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質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。

 ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

【Q-2】 われわれは何者か?

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います

【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います

 なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。

 以上、よろしくお願い致します。

A 回答 (73件中21~30件)

1何処からか生まれた


2人間である
3死に、何処かへ行く
4(美術には詳しい知識がありませんが)タイトルや制作の経緯と相まって観る者を圧倒させます。1-3は私の意見でも有りますが、絵には天国や前世が描かれてある訳ではなく、生まれてきた人間・生きている人間・死にゆく人間、という構成になっていて「この世を超越した世界」には言及されていないように感じます。ただ少なくとも自然界は人間の世界を超えてはいます。青い海や、照りつける太陽や、静かな砂浜は億年単位で残るでしょう。その意味で永遠です。1-3にゴーギャン自身ははっきりとした答えを出したのでしょうか?
5ウィキペディアで彼の項目をみると、分りやすく出ています。
「青い珊瑚礁」という映画を最近観ました。船が遭難し、無人(?)島に流れ着いた幼馴染の男女2人が成長してゆく、というストーリーですが、この映画を見たときに真っ先にこの絵とドビュッシーの「海」を思い出しました。永遠に人々が仲睦まじく暮すユートピアを彼は南の島に求めたのかもしれません。(しかし、楽園がもはやどこにもないと知った彼が遺書だと思って描いたのがこの絵だそうです)

この回答への補足

人間とは何でしょうか?よろしければ詳しくお答え願います。

補足日時:2009/05/03 11:57
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。ゴーギャンの絵や彼の背景から海を連想されたのでしょうか。「青い珊瑚礁」は、私の印象にも強く残っています。命懸けの遺書がわりの作品といえば、『巨匠とマルガリータ』を挙げます。ミハイル・ブルガーコフは、ソ連官憲の目を逃れ、この小説を失明して死の床に就くまでの、およそ十年がかりで書き上げました。奇想天外の着想と、計算され尽くしたプロットは、まさに彼の遺作に相応しいものです。

お礼日時:2009/05/03 13:25

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』



この質問が面白そうなので、参加させて下さい。この疑問を14歳からずっと自問自答しました。18年掛かって、32歳で判りました。その事を書いてみます。

この疑問は自分の心が自分の心に出している質問です。人間の心は自我意識と、仏性(神)で出来ています。自我意識は左脳に在る分別意識です。仏性は生まれながらに在る自分の命の働きそのものです。多分右脳に存在しているものと考えられます。

子供の時には未だ脳の機能が分化していないために、自動的に「心は一つしかありません」この事を聖書では、天国という表現をしていると思われます。思春期頃、中二病と言う事が言われる頃、人間の脳は左右の脳の機能分化が完成に近くなります。

この事と精神疾患が始まる頃、或いは人間の悩みが始まる頃が一致しています。或いは人生に対する不安がこの頃より始まる場合が多いと感じられます。それは分別して世の中を見るようになったと言う意味になります。

分別して世の中を見ると言う意味は、何事も論理的に世の中を見て行くと言う事になります。物事を比べたり、好きと嫌いを言うようになると言う事になります。その思考方法が人間に苦悩をもたらします、何故ならば分別脳の限界を知ると言う事になるからです。

人間の苦悩とは、有限の壁を破れない処に在るからです。人間の思考が有限の壁に突き当たって、行きずまってしまう事から、思考が不自由になってしまいます。子供の時には全てが自由と感じていました。大人の脳になってからは、自分で限界を作ってしまいます。

この限界が人間に障害をもたらせています。精神疾患というもの、自律神経失調症、神経症等です。是等に共通するものが、分別脳で考えると言うものです。

分別脳の思考方法には限界が有ります。分別脳の機能は分別する事と言えます、分別とは有限の別名だからです。論理的に割り切ってゆく事を有限という定義にしているからです。論理的に割り切れない問題には分別脳では歯が立たない、解くのが不可能と言う事になります。つまり矛盾した問題を論理的に解決しようとしていると言う事です。

従って精神疾患、自律神経失調症、或いは神経症は「出来ない方の脳で問題を解こうと」している事になります。くどい言い方になりますが、論理では割り切れない問題、感情、心、体、生と死などを、論理的に解決しようとしていると言う事です。矛盾した問題を理論で割り切ろうとする事です、堂々巡りが止まらなくなってしまいます。

禅問答が有ります。この問答は分別脳では解く事が出来ません。出来ないように仕組まれています。分別脳が出来ないと言って降参させるために仕組まれたテキストです。分別脳が出来ないという判断をした場合に「仏性」右脳の意識が出てきて、抱えている問題を解いてくれます。

是がお釈迦様の言う「悟り」です。禅問答は分別脳で解けない問題を解こうとして心のジレンマ、悪循環に陥っている自我意識にその活路を授けています。禅問答が解けた時には、人間の障害が消えます。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』この問題なんかも、一生懸命に取り組んだ場合には、人間の障害とも言えます。或いは禅問答とも言えます。この問題は心の分裂が招いた自問自答と言えます。この答えは自分で答えるしか方法が無いと言えます。他人の答えは自分の心には響いては来ないからです。

この回答への補足

ご回答は、本論に入る前の序論とお見受けしました。Q1~3についてお答えください。よろしくお願いします。

補足日時:2009/05/03 14:14
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この回答へのお礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。人間の本質は仏性にあるわけですね。われわれは左右脳の分化が進むことにより、限界を認識してしまいます。子供のように無垢なまま、分別がつかないものでしょうか。長い間、自問自答を重ねられたのですね。さあ、つまり問うさんの禅問答に期待しましょう。

お礼日時:2009/05/03 14:25

pokoperopo様、再度のお礼とご質問をありがとうございます。



>なぜこれらの引用をされたのでしょう?よろしければお聞かせ願います。

>>ゴーギャンはこの絵を通じて≪自らの命題≫を観る者全てに永遠に問いかけ続けたかったのだと思います。
すなわち、この絵こそが≪生涯こだわり続けた命題『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』≫に対する【彼なりに辿り着いたこたえ】です。
画家=芸術家としての全力とプライドをかけ、われわれ観る者に【従前の言葉を用いたこたえをも超越したこたえ】を表現したかったのではないでしょうか。

「言葉を超えた絵画の表現」のうちには絵画に見出される一見ナンセンスな色遣いや誇張といった主観的な「感覚」も含まれますよね。
この絵画の細部にわたる丁寧な考察が以下のご回答にて既出だったこともあり、
ネット画面上という極めて厳しい制約を受けながらも、この絵画から感じた「感覚」と、各命題に対して「ふと感覚的に脳裏をよぎった各文」を勝手にリンクさせていただいた次第です。

【Q-1】われわれはどこから来たのか?
奇しくもゴーギャンには幼き頃の南米の想い出があったようですね。
銃殺刑が執行される間際にアウレリャノ・ブエンディア大佐は「幼き頃の想い出」を思い浮かべました。
まるで、どこから来たのかの「どこ」へ戻って行ったかのようにも思われます。
われわれは、人によっては、「どこ」へ回帰し得るのでしょうか。

【Q-2】 われわれは何者か?
ゴーギャンが画家として「一皮剥ける」前後の時期として、アルル時代をイメージしました。
ゴーギャンに置き去りにされて熱く静かに憤るゴッホの書簡。
そしてゴッホを偏愛する小林の冷たく美しいテクスト。
これらから投射されるゴーギャン像、そして『われわれは何者か?』に対して「考えるヒント」が得られましたでしょうか。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
中島敦は憧れを抱いて南海の島に渡りました。
『南洋譚』おいて≪彼の理想世界≫を描こうとしたとうかがっております。
「そうして恐らくは、「人間は」というのではなしに、「南海の人間は」という説明を私は求めているのであろう。それは兎も角として、南海の人間はまだまだ私などにはどれ程も分っていないのだという感を一入深くしたことであった。」のラスト2文。

ゴーギャンも南の彼方に楽園を見出そうとしましたが、この絵画を通して、はたして彼が楽園を見出せたと思われますか。
一体、南の楽園は「どこへ行くのか?」の「どこ」となり得たのでしょうか。
そしてゴーギャンのベクトルは、アウレリャノ・ブエンディア大佐のようにどこから来たのかの「どこ」へ決して戻って行かないone wayだったのでしょうか。

そして。
pokoperopo様なら、この絵を「感じて」、一体どんなテクスト・場面が想起されますか。
所詮、このたわいもない問答でさえも「ゴーギャン展」における実物の怒涛の迫力に晒されて一瞬で吹き飛んでしまう「前座の余興」に過ぎないのですが。

この回答への補足

ハーイ(^o^)/、素晴らしい引用をいただいたので、私の蔵書から引用してみましょう。この問いの答えとはなりえませんが、これらのテキストから生きる意味を考えさせられました。

 【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

 〔理論の決定不全性のテーゼ〕「たくさんの競合する理論があり、そのどれもが完璧に説得力があるとはいえないような場合。たとえば、生命の起源の問題は(少なくとも現在のところ)このような状態の好例である。」 (『知の欺瞞』 アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 岩波書店)

 つまり科学的には我々の起源は解明されておらず、われわれはその思惟によってしか、その答えを導き出せません。また異なる見解も否定することもままならないのです。

 【Q-2】 われわれは何者か?

 「昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、とてもすばらしくトランペットを吹くことができた。
昔々一人の玩具屋がいた、その男はマルクスという名前で、白と赤に塗りわけたブリキの太鼓を売っていた。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、四匹の猫を飼っていたが、そのうちの一匹はビスマルクという名前だった。
昔々一人のブリキの太鼓叩きがいた、その子はオスカルという名前で、玩具屋を頼りにしていた。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、飼っていた四匹の猫を火掻き棒で叩き殺した。
昔々一人の時計屋がいた、その男はラウプシャートという名前で、動物愛護協会の会員だった。
昔々一人のブリキの太鼓叩きがいた、その男はマルクスという名前で、あらゆる玩具を自分と一緒にこの世界から持って行ってしまった。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、死ななかったなら、今日でも生きつづけて、ふたたびすばらしくトランペットを吹くだろう。」 (『ブリキの太鼓 1~3』 ギュンター・グラス、高本研一訳 集英社文庫)

 すでにお読みかもしれませんが『百年の孤独』がお好きなら、是非ともお読みいただきたい作品です。全編が人間のおどろおどろしさに満ちています。

 「回答へのお礼」に続きます。

補足日時:2009/05/11 18:41
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この回答へのお礼

「補足質問」からの続きです。 

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか

 「お死に顔は、殆んど、変らなかった。お父上の時は、さっと、お顔の色が変ったけれども、お母さまのお顔の色は、ちっとも変わずに、呼吸だけが絶えた。その呼吸の絶えたのも、いつとはっきりわからぬ位であった。お顔のむくみも、前日あたりからとれていて、頬が蝋のようにすべすべして、薄い唇が幽かにゆがんで微笑みを含んでいるようにも見えて、生きているお母さまより、なまめかしかった。私は、ピエタのマリヤに似ていると思った。」
 (『斜陽』 太宰治 新潮文庫)

 ゴーギャンも太宰もタナトスへの憧憬が見受けられます。私は死後は天国や地獄へ行くのではなく、あの世という並行世界に行くのではないかと考えています。

 総論としましては、私の愛句でもある、この聖句を引用します。

 「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり 
生るゝに時あり死ぬるに時あり 植うるに時あり植ゑたる者を拔くに時あり 
愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり 
神の爲し給ふことは皆その時に敵ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふ思念を賦け給へり 然ば人は神の爲し給ふ作爲を始より終まで知明らしむることを得ざるなり 
然ば人はその動作によりて逸樂をなすに如くはなし 是その分なればなり 我これを見る その身の後の事は誰かこれを携えゆきて見さしむる者あらんや」

(「傳道之書」 第三章1.2.8.11.22節 『舊新約聖書』 日本聖書協会)

 すべては完全ではありますが、神の御業をわれわれは知る由もないのです。いかがでしょうか?ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2009/05/11 22:00

No.8で回答したものです。


補足欄にある質問に対する回答を書いて見ます。

=======
> ゴーギャンが問い掛けた「われわれ」は、とりわけ人類を指しますが、生きとし生けるものすべてが含まれるのではないでしょうか。

問いかけの主(ないし問いかけられる側)を「絵画を見る側」とすれば、そのようになりますが、「絵画の側から」とすれば、そのようなことにはならないと思います。
なぜなら、(私の解釈が誤っていなければ)ゴーギャンは明らかに「女性」に限定して描いています。
私は、このことが非常に重要だと思っています。

=======
> この回答への補足 ゴーギャンの主観における、キリスト教と土着信仰の交錯について、ご考察をお聞かせください。よろしくお願いします。

タヒチの土着信仰がどのようなものであったのかについては、タヒチ観光局のサイトでも「不明な点が多い」とのことであり、推測の域を出ませんが、ティキとマラエに関して記述されたサイト
http://www.tahitiguide.com/@ja/8/29/59/article.asp
などが参考になります。

青く光る偶像が「ティキ」と関連するかもしれないと書きましたが、上記サイトでは、人物を模した「ティキ」が「体格の良い高慢な男性の形」であり「腕は下へ折り重ねられて」いて「首が」なく「頭が(直接)身体に貼り付けられている」と記述されています。

「この絵画」での偶像は、このような形式とはまったく正反対の像を呈しています。
また、タヒチでの聖なる色は「赤と黄色」であり、「青」を基調とした絵は、明らかに「タヒチ」の宗教色と相反するものです。
さらに言えば、「黄色」はキリスト教でも聖なる色になっているようです。
前回の回答では、「この絵画」の上端両側に背景が黄色の領域を見て取れることから、ゴーギャンの求める先が「黄色」の世界では?としましたが、逆に、「黄色の世界」の上に「青色の世界」を上書きしたともとれます。そうして、描いた絵画を越えた向こう側へ思いを馳せていたのかもしれません。
すなわち、ゴーギャンは「キリスト教」や「土着信仰」といった押し付けの宗教に対して何らかの想いがあったのでは?と思われます。

で、ゴーギャンが数多くの疾患に苦しみながら、「問いかけの主(ないし問いかけの対象)」を女性としたとするならば、彼の内面では、既に答えがあったのではないでしょうか?

それは、
1.幼少期に父が死んで、母との旅をしたこと。
2.多くの男の子に恵まれながらも、たった一人の娘の死を嘆き悲しんだであろうこと。
3.複数の女性と関係を有したであろうこと。

これらのことから推測するに

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
母なる女性から来た

【Q-2】 われわれは何者か?
女性との関係から逃れえぬ者

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
この絵画を越えた「向こう側」(モニュメント・知的切断面としての「この絵画」を貫く方向としての、彼の情的方向)

だと、思われます。

========
なお、「この絵画」に限定しない場合の、私自身の一般的な回答は、

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
われわれを含む「全体」から来た。

【Q-2】 われわれは何者か?
その人が「こういったものである」と思うものである。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
われわれを含む「全体」に帰っていく。

となります。

この回答への補足

画面中央の果実を摘む人物のみが男であると思われます。これは何を意味しているのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/11 16:12
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。先日「ゴーギャン展」に行ってまいりました。やはり本物はド迫力でした。やはりあの偶像は気になりますね。タヒチの土着信仰に敬意を表したのかもしれません。丁寧なご解説と、ゴーギャンとご自身、それぞれの視点からお答えいただきました。よくぞここまで掘り下げられましたね。つくづく考えさせられます。

お礼日時:2009/05/11 16:27

たどり着けない境地(?)とは生きて駆け回り絶望したり希望したりしても完全は掴めはしない、どうしても分化された不完全な世界に留められている。

その外にいた頃より内に(自然に)還ることかも。

完全な世界があるとするなら社会的な本能がある存在として(人間が社会に育まれて得る必須のもの、死を怖れる概念なども本能に見なす)、個と認識されること、自ら意志表明すること等は完全否定される!が神の要素となって万能にして絶対真理の神と共に生き長らえるといういうこと(汎神論では)。

翻弄されたくない都合を理由に善行も悪行も出来なくなります(主客対立の崩壊、属性がないようで全体に一致しているから)。この境地に対して人間は何一つ文句も言えず、だからこそ永遠無限超越的存在とされます。

それに反して万能ではない絶対唯一神というのは、人間の価値観に追従した人間の官僚並みの人格という枠を持っているといえるでしょう。

この回答への補足

絶対唯一神と汎神論を用いられましたが、まさにゴーギャンはその間で揺り動いていたと思います。神を擬人化、個別化することに意味はあるのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/11 16:43
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この回答へのお礼

御子弟子さん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。ゴーギャンは、自と他、個と全、の区別に迷っていたのではないでしょうか。文明社会やキリスト教会に背を向けたのも大いに関連がありそうです。たどり着けない境地とは、彼が感じた文明社会と未開社会、その彼我のギャップにあるかもしれませんね。それはなかなか埋まるものではないでしょう。

お礼日時:2009/05/11 16:51

つまり問うさんの禅問答に期待しましょう。

と言う事なので、答えてみます。只期待には添えるかどうか分かりませんが?

I-われわれはどこから来たのか
是は人間の意識すると言う処からきた問と言えます、人間には認識し難いですが、毎日何百回と「意識」と「無意識」に入れ替わって生活が成り立っています。仏性は無意識の世界を司っています、或いは人間の生命の実権を握っています、体の事も一切実権を握っています。心臓の高鳴りも、脈拍数の計算も全てやってくれています。実に捕捉が出来難くなっています。何故ならば、意識がなくなるのと入れ替わって出てくるからです。

従ってもし貴方が悟りを開く(仏性と出会う、或いは、神と出会う)と言う機会が有るとするならば、それは雷が鳴る時間の1/100秒よりも短いかも知れません。それは二つの心がどちらになるのかの一刹那の事と言えるからです。自我意識と仏性が二つに分かれる時の一刹那と言う事です。心は絶えず入れ替わって人間の生活が成り立っています。

貴方が急ブレーキを踏むとしたならば、それは貴方の自我意識の命令を受けないで、仏性の命令で足がフートブレーキを踏んだ事です。「思わずに」身体が、心が突き動かされる時が有ります。それは仏性がそうしています。その時にははっきりと分かります。自分は何処から来たのか、我々は何者か、そうして我々はどこに行くのか?その答えは、違って見えますが、実は繋がっています。ひとつが分かればみんな分かります。

そうして極楽や天国が何処に在るのかと言う問いの答えも見つかります。その答えは「今、此処」がそのまま天国と言う事が分かります。人生に苦悩が付きものと考えていました。処が、その苦悩のままに救われていた事が分かります。人間には地獄と言うものが無かった事に気が付きます。悩みや、地獄は自分で作り出していた妄想だったと気が付きます。

元々人間には苦悩などなかったと言う事になります。只、分別の世界が勝手に作り出した幻想にしか過ぎなかったと判ります。それが分からないのは自分が自分を知らないだけと言えます。自分自身が分からないと言う事が、「救われていない」証拠と言えます。それが「無明」と言う事になります。本当に判り難い事です。それを説明しだしたら、聖書が出来上がりました。或いは仏教の経典が出来たと言う事になります。

この回答への補足

われわれから仏性を取り除いたら、どうなってしまうのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/11 17:01
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この回答へのお礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。人間は刹那に生きるといいます。その瞬間ごとに生死を繰り返すそうですね。時はどこから始まり、どこで終わるのでしょうか?それを見極めることが『われわれはどこから来たのか われわれは何物か われわれはどこへ行くのか』を知る鍵になるかもしれません。もしかしたら、今この時しか存在しないかもしれませんね。われわれは、「われわれ」でしかないのでしょうか?

お礼日時:2009/05/11 17:19

#7です。


補足要求いただいてたんですね、済みません。
人格の階層、という言葉は適当かどうか分からないです。
ただ、問1,2,3は、それぞれ、過去、現在、未来、の概念について、と捉えます。
生まれる前、と死んだ後、と取るよりは、過去と未来がなぜあるのか?という意味かなーと思ったので。

この問は、「今を生きる」と言うことには反してます。偉そうなこと言ってますが。
過去現在未来ーー時制が頭に浮かぶのは、自己の分裂が原因です。
なんでやねん?というのは、ちょっと長いので省略です。
生きることに対する集中が、嫌なことがいろいろあって、だんだん落ちてきたから、というような説明ではどうですか?
集中の度合いが下がると、分かれ方は個性や直観により様々ですが、人格が分かれるのは同じと思います。

人格の分裂を、外から見ると、単純な構図では、上と下に分かれます。一番よくあるのは意識と無意識ですが。
心理学的なこの図式は、単純すぎますが。

時間を感じるのは、この世の特性ー時間、空間、物質の性質を基礎、前提条件として、成立する、後天的な人格があるため、と思ってます。(つまりそれらを感知する5感ー脳神経系の把握機能の性質かな?~仏教の唯識を参考に)

不安が、そういう本質と切り離された人格を作り上げた、とおおざっぱに思います。
で、今度は、その人格ーしゃばの人格とでも、この世の人格とでも呼んでるんですがーー、その人格が、例えば親や子供や、男性、女性、先生 生徒 会社員など、様々な人格(ペルソナ、単に役割、仮面、などと表現されます)、を作ります。
これらの多様な人格には、序列があるのはわかってもらえますか?

すごく厳密なところは僕も考え中で、いわゆる仏教的な無からの、日常扱い使用する人格がどうできあがるのか?というシステムのことですが。

階層、と書きましたが、下から上でなくても、上から下でも、右から左でもいいんですが、とにかく並んでるので、そんな言葉を当ててます。
単純な3段重ねのホットケーキ、みたいな単純なのなら楽なんですけど。


物理学で規定される様なこの世の性質に対応した基礎的な人格が、階層構造に分裂して一人歩きしてる、それ故時間空間を感じると言うことで。
昔、ロンドンの霧は、詩人がそれを詩に読むまでは存在しなかった、と言います。
あるいは、アメリカ人は、今でも肩こりを知りません。それに対応する単語がないからだそうです。
認識は、そんな性質があります。それは時間の把握にも当てはまります。
集中の深さレベルが変化するとき、人間には自覚が発生しますが、集中のレベルが「下がる」時に起こる自覚の例として、上の例えを書きました。
逆に我に返る、あるいは、アイデンティティーの自覚などは、集中の度合いが上がるときに発生します。(と思います、多分・・)
済みません、話長いですね、きりがないし終わります。

この回答への補足

ゴーギャンは最終的に、どの人格の階層に到達したと思われますか?また羊さんご自身は、どの人格の階層に到達しておられるのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/11 14:26
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この回答へのお礼

羊さん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。「ゴーギャン展」に出掛けてまいりました。この絵にはたくさんの人々が描かれ、それぞれにはゴーギャンのアイデンティティが投影されているように思いました。人格の階層でさまよっているとのご指摘には納得が行きました。私も一段上の階層へと昇華したいものです。

お礼日時:2009/05/11 14:32

pokoperopo様、こんにちは。



わたくしがトンチンカンな回答を寄せてしまってお礼がストップしてしまったのならお詫び致します。ごめんなさい。

で、「ゴーギャンがタヒチに移った背景には、キリスト教への懐疑と、広義のシャーマニズムへの憧憬があるのかもしれません。また包括的な世界観も見受けられます。」のお礼を再び拝見させていただいたうえで、
おっしゃるとおり、すでに当時はキリスト教義一辺倒ではなくなっていた、加えてタヒチの土着信仰もしくはポリネシアの神話が大い影響していたであろう、とわたくしも強く思いました。

ただ、はたしてキリスト教に対しどの程度懐疑的だったかにつきましては、絵画の縁最上部より果実をもぎ取ろうとするイヴと食べる少女、四次元空間さながらの不思議な暗闇から出づる(楽園追放を想起させる)女性二人が絵画の最中央に描かれていることから、キリスト教の教義を完全に捨て去るところまではおよそいかなかったのではないか、と考えます。
また、命題『われわれは~』とシンメトリに描かれた絵画最上部両端の箇所とイヴの身体がひときわ鮮やかに黄色くシンクロしているかのように映ります。

さらに、絵画の右半分と左半分とに分けて、総じて各絵画のモチーフがシンメトリに描かれています。
たとえば右側に横たわる赤ん坊と視線を投げかける女性たち、活動的な犬、楽園の出口を想起させる不思議な洞穴と茂み。
かたや左側には孤独・病・死を想起させる女性とかたわらに座る視線を投げかける女性、おとなしい犬、ポリネシアの神、山、海、大地にわき出でる真水の泉等など、おおまかに配置されて描かれています。
(あくまで素人の私見ですので、細かい矛盾につきご指摘をいただけたらありがたいです。)

最後に、ポリネシアの神話についても少しふれて〆させていただきます。
あまり聞きなれない神話ですし、この絵画と因果関係があるかは定かではありません。
ですがあくまでご参考までにということで、この絵画に描かれた背景に何らかの新たな「象徴」を見出していただけたら幸いです。

「この世の初めに、タガロア神がただ一人、空間のなかにあった。空もなく、国土もなかった。彼がただ一人空間のなかを行ったり来たりしていた。
ところが彼が立ったところに、岩が一つ生えた。タガロアは、岩に「破裂しろ」と命じた。
岩が割れて神々が生まれ出た。
タガロアが右手で岩を打つと、岩の右側が割れて、大地と海が生まれ出た。
タガロアが右にまわると真水がほとばしり出た。
次に彼が岩に語りかけると、天が生まれた。
タガロアはまた岩に話しかけて、少年少女や、精神、情緒、意思、思考などを生み出した。
こうしてタガロア神の、岩からの創造行為は終わったが、これら生まれ出たものは、海上を漂い、固着したものは何もなかった。
次にタガロアは岩に命じて、精神、情緒、意思、思考などを人間の中に入れさせた。
またタガロア神は天地を分離させ、島々をも造った。
・・・月神はシナ(ヒナ)といい、神々の衣服を作るため、樹皮布をたたいていたが、その霊は昇天して月となった。
月中の紬ぎ女あるいは織女に関する神話は東南アジアにもある。」

『世界神話辞典』角川選書432頁

この回答への補足

「ゴーギャン展」を観に行きました。件の絵の前にずっと立ち尽くしてしまいました。マシュマロさんは「ゴーギャン展」には出向かれた、もしくはそのご予定がおありでしょうか?あるいは本場ボストン美術館でご覧になったのでしょうか?

補足日時:2009/05/11 13:39
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この回答へのお礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。実は二度目の蟄居を申し付けられており、ログインが許可されませんでした。ご心配をおかけして申し訳ありません。私の心にはあなた専用のお部屋が用意してありますよ。「ゴーギャン展」で本物のド迫力を堪能しました。ゴーギャン自身の絵の説明もありましたので、ここでは私見を述べます。画面右側に描かれた、ひそひそと打ち明け話をする二人連れの女は、ミサに出掛ける最中に見えてなりませんでした。ゴーギャン自身のキリスト信仰を時系列で描いたのかもしれません。不思議なのは画面中央左の、右を向いて歩く女です。さまよっているかにも見え、ゴーギャン自身のキリスト信仰の揺らぎを表しているのではないでしょうか?ゴーギャンはタヒチの風景や人々の描写を通して、自身の宗教観の移り変わりも示したのだと思います。そこにはキリスト信仰への未練も感じました。私もキリスト信仰を捨てましたので、胸にズシンと堪えました。おっしゃるとおり、キリスト信仰を完全には断ち切れない迷いや、諦観からくるタヒチ土着信仰への憧憬の間にいたようです。名古屋ボストン美術館には、この拙問と同様に『われわれはどこから来たのか われわれは何物か われわれはどこへ行くのか』を、観覧者が項目別にそれぞれの考える答えを、カードに書き記すコーナーが設けられていました。私が何と書いたかは、お返事をいただくうちにお教えしましょう。

お礼日時:2009/05/11 14:10

中央の果実を摘むもののみが男だったとするならば、キリスト教での男女の立場を入れ替えた構成を「あえて」描こうとしたのかもしれないですよね。


実物を見ていないので何ともいえないですが、ネット上で閲覧可能な範囲では、女性でないとすれば、中性的な存在に感じます。
少なくともゴーギャンは、2種類(もしくはそれ以上)の宗教概念を、(微妙に異なる描写をあえてとることで)幻想的に記述し、組み合わせています。それらは、見る者に何らかの違和感を抱かせながらも、女性という概念(および基調となる「青」)から生み出されうるオブラード的な「安心感」で包み込むことで、複数宗教の多義図形的な描出を行ったのかもしれません。
いかなる宗教を信じる人であっても、その絵の中に自身の信仰する宗教を見いだし得るとすれば、そういった宗教的な対立を越えたところにて「われわれ」という概念を提示し、3つの疑問文を添えたのかもしれません。

この回答への補足

ゴーギャンは複数の宗教概念を、止揚し昇華を為し得たとお考えになりますか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/12 22:54
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。画面中央の人物は、おっしゃるとおり中性的に見えますね。しかし私は、描かれている成人の中で唯一人、乳房の膨らみのないことから男であると考えます。ゴーギャン自身を投影したのかもしれません。キリスト教の男尊女卑に対するアンチテーゼとは興味深いご考察ですね。私は、ゴーギャンはただの女たらしかもしれないと勘繰っています。母性への憧憬が強く見受けられることから、カトリックのマリヤ崇拝の残滓とも考えられないでしょうか?

お礼日時:2009/05/12 23:05

われわれから仏性を取り除いたら、どうなってしまうのでしょうか?よろしければお答え願います。



という事なので、私見を述べてみます。

仏性というものを説明するとしたら、それは「命の働き」という事になるのでしょうか?ツバメが学校に行かなくても行く先を知っている事に相当します。或いは、クモだっても、何も習わなくても実に立派なクモの巣を張っています。

人間はそれ以上の脳を与えられています。人間が学びながら成長してゆきますが、それは左脳にある自我意識が分別を学んでいるという事になります。学問とはものを割り切ってゆく事の別称と言えます。科学といっても同じことです。先にも書きましたが、分別が人間の歴史を作ってきたとも言えます。人間の合理性が人間社会の発展を作っています。

所がその割り切った考え方、合理性だけでは人間は納得できないことに気が付いています。この事は心に在る漠然とした不安或いは、自分の心が自由に働かないことに気がつきます。それが心の分裂です。

人間の心は自由を求めています。有限の自分の体、或いは命の叫び、或いは、永遠への憧れです。有限の身が、永遠の命を渇望します。このジレンマが「病」の元を作っています。このジレンマを心に感じたときに心は病んでしまいます。人間が強く願う時にある人は深淵の暗闇へと落ちて行くかも知れません。

所がその深淵から再び蘇ってくるかも知れません。今度は絶対の安心と自由を手にして。心の分裂が病の元をなしていて、心の分裂が、その無明を照らすかも知れません。自分の心を圧迫していたものは自分自身と分かるからです。

自我意識と、自分の命の働きが一緒になって働くときに「天国」にいる事になります、つまり幼子と同じになります。

自我意識と自分の命の働きが二つになった時に「地獄」に落ちます。心の分裂を意味しています。その最たるものが精神疾患です。或いは神経症です、或いは自律神経失調症となります。

幼子の心で、或いは大人の嬰児が出来上がれば無病息災と言えます。すなわち「不安心即安心」という事になります。涅槃という事になります。これが仏という事になります。

仏性がなくなればどうなるのかという事ですが、是は「命の働き」という事なので、心臓の働きも止まる、呼吸も止まる、という事になると思います。その時に自我意識が共に在れば、「神の思し召しのままに」という事で幸せなことになります。今ここが天国という証です。

共に在るという事は、絶対肯定という境涯の事です。悟りを得るという事は自分自身の「絶対肯定」している者と、仲直りをするという意味になります。自分自身の心半分が神であり、仏であり、宗教であることが分かることになります。右脳にはそういう訳のわからないものが存在していると思います。気のせいかも知れません?良く分かりませんが?

この回答への補足

われわれは何のために生まれて来たのでしょうか?神(仏)の思し召しでしょうか?それとも自らの意志でしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/12 23:12
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この回答へのお礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。仏性とは生命の働きそのものなのですね。以前、私はある人から「私たちはこの世に何をしにきたのか?」と尋ねられ、「肉体は魂の乗り物、魂は経験を欲している、魂を満たすために、肉体は素晴らしい経験へと案内しなければならない」と答えたことがあります。なぜか憑かれたように、そう言ってしまった記憶があります。今でも会えばその話が出ますが、自分でもよくわかりません。

お礼日時:2009/05/12 23:21

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