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 質問: 《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか? 

 趣旨説明: (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本語で 《わたし》に代表させるとしています。
 (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。
 (3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか?
 (4) 繰り返せば 《わたし》という固有の名称を代理する名称として《何の某》という名前が それぞれ つけられている。

A 回答 (55件中1~10件)

ぽこぺろぽです。

今回のご質問に対しましては、全く異論がございません。

 自らは、その主観においては「自己」を、他者が内包する自己とを、区別する必要がありません。ですから、私は自らを『ぽこぺろぽ』と呼ぶ必要がないのです。ぽこぺろぽが自らを称するときは、『私』が固有名詞となります。

 固有名詞は、複数の他者を区別するために用います。ですから私は、絶対唯一神に固有名詞をつけること自体が、偶像崇拝であると考えます。なぜなら、絶対唯一の存在ならば、他者と区別する必要が生じないからです。神の概念を表す言葉で呼べばいいのです。

 しかし、幼児や若年女子の一部には、自らを固有名詞で呼ぶ者もいます。これは自己を主体的に自己でしかないことを、自らに認識させない甘えであります。

 『自分』という言葉は「‘自’らを(他者と)‘分’かつ」ことではないでしょうか?自らを『私』と呼ぶことは、他者や社会へ、自己を「渡し」つけることではないでしょうか?何だかそんな気がします。

この回答への補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。いくつかの事項についておしえていただきました。論点になるのかどうか分かりませんが 復唱しておきます。ただし 細かいところで わたしにとって 分からない箇所もあります。

 ★ 固有名詞は、複数の他者〔* もしくは 存在〕を区別するために用います。
 ☆ たぶん ここから 出発するものと考えます。
 ★ 自らは、その主観においては「自己」を、 ≫他者が内包する自己とを、≪  区別する必要がありません。
 ☆ まづ 括弧内(≫・・・≪)を読まずに そのとおりだと考えます。《主観》と《自己》とは 指し示すものとして 同一です。そのとき おそらく 括弧内の箇所を読んで捉えても 同じことなのだろうと思われます。他者も 同じように そう捉えていることでしょう。
 その結果 《固有名詞》が それぞれ 同じ言葉になるようなのですが それでも
 ★ ですから、私は自らを『ぽこぺろぽ』と呼ぶ必要がないのです。ぽこぺろぽが自らを称するときは、『私』が固有名詞となります。
 ☆ つまり 他者にしても 同じようなのでしょう。
 その結果 同じ《わたし》という言葉が それぞれにとって 固有名称になるようです。しかもなお
 ★ 『自分』という言葉は「‘自’らを(他者と)‘分’かつ」ことではないでしょうか?
 ☆ という含みをも持って すでに わたしは その自分を 《わたし》と呼びます。
 ★ 自らを『私』と呼ぶことは、他者や社会へ、自己を「渡し」つけることではないでしょうか? 何だかそんな気がします。
 ☆ ということは ひとは それぞれが 同じ《わたし》という言葉で 自己を相手に対して 《渡し》つけあっているということのようです。
 たぶん その結果 ここでこそ 互いの区別をつけるために 
 ○ 代理としての名称 または 代名詞
 ☆ を発案し 使用することになったのでしょう。《何の某》ということなのでしょうか。
 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、幼児や若年女子の一部には、自らを固有名詞で呼ぶ者もいます。これは自己を主体的に自己でしかないことを、自らに認識させない甘えであります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 他者から自己を区別するために 社会的に 仮りにこしらえ合った《何の某》という本来は代理名称であるものを 自称に使うという事態なのでしょうか。《わたしは わたしである》と みづからに 名乗っていないのでしょうか。

 さて 次は 議論を呼びそうな予感がするのですが?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ですから私は、絶対唯一神に固有名詞をつけること自体が、偶像崇拝であると考えます。
 なぜなら、絶対唯一の存在ならば、他者と区別する必要が生じないからです。神の概念を表す言葉で呼べばいいのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) すでに 現代において 《絶対唯一神》という定義を与えた結果において このように語ってはいますが そもそも この《絶対》を ひとは 呼ぶということをするのかどうか。これが まづ 問題になるでしょうね。
 (2) 呼ぶとすれば たぶん 経験的には その《絶対》が《ある》と見なしているのでしょうね。
 (3) なぜなら 《ない(無)》と呼ぶ・つまり 《呼ばない》場合もありうるでしょうから。
 (4) ★ なぜなら、絶対唯一の存在ならば、他者と区別する必要が生じないからです。
 ☆ というとき わづかに 上の《無》と見なす場合との区別が必要なのでしょうね。
 (5) したがって 《無神》という《神》を そこに 大きく含んだかたちで
 ★ 神の概念を表す言葉で呼べばいいのです。
 ☆ となるのでしょうね。
 (6) あとは 
 ○ 《わたしはある》 あるいは 《あらしめるもの》 もしくは 単純に 《存在》
 ☆ これらを 代理名称とすることは あるかも知れないとは思います。愛称・ニックネームのたぐいでしょうか。

 と一気に反応しましたが どうなりましょうか。

補足日時:2009/05/14 15:38
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>趣旨説明: (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本


語で 《わたし》に代表させるとしています。

関西圏では特例になるのでしょうが、二人称(you)を名前で呼び捨て
る代わりに「自分」と表すことがあります。

例:「自分な~、自分は自分はって、自分のことばっかりやろ、うち
(私)のことかて考えてえや」
↑私は誰?状態。
ですが、習性習慣?、由来とかもわかりません。
親密さから自他の区別も超越(?)したものと思います。

回答になってません?
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この回答へのお礼

 miko-desi さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 親密さから自他の区別も超越(?)したものと思います。
 ☆ たぶん こういう理解になるかと思います。そして 批判しようと思えば できます。
 ○ 自他未分離
 ☆ とも言えるからです。ということは
 ○ 《わたしが わたしである》ことが 親しい人たちとのつながりにおいて初めて(――言い過ぎでしょうか?――) 成り立っている。
 ☆ とすれば 問題でしょうね。親離れつまり子離れの問題と似ているかも知れないですね。

 けれども 考えてみれば
 ○ 対称(第二人称)である《あなた》は 《かなた》という他称(第三人称)です
 ☆ ね。遠慮しているのでしょうか。
 ○ 独語では ズィ‐と言えば 三人称の《かのじょは》であり《かれらは》ですが 二人称の《あなたは》にも 上の日本語と同じように 使っている。
 ☆ ようですね。

 ○ なんぢ(汝)は な‐むち(貴)から成り 《な》は 汝つまり二人称である前に やはり な(=我れ)つまり一人称だった。
 ☆ と言います。朝鮮韓国語の《 na =我れ》と同源だと言います。(大野晋)。あるいは
 ○ おのれぇーっ!
 ☆ というふうに 再帰称を用いて 相手のことを言っていますね。つまり こちらのほうですね 次の例は。
 ★ 例:「自分な~、自分は自分はって、自分のことばっかりやろ、うち(私)のことかて考えてえや」


 あれ わたしは 何を述べていたんでしたっけ。
 お応えになってません?

お礼日時:2009/05/14 18:24

武羅儒論縫さん。

こんにちわ。
ぶっきらぼうな根無し草です。

生まれた瞬間、苗字が決定されているのが第一のまちがい、
生後何時間か何日間かの間に名前をつけられるのが第二のまちがい、
幼児から学童になるころに
それを「わたし」「ぼく」と呼び始めるのが第三のまちがい、
だと思っています。

どんどん「わたし」「ぼく」の範囲が狭くなり、
「ない」ものが「ある」ことになり、

世界が狭くなります。
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この回答へのお礼

 neutral さん ご回答をありがとうございます。
 なんで 《根なし草》なんですか? 《宙ぶらりん》は分かるのですが。

 さて
 ★ 世界が狭くなります。
 ☆ とのこと。はてさて どうしたもんでしょう。
 ○ 人間存在に 決まった言葉がつけられて それが固定してしまうことは 世界が狭くなることだ。
 ☆ という意味でしょうか?
 考えてみれば
 ○ 苗字も 名前も 言葉そのものも すべて 与えられたもの。
 ☆ ですね。ま その中で
 ○ 自己の存在を 言葉で表わすとすれば 自分にとって 《わたし》という言葉が 固有の名称であり その代理が 《何の某》である。
 ☆ と考えた結果の質問なのですが これをも突き抜けろ・乗り越えよというご趣旨でしょうか?

 ★ どんどん「わたし」「ぼく」の範囲が狭くなり、 / 「ない」ものが「ある」ことになり、
 ☆ この《「ない」ものが「ある」ことになり》というのが 分からなかったのですが どうなのでしょう?

お礼日時:2009/05/14 18:35

Buonasera signor bragelonne!


Va bene, adesso ho capito.

主語が何たるかによって動詞の活用が変化するから、通常はあえてラテン語(イタリア語)、スペイン語の主語は省くのは周知の事実。
何故同類のフランス語などは滅多に省かないのでしょうね。

この点、日本語において主語が省略されやすい事情とはまた異なるようにも察せられます。
また日本語のテクストの場合、≪わたし≫の記載が多いほどに自己主張が強いテクストのように映るように感じるのは≪わたし≫だけでしょうか?(笑)

☆閑話休題☆

>(3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか?

はい、おっしゃる通りかと。
さらに≪わたし≫の場合、ママ友のあいだでは、「○○さん」という氏名以上に「△△ちゃんのママ」のほうがいまだに優勢でもあります。
いつになったら≪わたし≫を氏名で呼んでくれることやら。
まあ、かつての『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母の例もあることですし←≪わたし≫と格が違い過ぎ

しかしながら、一番≪わたし≫の固有名詞(氏名)でバツが悪いのは、氏名を間違えられる、もしくは同じ氏名の人同士confuseすることではないでしょうか。
たかが氏名の記号くらいで≪わたし≫に何ら変質が生じるわけでもないのに、不思議な感覚です。なぜでしょう。

≪わたし≫は、いったい誰?(笑)
そして、中世ヨーロッパの≪わたし≫と古代古事記ワールドのヨセ意識の≪わたし≫とイリ意識の≪わたし≫とは異なるのでしょうか。

Arrivederci, Ciao♪

この回答への補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 さすがですね。わたしも 負けずに勉強だけはしたのですが すぐには 出て来ません。
 
 ★ はい、おっしゃる通りかと。
 ☆ No.1の pokoperopo さんも 簡単に 諾を投じてくれたのですが 意外と すんなりですね。

 ★ ママ友のあいだでは、「○○さん」という氏名以上に「△△ちゃんのママ」のほうがいまだに優勢でもあります。
 ☆ あぁ たぶん 子どもを中心において捉えているんですかね? あぁ そのほうが 心が広くて なごやかですね。

 ★ しかしながら、一番≪わたし≫の固有名詞(氏名)でバツが悪いのは、氏名を間違えられる、もしくは同じ氏名の人同士confuseすることではないでしょうか。
 ☆ わたしの場合は 名前の漢字をただしく読んでもらったためしがない字なので これも 困ります。

 はてさて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ≪わたし≫は、いったい誰?(笑)
そして、中世ヨーロッパの≪わたし≫と古代古事記ワールドのヨセ意識の≪わたし≫とイリ意識の≪わたし≫とは異なるのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ でっかい視野に立たなきゃいけませんね。ううーん。アベラールとエロイーズは 自由に大胆に 振る舞っているように思えるのですが どうなんでしょう?
 《ヨセ》意識で すぐに思い出すのは かれらは いつも 名前を交換するという外交術を使っていることです。奈良・三輪の《イリ》政権から 権力奪取というよりも 婚姻をつうじて 血筋を正統のものにしたあと じわりじわり おのが子孫の筋へと代替わりさせていくのが 応神ホムダワケです。
 角賀(つぬが⇒敦賀)の気比で イザサワケと 親交をむすび 名を交換したとありますから こちらが 本名だったかも知れません。近江や山城地方の豪族と連携し――推測にたがわず 政略結婚をつうじてです―― そう言えばこの言葉が問題になりましたが 大和を 搦め手から 周りから 囲い攻める頂上制覇大作戦を展開した模様なのです。
 このような場合 《わたし》は スーパー歴史知性ですから 誰とでも 通じあうかのように 自由自在であるかも知れません。柔軟で有徳なマキャヱ゛ッリストのようですね。(ま 暗殺も 多いのですけれど)。

 Hasta luego !

補足日時:2009/05/14 19:17
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オコリザルです。


ご質問の趣旨説明の通りだと思います。
その「私」の意味に内包するのは、自己はある、そして自己は何者でもない、です。
ただこれだけのことを私は無意識を代理として語っていましたね。
しかし、無意識野では、さらに進めて自我の影響を受けずに、それでも我はあるとする暗闘が繰り広げられています。
そこには固有名詞を「私」としないで「みんな」とする見解が出ています。(私がつげだしました)
完璧な連帯と協調の象徴たる自己認識です。

また変なこと書いちゃいましたね。

この回答への補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ご質問の趣旨説明の通りだと思います。
 ☆ これで 三人目の方ですね すんなりと諾と言って 認められた方は。
 ただし 何ですか。その内包するものが 規定されていますね。
 ★ その「私」の意味に内包するのは、自己はある、そして自己は何者でもない、です。
 ☆ 《自己はある》という存在に さらに 《自己は何者でもない》がつけ加わっているというかたちですね。
 ★ しかし、無意識野では、さらに進めて自我の影響を受けずに、それでも我はあるとする暗闘が繰り広げられています。
 ☆ すでに はっきりと 《自己はある》という《わたしなる存在》が確定しているのに 《それでも我はあるとする暗闘》を必要とするということでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そこには固有名詞を「私」としないで「みんな」とする見解が出ています。(私がつげだしました)
 完璧な連帯と協調の象徴たる自己認識です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。どうなんでしょうか。どうなるということでしょうか。
 たしかに ひとりの人間存在に その個体としての社会的な独立性を認めるとき――わたしの見方では―― 同時に 社会的な関係性を捉えて そのまま 関係的な存在性を やはり 認めるのですが そういうことなのでしょうか?
 社会的な 独立性と関係性とのふたつの側面を ひとりの人間つまり《わたし》なる存在に 同時に 認めるというのは たとえば 《孤独》という捉え方で 説明します。
 関係性は 親子のつながり・そして兄弟姉妹としての同世代のつながり これが 基礎であると見ますが 別の見方としては やはり 孤独と孤独との存在関係として 捉えます。
 ひとは 血筋をも――否定するという意味ではなく―― 超えることができます。ぎゃくに それゆえなのか そのつながりが どうしても 破られ壊れるということも ありえます。つまり ひとは 独りの個体として 独立しており 孤独なる存在です。
 そして しかも 互いに この孤独なる存在どうしの関係を有していると見られます。

 このような存在どうしの関係性と
 ★ 「みんな」とする見解 / 完璧な連帯と協調の象徴たる自己認識
 ☆ とは 微妙に ちがいますよね? 後者は 一段と そのつながりの側面について 踏み込んで認定しようとするかたちのようです。
 さて この点について どういう見方が ひろく 為されることでしょう。

補足日時:2009/05/15 03:31
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bragelonne様、こんにちは。


お礼を拝見させていただきました。
ありがとうございます。

>《ヨセ》意識で すぐに思い出すのは かれらは いつも 名前を交換するという外交術を使っていることです。奈良・三輪の《イリ》政権から 権力奪取というよりも 婚姻をつうじて 血筋を正統のものにしたあと じわりじわり おのが子孫の筋へと代替わりさせていくのが 応神ホムダワケです。

応神ホムダワケはチェーザレ・ボルジアより確実かつ冷徹な手法をもって血統を盤石なものにしたということでしょうか。
たかが名前、されど名前なのですね。

ヨセの≪わたし≫とイリの≪わたし≫には大した差異がないということなのですか。
なるほど~。

そこのところはですね。
「je pense, donc je suis.」と高らかに宣言した、かのデカルト先生に対し、
「あ? んじゃねえよ。Je ”est” un autre.でオレはイイんだよ!」
と噛みつきガメの如くつっぱった、どこぞの若者を思い浮かべただけです。
「je=il」、つまり≪わたし≫なんていうものは、他人から客観視される存在にすぎない、上等ぢゃあねえか。と吠えていたりして(笑)
ヨセとイリとの関係性もこんなだったら面白いかなあって。

…それともつっぱってると穿った見方をしているのは、わたくしだけなのかもしれません??

この回答への補足

 こんにちは mashumaro2 さん。ご回答をありがとうございます。

 ★ チェーザレ・ボルジア
 ☆ カエサルというくらいですから そうとうな人物なんでしょうけれど しゃれた評言のひとつも 残念ながら 出て来ません。
 P.ワ゛レリと同じく 探究が中途半端になったA.ランボですが かれについてなら 多少はご相伴してまいることができるかと思います。

 ▲ (ヰキぺ:ランボー) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・ジル・ドゥルーズは「カント哲学を要約しうる4つの詩的表現」(『批評と臨床』収録)において、ランボーの1871年のいわゆる「見者の手紙」の中の
 ○ 「私は他者である」(Je ”est” un autre.)
 ○ 「詩人は長期間の、破壊的で計算された錯乱によって見者(ヴォワイヤン)になる」
 という言葉などをとりあげ、カントの可能性の中心を担う「調和し得ない緒力の束」を体現するものとして、ランボーを挙げている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんでしょうね。言葉で表わせないものを探究するというような生易しい作業であるよりも もとから――生まれつき―― 言葉を介した世界を突き抜けてしまっていたかにも思われます。極北を目指したというような形容では 効かないように思います。
 ただ あとで 普通の人間になったかにも(いや 分かりませんが つまり もう わたしは エチオピアまでは きちんと お伴しませんでしたから) 思われるのですが その点も どうなんでしょう?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「je pense, donc je suis.」と高らかに宣言した、かのデカルト先生に対し、
 「あ? んじゃねえよ。Je ”est” un autre.でオレはイイんだよ!」
 と噛みつきガメの如くつっぱった
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ かれにしてみれば 自分にとって ふつうに 振る舞っていたとさえ言えるのかも知れません。(これも 憶測です)。
 ★ 「je=il」、つまり≪わたし≫なんていうものは、他人から客観視される存在にすぎない、上等ぢゃあねえか。と吠えていたりして(笑)
 ☆ 言いかえれば 《このランボさまには 〈わたし〉などという固有の存在は 要らないのだ》というほどに 応答していたのでしょうかねぇ。・・・

 ちなみ(ち=道 なみ=並らび)に その詩童にイカレていたときの狂言を おなぐさみにでも。

 Je est un autre.
 と嘆くわたしと
 Elle suis le meme.
 と誇るわたしと


 老練な妖艶が
 わたし・《Je》のまわりを翔び交い
 偽りのクピドーの矢を射掛けてくる


 両極が放電してやまないわたしだが
 搦め手・《Elle》は 不実の《Je》を開門して
 このとき互いの自由電子のはねつきは もはや 頭にない
 射手を招き入れ妖艶の核が踊った


 わたしは貫かれたと認めて また旅立たなければ
 ならない
 かなしみを力として
 両極の分裂は 射手の側に見えただけなのだから
 《Je》は三葉虫から屈辱を経てヒトとなる
 《Elle》はヒトから哀しみを経て詩人となる

補足日時:2009/05/15 13:15
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 bragelonneさん。


 仰せのとおりですね。
 私も、誰しも、自分の名前で考えたり、それを表現したりはしておりませんよね。
 名前は他と区分する徴し、位置を示す張り紙です。
 自己というものの代名詞です。これは至言です。意識の探求にはとても役立ちます。
 名前が無くても自己はおりますし、自己は変わりません。

 ご存じかもしれませんが、そして仰せのご質問とは関係ないことですが石垣さんが、この中でちょいと面白いことを書いています。
 表札っていうやつです。
 http://www1.canet.ne.jp/~yojonsa/book.htm
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この回答へのお礼

 ★★ (No.85) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html

 全ての言葉は尽くしきりました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2009/05/15 16:07

国語カテゴリーでしたら「<<わたし>>は固有名詞ではなく、人称代名詞です。

」の一言で終わってしまう質問ですが…哲学カテゴリーでも、流石に無理があると思います。

失礼ながら、「鏡」と「鏡像」の関係を混同しているかのような質問ではないでしょうか?
誰でも鏡を見れば自分の顔が映りますが、だからと言って、世界中にある全ての鏡に映っているのは自分の顔ではありません。鏡は見る人によって映る映像が異なるからです。

「わたし」は自らを指す固有名詞だと主張できるのは、絶対者(他者と会話した経験を最初に持たない者)か、自己と他者の境界線が不明瞭な人格障害者か、語彙が貧弱な人しかありえません。
何故なら、言葉を自らが発明したのでなければ「私」という語は、自分以外の存在が自らを指して使っているのを見ない限り、知りえないからです。
だから、「私は【ある】」と宣言できる方(自称キリスト者であれば何を意味するかご存知ですよね?)か、我と汝(bragelonneさまの表現を借りればスサノヲ-アマテラスでも結構ですが、自分と自分以外の関係)の関係構築が正常でない者か、人称代名詞という語を知らない人(母国語での表現に長じていない者も含みます)しか、そう主張する事はありえないと思います。

bragelonneさまに賛同している方を含め、気分を害されたら申し訳ありませんが、誰かを非難してるわけではありません。あくまでも哲学的に考察を記したつもりですので、どうぞご理解ください。
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この回答へのお礼

 lioneater さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。初めての批判です。
 根拠と言いますか 理由が よく分かりませんでした。
 ★ 何故なら、言葉を自らが発明したのでなければ「私」という語は、自分以外の存在が自らを指して使っているのを見ない限り、知りえないからです。
 ☆ まづ
 ★☆ 「私」という語〔* に限らず 言葉〕は、自分以外の存在が自らを指して使っているのを見ない限り、知りえない
 ☆ ですね。母親なり育ての親なりそして周りの人びとから まづは 聞くことをとおして 言葉を覚えます。あるいはまた
 ★ 言葉を自らが発明したのでなければ
 ☆ という条件は 当てはまるとしましょう。(言葉の起源 あるいは 言語能力の潜在性 あるいは 単純に 造語がありうることなどの問題を 問わずに いまいる人びとが 言葉を発明したのではないという条件を 認められたものとしましょう)。
 さて
 ★ 何故なら 〔この条件のもとでは 《わたし》という言葉を ひとは〕 知りえないからです。
 ☆ という論理ですね。つまりは
 ○ 《わたし》は 言葉として みづからにとって 借り物である。借り物であるものを 《固有の名称》だとすることは出来ない。
 ☆ こういう論理でしょうか。
 【問い】 ぢゃあ 《何の某》という名前も 固有名詞と言うのは 間違いですね?
 ☆ どうでしょう?

 ★ 失礼ながら、「鏡」と「鏡像」の関係を混同しているかのような質問ではないでしょうか?
 ☆ これも よく分かりません。触れ得ずに 澄みません。

お礼日時:2009/05/16 17:02

 bragelonneさん


 回答番号:No.7の貴兄様のコメントは私には理解ができませんでしたよ。
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この回答へのお礼

 ★★ 全ての言葉は尽くしきりました。
 ☆ これを受けて あぁ この方は わたしとのやり取りを蛇蝎のごとく嫌っておられると受け取りました。

お礼日時:2009/05/16 17:07

《わたし》とは「この私」つまり見られる自我のことですね。



では記憶喪失者の場合はどうでしょう?

人格の同一性を保証するのは記憶ではないでしょうか。

(見当違いの場合はスルーなさってください。)
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この回答へのお礼

 bollfish11 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 人格の同一性を保証するのは記憶ではないでしょうか。
 ☆ 言語能力に関する限り そういうことになるかと存じます。
 ただし 存在そのものに関する限り そうではないと考えます。
 ○ ひとは 存在そのものに関する限り 《いま・ここなる〈わたし〉 もしくは その身体=精神》が 代替性のない自己同一性としてのひとです。
 ☆ 身体の欠けや 精神の障害にかかわらず 存在そのものが 社会的な関係性においては 他者であるわたしの我が存在と同じ動態であり 至上の時空間であると考えます。

 ★ 自我
 ☆ は 《わたしを 意識した状態》 さらには 《意志を特定してその行為をおこなうときのわたしを 意識して その状態を 半ば至上のものと見なしている自己意識》でしょうね。
 要するに 考えすぎの状態になるわたしだと考えます。どうでしょう。

お礼日時:2009/05/16 17:17
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