プロが教えるわが家の防犯対策術!

質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。

 ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

【Q-2】 われわれは何者か?

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います

【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います

 なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。

 以上、よろしくお願い致します。

A 回答 (73件中51~60件)

pokoperopo様、再度のお礼とご質問をありがとうございます。



>なぜこれらの引用をされたのでしょう?よろしければお聞かせ願います。

>>ゴーギャンはこの絵を通じて≪自らの命題≫を観る者全てに永遠に問いかけ続けたかったのだと思います。
すなわち、この絵こそが≪生涯こだわり続けた命題『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』≫に対する【彼なりに辿り着いたこたえ】です。
画家=芸術家としての全力とプライドをかけ、われわれ観る者に【従前の言葉を用いたこたえをも超越したこたえ】を表現したかったのではないでしょうか。

「言葉を超えた絵画の表現」のうちには絵画に見出される一見ナンセンスな色遣いや誇張といった主観的な「感覚」も含まれますよね。
この絵画の細部にわたる丁寧な考察が以下のご回答にて既出だったこともあり、
ネット画面上という極めて厳しい制約を受けながらも、この絵画から感じた「感覚」と、各命題に対して「ふと感覚的に脳裏をよぎった各文」を勝手にリンクさせていただいた次第です。

【Q-1】われわれはどこから来たのか?
奇しくもゴーギャンには幼き頃の南米の想い出があったようですね。
銃殺刑が執行される間際にアウレリャノ・ブエンディア大佐は「幼き頃の想い出」を思い浮かべました。
まるで、どこから来たのかの「どこ」へ戻って行ったかのようにも思われます。
われわれは、人によっては、「どこ」へ回帰し得るのでしょうか。

【Q-2】 われわれは何者か?
ゴーギャンが画家として「一皮剥ける」前後の時期として、アルル時代をイメージしました。
ゴーギャンに置き去りにされて熱く静かに憤るゴッホの書簡。
そしてゴッホを偏愛する小林の冷たく美しいテクスト。
これらから投射されるゴーギャン像、そして『われわれは何者か?』に対して「考えるヒント」が得られましたでしょうか。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
中島敦は憧れを抱いて南海の島に渡りました。
『南洋譚』おいて≪彼の理想世界≫を描こうとしたとうかがっております。
「そうして恐らくは、「人間は」というのではなしに、「南海の人間は」という説明を私は求めているのであろう。それは兎も角として、南海の人間はまだまだ私などにはどれ程も分っていないのだという感を一入深くしたことであった。」のラスト2文。

ゴーギャンも南の彼方に楽園を見出そうとしましたが、この絵画を通して、はたして彼が楽園を見出せたと思われますか。
一体、南の楽園は「どこへ行くのか?」の「どこ」となり得たのでしょうか。
そしてゴーギャンのベクトルは、アウレリャノ・ブエンディア大佐のようにどこから来たのかの「どこ」へ決して戻って行かないone wayだったのでしょうか。

そして。
pokoperopo様なら、この絵を「感じて」、一体どんなテクスト・場面が想起されますか。
所詮、このたわいもない問答でさえも「ゴーギャン展」における実物の怒涛の迫力に晒されて一瞬で吹き飛んでしまう「前座の余興」に過ぎないのですが。

この回答への補足

ハーイ(^o^)/、素晴らしい引用をいただいたので、私の蔵書から引用してみましょう。この問いの答えとはなりえませんが、これらのテキストから生きる意味を考えさせられました。

 【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

 〔理論の決定不全性のテーゼ〕「たくさんの競合する理論があり、そのどれもが完璧に説得力があるとはいえないような場合。たとえば、生命の起源の問題は(少なくとも現在のところ)このような状態の好例である。」 (『知の欺瞞』 アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 岩波書店)

 つまり科学的には我々の起源は解明されておらず、われわれはその思惟によってしか、その答えを導き出せません。また異なる見解も否定することもままならないのです。

 【Q-2】 われわれは何者か?

 「昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、とてもすばらしくトランペットを吹くことができた。
昔々一人の玩具屋がいた、その男はマルクスという名前で、白と赤に塗りわけたブリキの太鼓を売っていた。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、四匹の猫を飼っていたが、そのうちの一匹はビスマルクという名前だった。
昔々一人のブリキの太鼓叩きがいた、その子はオスカルという名前で、玩具屋を頼りにしていた。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、飼っていた四匹の猫を火掻き棒で叩き殺した。
昔々一人の時計屋がいた、その男はラウプシャートという名前で、動物愛護協会の会員だった。
昔々一人のブリキの太鼓叩きがいた、その男はマルクスという名前で、あらゆる玩具を自分と一緒にこの世界から持って行ってしまった。
昔々一人の音楽家がいた、その男はマインという名前で、死ななかったなら、今日でも生きつづけて、ふたたびすばらしくトランペットを吹くだろう。」 (『ブリキの太鼓 1~3』 ギュンター・グラス、高本研一訳 集英社文庫)

 すでにお読みかもしれませんが『百年の孤独』がお好きなら、是非ともお読みいただきたい作品です。全編が人間のおどろおどろしさに満ちています。

 「回答へのお礼」に続きます。

補足日時:2009/05/11 18:41
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「補足質問」からの続きです。 

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか

 「お死に顔は、殆んど、変らなかった。お父上の時は、さっと、お顔の色が変ったけれども、お母さまのお顔の色は、ちっとも変わずに、呼吸だけが絶えた。その呼吸の絶えたのも、いつとはっきりわからぬ位であった。お顔のむくみも、前日あたりからとれていて、頬が蝋のようにすべすべして、薄い唇が幽かにゆがんで微笑みを含んでいるようにも見えて、生きているお母さまより、なまめかしかった。私は、ピエタのマリヤに似ていると思った。」
 (『斜陽』 太宰治 新潮文庫)

 ゴーギャンも太宰もタナトスへの憧憬が見受けられます。私は死後は天国や地獄へ行くのではなく、あの世という並行世界に行くのではないかと考えています。

 総論としましては、私の愛句でもある、この聖句を引用します。

 「天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり 
生るゝに時あり死ぬるに時あり 植うるに時あり植ゑたる者を拔くに時あり 
愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり 
神の爲し給ふことは皆その時に敵ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふ思念を賦け給へり 然ば人は神の爲し給ふ作爲を始より終まで知明らしむることを得ざるなり 
然ば人はその動作によりて逸樂をなすに如くはなし 是その分なればなり 我これを見る その身の後の事は誰かこれを携えゆきて見さしむる者あらんや」

(「傳道之書」 第三章1.2.8.11.22節 『舊新約聖書』 日本聖書協会)

 すべては完全ではありますが、神の御業をわれわれは知る由もないのです。いかがでしょうか?ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2009/05/11 22:00

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』



この質問が面白そうなので、参加させて下さい。この疑問を14歳からずっと自問自答しました。18年掛かって、32歳で判りました。その事を書いてみます。

この疑問は自分の心が自分の心に出している質問です。人間の心は自我意識と、仏性(神)で出来ています。自我意識は左脳に在る分別意識です。仏性は生まれながらに在る自分の命の働きそのものです。多分右脳に存在しているものと考えられます。

子供の時には未だ脳の機能が分化していないために、自動的に「心は一つしかありません」この事を聖書では、天国という表現をしていると思われます。思春期頃、中二病と言う事が言われる頃、人間の脳は左右の脳の機能分化が完成に近くなります。

この事と精神疾患が始まる頃、或いは人間の悩みが始まる頃が一致しています。或いは人生に対する不安がこの頃より始まる場合が多いと感じられます。それは分別して世の中を見るようになったと言う意味になります。

分別して世の中を見ると言う意味は、何事も論理的に世の中を見て行くと言う事になります。物事を比べたり、好きと嫌いを言うようになると言う事になります。その思考方法が人間に苦悩をもたらします、何故ならば分別脳の限界を知ると言う事になるからです。

人間の苦悩とは、有限の壁を破れない処に在るからです。人間の思考が有限の壁に突き当たって、行きずまってしまう事から、思考が不自由になってしまいます。子供の時には全てが自由と感じていました。大人の脳になってからは、自分で限界を作ってしまいます。

この限界が人間に障害をもたらせています。精神疾患というもの、自律神経失調症、神経症等です。是等に共通するものが、分別脳で考えると言うものです。

分別脳の思考方法には限界が有ります。分別脳の機能は分別する事と言えます、分別とは有限の別名だからです。論理的に割り切ってゆく事を有限という定義にしているからです。論理的に割り切れない問題には分別脳では歯が立たない、解くのが不可能と言う事になります。つまり矛盾した問題を論理的に解決しようとしていると言う事です。

従って精神疾患、自律神経失調症、或いは神経症は「出来ない方の脳で問題を解こうと」している事になります。くどい言い方になりますが、論理では割り切れない問題、感情、心、体、生と死などを、論理的に解決しようとしていると言う事です。矛盾した問題を理論で割り切ろうとする事です、堂々巡りが止まらなくなってしまいます。

禅問答が有ります。この問答は分別脳では解く事が出来ません。出来ないように仕組まれています。分別脳が出来ないと言って降参させるために仕組まれたテキストです。分別脳が出来ないという判断をした場合に「仏性」右脳の意識が出てきて、抱えている問題を解いてくれます。

是がお釈迦様の言う「悟り」です。禅問答は分別脳で解けない問題を解こうとして心のジレンマ、悪循環に陥っている自我意識にその活路を授けています。禅問答が解けた時には、人間の障害が消えます。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』この問題なんかも、一生懸命に取り組んだ場合には、人間の障害とも言えます。或いは禅問答とも言えます。この問題は心の分裂が招いた自問自答と言えます。この答えは自分で答えるしか方法が無いと言えます。他人の答えは自分の心には響いては来ないからです。

この回答への補足

ご回答は、本論に入る前の序論とお見受けしました。Q1~3についてお答えください。よろしくお願いします。

補足日時:2009/05/03 14:14
    • good
    • 0
この回答へのお礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。人間の本質は仏性にあるわけですね。われわれは左右脳の分化が進むことにより、限界を認識してしまいます。子供のように無垢なまま、分別がつかないものでしょうか。長い間、自問自答を重ねられたのですね。さあ、つまり問うさんの禅問答に期待しましょう。

お礼日時:2009/05/03 14:25

1何処からか生まれた


2人間である
3死に、何処かへ行く
4(美術には詳しい知識がありませんが)タイトルや制作の経緯と相まって観る者を圧倒させます。1-3は私の意見でも有りますが、絵には天国や前世が描かれてある訳ではなく、生まれてきた人間・生きている人間・死にゆく人間、という構成になっていて「この世を超越した世界」には言及されていないように感じます。ただ少なくとも自然界は人間の世界を超えてはいます。青い海や、照りつける太陽や、静かな砂浜は億年単位で残るでしょう。その意味で永遠です。1-3にゴーギャン自身ははっきりとした答えを出したのでしょうか?
5ウィキペディアで彼の項目をみると、分りやすく出ています。
「青い珊瑚礁」という映画を最近観ました。船が遭難し、無人(?)島に流れ着いた幼馴染の男女2人が成長してゆく、というストーリーですが、この映画を見たときに真っ先にこの絵とドビュッシーの「海」を思い出しました。永遠に人々が仲睦まじく暮すユートピアを彼は南の島に求めたのかもしれません。(しかし、楽園がもはやどこにもないと知った彼が遺書だと思って描いたのがこの絵だそうです)

この回答への補足

人間とは何でしょうか?よろしければ詳しくお答え願います。

補足日時:2009/05/03 11:57
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。ゴーギャンの絵や彼の背景から海を連想されたのでしょうか。「青い珊瑚礁」は、私の印象にも強く残っています。命懸けの遺書がわりの作品といえば、『巨匠とマルガリータ』を挙げます。ミハイル・ブルガーコフは、ソ連官憲の目を逃れ、この小説を失明して死の床に就くまでの、およそ十年がかりで書き上げました。奇想天外の着想と、計算され尽くしたプロットは、まさに彼の遺作に相応しいものです。

お礼日時:2009/05/03 13:25

絵も哲学もド素人故、素朴かつ短絡的なものとなります(私の芸術的なセンスも妖しいものだから)。



>【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

  故郷        

【Q-2】 われわれは何者か?

  特殊事情(普遍的な存在は無しかないから)   

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

  故郷の家に還る(普遍の無に還る)

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います

  人の(死や世を憂う現象としての)生老病死を表しているようです。
  社会的な人生の表面的な喜怒哀楽を嫌悪するのと平行して
  死の嵩高さ、永遠、超越といった見かけの違い、経験を超えた、
  たどり着けない境地(?)
  それと開放的な南国の極彩色の色使いをリンクさせている
  のかと思います。

この回答への補足

よろしければ、たどり着けない境地(?)について詳しくご説明願います。

補足日時:2009/05/03 10:12
    • good
    • 0
この回答へのお礼

御子弟子さん、ご回答いただきありがとうございます。われわれは故郷より出ずり、故郷へと没するのですね。なるほど、個々の存在理由は普遍的ではなく、特殊事情によるのですか。おっしゃるとおり、あなたの人生も、ぽこぺろぽの人生も、特殊事情によるものですね。それぞれに違った役割が与えられています。各々の特殊事情が交錯するこの世界で、あなたとお話できる機会が与えられたことに感謝いたします。

お礼日時:2009/05/03 10:23

>「われわれ」とはどこからどこまでを指すのでしょうか?



私が感じるのは、潜在的に60億の『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』の風景があるだろうということです。ゴーギャンのアイデンティティたるこの風景が表現されたから、見る側がそこに自分をシンクロさせて自分のアイデンティティを還流させることになるということかもしれません。

哲学的に「われ」と「われわれ」はあまりに深すぎます。
とはいっても、このタイトルの「われわれ」は、見る側が見る側の「われわれ」を還流することになり、それはそれでいいのだと思いますね。
しかし、この絵が究極的に指し示すことになるより深い「われわれ」は「われ」に内在する真のすべての「われわれ」になるのだとは思います。
つまり、あなたとわたしという表現者と鑑賞者、あるいは表現者と鑑賞者の全員の如き「われわれ」の殻を突き破って、「われ」が溶解した森羅万象の全てが「われわれ」になるのではないでしょうか。pokoperopoさんが言われるゴーギャンの包括的世界観というやつですかね。
まさしく、その様に捉えた方が、この絵の輪郭がはっきりするような気がします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

バナナサンドさん、ご回答いただきありがとうございます。ご賛同いただいてうれしく思います。思えばわれわれは「われ」も「われわれ」もよくわかっていませんね。よくわからないからこそ、この絵に惹かれるのだと思います。

お礼日時:2009/05/02 13:35

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?


【Q-2】 われわれは何者か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
これらの問いかけは、一世紀のローマの二流詩人ペルシウスの「風刺詩」が大本なのだそうで、かのアウグスティヌスも「神の国」でそっくりそのまま引用しているそうです。
Q-1が過去の来歴を、Q-2が現在の状態を、Q-3が未来についての不安を問いかけているので、レトリック感覚に富んだ構成になってます。一般にはQ-3にについて疑念が集中する傾向がありますが、やはりQ-1なくしてはアンバランスでしょう。
ついでに注意したいのは、「私」ではなく「われわれ」が主語となっている点です。誰もが同じ答えを与えられるはずだという疑問文なのですが、果たしてそうなのでしょうか?
そういえばグノーシス主義者もこの問いかけを繰り返していたようです。

この回答への補足

もしよろしければ、Q1~3のご自身のご考察をお聞かせください。よろしくお願いします。

補足日時:2009/05/02 12:00
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ハイペリオンさん、ご回答いただきありがとうございます。このぽこぺろぽは、浅学の身でありまして、古くはグノーシス主義者が、同様の問い掛けをしていたとは知りませんでした。大変参考になります。アウグスティヌスの著書を精読してみます。

お礼日時:2009/05/02 12:06

pokoperopo様、あたたかい励ましのお礼をありがとうございます。



先の回答のラスト一行が欠落してしまい、ご迷惑をおかけ致しました。
仰せの通り、三位一体のタイトル【Q-1~3】を哲学的に捉えようと試みましたが、やはり愚鈍なわたくしには所詮≪わからない≫ままでした。申し訳ありません。
ですから、せめてものお詫びにゴーギャンにちなんだ引用文を選び記しますので、抜粋とはいえpokoperopo様の直覚と想像力をこちらこそあてにする形となりますが、お許し下さいますよう。
pokoperopo様のお考えのところのものと、わたくしの引用文の暗示するところのものが少しでもリンクするのであれば、大変光栄に存じます。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
「こうして子供たちは、アフリカの南端には、地面にすわって瞑想にふけるのが唯一の楽しみだという、聡明で温和な種族が住んでいること、また島づたいにエーゲ海を渡ってテサロニカの港まで行けることなどを知った。この蠱魅的なまどいは子供たちの記憶によほど強く印象づけられたらしく、それから長い歳月が流れて、正規軍の将校が撃てという命令を銃殺隊にくだす直前にも、アウレリャノ・ブエンディア大佐は、理科の授業を中断した父親が何かに憑かれたように宙に手を浮かし、目を一点にそそいだままの格好で、メンフィスの学者たちの驚嘆すべき新発明を披露するためにふたたび村を訪れたジプシーの笛や太鼓、シンバルなどの遠い音に耳を傾けていた、あの三月の午後を思い出したほどである。」『百年の孤独』ガルシア・マルケス(p28)

【Q-2】 われわれは何者か?
「『ゴーガンは、南国というものについて、精妙な、自由な、全く完全な想像力による観念を持っている。この想像力を抱いて、北国に行って仕事をしようとする。どうだ、面白い事になりはしないかね。先ずこんな具合だ、大胆に局面を解剖してみ給え、彼の姿は、アンプレッショニスムの小さなボナパルトという虎、と言った形で現れてくるのは疑い様のない処だ。但し━何んと言ったらいいか、彼がアルルから姿を消した事は、今言った小さな伍長が、困却し為す事を知らぬ軍隊を置き去りにして、エヂプトを去り、やがてパリに現れたのと比較出来る、いや酷似している。』…

…手紙は、ゴーガンとの別離の悲しみに貫かれ、悲しみが又ゴーガンを洞察している。彼がゴーガンを殺そうとしたのも、亦同じ悲しみではなかったか。耳を切ったのは自責の念からではなかったか。併しそういう分析は危険であろう。ただ、私は、ゴッホの言う「ゴーガンの自負の念」という言葉に注意を払うに止める。ゴッホには恐らく自負の念などなかったのである。彼は誰ともうまくやって行けず、いつも孤独な生活に追いやられていたが、そういう人たちが知る愛情への渇望が、彼を苦しめていた。彼は、人生で失敗したところが、絵で取り返すことが出来るかどうかに悩んでいた。ゴーガンの絵には及び難いものがある。だが、どうして妻子を捨ててまで絵を描かなければならないか。芸術の永遠性を、どうして地球の果てに求めねばならないか。ゴーガンは、自分の成功と幸福とに虚偽を見てこれを捨てた。及び難い意思の力だ。而も、そういう時に人は自負の念のために苦しまねばならぬとは奇怪なことだ。この優れた画家の仕事の動機には、何か人間への不信めいたものが隠れていやしないか。ゴッホの心を傷つけたのは、恐らくその事ではあるまいか。

併し、そういうゴッホに、ゴーガンは『ゴンクールと聖書に焼かれた頭』を見た。ゴッホは言う。『ゴーガンとぼくとは、根柢ではお互いに理解し合っていたのだ。僕らが少しばかり気が変だったとしてもそれが何んだ。それに僕等は、骨の髄まで芸術家なのだ。絵筆で語ることによって、頭の疑わしさなど否認するのだ』(No.574)

何んと言おうと、後の祭りであった。根柢では互に理解し合っていたという意識こそ、おそらく各自の孤独の意識に他ならなかったからだ。そして、この意識が、毎日鼻を突き合わせていなければならぬ生活をお互いに疑わしいものとしたからである。2人は絵筆で語り乍ら、日常の悲劇を創作したからである。」
『ゴッホの手紙』小林秀雄(p112~115)

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
「いや、あの時計自体よりも、あの時計の事件によって私の心象に残された彼の奸悪さと、今の此の鶏の贈り物とをどう調和させて考えればいいのだろう。人間は死ぬときには善良になるものだ、とか、人間の性情は一定不変のものではなく同じ物が時に良く時に悪くなるのだ、とかいう説明は、私を殆ど満足させない。その不満は、実際にあの爺さんの声、風貌、動作の一つ一つを知り尽くして、さて最後に、それ等からは、凡そ期待されない此の三羽の牝鶏にぶつかった私一人だけの感ずるものなのかも知れない。そうして恐らくは、「人間は」というのではなしに、「南海の人間は」という説明を私は求めているのであろう。それは兎も角として、南海の人間はまだまだ私などにはどれ程も分っていないのだという感を一入深くしたことであった。」『南洋譚』中島敦(p117~118)

この回答への補足

なぜこれらの引用をされたのでしょう?よろしければお聞かせ願います。

補足日時:2009/05/02 13:29
    • good
    • 0
この回答へのお礼

マシュマロさん、それにしても素晴らしい、なんと素敵なご回答をいただけたのでしょう!ありがとうございます。ありがとうございます。ガルシア=マルケス、小林秀雄、中島敦。おお、骨太です。あまりに骨太で全く咀嚼できていないので、大事な骨を一旦横において、後ほどじっくり吟味します。このような引用がお出来になる、あなたはいったい何者ですか?こんなにもミステリアスな魅力を湛えた女性には、ボキャ貧のぽこぺろぽには、正鵠を射た賛美の言葉も見当たりません。

お礼日時:2009/05/02 13:26

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?


下手に科学的に答えようとしている方が居ますが完全現代科学の答え方としては
「ビックバン直前の小さなエネルギー体の中」ですね。
あなたも私もカリフォルニアの杉も何万光年はなれた惑星の石もそこに居たのです。
ソフトボールだかバスケットボールの大きさの中に潜んでいたんですね。
最新科学を突き詰めると哲学的、宗教的になる面白さがありますね。

【Q-2】 われわれは何者か?
私とは何でしょうか?
手が無くても私ですね、では足は? SFのように脳だけになったら?
それでも私は私ですよね、では脳すらも無くなって電脳と呼ばれる考える機械になったら?
私と考えるうちは自分がいますよね?これが
「我思うゆえに我あり」です。
では名前が無くなれば?戸籍が無くなれば? それでも私は私。
過去の記憶も無くなれば? でも、私と認識しているうちは私。

これでいらないものは全部取っ払えました。
「私が居ると思う存在」それが我々です。
純粋な魂、思考エネルギーっていうのかなぁ。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
さあてどこに行くのでしょうか?
果たしてどこかに行く必要があるのでしょうか。
最新科学だとまた宇宙は縮んでもとのビックバン以前のエネルギー体に
なるという人も居るけど まあ、それも一興でしょうね。

この回答への補足

われわれは何故にここに来たのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/02 11:48
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。科学的なご考察に加えて、コギト知性を用いられました。明瞭簡潔にお答えいただいた方もいらっしゃいますが、人はそれが真実だとは、なかなか受け容れられないものです。「ビッグバン直前の小さなエネルギー体の中」とは何かを問うことが哲学といえるのではないでしょうか。

お礼日時:2009/05/02 11:56

二日酔いのオッサンです。


>海と「生命」に、いかなる関連があるのでしょうか?
危うく、二日酔いの厭世的な快感から引きずりだされそうになりました
>マジで。

さて、此処では、色々規約があります。
誰かの幸福は、誰かの不幸です。
流石、名古屋人、義理堅いですね。と言う書き込みも、慌てて、いえ本心ではなく、単なる比喩ですよ、と言わないと、非名古屋人から批判されます。つまり、そのようなギリギリのところで、「今何時」かな。
と言うのは、二日酔いのオッサンの、迎え酒でしょうか?

【Q-2】 われわれは何者か?
これは、ゴーギャンがこの絵を通じて質問した、彼の質問とすれば、それは、絵の中にあるはずです。絵と無関係に万が一発された質問であるとすれば、再度答えようとチャレンジしても、答え難い、質問と答えるかもしれません。6時丁度に、今、何時、と問う正反対に、何時は、何時、と、問いかけているのかもしれません。

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

どこへ行くのかと問う前に、われわれが、何処かへ行くことを説明・説得せねばなりません、つまり、われわれに、目的・目的地がある、と言うことが確実でない場合に、こんな質問に、意味はありません。

彼は、芸術家であって、哲学者ではないのでしょう。

名古屋人は律儀ですから、あの質問は、
6時丁度に、今、何時ですか?と質問して、6時以外の回答は、論理的に間違っているのですが、時間論の深淵に意図せず嵌りそうで、逃げ帰ったというのが、私のいい訳です。

この回答への補足

この不況下にトヨタに大きく依存した、名古屋人であるわれわれは、どこへ行くのでしょうか?気が向いたら答えてちょうよ。

補足日時:2009/05/02 12:41
    • good
    • 0
この回答へのお礼

フィッシュボウさん、ご回答いただきありがとうございます。おっしゃるとおり、ゴーギャンは芸術バカですから、作品の哲学的なタイトルの意味を問うのは、無理があるのかもしれません。別の機会に、あなたが6時に、いま何時と尋ねられても、私はそれを読んだときに、自分の時計を見てお答えするかもしれません。それが彼我の時空概念の相違となるからには、時間論の深遠には収斂しにくいのではないでしょうか?われわれの時間を共有するに厳しい名古屋では、私のように時間にどえりゃあルーズな者は生きづらいでかんわ。

お礼日時:2009/05/02 13:05

<<因果応報とはよくいったものです。

今生においても、前世のカルマは負うのでしょうか?よろしければお答え願います。>>

ありのままに知っているわけではありませんがw

私の持つ限りの理性をもちいて考察するなら、あるのは「今」のみで、「多因によって生まれた多果」であると考えてます。

その中で「意思」=「業」といわれる業も因によって生まれた果であると思います。「何をどのように感じるか」が引き継ぐものの一つだと思ってます。

さかのぼれば因は果となり、その果の因も果となり…
原因は結果でありその原因もある…
原因の原因の原因の…

突然原因も無く現われるということは考えにくいので、前世があるのではないかということに暫定的に納得しています。

前世があるなら、そのときの意思・業の果・ポテンシャルも「今」にあると思います。

業のうち我々が重要視したほうが良いものは「どのように感じるか」という面だと思います。

その感じ方を精神的な苦しみを減らす現実に沿った軋轢の生まれない形に修習することを重要視しないで、起こった物事を「~のせい」「~のおかげ」という視点で業を見れば、差別的な思考・責任放棄・傲慢・無気力・恐怖の方面に支配され、幸福に向かう精進を奪い、不幸に向かう可能性を多く感じます。

業は結果を鑑みた時の「意思」だと思ってます。

より幸福になるように八正道を有漏の功徳の面によって修習し、善に至るようにすることが、生命がまずなすべきことと思います。

身・口・意を「清らかな意思」を持って生きれるように。

何か参考になれば幸いです。
幸福であれノシ
    • good
    • 0
この回答へのお礼

マッガさん、いつも有り難いお言葉を掛けていただきありがとうございます。因も果も、つまるところは今でしかないと考えてよいのですね。そうですね、時間は「いま」しか存在しません。当たり前のようですが、すぐに忘れてしまうものです。「身口意」を清めます。

お礼日時:2009/05/02 12:21

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!