体そのものだ、と思うことで、年を取る取らない、という概念が発生します。
自分がそれ以前のより本質的な物だ、という思いがあると、年は取らない、と思います。
いや、というより、年、という概念が存在しない、というのが正確だと思います。
つまり、大人も子供もない、みたいな。
もちろん効率を追求して、カテゴリー分けを必要とするばあい、私は子供、大人、という分類は必要ですが、人は元々生まれたときにはそういうこの世での時間経過に伴って作られた概念を持っていません。本質的な存在でもないと考えます。
でも2次的には生活上必要ですが。
確か、どこかの未開の島では、年齢の概念がない人たちがいる、と聞いたことがあります。
性別も同じです。男女以前に生命です。
年齢も性別も職業も国籍も、ある意味では本質です。
ある意味ではどうでもいいです。
そういう年齢などの意味は、僕がどれだけそれに重きを置いているか、のはなしそのものと感じます。それはそういう概念にこだわる必要が、生活の中から出てきているかどうか?だと思ってます。
自分の所有する道具である体は、時間経過と共に変化はしますが、それもあやしいなーと思ってます。
以上僕の意見でしたー。
ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
若いときは心の歳なんて、あまり思っても見ませんが、この状態では年齢の概念がない、ということなのでしょうか。
‘概念’が発生すると歳もとり始めるのかなぁ。
それより、この体を自分の所有する‘道具’であると認識しているようですが、そのことの方に興味が湧いてきました。
回答ありがとうございます。
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No.19
- 回答日時:
青春の詩 サムエル・ウルマン
青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう。
薔薇の面差し、紅の唇しなやかな肢体ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老はしない。
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増やすが、情熱を失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い、精神は芥になる。
六十歳であろうと、十六歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への深求心、人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、
二十歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと人は青春にしていまだ巳む。
(作山宗久 訳)
一時期プレジデントという雑誌にいつも掲載されておりました。
二昔ぐらい前に仕事の合間に見ていたのを思い出しました。
ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
勇気をいただきました。愛情もいただきました。
理想を見つめたいと思います。
回答ありがとうございます。
No.17
- 回答日時:
団塊の世代の方って、出征していたお父さんが復員してきてご出産されたり、当時の適齢のかたのご結婚でご誕生になられた方々ですね。
はぁ少しも、老を感じたり、悲哀が翳めたりするものとは思いもよりませんね。私たちが小学校の半ばか後のご誕生ですね。
私もわずか、73ですが、いくらも人生の課題に取り組んでおられる、もっと上の方々を拝見していますから。
心身の老化を思うより、日々の自身のコントロールと無理のない、合理的で、前進的な生活を心がけています。
出来なくなったこと、体力と知力、押し切る気迫に固執しなくなっても、更に可能になってきたことは多々ありますからね。
ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
歳はとっても、精神的欲望(向上心といったような好ましい)に衰えはないのだと受け止めました。
「若さ」を意識するようになったことは、歳をとったと言うことですね。
そ~かぁ。 残念。
回答ありがとうございました。
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No.16
- 回答日時:
>そこでこう思うことにしました。
>「心は老化しない。成長はするけど歳はとらないんだ」
お年をめされても気持が若いことは褒められますね。
でも、わざわざ、そう思うようにするなんて必要があるのですか?
これは、団塊世代チョイ悪オヤジの闘争でしょうか。
歳相応の立派なオヤジであることの方が生きてきた甲斐があると思いますけどね。
ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
私の質問の動機は純粋に哲学っぽい疑問からでした。
でも、もし心が老化しないとしたら、と考えたら、急に楽しくなったんです。
そこでついつい「心は老化しない。成長するけど歳はとらないんだ!!」と叫んで(つもり)しまったんです。
私、非常に楽天家なのです。
回答ありがとうございます。
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No.15
- 回答日時:
人生は死ぬまで勉強、知的好奇心や向上心があるかぎり成長するものとは言っても、若い頃は栄養が余すところなく消化吸収されて、上品な栄養バランスがいい食事でなくてもお腹が空けば食べれたのに、年とともに美味しいものを少し食べて満足するようになってきます。
口が肥えて?不味いからといって食べなくなるのは「好き嫌い」が固定されてしまうせいで、喰わず嫌いではなく、好き嫌いというのも対外的には自己アピールで、内的には自己確認。つまり好き嫌いが激しいほど威勢よくなり、内心では不安なものに抵抗しています。
若いときは質より量だけのものでも、僅かな栄養でも血肉に変え表面的にも内面的にも成長できるからいいのですが、成熟したのに過食や高カロリーな食事は不要なばかりか不健康の原因になります。
栄養を「感化」「変化させる原因」に置き換えると、若い頃に感化された知識は方向性を定めてしまっていて、自分の幸せを願って、それが悩みのヒーローだという人が「レ=ミゼラブル」を読んだところで裏方に徹している人や衰弱死していく人を憂う人間に変わることはないそうです。
なので若い時にどんな知識を得たか?経験をしたか?これによって精神力、後の人生に大きく左右されると思います。世代によって受ける教育も変わってきています。教育の大切さは世代によって普遍的な価値観も変わるよう。
因みに私は「新人類」と呼ばれ出したバブル世代(団塊の世代のジュニア)です。もう平成世代が年金を納め社会に出て納税していますね。個人的な見解ですけども、バブル世代から見ると風俗や文学、音楽も「今の若いもんは落ち着いてる」と思ったりする。
ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
肉体と同じように心も鍛えられるものである、ということを思い出しました。
肉体も心も使わなければ育ちませんね。
行動しようというエネルギー、それが若さということでしょうか。
回答ありがとうございます。
No.14
- 回答日時:
少し厳しいかもしれませんが・・・
もうすでに歳をとっていらっしゃいますね
このような質問を発することが、歳をとった証拠です
大切なのは、歳をとること、老いることを恐れないことです。
いつまでも若くいたいという願望があるのでしょうが
老いを認め、老いとつきあっていくことが大切だと思います。
心が老化しようがしまいが自然にまかせてはいかがでしょうか
自分の老いは自分にしかわからないものです
自分の若い時と比べたり、他の若い人と比べたりばかりせずに
今の時間を大切にして
人生の終盤戦を実りある豊かなものにしてゆく努力をしてください。
こう言う私ももう歳なのです・・・
ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
「若いという気分が抜けない」と発言する私の未熟さを、みごと見抜かれました。
いま、首をすくめているところです。
回答ありがとうございます。
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