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A 回答 (3件)

 単に被爆直前に広島(市?)にいた軍隊ということですが、No.2回答者が簡潔にまとめられています。



 ここでは若干の補足と訂正をしておきます。

 広島市における陸軍の中枢は、広島城(鯉城)及び周辺にあり、、第59軍司令部、中国軍管区司令部(元留守第5師団司令部、元広島師管区司令部)、中国軍管区歩兵第1補充隊(元歩兵第11連隊補充隊)、同砲兵補充隊(元野砲兵第5連隊補充隊)、同工兵補充隊(元工兵第5連隊補充隊)、同輜重兵補充隊(元輜重兵第5連隊補充隊)、広島第1・第2陸軍病院、広島陸軍幼年学校(但し在校生は各分校へ疎開)、中国憲兵隊司令部、広島地区司令部、広島連隊区司令部、広島陸軍拘禁所、などがあり、被爆により大損害を受けました。なかでも広島第2陸軍病院は院長木谷軍医大佐以下殆どが爆死または重傷という被害を出しました。また第59軍司令官兼中国軍管区司令官藤井中将が爆死、参謀長松村大佐が重傷。当時鯉城にて第224師団隷下の歩兵第340連隊が編成中で、基幹人員の編成が5日までに終わり、当日第二次編成の入隊者らが集合していたときに被爆し、殆ど全員が死亡。第2大隊長折田大尉は自転車にて出張中に、本部にて第1中隊長小田中尉、連隊付鈴木少尉らが重傷、先任将校川越大尉のみ無傷、という被害を蒙りました。なお、連隊長友沢中佐は千葉の陸軍歩兵学校にて教育中にて不在でした。

 このほか広島には、西日本の二個方面軍を統括する第2総軍司令部は二葉山にあり、直撃は免れましたが、韓国王族の李鍝公中佐参謀が被爆死しました。また、廿日市に中国軍管区通信補充隊(元第5師団通信補充隊)、海田に第21警備中隊、市内に特設警備第251中隊、第205特設警備工兵隊、広島地区司令部隷下に地区特設警備隊二十五個が広島県内に展開していました。被爆時には山県郡にあった第12地区特設警備隊(長:沢田中尉)約二百名が救援に駆けつけました。比治山には船舶通信連隊補充隊がありましたが、山腹の地下壕だったため無傷でした。宇品には船舶司令部以下陸軍船舶部隊がいましたが、ここも直接の被害はなく被爆後海上挺進第30戦隊第1中隊長面高中尉以下の救援隊を派遣しました。高射第3師団隷下の独立高射砲第22大隊(長:加藤少佐)は第1中隊を宇品、第2中隊江波公園、第3中隊二葉山、第4中隊向洋、第5中隊五日市、第6中隊似島に展開させていました。そのほか補給機関として広島陸軍兵器補給廠、陸軍需品廠広島支廠、陸軍被服廠広島支廠、陸軍糧秣廠広島支廠、広島陸軍軍需輸送統制部、さらには広島俘虜収容所などの名前があります。広島市内の陸軍兵員および軍属約六万名のうち約一万五千名が爆死したと推定(復員連絡局調べ)されています。

 なお、海軍は広島県呉市に鎮守府があった為に直接の被害はありませんでした。

 
 
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軍の組織としては第二総軍司令部、第59軍司令部(中国軍管区)、大本営直轄の船舶司令部が大きな所でしょう。

また軍付随の組織としては、陸軍病院、被服支廠、糧秣支廠
戦争末期に根こそぎ動員で編成された師団としては第224師団(赤穂)師団長・中将・河村参郎が終戦時の最終所在地が広島です。(同じく広島で編成された154師団は終戦時には南九州に展開していました。)

また、違う間点から見ると留守第5師団司令部とその隷下に歩兵第一補充隊、野砲兵補充隊、工兵補充隊、通信補充隊、輜重兵補充隊、などがおりました。これは元々居た歩兵連隊や野砲兵連隊などの補充任務でしょう。
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日本軍がいました。

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