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公明党と自由民主党が連立政権を組んだ経緯について真面目にお聞きしたいのですが---。

公明党は以前は純粋な野党として活動し、1994年には非自民を掲げて新進党に合流して一度解党するなどしたのに、又再結成され1999年に自由民主党と連立政権を組んで今に至っていますが、どうしてこういう流れになったのでしょうか?
自由民主党も以前は創価学会と公明党との関係を国会で問うなどしていたのに、どうして今に至る連立政権を?

Wikipediaを見てもどうしてもよく分からず、事情をよく知る方から真面目に経緯を聞いて勉強したく、よろしくお願いいたします!

A 回答 (4件)

詳細はwikiなどもう一度確認してください。



自民党と公明党が連立を組む直接のきっかけは、1993年の細川内閣にあります。この内閣が組閣されることになった衆議院選挙で、自民党は単独過半数を取る事ができず、野党連合に与党の座を奪われました。
翌1994年4月、細川総理自身のスキャンダルで辞任すると、新生党、公明党、社会党など連立与党が羽田孜を首班として羽田政権を誕生させたが、社会党が仲間はずれにされて、連立与党から離脱する。公明党は参加しなかった。
同年6月、予算成立後、自民党と連立から脱退した社会党が内閣不信任案を提出、可決する見込みが大きくなった為、内閣総辞職を行う。
羽田政権解散後、どうしても与党に復帰したかった自民党は、内閣不信任案を協力して成立させた社会党を誘って(新党さきがけも参加)、村山政権を誕生させる。(社会党はそれまで最大野党であり、与党の自民党と正反対の党であったため、両党の内部で相当の反対があったが、自民党は与党に返り咲くことを優先し、首班指名まで社会党に譲歩した)
この自社さ政権は橋本内閣を支え1998年まで連立を続けます。
しかし特に社会党の支持者にとっては自民党と連立すること自体が裏切り行為と感じられた為、その批判が党内でも噴出し自民党との連立に批判的な党員は民主党に合流していきます。
1998年になると、参議院選挙で自民党はまたも大敗します。自社さ政権による意思決定ではつねに不安定であり、保守・革新どちらともつかない政策決定に自民党支持者まであきれていたのに加え、スキャンダルが頻発したからです。
同年に、参議院の大敗を受けて橋本首相が退陣を表明すると、自民党総裁選挙が行われ小渕氏が当選し、小渕内閣が発足します。
小渕氏は自民党と社会党の連立は無理があり、それが参議院の大敗につながったと考え、社会党との連立を解消する方策をさぐります。
しかし参議院与党は民主党が握っていること、衆議院も自民党では単独過半数に届かないことが影響し、自民党が与党でいるためにはどこかと連立する以外になく、結局、元自民党の小沢氏率いる自由党(当時)と連立し、羽田政権発足時に参加しなかった公明党の協力も取り付けて自自公連立政権を発足させます。

これが今に至る自公連立政権の成立過程です。
一度下野した自民党がどうしても権力の座に返り咲く為に、なりふり構わず、社会党を捨て公明党に乗り換えた経緯が読み取れると思います。
ちなみに社会党は自民党との連立とその後の連立解消で求心力を失い、弱小野党になってしまいました。
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この回答へのお礼

早速の解答有難うございます。

多少の経緯は分かりましたが、疑問点が2点あります。
(1)羽田政権に公明党は参加していたはずです。日本社会党と新党さきがけは参加していなかった事は事実ですが----。
(2)公明党がよくこの自由民主党の連立政権提案に乗ったのが不思議なんです。何の理由だったのかな----?

今後これを踏まえた解答を少し待ってみます。

お礼日時:2009/05/06 10:50

No.1さんの回答の「公明党は参加しなかった」と言うのは、「公明党は連立与党からの離脱に参加しなかった」と言う意味だと思います。

 公明党が自民との連携に走ったのは、政権与党としての立場を堅持することで、支持団体の名誉会長の国会喚問を阻止するためでした。 自民党は政権維持のために毒饅頭を食らい、公明党は上記至上命題の為に、節操を棄ててしまったのです。 
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この回答へのお礼

有難うございます。

生き残りの戦略を丸ごと否定するつもりはないですが、理念を棄てて政治は成り立たないのに---。落ちたものです。
公明党批判をしていた自由民主党の代議士は、今どんな思いで公明党から票を分けてもらっているのか---。

お礼日時:2009/05/06 15:23

日本では今でも左右の選択をしたいのか反自民という選択かはわかりません。

まだ連立交渉というのが定式されてません。それじゃ欧州はといえば・・・。左右連立があったり。多くの党が連立したりとあるようです。


反自民が結成され、連立されましたね。それであるものがあわず社会党などが自民党と連立を組んで自社さでした。政策あるかどうかやさまざまなものがあると思います。その後、自自公でしたね。小沢自由党との連立、公明党もでした。多数派になりたいとかでうごいたりします。与党で政治という考えがあったような・・。たしかではないです。
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この回答へのお礼

成程。

お礼日時:2009/05/07 19:56

 細川連立内閣あたりから公明党の方針が変わったという点が1点、自民党の支持率が下がって単独で過半数を取れなくなったのがもう1点でしょう。



公明党の方針が変わった背景
・公明党自体は1980年代には議席数が総議席の1割程度で飽和し得票も伸びず、万年野党の状態になっていました。
・1993年に選挙制度改革をきっかけとして自民の竹下派(旧田中派)が分裂、選挙後に小沢一郎が中心になって細川連立内閣が成立したものの、細川-羽田内閣はもともと寄せ集めで方針が定まらず短期で崩壊しました。ところが、竹下派分裂→選挙の流れで選挙制度改革法案が通ってしまい、小選挙区制になりました。このため、小政党では小選挙区で当選できず党の併合の話や新党構想が出ては消えるという状態になりました。

公明党のその後
・自民と連立したさきがけ、社会党以外の政党で新進党結成、ところが公明党は地方組織「公明」を残し新進党と併合しませんでした。この辺は諸説があって、池田大作の小沢一郎に対する不信感とか、方針の違い、池田大作が公明を手放すのを嫌がったなどがあります。
・結局、次の総選挙で勝てず公明が離脱して、もともと寄せ集めだった新進党は崩壊しました。
・単独では小選挙区を戦えない公明党は自民との連立、選挙協力の道を選びました。自民党との併合は模索していないようです。
・今後の波乱要因としては自民が下野した場合の対応が不明、池田大作死亡または病気などによる引退時の混乱の可能性などです。

結論
 小選挙区導入で単独での生き残りが難しくなったが、池田大作個人政党の意味合いが強く政党合併には消極的なため連立に走った。小沢一郎とは完全に仲たがい。民主党政権奪取時には方針転換があるかも。その場合は大混乱必至

自民側
 小沢一郎の離脱で地方の議員(後援会)ごと持ってゆかれ組織が弱体化、単独での過半数維持が難しくなった。野党になったとたんに離党者が相次ぎ、なりふりかまわぬ連立をするようになった。
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この回答へのお礼

分かりやすい回答です。今後の参考にさせていただきます。
Thank You Very Much.

お礼日時:2009/05/08 06:30

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