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質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。

 ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。

【Q-1】 われわれはどこから来たのか?

【Q-2】 われわれは何者か?

【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?

【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います

【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います

 なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。

 以上、よろしくお願い致します。

A 回答 (73件中31~40件)

>>>


ゴーギャンは複数の宗教概念を、止揚し昇華を為し得たとお考えになりますか?よろしければお答え願います。
<<<
ですが、残された絵に巡り会う「誰か」が、そのように捉える(そのような概念が立ち現れる)ことができたなら、「そうである」といえるでしょう。
彼が「止揚し昇華を為し得た」かどうかは問題にはならないと思います。ただし、彼が「止揚を想い、昇華を為そうと想い」といった方向性にて絵を描かれたのであれば、そのように見てしまう人々が多いかも知れないですよね。

>>>
私は、ゴーギャンはただの女たらしかもしれないと勘繰っています。母性への憧憬が強く見受けられることから、カトリックのマリヤ崇拝の残滓とも考えられないでしょうか?
<<<
そのように感じられたのであれば、その感覚も「あり」だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます。ゴーギャンはこの作品に大変な自信を持っていましたが、のちに自殺を企てたことからも、信仰心を昇華させたとは言い難いでしょうね。彼は母性を強く追い求めたのだと考えます。彼は女性ばかりの世界の中心に立ち、収穫による献身を望んでいたのかもしれません。

お礼日時:2009/05/14 09:28

pokoperopo様、御心のこもったお礼をどうもありがとうございました。



ゴーギャン展に行かれたのですね!
やはりさすがのド迫力だったのでしょうか。
わたくしは夫とボストンで拝見したのですが、当時はいまほどに深く哲学的思索もせず、ただの美的絵画鑑賞に留めたのみでした。
ですから、このたびのゴーギャン展が当時に想いを馳せて二重の意味で楽しみですし、新たな発見があることを期待しているのです。

>ひそひそと打ち明け話をする二人連れの女は、ミサに出掛ける最中に見えてなりませんでした。
>ゴーギャン自身のキリスト信仰を時系列で描いたのかもしれません。

ああ、なるほど。言われてみればそう思えてきます。さすが!

>不思議なのは画面中央左の、右を向いて歩く女です。さまよっているかにも見え、ゴーギャン自身のキリスト信仰の揺らぎを表しているのではないでしょうか?
>ゴーギャンはタヒチの風景や人々の描写を通して、自身の宗教観の移り変わりも示したのだと思います。

なるほど、彼女は「さまよい人」のように思えますね。
身に着けている服の色も独特ですし、タヒチの土着神に背を向けているポーズは、キリスト教信仰とのはざまにいるのかも。
諦観ですか。おっしゃる通りですね。
ゴーギャンは…最期の瞬間には、いかなる信仰に辿り着いたのでしょうか。

>すでにお読みかもしれませんが『百年の孤独』がお好きなら、是非ともお読みいただきたい作品です。
>全編が人間のおどろおどろしさに満ちています。

わたくしのほうこそ、素晴らしい引用をご紹介くださいまして、心底嬉しく思います。ありがとうございます!
【Q-1】は『知の欺瞞』ですか。なるほど~。
あまりに魅力的な一文でしたので、すでに密林にて注文済みです。
明日あさってに到着予定ですので、今から読むのが楽しみです。
ありがとうございます。
おっしゃるところの「つまり科学的には我々の起源は解明されておらず、われわれはその思惟によってしか、その答えを導き出せません。また異なる見解も否定することもままならないのです。」は【Q-3】にも同様の余地があるのかもしれません。 
奥が深いと思いました。

【Q-3】はいかにもpokoperopo様らしいなあ、と拝察致しました。
>「ゴーギャンも太宰もタナトスへの憧憬が見受けられます。私は死後は天国や地獄へ行くのではなく、あの世という並行世界に行くのではないかと考えています。」
なるほど、タナトスへの憧憬ですね。確かにそうかもしれません。
あの世という並行世界をpokoperopo様はお考えになっていらっしゃるのですね。
一人一人にとって、思いのままの死生観があって至極当然ですものね。
ゴーギャンにとってはいかなるものだったのでしょうね。

【Q-2】
「母なる大地の代わりに、祖母なる大地が、雨を受けて感応して稔りをもたらし、死せる人間の身体を受け入れる━という女性の神話的イメージは、ここでスカートのなかの宇宙に凝縮されている。 ここでは、太鼓は、男の原理の側にありながら、へだてられた時間、男と女の差異を解消する媒介の役割を果たしている。(281頁)」
「…ぼくの知っているところでは、レオがまだ神学校にいるころ、ある晴れた日に、世界、秘蹟、告解、生と死というものがレオからすっかりずれてしまい、そのため、以降、レオの世界像はなるほど狂ってしまったが、非の打ちどころなく光り輝いているということだった。(284頁)」

わたくしは上述の『文化の詩学』(山口昌男 岩波書店)「「スカートの中の宇宙」を読んで映画のみ拝見しているにすぎません。
ですが、何とも言えず、大変に印象に残った映画の一つでした。
そして「原作と映画の間に引き裂かれる観客」と記されているほどに、差異が存在するようです。映画もご覧になられたのでしょうか。
pokoperopo様のご推薦もありましたので、この機会にぜひ小説の世界も堪能したいと思っております。

で、肝心のpokoperopo様の『われわれは~』は、いったい何とお書きになったのでしょうか??

この回答への補足

『「知」の欺瞞』をお求めになったのですね。かなり衝撃的な論文です。私は、『百年の孤独』、『ブリキの太鼓』、それから(『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ)が、戦後の世界三大文学だと思っております。このうちの一冊でもお好みなら、すべてをお気に召される可能性も高いと思います。是非ともお読みいただき、ご感想をお聞かせ願います。私は現在、ご引用いただいた『ゴッホの手紙』を読んでおります。他にお薦めの本がありましたら、紹介していただけませんでしょうか?私はご回答が寄せられなくなると、すぐに質問を締め切ってしまいますが、本質問はたとえお一人でも、ご回答をお寄せいただける余地があるかぎりは、締め切らないつもりでおります。どうか長いおつきあいをよろしくお願いいたします。

補足日時:2009/05/14 10:34
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この回答へのお礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。以前のご回答にも引用していただいたとおり、タヒチの神話には惹きつけられる何かがあります。ネシアの神々は上から見下ろすのではなく、われわれを映し出しているように感じます。『ブリキの太鼓』の映画制作者の蛮勇は称賛に値します。この物語の舞台の映像化は用意ですが、グラスの心象世界の映像化を試みて、陳腐化しないわけがありません。映画のことはお忘れになったほうがよろしい。ちなみに映画は、小説全3部のうちの第1部のみです。
それから先に引用した聖句の口語訳を添えます。

「天の下では、何事も定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを初めから終りまで見きわめることができない。
私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。」(「伝道者の書」第3章1.2.8.11.22節 『聖書 新改訳』 日本聖書刊行会)

 この聖句の前には、私の記した言辞などは戯れ言です。ドウドウ、落ち着きなさいな。何と書いたかは、あとでお話ししますから。それよりぽこぺろぽらしいとのご指摘は、何を指してのことでしょうね。

お礼日時:2009/05/14 11:22

再びの回答となります。



われわれは何のために生まれて来たのでしょうか?神(仏)の思し召しでしょうか?それとも自らの意志でしょうか?よろしければお答え願います。

この問いは、本当は自分が自分自身に問いかけているものと言えます。子供の笑顔は世界共通です、金があってもなくとも子供には笑顔があります。子供は天国に住んでいます、それは天国を求めていないところにあります。明日がどうなるのか?不況で職がないと言っては嘆く事はありません。

人生は何であるか?自分は何のために生きているのか?自分は何者?という事を問いかけたりはしません。ですが幼子は十分幸せに満ちています。あべこべに幼子は人生を分かっています、自分は何者かを分かっています、そうして何のために生きているのかという事を知っています。

それらの問いはすべてがつながっています、一つが分かれば全ての謎が解けます。それが「悟り」です。自分自身がその答えを知っています。悟りとは悩んでいる自我意識が、悩ませている自分自身と出会うという事です。悩み、苦しみの元が自分自身という事が分かります。それ以後悩み、苦しみはなくなります。

簡単に説明するなら、脳の機能の問題です。子供の脳は左右が未分化です、その事で心は一つしかありません。思春期頃に脳の機能は分化が完成に近くなります。その機能の違いが分からないことが「無明」という事になります。左脳に一つの人格が在る。右脳に一つの人格が在る。という事です、その二つの人格が「仲たがいをしている」姿が人生苦と言えます。すなわち心の分裂です。地獄です、精神疾患です、神経症です、自律神経失調症です、すべてを総称して生きて行く障害と言えます。

この解決が「聖書」や仏教の根本をなしています。そこに至ることを「道に至る」と言います。その道に至ることは簡単と言えます。それは分別を捨てるだけで良いからです。好きと嫌いで世の中を見ています、その見方を変えるだけで良いからです。ですが至ってからは簡単と言えますが、その道は誠に困難を極めます。手の着けようがないからです。

そのためのテキストが禅問答です。禅問答は左脳の分別では手が付けられません、なぜならば左脳の機能では不可能と言えるからです。左脳の能力では不可能、と分かることが悟りです。「大死一番」という事になります。一回自我意識が降参する必要があります、その時に右脳に在る神、或いは仏性が出てきてすべての問題に答えを出してくれます。

悩みや、苦しみとは、右脳に振り向けてやる問題を、左脳に振り向けたことになります。矛盾した問題、或いは割り切れない問題を割り切れることしかできない脳に答えを求めている事になります。心は堂々巡りをしています、悪循環に入ります。答えなどは出ません。何故ならば答える機能がないからです、言い方を変えたならば、ソフトの入っていないコンピューターに、答えを要求している事になるからです。

その解消が禅問答の中にあります。その答えは「おまえは誰か、と聞く必要がなかった。」という事になります、誰でも毎日何百回も会っているからです。ですが会ってみないと分かりません。自分自身で経験しないと、わからないことと言えます。もし興味があるようでしたら鈴木大拙博士の著書を読んでみてください。博士は体験から禅を説明しています。分からない事を、親切に説明してくれています。

この回答への補足

過去の拙問においても、鈴木大拙博士の著書をお薦めいただきました。しかし多くの著書があり、どれが入門者向けの著書かわかりません。つまり問うさんのお薦めは、どの著書でしょうか?よろしければお教え願います。

補足日時:2009/05/14 09:50
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この回答へのお礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。そうですね、イエスも「子供のようであれ」と言っていますね。仏教にもキリスト教にも共通した教えです。脳に答えを求めると、悪循環に陥るのですね。迷路に迷い込まないように、あるがままに身を任せることが肝心なのでしょうか?

お礼日時:2009/05/14 10:00

何が一番良いのかという事は、良くは分かりませんが、「禅への道」というのはどうでしょうか?その中で宗教とは何か?という項目があります。

そこの処を徹底すればそれだけで良いように思います。

仏性は体に在ると言えます、或いは自我意識がない時に現れています。その切り変わりが余りにも巧妙に出来ているために、気が付き難くなっています、心が生じる時、自我意識が無意識から切り替わる瞬間、指の先にも、足の先にもそれは在ります。「父母未生以前本来の面目」が分かった時にすべての答えが分かります。この問題は「お前が生れぬ先の事を言ってみよ、その時のお前は何だ!」という設問と考えてください。
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この回答へのお礼

つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。自我意識が仏性の気づきを妨げていることは理解できます。「父母来生以前本来の面目」を知ることが肝心なのですね。『禅への道』を是非とも読みます。私が他のご回答者に引用いたしました、(『旧約聖書』 伝道者の書 第3章)をお読みください。宗教は異なれど、この問い掛けヘの美しい回答例だと思います。

お礼日時:2009/05/14 21:29

pokoperopo様、こんばんは。


ご丁寧なお礼をどうもありがとうございます。

>『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ)が、戦後の世界三大文学だと思っております。

なるほど、面白そうですね。
早速、読んでみたいと思いました。ご推薦ありがとうございます!

>>【Q-3】はいかにもpokoperopo様らしいなあ、と拝察致しました。
>ぽこぺろぽらしいとのご指摘は、何を指してのことでしょうね。

だって、この質疑において誰よりもゴーギャンの宗教観に共感をおぼえ、かつ、『われわれは~』の命題並びに絵画に格別の想いを抱いていらっしゃるのですから、当然洞察も奥深く鋭くなるはず。
わたくしは、pokoperopo様の論説がすごく的を射ていると、心の底から感嘆しているのです。

ところで、
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを初めから終りまで見きわめることができない。」の引用テクストを拝見し、あらためて一神教とポリネシアの多神教とのはざまに揺れるゴーギャンの心境に想いを馳せてみました。
唯一絶対神を崇める姿勢と一線を画すということは、それ相応に大いなる価値観の変質をもたらしたと思われます。
この点につきましてどのようにご推察なられますでしょうか。
案外違和感無くスンナリ多神教になじめるものなのでしょうか。

また、ゴーギャンは日本の浮世絵に憧憬を抱いていたのはご承知かと思われます。
伝統的な西洋画には見られない鮮やかな色づかい、遠近法を用いない斬新な構図、明快な輪郭線等、至るところにその影響がみられます。
あの絵画は、恐らく、タヒチという土地をモデルにして投射した、彼の雑多な精神世界の風景そのものなのでしょう。
ご推察の如きゴーギャンの宗教観の推移とともに、「万物は流転する」といった感覚までも抱くというのは、ちょっと行き過ぎなのでしょうか。

>グラスの心象世界の映像化を試みて、陳腐化しないわけがありません。映画のことはお忘れになったほうがよろしい。
>ちなみに映画は、小説全3部のうちの第1部のみです。

了解しました!
何故か…一個小隊の中に組み込まれてしまった気分です。
で、上官が「任務遂行(読書感想)までは、何と書いたかはお話ししませんよ」とおっしゃっているかのようで(笑)

本日付の密林からの配送遅延報告は(知の)欺瞞ではなく怠慢そのものにほかなりませんよね、隊長?

この回答への補足

NHK『迷宮美術館』はご覧になりましたでしょうか?名古屋ボストン美術館の「ゴーギャン展」にちなんで、タヒチ取材とゴーギャンの生涯、展示中の『我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか』の謎に迫っていました。また再放送があるかもしれませんし、『日曜美術館』で取り上げられるかもしれません。それによると、女神「ヒナ」の横に立つ女は、ゴーギャンの愛娘アリーヌかもしれないとのことです。ゴーギャンはこの女のことだけは、なんら説明をしていません。マシュマロさんは、いかがお考えですか?

補足日時:2009/05/17 20:16
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この回答へのお礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。お褒めに預かり光栄に存じます。しかし私は、一月ほど前までは「ぽこぺろぽ中尉」を名乗る将校だったのですが、訳あって二度の降格があり、現在は「伍長」という一兵卒にすぎません。ですから、とても上官などとは呼ばれるに相応しい者ではございません。そのお気持ちだけありがたく頂戴いたします。ご指摘のとおり、ゴーギャンは浮世絵の影響を多分に受けて、平面的に描いているのに、影を都合よく描いて厚みを持たせようとしているあたりは独特ですね。ところで、重要な引用を忘れていました。「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」(「伝道者の書」 第3章20節)。この問いの答えみたいでしょう?ちりというのはゴミではなく、ミクロの宇宙を指してのことだと思われます。ぜひ一度、「伝道者の書」第3章全文をお読みください。一神教にありがちな、二元的運命論ではなく、何人の心も揺さぶるベく、美しい表現でわれわれの生きる意味に答えています。すみません、ブルガーコフは第二次大戦中に亡くなっていますね。その死の床で完成された作品ですが、遺族がソ連官憲の摘発を逃れるため何十年も隠し持っていたのと、当時としては驚嘆に値する斬新なプロットを持つため、戦後ということにしておいてください。配達遅延は業務怠慢ではなく、密林、あるいは神様の粋な計らいでしょう。それだけ、期待感と関心が高まります。私はこの質問を締め切るときに、件のカードになんと綴ったかを明かすつもりです。そのほうが皆さんも楽しいでしょうからね。あ、『ゴッホの手紙』を読了しました。さすがは小林秀雄ですが、小林は『モオツァルト』での中でも同様に見受けられるように、不遇の天才にやけに同情的なのはどうしてでしょうか?あ、もうひとつ、ぽこぺろぽ向けの一冊がありましたら、是非ともお薦め願います。ちなみに現在は『月と六ペンス』を読み始めたところです。

お礼日時:2009/05/17 21:02

pokoperopo様、いつもあたたかいお礼を下さるのですね。


本当にありがたいことです。心より感謝申し上げます。

>神「ヒナ」の横に立つ女は、ゴーギャンの愛娘アリーヌかもしれないとのことです。
>ゴーギャンはこの女のことだけは、なんら説明をしていません。いかがお考えですか?

なるほど、何も説明がないとすると…愛娘を想って描いた、と考えられなくもないですね。
衣装の色も独特ですし。

でもそれにしては、立ち位置が微妙ですよね。
「ヒナ」に背中を向けてますから、タヒチの土着信仰とは縁が薄いようにも見えて。
娘の冥福を祈るとしたら…ゴーギャン自身ははたしてどのような信仰心を抱いていたのでしょうか。う~ん。

>「伝道者の書」第3章全文
>「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」
>一神教にありがちな、二元的運命論ではなく、何人の心も揺さぶるベく、美しい表現でわれわれの生きる意味に答えています。

はい、そうですね。
何人の、のみならず、悠久の時を経ていまだにわたくしたちの心に語りかけてくるのは、真理にかぎりなく近いもののように感じます。
おっと、pokoperopo様にとっては真理そのものでしょうか。

わたくしは無知な者ゆえ、まだ何もわからないままなのです。
どうか失礼な物言いは叱咤をもって御容赦賜りますようお願い申し上げます。

>ブルガーコフ

こちらの方が先に到着しそうです。
今から楽しみです。本当にありがとうございます。
pokoperopo様はついに『月と六ペンス』を手になさっていらっしゃるのですね。
こちらの絵画鑑賞とこの命題に、あらたな解釈のインスピレイションが得られるかもしれませんね!

>不遇の天才にやけに同情的なのはどうしてでしょうか?

ふふ。あの人はその手の不遇の天才、夭折した天才に同情的なところが確かにあるようですね。
生前にたった一枚しか自作の絵画が売れなかったゴッホ。
それなのに、描かずにはいられない、生きてはいられなかった彼の孤独と狂気の淵と一途な信仰心、そして不器用さ。
小林ならずとも、わたくしたちの心の琴線に触れて魅了するものが、一様に彼等の作品にはあるのではないでしょうか。

お薦めの本…”Il Nome della Rosa"はもう既読でしょうか?

この回答への補足

バタイユのご質問を締め切られましたので、少しお話ししましょう。なるほど、よく理解された上でバタイユに関心をお持ちなのですね。私もマシュマロさんより少し年下、あまり「悪」に染まる危険もないので、切り捨てずに読み直します。西洋文学を読んでいると、いかに当時の人々がキリスト教会に圧迫されていたかがわかりますね。スタンダールなどは、そのあたりの心情を巧みに描き出しています。しかし、アンチキリストはそれそのものが、負の神学なのです。ニーチェは「紙は死んだ」と喝破しましたが、死んだということは、「神はいた」ということです。これが神学でなくて何なのでしょう?そもそも神は死ぬ可能性を内包した存在なのでしょうか?かように半端ならば、無神論、不可知論を説くべきです。おかしいですね。というわけで、私は彼らの哲学は、資料的な価値以上のものはないと断じますが、いかがでしょうか?われわれは何者かを考えるには欠かせないと思います。ひとつお願いがあります。マシュマロさんご自身のためにも、哲学のご質問は早くに締め切られないほうがよろしいでしょう。できるかぎりお礼と補足質問を併用されて、自他共に考察の深化を図られると、より有意義なものとなるでしょうね。生意気ながら注文をつけてしまいました。今後もマシュマロさんのご興味に合ったお話を期待しております。もっとも教えていただくことばかりではございますが。

補足日時:2009/05/21 17:31
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この回答へのお礼

ボンジョルノ、マシュマロさん。ご回答いただきありがとうございます。もちろん『薔薇の名前』は既読です。つくづく趣味が合いますね。うれしいです。また思い出されましたらお薦め願います。しかし、これほどまでに趣味が合うなら、もう一冊を薦めさせてください。(『ドグラ・マグラ 上・下』 夢野久作 角川文庫)凄いですよ、これは。もし読後にキ〇ガイになられても、私を恨まないとお約束いただけなければ、読んではなりません。話は変わりますが、マシュマロさんは「無知の知」をよくご存じでいらっしゃいます。私も気負わずにお話しいただけますので、大変ありがたいです。『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』は、自らの無知を認めない者には、思いを廻らせる資格すらないと考えます。そうそう、『月と六ペンス』はゴーギャンのイメージが崩れてしまいますが、モームの人間観はなかなかに訴求的で、別の意味で楽しいですね。あの作品には、ゴーギャンが娘アリーヌを愛した面影は見受けられませんが。

お礼日時:2009/05/21 17:54

pokoperopo様、こんにちは。


無知の知の何たるかすら察せられない愚鈍なわたくしに、いつもあたたかいお礼を下さりまして本当にありがとうございます。

>バタイユのご質問を締め切られましたので、少しお話ししましょう。

はい、この早期締切についてなのですが。
一夜明けたら名指し糾弾されていた世知辛い経験があるために、早く〆たいと願う衝動に駆られてしまうのです。
ですが、おっしゃることもごもっともなので、次回からはもう少し粘ってみることに致します。

わたくしは不特定多数の集うサイト歴1年ちょっとなのですが、いまだにネット上ならではのコミュニケーションの楽しさ、難しさを両方感じます。
そしてpokoperopo様にはお礼以上の多くを頂戴しております。
本当にありがたいことだと思っております。

>私は彼らの哲学は、資料的な価値以上のものはないと断じますが、いかがでしょうか?

はい、バタイユの思想はご指摘の通り、生粋の「アンチ・キリスト」でありますから、それを信仰なさる方々におかれましては不快の極みではなかろうか、と拝察致しております。
恐らくそれは、フーコと同様、「自らの精神的土壌である西洋文明そのものに対する糾弾」そのものにすぎないと思われます。
その意味において、また、既存の社会体制の最も強固な根幹をなす思想に対するアンチ・テーゼは、必然的に生じるところのものでもあり、むしろ正常な精神活動の結果とさえ言えるのではないでしょうか。

また、フーコ以上のドラスティックさと精神的な闇の深さにより、バタイユは西洋人の「恥部」に触れ過ぎているようですね。
バタイユの「負の神学」は、フーコの監獄の囚人達に関する活動それ以上に「彼等一般人の≪sensus communis≫に対し思わず眉をひそめたくなるような酷いファクター」ばかりを率先して列挙しているために、格好のヴァルネラビリティと化しているのだと思うのです。

もちろんわたくしは個人的なキリスト教に対するオブジェクションを抱いているわけではなく、西洋文明や西洋思想の孕む二義性を直視し理解したいと願っているにすぎません。
それは欧米の友人達がスノッブさと憧憬を抱くZENや武士道とわたくしたちの想起するものとの乖離を認めるから、でしょうか。
また何だかんだいっても、そういう彼等の頭の中は、彼等の飾る世界地図同様、西洋思想至上主義であることは言うまでもありません。

それに今現在、さも当然の如く用いている西洋由来の哲学用語など、「テクスト上」では理解し得ても、はたして本当にその意味するところの本質にまで思考が到達しているのか。
そしてその用語を用いる上で、どれほどの洞察力と思慮深さをもって日本で語り合っているのか、理解しているのか。
そしてそれがわたくしたちにどのように影響を与えているのか等など。
考えていけば無知の極みのわたくしは迷宮に入り込んでしまいます。
西洋の本質を理解するほどに、東洋のそれをより深く理解しきたいと願うところにまで行きつけるのかどうか。ふう。

先の質問で「バタイユの主張するエロティシズムはわたくしたちの想起するエロティシズムと本質的に同じではないか。」としたものの。
やはり、これこそも似て非なるものなのかしらん、と思ってみたりもして。

はあ。
抽象的な思考能力に乏しいわたくしにはかな~りしんどいです。
何でもっとも不得意な分野カテにいるのでしょう?(笑)

そうそう、『巨匠とマルガリータ』が先に到着しました♪
大切にゆっくり堪能させていただきますね。

>『ドグラ・マグラ 上・下』 夢野久作 角川文庫)凄いですよ、これは。もし読後にキ〇ガイになられても、私を恨まないとお約束いただけなければ、読んではなりません。

うわ、そ、そんな。
pokoperopo様のご推薦って、もしかして濃くて熱いのかしら(笑)
こちらのサイトにおける武闘派活動もほどほどになさって下さいますようお願い申し上げます。

>『月と六ペンス』はゴーギャンのイメージが崩れてしまいますが、モームの人間観はなかなかに訴求的で、別の意味で楽しいですね。
>あの作品には、ゴーギャンが娘アリーヌを愛した面影は見受けられませんが。

はい、おっしゃる通りですので、わたくしは上野で再鑑賞後に堪能しようと思っております♪
「娘アリーヌと例の謎の女性」の究明にはなかなかに至りませんね。

この回答への補足

古今東西を問わず、人間の本質的な問いは同じではないかと考えます。ズバリ、その問いとは何でしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/22 18:35
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この回答へのお礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。そうですか、名指し糾弾があったのですね。ショックですね。しかし、それが何か?私は自己紹介にもありますとおり、入会後2か月未満で、一番人気にまでなったのですよ。某巨大掲示板では、ここの晒しスレの副題に、危うく私の名前がつけられるところでした。しかも、別サイトでは「ぽこぺろぽ討伐作戦」まで練られたのです。しかし本名を持つ私個人には、何の影響も及ぼさずに、私の投稿に耳目が集まっていることは、私への称賛にほかなりません。実はあなたへの中傷を、別サイト(もちろん私が一番人気)で目にしたことがあります。しかし、それはあなたの知性への嫉妬です。彼らに取り上げられないようにするには、凡庸な投稿を繰り返す以外にありません。それに何の意味がありましょうか?ネットでは枢軸が圧倒的に有利なのです。発言し、取り上げられ、多く記録されてナンボです。これはネット利用者の誰にでもいえます。もちろん現在は、武闘もほどほどで鎮静化していますから、ご安心ください。さて、本題に戻りましょう。バタイユにせよ、フーコーにせよ、Common senseを疑ってかかる、否、潰しにかかる姿勢は評価します。私は、信仰が崩れるとか、大切なものを壊されたと斥けているのではなく、それならばキリストを無視せよと言っているのです。確かに西洋社会においては不信仰よりも難しいですが、立脚点が神学にあるかぎり彼らに勝ち目はありません。今後の哲学の価値は、いかに《役に立つ》かに掛かっています。彼らの思潮は、フランス社会に大きな影を落としました。行き過ぎた個人主義による社会性不全と過大な人格尊重、安易な批判主義です。いかに魅力があっても《役に立たない》哲学は、意味をなさなくなります。迂遠は避けられるようになるでしょう。これからの哲学に求められるのは、他の科学同様に《効率》です。私が中学時代にキリストの門を叩いたのは、WASPの《効率》に憧れたからです。日本の教会の実情には幻滅しましたが、少なくともキリスト教は、彼らの哲学よりも役に立っています。いささか論説調になりましたが、いかがでしょうか?

お礼日時:2009/05/22 19:15

pokoperopo様、対話を続けてくださるのですね。


本当に心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

まずわたくしのスタンスをあらかじめ申し上げておきます。
「ゆづる」というキリスト教の精神と「(因果応報に絡む)輪廻転生」の仏教の概念。
そのどちらもわたくしにとっては「同価値」を持つのです。
「ナンセンス」な一面と、「非常に深遠で一生到達しえないような境地」と。

「ゆづる」は非常に高度な倫理性を備え、隣人愛という概念はわたくしにとっては大きな意味を持つ一方で、内なる損得勘定の観点からは現実的に極めてナンセンスに近い行動規範です。
我が子と夫、父母くらいにしか成しえないかもしれません。
「(因果応報をともなう)輪廻転生」は、「科学が好きな」わたくしにとってはいかにも荒唐無稽でナンセンスな概念でありながら、その反面、単なる個人的視点ではなく世界平和の希求或いは宇宙といったマクロ的視点で捉えた場合、いかなる思想哲学よりも抜きんでて理にかなっているようにも思えるのです。

ですから、お尋ねの「古今東西を問わず、人間の本質的な問いは同じではないかと考えます。ズバリ、その問いとは何でしょうか?」という問いに対して、無知の知以上にわたくしは「ズバリこれ!」と一つに定めることがスタンス上出来ないのです。
似たようなこととして、b様の質問「愚の骨頂」問題も同様でして、近代的理性をもってして「命題」になり得るかといえば「否」であれど、
決して仏教における「因果応報を伴う輪廻転生」は「因果応報の仏教から派生した仏教の恥部」を内在化しつつも、その近代的理性にもとづく論理性では決して推し量ることのできない壮大かつ深遠な哲学であるのだろうなあ、とわたくしは無知の知をもって考えているのです。

ああ、私事が甚だ長くなってしまいました。申し訳ありません。

>私は、信仰が崩れるとか、大切なものを壊されたと斥けているのではなく、それならばキリストを無視せよと言っているのです。確かに西洋社会においては不信仰よりも難しいですが、立脚点が神学にあるかぎり彼らに勝ち目はありません。
>今後の哲学の価値は、いかに《役に立つ》かに掛かっています。
>彼らの思潮は、フランス社会に大きな影を落としました。
>行き過ぎた個人主義による社会性不全と過大な人格尊重、安易な批判主義です。
>いかに魅力があっても《役に立たない》哲学は、意味をなさなくなります。迂遠は避けられるようになるでしょう。
>これからの哲学に求められるのは、他の科学同様に《効率》です。

う~ん、はたして本当にそうなのでしょうか。
フランス社会に大きな影を落としてしまいましたかね。
わたくしはたった数年ですが滞仏しておりました。
ある年など、友達の家にクリスマス休暇に泊りに行きました。
その際、「キリストを信じないなんてかわいそう。教会に一緒に連れていってあげるからね。」とその家族の皆に半強制的に連れていかれました(笑)。
もし、わたくしが頑なに「遠慮します。」と言ったとしたら。
わたくしが極東の国から来たエトランゼだからしょうがないよね、で済みますが、仮に同国民であったなら、この事態を何と思うでしょう。

それほどに、かの国ではキリスト教が国中の至る所に、そして人々の思想の髄にまで浸み渡っているのです。
その中で「棄教」もしくは「アンチ」を掲げるということの「異常さ」を思うにつけ、ゴーギャンのそれと日本人のそれとはちょっと異なるように個人的に思うのです。
殊に日本人は自己批判に比較的長けていますが、欧米人は相対的にそれほどでもありません。
車が衝突事故のような重大な非があればあるほど、自ら実直に謝ることは稀ですから。
「ゆづる」の精神をどのようにしてかの地の教会は教えさとしているのだろう、と思ってしまうのです。
(といってもかの地の教会側を非難しているわけではありません。)

>私が中学時代にキリストの門を叩いたのは、WASPの《効率》に憧れたからです。日本の教会の実情には幻滅しましたが、少なくともキリスト教は、彼らの哲学よりも役に立っています。
>いささか論説調になりましたが、いかがでしょうか?

はい、おっしゃることはごもっともでして、たとえばhospitalityにまつわる様々な社会的施設や隣人愛・人類愛に伴うボランティア活動の牽引など、「彼等の哲学よりも断然役立ってきた」と思います。
ですが、「その司牧的社会体制の功罪」一つとってみても現代における彼等の思想は決して「無駄」ではないはずです。
その功罪の大きな一つがpokoperopo様のおっしゃる≪効率≫至上主義であるのは言うまでもありません。

ps:信仰の非常にデリケートな部分を扱う内容なだけに、これ以上のさらなる対話はまずくはないでしょうか?
pokoperopo様への感謝の気持ちとオマージュをこめてお伺いしているのです。

この回答への補足

私はフランスに滞在したことはおろか、その土を踏んだこともありません。ですから、その空気はまったく知らず、すべては伝聞によります。フランスはなぜ反米気運が高いのでしょうか?アメリカの反りに回っても得ることがないように思います。フランスは進取の気性を持ちますが、モダニズムの影響が人々を単純化しているように感じるのは、思い過ごしでしょうか?ゴーギャン存命の頃から、フランスはどう変貌したのでしょうか?フランス滞在のご経験のあるマシュマロさんですから、頼りにしております。

補足日時:2009/05/23 00:23
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この回答へのお礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。はい、その問いは簡単なようで難しいですね。たったひとつ、存在とは何かではありませんか?私は存在します。今の私には、それで十分です。そして、あなたの存在を愛します。それ以上のことはわかりません。輪廻転生は否定しません。わからないからです。b氏もわからないことを哲学の主題に持ち出すからこそ、《役に立たない》と喝破されたのだと思います。私は信仰を失いましたから、信仰のデリケートさをご考慮されなくても一向にかまいません。信仰の残滓はありますが、洗い流す気もないので、お気になさらないでください。お気遣いありがとうございます。b氏のほうが、よほどご敬虔でいらっしゃるでしょう。西洋はキリスト信仰が当たり前なので、むしろ信仰の深度の個人差が大きく、信仰が深いと自認する本人が無自覚なまま、別の思想に流される危険性はあります。特に近代現代フランス哲学は世界的に評価されたので、これらの影響を受けた信者が、教会から強く批判されるとも思えません。つまり、信仰と近代哲学がきわめて錯綜しやすい環境にあるのではないかと推測します。そもそも神の自己主張を受け入れて、振り回されることをよしとするのが、キリスト教ですから、自分が従わない相手には決してゆづらないのが西洋人です。東洋人は内面においてゆづることを求められませんから、誰にゆづっても支配されたことにはならないからゆづれるのです。命を永遠にゆづらないから輪廻転生を唱えるのです。《効率》のよい哲学とは間違いによるロスの少ない哲学です。哲学は遅れています。他の分野では、間違った科学が援用されたら批判の対象になりますが、哲学は衒学のために間違った援用をしても、論旨にシンパシィが抱ければ、赦されることが多いと思います。ニーチェなどはその毒性と、一理あるというだけで、未だに人気を誇っています。真に重要なのは、ニーチェが《役に立つ》かどうかです。間違っていたらお教え願います。

お礼日時:2009/05/23 01:06

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私は、ゴーギャンはただの女たらしかもしれないと勘繰っています。母性への憧憬が強く見受けられることから、カトリックのマリヤ崇拝の残滓とも考えられないでしょうか?
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この絵が、「ゴーギャンと女性との関係」へと視線を向けさせるとき、中央の人物の性別に関する多義図形的な見方が生まれ得ることを含め、多くの要素が多義図形的に組み入れられ、宗教的な背景に対する考えについても、多義図形的に配置されているように感じます。
さて、哲学的な問い、いや、哲学的だと感じさせうる問いとは、答えがあるが一つとは限らない問い、ないし、答えの出せない問いでは無いでしょうか?

皆が共有可能で、統一されうる回答が得られる問いは、当初哲学的だと思われていたとしても、哲学的ではなく、科学的な問いだと思います。

言い換えれば、たとえば「ある対象(絵・記号・出来事)が主体と巡り会うことで、多義図形的な側面・関係が立ち現れる」といった概念、もっと端的に記述するならば「AとBが出会うとき、両者に何らかの関係Xが生じる」は、一見哲学的ですが、対象(A)・主体(B)および関係(X)には、「様々なもの」を入れることが出来てしまいます。「様々なもの」は(一見)交換可能に思えるがゆえ、普遍的な概念としてトップダウン的に押しつけられることがあるかも知れません。

しかしながら、上記過程を経て得られた知識(概念)は、いつのまにか「主体」から切り離されてしまっています。まさに、書き手の元を離れた「概念を概念化した絵」のような存在です。西洋哲学はそのレベル(科学的なレベルに近いところ)を彷徨っている様に思えます。
言い換えれば、多くの人々に受け入れられる(であろう)抽象度の高い概念は、「対象・関係・主体」にて、抽象度の高い(他から切り離し可能に思われる)「関係」のみに着目して、様々な切り口を描出しているような「絵」だと思います。実のところ、主眼(着目点)を「主体」(たとえばゴーギャン自身)や「対象」(たとえば各宗教概念)に移しても同じことです。

ところが、哲学の本質的な所は、実のところ「主体」や「対象(客体)」ないし「関係」といった切り口にて様々に描出可能といった「絵画的・概念的」な所ではなく、それら切り口(断面、ないし絵画的・多義図形的概念)を貫き通す方向を有する「思い・想い」なのだと思っています。


さて、上記を踏まえ、もう一度(ゴーギャンの)三つの問いを見直してみます。
【Q-1】 われわれはどこから来たのか?
【Q-2】 われわれは何者か?
【Q-3】 われわれはどこへ行くのか?
は、それぞれ、その疑問を考える「主体」を中心とした問いであり、その「主体」が属するであろう共同体概念(特定していないため、交換可能な・抽象度の高い概念集団)を想定しています。

で、Q-1,Q-2,Q-3での「われわれ」という抽象化された記号が同一内容を指し示すのか?ということも、問題になります。

同一内容を指し示すと考えるとき、「われわれ」の永続性が意識され、まさに輪廻性が強く意識されるでしょう。「われおもうゆえにわれあり」の「われ」の同一性と同等以上の主体概念の強さに通じるものがあると思います。

一方で、同一内容ではなく、何らかの変化を想定している、もしくは、切り離され得ない全体や、まったく混沌としたところから「生まれいずる」と考えるとき、輪廻性は失われ、主体を取り囲む外部(全体)の状態が強く意識されるでしょう。その「外部」は、たとえば共同体としての宗教概念に相当するかもしれません。

今まで述べてきた、ないし、今回述べているように「ある対象(絵・記号・出来事)が主体と巡り会うことで、多義図形的な側面・関係が立ち現れる」といった概念から、この絵とその主題とに巡り会うであろう様々な主体と、生じうるであろう様々な側面・関係について考え得るものを記述させていただきましたが、複数の可能性を捨てきれないという立場で見ようとする「思い・思い」、すなわち、貫き通す方向を有する「思い・想い」を抱かせ得る絵であり、問いであるゆえ、非常に哲学的な問いだと思っています。

(私自身の回答は既に述べていますので、割愛させていただいています)

この回答への補足

持念さん、ご回答いただきありがとうございます。補足欄とお礼欄を間違えてしまいました。下の欄が補足質問です。お詫び申し上げます。そういわれてみれば、あまりに短絡していましたね。反省しております。これもあなたと私の力量差ということでお赦し願います。語句だけではなく、ご指摘のような構成が哲学的に感じられたからこそ、この質問を立てたわけですから、いささか矛盾しておりました。「われ」ではなく、「われわれ」というところに、大きな意味があると思います。絵のタイトルの問いは、西洋哲学におけるテーゼの範疇に入りますが、はたしてゴーギャンは、こうした科学的手法を用いて問うことを是としたのかは、疑問が残ります。私の解釈ですが、画面中央の人物はゴーギャン本人、他の登場人物がすべて女であることは、彼が女に囲まれて暮らすことを、ユートピア的だと捉えていたからだと思います。実物を前にして、その想いを強く感じました。これに関しては、いまだ考えは変わっていません。もちろん、絵のモチーフを抽象的に交換して、共同体を捉えたとするお考えには大いに賛同します。ここには、ゴーギャンの考えるゲマインシャフトが見てとれます。彼らはいかに交わってこの世界を彩るのでしょうか?

補足日時:2009/05/26 17:48
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この回答へのお礼

通常であれば、数少ないモチーフの自然な構図においても、哲学的な問いは発せられると考えています。ゴーギャンが、多くのモチーフを登場させ、ご指摘の多義図形的な構図を用いたのはなぜでしょうか?よろしければお答え願います。

お礼日時:2009/05/26 17:16

pokoperopo様、こんにちは。


いつもあたたかいお礼と補足をどうもありがとうございます。

いまですね、「投稿する」はずが「内容をクリア」を押してしまい、ニーチェも真っ青の虚無感に襲われております。
取り急ぎ、覚えている範囲で投稿させていただきます。

>フランスはなぜ反米気運が高いのでしょうか?

元々フランスはアメリカ独立戦争の頃から外政干渉、その後を傍観してきた経緯があります。
ですから、アメリカへの思いと言うのは一様ではないとわたくしは思います。
憧憬や羨望を抱く反面、一定の距離感を保つことは言わずもがなで、対等かそれ以上に外交政策から社会的気運までに反発しやすいのではないでしょうか。
隣国にイギリスもありますしね。
ですから日本における「反米気運」とはおよそ根本的に異なるものと考えているのです。

>>古今東西を問わず、人間の本質的な問いは同じではないかと考えます。ズバリ、その問いとは何でしょうか?
>たったひとつ、存在とは何かではありませんか?私は存在します。

これね、ハズレました!(笑)
思いっきり恥ずかしくって、死んでも言えないわ~

>西洋はキリスト信仰が当たり前なので、むしろ信仰の深度の個人差が大きく、信仰が深いと自認する本人が無自覚なまま、別の思想に流される危険性はあります。

ああ、なるほど~
これは大いに賛同いたします。
何故日本人は相対的に「信仰心があつくない」のでしょう。

>そもそも神の自己主張を受け入れて、振り回されることをよしとするのが、キリスト教ですから、自分が従わない相手には決してゆづらないのが西洋人です。東洋人は内面においてゆづることを求められませんから、誰にゆづっても支配されたことにはならないからゆづれるのです。命を永遠にゆづらないから輪廻転生を唱えるのです。

はい、おっしゃることそのままなのでしょう。
キリスト教は「神至上主義」でそもそもが一方向的なベクトルです。
だからでしょうか、「異端」排斥が厳しかったですよね。
これに対し、東洋思想である「仏教」の場合、「異説」「異なる宗派」に対する許容度が比較的大きかったように察せられ、その思考のベクトルも(輪廻転生など)過去現在未来と縦横無尽に走る余地があるように映ります。
キリスト教のそれとは全く異なる深遠さ・複雑さを感じる、と申しますか。

>《効率》のよい哲学とは間違いによるロスの少ない哲学です。哲学は遅れています。
>他の分野では、間違った科学が援用されたら批判の対象になりますが、哲学は衒学のために間違った援用をしても、論旨にシンパシィが抱ければ、赦されることが多いと思います。

この主張は、以前わたくしが考えていたことと似通っています。
素人ながら、いわゆる「科学」「数学」は一定の「解」への方向性の見極めが肝心で、それに至るプロセスをいかにシンプル・エレガントに明快にするかを念頭に解いてきました。
それは「数式」「記号」によって表現する合理性のなせる技でしょうか。
一方、「哲学・思想」は非合理性をはらむ「言語」によって表現するために過程も紆余曲折する傾向がみられ、明快な「解」に至るために精進する以上に、時として、「身内をかばい」、他の思想哲学を排除・排斥するための道具になり下がってしまうことすらあるのかもしれません。
このようなイメージによって、以前はどことなく「無駄」「ロス」と思える部分が大きかったのです。

ですが、東洋思想、仏教の思想をこちらのサイトで拝見するにつけ、たかがサイトながら、「無駄」「ロス」もどこかで繋がっているのかもしれないし、それ自体は「無駄」であっても、全体からすると決して無駄ではないのかな、と思うのです。
それに、そもそも「無駄」「ロス」なんていうものは、極めて個人的な主観の大きい概念で、相対的に異なりますよね。
一時期は「無駄」と思われたことも、長い人生の中で「あれは無駄じゃなかった」と思われることもあったりしますから。 
日本の世界に誇る「もったいない」も、「不要」と思う人にとっては「無駄」になり下がっても、「存在そのものがもったいない」と思う人、「将来必要になるかもしれないから取っておこう」と思う人には「もったいなく」映るかもしれませんしね。

>ニーチェなどはその毒性と、一理あるというだけで、未だに人気を誇っています。
>真に重要なのは、ニーチェが《役に立つ》かどうかです。

あえて「ニーチェの内容に触れずに」≪役立つ≫と想定するならば、≪ニーチェを超える≫あるいは≪アンチ・ニーチェ≫の思想の源泉に成り得る、ということではないでしょうか。

もう夕食作りに取り掛かりますので、乱文お許しを~♪

この回答への補足

b氏は、この「無駄」「ロス」を、《迂回生産》と呼んでいました。マシュマロさんにとって『われわれはどこから来たのか われわれは何物か われわれはどこへ行くのか』は、よき迂回生産となりえたのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/05/26 18:31
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この回答へのお礼

マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。フランスの反米は、日本のそれとは意味合いが違うようですね。フランスには、わが国こそ世界の中心であるとする《中華思想》があるようです。思想的な部分や外交大国としての面子から、譲れないプライドがあるのでしょう。現在は、超大国と呼べるのは、唯一アメリカです。これはフランス人も認めるべきでしょう。異端排斥に関するご指摘は鋭いと思います。一元論ならそれほど猛威を振るわなかったのでしょうが、善悪二元論は西洋社会の暗部といっても過言ではありません。哲学の《効率》ですが、まさにおっしゃるとおりです。われわれは「無駄」を通して学ぶのです。しかし、産業振興にとっては、「無駄」は悪です。《役に立たない》科学はお蔵入りさせるべきです。廃棄せよとまでは言っておりません。《役に立たない》科学はトンデモ理論ですが、哲学だけは科学ではないようです。もちろん、一般人が空想科学を楽しむのは勝手でありますし、その娯楽を奪ってはなりません。間違った哲学はこの程度の扱いに留めるべきです。本来、哲学とは立派な科学であるはずですから。

お礼日時:2009/05/26 18:52

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