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人の気持ちを忖度し共感することよりも、自分の知識や考えをひけらかす、押し付けることに精を出す人々が多いですが、こういうのは実は子供時代から始まっていると思われます。
幼児から「僕できる!僕わかる!僕知ってる!」
と子供は盛んに手を上げたがりますよね。そしてそれができると周りから「あら、賢いわね~」といってほめられる。
この浅ましい精神を若い魂に植え付けるような風習習慣になっています。
これをやめさせることはできないでしょうか。子供のときから「あら、本当はわかっているのに黙っていてつつましいわね~」
とういう価値観を大事にされたらずいぶん違うと思うんですけどね。
世の中はどうしてもこういう融通を利かさないですよね。

なぜ、一面的に「積極的なわかる子はえらい」というような価値観を大事にするのでしょうか?

A 回答 (6件)

こんにちは、BakaAliceさん。



ご説ごもっともで、ほでも、逆に

「あら、本当はわかっているのに黙っていてつつましいわね~」が

若い魂に植え付けるような風習習慣になってしまったらこれどうなんでしょ?

時と場合によりにけりにでしょうが、

と、いうのもですね、社会に出ると往往にして

「本当はわかっていても黙っていろ」と暗黙裡の了解を強いられることも

白いものを白いといえず、黙秘はたまた白いものを黒といわなあかんはめにならんとも限らん。

行き過ぎ、偏り過ぎは、なんにしても具合悪おます。

●「積極的なわかる子はえらい」

積極的というのは、能動的と読み替えることもできますよね?

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」

から、きているのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
思っていることを得意げに言えるという時代を大事にするという意味合いではなかなかいいかとも思います。しかし、当の子供にしては、実はあまり幸せではないのではないか?といういらない疑いを持ちます。本当は察してもらいたい、黙っていても気付いてもらいたい当心があるのでは。

お礼日時:2009/06/17 14:35

日本人の習慣に、人に物をあげる時、つまらないものですが、という習慣がありましたが、最近は無くなったみたいです。

粗品はありますが、なぜ粗品と言うか、意味が分からない人が多いです。外国では、自分の意見を、相手が納得するまで主張するのが当たり前で、習慣みたいです。世界中で日本人だけ、遠慮、つつましく、などの自我を否定した習慣があるようです。だから外国人と日本人が関係する時は、誤解されてるようです。最近は外国人みたいに、ハッキリ主張する方が分かりやすいという人が多くなりました。しかし脳の自我は、ストレスの源で、不調和世界の代表ですからトラブルメーカーです。日本人の、自然の情緒や間、遠慮などの自我否定の習慣こそ、2012年からはじまる、宇宙完全調和時代の先駆けであり雛形です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「粗品」の感性ですね。これは本当に日本的なのかわかりませんが、たしかに世界の中ではかなりの謙譲度でしょう。ならば、子供からこの特性を伸ばさせるべきではないか?という考えもでてきていいのではないでしょう。

お礼日時:2009/06/17 14:36

子供の時から目立たぬよう、平然と存在しながら発見されにくい忍者

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%80%85の習慣(?)をつけるとか。

現代における忍者魂は伝統を重んじるより流行に敏感であることが慎ましさであるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
忍者はかなり日本的キャラクターなんでしょうか。

お礼日時:2009/06/17 14:37

http://www2u.biglobe.ne.jp/~BIJIN-8/fsyohyo/hilb …
『ヒルベルという子がいた』

みんなヒルベルは、頭が狂っているとみなしたが、一人の先生だけは、彼に優しかった。
その先生もヒルベルがある事件を起こしたとき、とうとう音をあげ、彼を突き放した。
優しかっただけに、ヒルベルの失望は はかりしれなかったと思う。


「ああ ヒルベルーーーー  ヒルベル ヒルベル」と涙涙で読みました。


先生の寛容さも限界だったのはわかるから、先生を責められない。
<処置無し>と、自分の弱さを認めず、ヒルベルが計り知れないどうしようもない子供だからって理由で、追放を正当化した先生の<弱さ>を責められない。

ただ 捨てられたヒルベルに心を寄せて泣くだけ。



私は中学2年くらいまで、選択性無言症みたいなものだった。
全く喋らなかったし、じっと椅子に座って動かなかった。


大人になり、タンスから出てきた通知票を読み、唖然となった。
小学校1年から4年までの担任の先生のコメント。

<もう お手上げです。いろいろやってきましたが、どうにもなりません>


先生が悲鳴を上げていたなど 知らなかった。


「気づけよ」 でしょうけど、ほんと気づかなかった。


ちなみにですね。
私は喋らないし、動かなかったわけですが、恐らく私は多動性障害が入っていると思います。
多動の子供は、ひと時も黙っていられないし、授業中 動き回っている。

私も10分も座っていれば、限界に達していた。
もう地獄だった。
なのに、どうして動かなかったのか?
動いてました。 もぞもぞと。
とにかく授業中席を立ったら、地獄を見るという恐怖心があり、自分と戦っていたので、授業を聞くどころじゃなかった。

恐怖心でなんとか自分を席にしばりつけておけたわけです。


で、自分なりに 私は知能が低いとずっと思っていた。
知能 2度調べたが、同じ数値。
知能には問題が無い。
(知能が10違うと、会話が成立しないと養老孟司氏が言っていたので、それが本当だとすれば、コミュニケーションが成立せず、お互い宇宙語になってしまい、それで黙っていたのかもしれない。)

脳の機能にかたよりがあるんじゃないか とか思って、いろいろ調べたが、両方とも同じ数値で、バランスが非常によく取れているとわかった。

が、自分が学習障害を持っている可能性があるなど、その頃はそういう言葉も知らなかったので、そっち方面の検査は受けなかった。


で、今回、私はあなたに、差別する前に そういう人が現実たくさんいると知っておいて欲しいと思って投降しました。
数値ははっきりとしません。
1000人に1人とも、100人に1人とも言われています。


http://www.tbs.co.jp/kimioshi/

ドラマだから、綺麗に書かれているが、現実はもっとシビア。


でもね、誰だって障害を持っている。
持っていない人は一人もいない。
障害者同士が 気に入らない と言いあっている状態なわけです。


叩かれて厳しく制御されて、おとなしくなるのは凡人です。
アインシュタイン、エジソン、彼らは小学校を退学になっています。
エジソンはまさに、あなたがつつましくないという人そのものでしょう。
集団から追放されて、おとなしくなる程度なら、彼は障害を持っていなかったってことになる。
彼は障害を持っていたとされる。
アインシュタインも同じ障害を持っていた可能性がある。
エジソンとは逆の現れ方だけど同じ障害。

世の中に貢献した人々。
恐らく多くは調べれば重大な障害があったのではないかと。

インターネット関連のある大企業。
あるこの方面の研究者に言わせると、その開発部門で働くその会社のブレインは、全員これと同じ障害を持っている可能性があると言っている。

本来なら、社会不適合者なわけですが、彼らが働きやすい環境を提供したことで、企業はぐんぐん業績を伸ばしていったわけです。


障害者によって進化していく文明。

でもね、人間みな障害者です。


断種政策では、障害者を国の政策で殺していってた。
ナチスと障害者、どっちが狂っていたと思いますか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
大変貴重な体験談です。私もずいぶん情報不足で思考回路をめぐらしていたものです。
たしかに心の傾向が黙っていることにひどく苦労する場合もあるのでしょう。しかし、現在はあまり察すると言うことが流行でないのか、誰しもがそういう状況におちいっているようです。主張しなければならないという脅迫感にとらわれているようです。

このストレスを何とか解消できないもんでしょうか。それには、やはり、社会全体の意識レベルが上がって、察する力が日常的にならなければいけません。

お礼日時:2009/06/17 14:41

黙ってるだけじゃ分かったかどうかどうやって知るんだ?


ノート見るとか?論理的に説明できてはじめて理解した
といえるんじゃねーの?

分かりませんからもっと噛み砕いて教えてくれと手を上げて
自分の考えを素直に言えてまわりがわかんねーのかバカだな
といわないような雰囲気のほうが大事だと思わん?

なにも言わないでじっとしてる子はアンケートに全欄特にナシと
書いて提出するようなもんだろ。
そんなデータいらねーし。アホくせ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
今回の質問は「私わかる!」となんとか誰かにわからせようと言う、強迫観念のようなものが子供時代から取り付いている気がしましたので、それについて考えたかったと言うことです。

お礼日時:2009/06/17 14:43

人生の中で、屈託なく自由で奔放な発言、行動を許されるのは、子供時代だけです。


自分の過去を振り返った時、子供の頃の純粋さ、自由さ、拘らなさは、経験して良かったこととして、心に蘇ってくるのでは、ないでしょうか?そして、宝物のように輝き、大切なものだと思います。

子供の頃から、許されるはずの自由を奪われた子供は、未完成な人間の段階で、我慢を強いられ、物事や人間関係の抑圧の重みに耐えなければなりません。
1人の人間としての人生を考えれば、子供は子供らしく、いて欲しいです。
その後の経験で、人は、変われます。周囲の環境・友達・仕事…その人の選ぶのもが、その人の資質と混じり合って、人格になります。
また、物事や人に共感するばかりが良いとは、限りません。多くの立場・考え方・個性が連立する世の中で、自分を確立しアピールすることも必然となります。
子供時代の特徴の否定より、大人になってのマナー・気配りの問題だと思います。
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この回答へのお礼

自由奔放かもしれませんが、それに対する受け皿はあまり大きくありません。だから、必死になって受けてもらおうというヒステリックな強迫観念があるようです。それは、純粋さ自由さのセットかもしれません。
しかし、周りが察する心を磨いていれば、これほど、自己主張に疲れる子供を生まなくても済むでしょう。

お礼日時:2009/06/17 14:45

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