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 下に画像の掲載されたリンク先を付します。(ドストエフスキーの言表である)信仰を失わせる点が、もしもこの絵にあるとしたら、それは何か教えてください。彼は、知識階級の理性万能思想を憎んでいたふしがあるので、公に言われる理由よりも、回答を下さる方ご自身のお考えをお聞かせいただけると助かります。
 「イエスを信奉するすべての方に向けて、いちいち絵にしてみたいと思いました」――というのが、作者の気持ちだったのではないかと、僕は予想しています。如何でしょうか。

 ・http://www.kunstkopie.de/a/holbein-dj-hans/der-t …

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A 回答 (19件中11~19件)

ri_rong様、こんばんは。



今日は極めてマイナーと思われる箇所を引用させていただきます。
一般的に、「本質的」とは言い難い部分かもしれません。

まずはイポリートの≪夢≫についての回想部分より。
「…それに、なんだって夢なんてことを持ち出したんだろう?彼は医学者か、それとも実際に並々ならぬ英知の持ち主で、非常に多くのことを洞察することができるのだろうか(しかし、結局のところ、彼が≪白痴≫であるということには、なんらの疑いもない)。
 …ぼくは、ふと眠り込んでしまった──彼がやってくる一時間前だったと思う──気づいてみると、ぼくはある部屋の中にいた(しかし、ぼくの部屋ではなかった)。
 …ところが、ぼくはこの部屋に一つの恐ろしい動物、一種の怪物がいることに気づいた。それは蠍に似ていたが、蠍ではなかった。いや、もっと醜悪で、はるかに恐ろしいものであった。そう思われたのは、たぶんそんな動物が自然界にいないのと、それがことさらぼくのところへ姿をあらわしたのと、またその中になんだか秘密がかくれているらしかったからであろう。
 …と、その虫は早くも壁を伝わって、ぼくの頭と同じくらいの高さにいるではないか。いや、異常な速度でくねくねと波打っている尻尾が、ぼくの髪の毛にさえふれているではないか。ぼくは飛び上がった。
 …部屋の中へ母と、誰かもうひとり母の知合いの男の人がはいってきた。ふたりはそれをつかまえにかかったが、ぼくよりはるかに落ち着いていて、しかも相手を恐れるふうもなかった。しかし、二人はなんにもわかってはいなかったのである。
 …そのとき母はドアをあけて、飼い犬のノルマを大声で呼んだ──それは黒いむく毛の大きなテルニョフであったが、もう5年前に死んでしまった。犬は部屋の中へ駆け込んできたが、まるで釘づけにされたように、その毒虫の前に立ちすくんでしまった。
 …しかし、その瞬間、ノルマのおどろきの中には何か異常な、ほとんど神秘的と言ってもいいものがあり、したがってノルマがぼくと同じく、その動物の中に何か運命的な、また何か恐ろしい神秘が隠されていることを、直観したかのように思われた。
 …いきなりノルマはおもむろにその恐ろしい歯をむき、大きな赤い口をかっと開くと、ねらいをさだめながら身構えていたが、やがて心を決してふいにその毒虫を歯でつかまえた。きっと毒虫がすべりぬけようとして、力いっぱいもがいたのであろう。ノルマはもう一度そいつを宙でとらえると、まるでひとのみにするかのように、二度までも大口をあけて、それをのみこもうとした。甲殻が歯に当たってかちかちと鳴った。口からはみだしているその尻尾や足の先は、恐ろしい速度でぴくぴく動いていた。ノルマが悲しげに叫んだ。毒虫がとうとう犬の舌を刺したのであった。ノルマはその痛みに耐えかねて、叫んだりうなったりしながら口をあけた。見ると、かみつぶされた毒虫はその半ばかみ砕かれた胴体から、踏みつぶされた油虫の汁のような、白い汁をおびただしく犬の下の上に流しながら、その口の中に横たわっていて、まだぴくぴく動いていた
 …そこでぼくは眼をさましてしまった。公爵がやってきたからである。(p153-157)」
 
続きまして、ムイシュキン公爵の夢です。
「彼はベンチの上で眠りに落ちてしまったが、その不安は夢の中でも相変わらずつづいていた。眠りに落ちる直前に、イポリートが人を十人殺すという言葉を想い出して、その想像のばかばかしさに苦笑してしまった。あたりにはこのうえなく快いさわやかな静けさが立ち込めていた。…彼は非常にたくさんの夢を見た。しかもそれはみんな不安なものばかりで、彼は絶え間なくぶるぶると身を震わせていた。やがてひとりの夫人がそばへ寄ってきた。彼はその夫人を知っていた、悩ましいまでによく知っていた。彼はたちどころにその名前を呼んで、その人だと断定することができた。──ところが、不思議なことに、いまの彼女の顔は、いつも見慣れているものとはまるっきりちがうみたいであった。その顔には悔悟と恐怖の色があふれていて、たったいま恐ろしい罪を犯してきたかと思われるほどであった。涙がその蒼ざめた頬に震えていた。その女のひとは彼を片手で招き、そっとあとからついていらっしゃいと知らせるように、指を唇に当ててみせた。彼の心臓は凍てついたようになってしまった。彼はたとえどんなことがあろうとも、この女のひとを罪人などと思いたくなかった。しかし、彼はいますぐ何か恐ろしい、自分の生涯を左右するような事件が、おこりそうな気がしてならなかった。どうやら、その女の人は公園のほど遠からぬところにある何物かを、彼に見せたいようなそぶりであった。彼はあとからついていくつもりで立ち上がった。と、突然、誰やらの明るい生き生きした笑い声が彼のすぐうしろで響きわたった。ふと気づくと、誰かの手が彼の手の上に置かれていた。彼はその手を取って、きつく握り締めたかと思うと、さっと眼がさめた。彼の目の前にはアグラーヤがたたずんで、声高に笑っていたのである。(p231-232)」

このような冗長で平坦な文章の存在があってこそ、風刺の効かせた箇所が一層際立つのだなあ、心を打つのだなあ、とあらためてしみじみと思いました。
といいますかこの作家、述懐し得ない無意識の領域で様々な観念が彼の精神と深く結びついているかのようでもあり、また、それらの葛藤を露わにするのが非常に巧いと感じました。
作家自身の駆け抜けた生の軌跡とでも申しましょうか。

読むたびに、あらたな発見に遭遇するのはよろこび以外の何物でもないですし、今回このような機会を授けて下さったri_rong様にも本当に心からお礼を申し上げます。
ありがとうございます。

明後日夫の実家に帰省するのでこれで最後の回答とさせていただきます。
尻切れトンボであることは言うに及ばず、そして大変名残惜しいです。
逆に教えていただくことばかりでまたしてもすみませんでした。
ついついこちら側が甘えて聞き出したくなるから、あなたはイジワルなくらいで丁度よろしいのでは?
というか、かの地のイケメン情報はいただけないわけ?(笑)


>絵もまたこのような「新しく生まれた鑑賞」によって、たびたび眺められることになる。僕が繭を破りつつあるように見えるとしたら、それは皆さんが僕の糸を解き、しだいに中身を知りつつある――ということなのだろうと思います。

はい、おっしゃるとおりです。
そして肝心の中身を明らかにするのはご自身です。
わたくしは、ri_rong様のdilettanteなところはむしろ魅力だと思いますよ。
どの作品がとは言及しませんが、多分にリトリックな感傷を混じえただけの独断的結果に終わっているものが世の中には散見されるかと思われます。
文筆の方面に限りません。
是非ともri_rong様ならではのご自身の世界を大切に、そして中身を曖昧なままにせず、邁進していっていただきたいと切に願ってやみません。
わたくしは密かに期待しております♪←偉そうな物言い


核心に近い部分ほど、人は迂闊には語れないのだとも思います。
もしくはそれに言及することで逆にリスクを負う可能性もあるわけでして。
この点につき、とかく女はイメージ的にも不利なのです。

amaguappa様、恩に着るとはこのことです。痛み入ります。

この回答への補足

 エラスムス、そしてモアの『ユートピア』を経て、人間とはこうあるべきだ、こんな社会が望ましいんだ、統治はこうなされるべきだ――青いと言えば青いのですが、そんな青い夢を語り合うサークルに参加したことで、ドストエフスキーは28歳のときに逮捕され、そして翌年から四年間シベリアへ労働囚として送られます。
 このとき持参を許された書物は、聖書一冊だけ。彼の信仰、あるいはキリストとの関係は、恐らくこの流刑のなかで生まれたんだろうと思います。そして、その答えがきっと、この画題なんだろうと思いました。完成された物語――果たしてそうなのだろうか。長田弘さんの詩集を読むと、瞬間にしか過ぎない人生のひとこまひとこまのなかに、長大で、終わりの無い物語が見つかります。

 表向きは何となく体裁よくまとまって見えてはいるものの、実は人間の一生なんて、断片の寄り集まりなのではないか。そんな気がしてくるものです。新大陸を発見したコロンブスは幸せだったのだろうか。いや、そうではなく発見する前の晩までが幸せだったのではないか。美しい花火を見た晩は、幸せだったろうか。いやそうではなく、花火を見るまでの間が幸せだったのではないか。
 これが『白痴』を読んだ僕の感想です。どうでしょうか。

補足日時:2009/08/04 15:09
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この回答へのお礼

>明後日夫の実家に帰省するのでこれで最後の回答とさせていただきます。

 了解。夏を、楽しんできてください。僕もいま、『白痴』を再読しています。
 質問は開けておきますし、頂いたこの回答への補足をきっとするだろうと思います。(でも、本を読んでから)ご帰還を待っていますよ。

お礼日時:2009/07/24 08:58

>文章はあのサイト主が書いた、評論だと思うよ。

絵図だけ追ってくれれば、イメージが湧くかなと思ったんです。百年戦争が終わって、ペストが流行した時代なんですよ。

はい、まともに読んでいたら、自分も悪魔たちの誘惑に駆られている感覚に陥りました(手に汗、笑)
フランス語で記してあったのは、下々の民衆の為の教化書だったからでしょうか。

ホルバインは『死の舞踏』などで「滑稽な髑髏」を描いていますでしょう。
現代では市民権を得たcoolなファッション・アイコンと言えますが、これはペストが流行した当時に端を発したモチーフなのでしょうか。
中世ヨーロッパを紐解く上で「滑稽」「風刺」というのはやはり大切なのですね。
そういえばバーゼルのドン・キホーテの像には何と記してあったのでしょう。
『白痴』にも「あわれな騎士」という言葉が登場してきますね。

「だって、どうしてあたしに描けまして、それに誰を? あの画題によると、この『あわれな騎士』というのは、
   誰(た)が前であろうとも 
   鋼鉄(はがね)の面をば脱がざりき
なんでしょう。 それなら、どんな顔だかわからないじゃないの? 何を描いたらいいの、お面? お面をかぶったまま?」(p558)


あとですね、何故髑髏って気味が悪いのでしょうね。ただの「物」なのに。
かつて吹きこまれていた生と魂を想起するから、もしくは非日常性を示唆するからでしょうか。


>月とか太陽とか出てきますが、そういうのは単なる象徴で怪しい意味はないです。

なるほど~。
火を噴くドラゴンやギリシア神話のキャストが変質したような摩訶不思議な象徴にばかり惑わされてはいけないのですね。 了解!(笑)
「発酵」「形成力」という概念はなかなか面白いと思いました。
当時はあらゆる科学が「有機的」な過程を辿ると考えられていたというのも頷けます。


>図版の意味が、伝わるでしょうか。こう書いたのは、ヨハネス・ケプラーですが、人間の魂と精気の関係のように、形成力は蒸気の力で運ばれると思われていたんですね。

ああ、だから降水しているのですね。
「ケプラー」と言えば天体観測を想起するのですが、当時はめいめいがユニークな推論を抱いていたのですね。
「現代では使えない忘れ去られたアイデア」がぎっしり詰まったおもちゃ箱みたいで科学史は大変面白いと思います。
しょせん実験データは単なる裏付け的存在に過ぎないわけですし、無根拠な想像力や独創的な推論があっての発展だったのでしょう。


>精気はスピリトゥスと訳されますが、これが魂と肉体との「絆」である。そしてこの「絆」の働きは、鼻を通じて、香りとなって体中を駆け巡る

かつてフィレンツェ出身の恋人がおりまして(笑)、ちょっとばかしその当時の作品に凝ったことがあったのですが、思想の源泉たるフィチーノを語らずしてルネサンスの何を語り得よう?ですよね。 
本当に色々とご教授いただいて感謝しております。
「絆」が「香り」ですか。これも面白いですね。
以前『パフューム』という小説と映画を堪能したことがあります。
まだ映画のサイトが残っていたので参考までに。
http://perfume.gyao.jp/
人間の最高の「香り」のエッセンスを希求するうちに殺人も厭わないという狂気の物語なのですが、そもそもヨーロッパには「魂と肉体の絆の働きとしての香り」という概念があったのですね。
なるほど、こちらも大変参考になります。 


>引用いただいたシーンでは、ロゴージンの不信心なところが露呈します。どうでしょうか。

「その晩、私はある田舎のホテルに泊まったところ、そこでは前の晩、人殺しがあったばかりなのさ。私が着いたときには、みんながその話ばかりしていたっけ。事件というのはこうなんだ。二人の百姓が、どちらも年配の男で、酒の気はすこしもなく、たがいにもうずっと前からの知り合いの男がいっしょにお茶を飲んで、同じ部屋で床にはいろうとしたんだ。ところが、ひとりの男が黄色い南京玉のひものついている銀時計を持っていることに、もうひとりのほうがその二日前に気付いたんだ。それまでは相手がそんなものを持っているとは知らなかったらしい。その男は断じて泥棒じゃない。いや、それどころか、かえって正直なくらいだったし、百姓の暮らしとしてもそれほど貧しいほうではなかった。ところが、その時計がすっかり気に入ってしまって、ふらふらっと、つい我慢しきれなくなってしまったんだね。そっとナイフを取り出して、相手の男が向うをむいたすきに、用心深くうしろから近づいて、ねらいをつけたうえ、天を見上げて十字を切ると、心の中でせつない祈りをささげたんだ。『主よ、キリストに免じてゆるしたまえ!』と言ったかと思うと、ただ一刀のもとに自分の友達を、まるで羊でも斬り殺すように斬り殺して、相手の時計を奪ったそうだからね!」
ロゴージンは腹をかかえて笑いくずれた。まるで何か発作にでも襲われたように、大声をたてて笑った。さきほどまであんなに沈みがちでいた者が、急にこんなに笑いだすのを見るのは、なんだか気味が悪いくらいであった。
「いや、おれはそういうやり方が好きだね!いや、ほんとにこれは何よりもすばらしいじゃないか!」彼は息が詰まるのではないかと思われるほど、大声でひきつるようにどなった。「神を信じないってやつがいるかと思えば、人を殺すときにもお祈りをあげるほど信心深いやつもいるんだな…いや、まったく、公爵、こんな話はとても頭じゃ考え出せねえ話だよ! は、は、は! いや、こんなすばらしい話はねえよ!…(p497-498)」

この箇所を読んだとき、何故ロゴージンは「そういうやり方が好き」なのかって考えてしまいました。
ロゴージンは不信心者だから、くだんの犯人が殺人を犯す際に祈った「信心深さ」ほど、滑稽かつ欺瞞でナンセンスなものはないと大声をたてて笑ったのでしょうが、あながち当の本人は真剣に神に祈っていたのかもしれません。
それにロゴージン自体も「不信心」とはいえ彼なりに神と対話してきた過去がない、とも言い切れないような。
いかがでしょうか。

真面目な話、「信仰とはなんぞや」と哲学カテを拝見するたびに自問してしまうのです。
繭を破って見出すものがたくさんあって、嬉しいやら気ぜわしいやら。
で、ri_rong様は少しは繭を破りつつありますか?
わがやの冷凍庫にはチビが飼っていた蚕の繭が眠っているのです。
夏休み明けに学校で釜茹でして糸紡ぎをするそうな。
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この回答へのお礼

>中世ヨーロッパを紐解く上で「滑稽」「風刺」というのはやはり大切なのですね

 ふむ。むしろ、滑稽とか風刺という属性で中世を評価してきた、これまでの影響が大きいってことじゃないのかな。風刺という属性が先立つと、髑髏にもその意味性が与えられますが、今回の質問はその属性を少し問題にしてみたんですね。ですから、死の舞踏とも、ちょっと違うと思います。
 率直に言えば、何なんでしょうね、って事です。
 
 プロパティに拘るのは、それなりに重要だと思うし、話は合わせ易いだろうと思うんですが、今回はちょっといつもじゃない立ち位置を取ってます。調子がずれちゃいますか? そういう意味では、ドン・キホーテらしくない質問者になろうとしています。むかしですが、化学史の世界で少し文章を書いていまして、煙に巻くような記述をして申し訳なかったと思います。もう、書くことはないと思います。

 さて、引用していただいたところはとても面白い箇所ですね。
 ――こんな話はとても頭じゃ考え出せねえ話だよ。と言わしめた、ムイシュキン公爵は、まったくの役者だなと思われたと思いますが、すべての作品を貫くこのイロニカルな語りが、ドストエフスキーの特徴だと思います。――ロゴージンは不信心者だから、くだんの犯人が殺人を犯す際に祈った「信心深さ」ほど、滑稽かつ欺瞞でナンセンスなものはないと大声をたてて笑ったのでしょうが、あながち当の本人は真剣に神に祈っていたのかもしれません。それにロゴージン自体も「不信心」とはいえ彼なりに神と対話してきた過去がない、とも言い切れないような――そういう気持ちは、いま初めて「生まれた」のであって、前もって用意されていた記号が引き出されたわけではないと思うんですね。

 恐らく、この部分こそが重要なところでしょう。
 絵もまたこのような「新しく生まれた鑑賞」によって、たびたび眺められることになる。僕が繭を破りつつあるように見えるとしたら、それは皆さんが僕の糸を解き、しだいに中身を知りつつある――ということなのだろうと思います。

お礼日時:2009/07/22 15:00

>13世紀までは局所的で、カタリ派とか、戒律の厳しい宗派の特徴でした。

こういうの、お好きですか?
>和訳された本で言えばエミール・マールとか。ちょっと調べてみたら、画像が見つかりました。

「The struggle is over. 」まで異様に長いプロセスを経るのには驚きました。
何か、一昔前の欧米のビジネス契約書を読んでいるかのような詳細な説明つきで。
当時は何故最期の苦しい瞬間にもとりどりの悪魔に誘惑されねばならなかったのでしょうか。う~ん。

アビニョン、カルカッソンヌの辺りにはノスタルジーを大いに感じます。
ですが、神秘主義や錬金術の類も好き嫌い以前に語学的に理解不能だったため、ほぼ無関心で過ごしてきました。
第2子出産時に昏睡状態に陥ったときも臨死体験など一切なかったですしね(笑)

でもね、先の拙問「知の欺瞞」、さらにri_rong様が今までご教授して下さった書やサイトを拝見するうちに、何か曖昧なものが見えてくるような気がしてくるのです。不思議。
「初期近代を境にして、ふたつの身体がひとつに変わる例」における太陽と男性、月と女性が両性具有化する「発酵」「異質」への転生に≪錬金術的概念≫が深く関わっていて、むしろキリスト教義の立証確立を企てるために存在していたフシもあるのではないかと興味が徐々に募ってきております。
その発展していった過程の裏にある中世当時の人々の願いや思想に触れずして、当時の作品をどれほど理解し得ようということですよね?
ちなみにamaguappa様の触れられた九相詩絵巻のように自然に朽ち果てる宗教観、世界観を受容してきた日本だからこそ、逆に科学を「科学」とアメリカに追随するかのように容易く割り切れるのだとも思えてきました。おかしい発想でしょうか。

>図像から見る当時の習俗とは別に、この絵がホルバインによって描かれた――というところから、先に書いた錬金術との説明も、しばしば目にすることができます。

このあたりは、キリスト教の「罪」をいまだ理解するに至っておりませんのでやはり難しいところです。
「洗礼」を受けて初めて人間は「罪」と関わることになるのでしょうか。
因果の「業」とはおよそ異なるものですよね。う~ん。
また、様々な面で進取の気性に富んだ画家により描かれた絵画だから、くだんの錬金術とも結びついているということでしょうか。
『新しい貴重な真珠』を拝見するに、訳ありで死に至らしめた上にわざわざ幼児を加えて埋葬し、朽ちた白骨に神?為政者?の再生復活がもたらされるという風に思えたのですが、ホルバインの絵画にもそのような死せる者への復活の願いをも込めたともみなせるでしょうか。

>ムイシュキン公爵は、白痴ですか? という問いに対して、それをどう受け止めるか(最初に命名の経緯が書かれますよね)というのが、この物語の主題だと思うんですが、だったらなぜ最初に、わざわざ書くんだよ――というふうには、思いませんか?

あ、そうですね。たしかに。
『白痴礼讃』でも良いはずですし、「礼讃」して「啓蒙」するほど自身は知識階級ではないという葛藤と戸惑いがあったのかも?

「おれはあの絵を見てるのが好きでね」ちょっと口をつぐんでから、またしても自分の質問を忘れたかのように、ロゴージンはつぶやいた。
「あの絵をだって!」公爵は思いがけなく心に浮かんだある考えに圧倒されて、ふいに叫んだ。「あの絵をだって!いや、人によってはあの絵のために信仰を失うかもしれないのに!」
「そうでなくても、失われかけているよ」思いがけなくロゴージンがいきなり相槌をうった。二人はもう出口のドアのすぐそばまで来ていた。
「え、なんだって?」公爵はいきなり足をとめた。「ねえ、きみはどうしたんだ!私はちょっと冗談を言ったのに、きみはそんなにまじめになってさ! でも、私が神を信じるかなんて、どういうつもりできいたんだい?」
「いや、たいしたことじゃない。ただちょっとね。ずっと前からきいてみたいと思っていたんだよ。だって、近ごろは信じてないやつが大勢いるじゃないか。ところで、この話はほんとうかね(あんたは外国暮しをしてたんだからね)─ ある男が酔った勢いでおれに言ったんだが、おれたちのロシアには、ほかのどこの国よりも、神を信じねえ人間が多いんだってな?『この点ではおれたちのほうがよその国よりも楽なんだよ。だっておれたちのほうが他の連中より先へ進んでいるんだから』ってやっこさんは言ってたがね・・・(p495-496)」

「私の返答はこうだよ ─ 宗教的感情の本質というものは、どんな論証にもどんな過失や犯罪にも、どんな無神論にもあてはまるものじゃないんだ。そんなものには、何か見当違いなところがあるのさ。いや、永久に見当ちがいだろうよ。そこには無神論などが上っ面をすべって永久に本質をつかむことのできない、永久に人々が見当ちがいな解釈をするような、何物かがあるんだ。しかし、肝心なことは、この何物かがロシア人の心に、誰よりもはっきりとすぐ眼につくということなんだ。これが私の結論だよ!(ロゴージン)p500-501」

ドストエフスキーはね、20代でほぼ網羅しました。
なんたって、インパクトがダイナマイト級ですから(ついでにジョージ・オーウェルも結構面白かった)。
上述のロゴージンの想起するところのものとは、最期の普遍的な理想主義、マルクス思想なのでしょうか。
トルストイもそうですが、ロシア文学と社会システムとは切っても切り離せない宿命めいたものを感じるのです。

何だかどんどん「ロマン主義」「顔」から遠ざかって…よろしいの?
あまがっぱさあああん!←意味不な雄叫び(笑)

この回答への補足

 ご回答ありがとうございます。さて、

>「The struggle is over. 」まで異様に長いプロセスを経るのには

 文章はあのサイト主が書いた、評論だと思うよ。絵図だけ追ってくれれば、イメージが湧くかなと思ったんです。百年戦争が終わって、ペストが流行した時代なんですよ。

>「初期近代を境にして、ふたつの身体がひとつに変わる例」

 月とか太陽とか出てきますが、そういうのは単なる象徴で怪しい意味はないです。ちょっと書き方を変えます。

 クザーヌスという人が土に柳の木を植えて、水だけやって育つか? という実験を15世紀半ばにするんですね。ある程度木が育ったところで、土の重さを量り、木の重さを量ると、土の重さは変わらないのに、木だけが重くなっているのに気付いた。

 だからクザーヌスは、水だけから柳が育ったという結論を導くわけです。
 もちろん結論は間違っていますが、この実験は当時、物質の生命を探すという試みのなかで大きな影響力を持った。後続する人たちが、追試をするわけです。そして16世紀末期には、クザーヌスの間違いを説明する理論ができていました。
 その内容は――土のなかには「形成力」があって、それが蒸気に乗って大気へと上り、雨となって降ってくるというものです(図版の意味が、伝わるでしょうか)。こう書いたのは、ヨハネス・ケプラーですが、人間の魂と精気の関係のように、形成力は蒸気の力で運ばれると思われていたんですね。
 ところで、精気はスピリトゥスと訳されますが、これが魂と肉体との「絆」である。そしてこの「絆」の働きは、鼻を通じて、香りとなって体中を駆け巡る――というふうに、フィチーノは『生について』のなかで説きます。蜘蛛でも書きましたが、フィチーノに言わせれば、絆は匂いなんですよ。

 ともかく、このフィチーノのお説に従って、ケプラーは「形成力」というものを想定する。その力の源は、ある種の塩と、硝石だと言うんですね。ケプラーはその塩を探すために、雪を調べます。そして、『六角形の雪片について』を著した。ファン・ヘルモントは、燃焼を通じて硝石が大気中に存在するのを突き止めます。硝石はのちに窒素と呼ばれ、ファン・ヘルモントが見つけた燃えるための「火の素」は酸素と命名されることになる。

 まあ、こういう化学史の背景があるわけですが、さあ真珠のはなしは終わりです。ドストエフスキーに参りましょう。

>ホルバインの絵画にもそのような死せる者への復活の願いをも込めたともみなせるでしょうか。

 絵の解釈としては、免罪符だよというのがふつうの理解だと思います。それは原罪の赦しであって、復活の話じゃない。復活は、ドストエフスキーが作品人物に語らせたのです。
 ホルバインも復活を考えた――という仮説はあるかもしれないですが、この際ですから直接的な証拠がない(ものとしておきましょう)。
 
>『白痴礼讃』でも良いはずですし、「礼讃」して「啓蒙」するほど自身は知識階級ではないという葛藤と戸惑いがあったのかも?

 むしろここは素直に、著者がムイシュキン公爵に「白痴」を装わせていると見るのが、自然じゃないでしょうか。だから公爵は、(無知ゆえに)訊く役を演じる。引用いただいたシーンでは、ロゴージンの不信心なところが露呈します。どうでしょうか。

補足日時:2009/07/21 20:39
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この回答へのお礼

>何だかどんどん「ロマン主義」「顔」から遠ざかって…よろしいの?


 とくに構いませんよ。別な質問だし、ご感想だけでもよろしいです。
 まあ、楽しみつつ、気長に構えてくださいな。

お礼日時:2009/07/21 20:44

まず、回答が遅くなりましたことをあらためてお詫び致します。



>しばしば度が過ぎるほどに大げさなものであり、その度合いはまた、それに応じた効果をも意味した

墓所にその類の装飾を施した理由として、むろん「死」に対する諸々の感情、畏敬の念も当然あったのでしょうが、それとは別の理由、自らを辱め貶めることにより一層神に愛されたいと願う奇妙なパラドックスも存在したのではないでしょうか。
「特定の異性に対し汚れた身に貶められて愛撫を願う女の願望のようなもの」をチラッと想起したものの、やはりキリスト教は極めて真摯な宗教哲学でしょうから、「原罪」「罪悪感」「宗教革命」などもふまえた上で「死後の神との関係」に何らかの希望願望を込めて制作されたようにも思われます。
実のところはどうなのでしょう。


>このエラスムス的な寓意を『白痴』に織り込んでいると思うのですが

いま『白痴』(新潮文庫版)を再読中です。
実は、ムイシュキン公爵がこの絵画と対峙するシーンと最後のハイライト(ナスターシャが逃避する場面以降)を真っ先に読みました。 その上で、
「二人を同時に愛するなんてことができるのだろうか?(エヴゲーニイ)p607」
「あなたの身になんてことをしようとしているんでしょう!(ナスターシャ)p624」
「またなぜ自分たち二人は結局のところ意気投合するわけにはいかないのか?(ムイシュキン公爵)p647」といった会話が印象的でした。
あたかも、「本音を公言することを憚られた二律背反のエラスムスの寓話」に繋がっているように感じられます。
二人の異性の間で揺れる男女の心の葛藤の描写に加え、「絵画」と「死せるナスターシャ」を前に呆然とする二人、殺人を犯したロゴージンの「横暴な考え」「狂気」、ムイシュキン公爵の「穏やかな受容」「純粋」はそれぞれ何を寓喩しているのか、引き続き考えていくつもりです。

またナスターシャは「自ら愚かな行為に走る」「愛を偽る」ことによって、逆説的に、公爵への真の愛を浮き彫りにしています。
きまぐれなナスターシャの言動はモリアの滑稽さに繋がり、両人の間で揺れる様子は「カトリック教徒からは異端者、ルター派の新教徒からは裏切り者というレッテルを貼られますが、どちらにも組みしない姿勢というのは、なんだかどこかで見たような構図に映るじゃないですか?」そのもののように映ります。

さらに「信仰」の問題、この絵画と対峙して抱いたムイシュキン公爵が奇妙な不安についてです。
「こんな死体を眼の前にしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか?(p196)」
「このいっさいのものが屈服している、暗愚で傲慢で無意味に永久につづく力の観念をこの絵は表現しているもののようである。(p197)」等など一連の自問自答はドストエフスキーの率直な感想そのものだと実感しました。

当初は中世的性質を帯びてある特定の目的を意図して制作された絵画だったのですが、ホルバインが究めた徹底したリアリズムは時代を超え、キリスト教思想が一元的ではなくなる、或いは多元化した思想が混在する時代と時代に流される個々人に応じて、観る者の信仰心に容赦なく鉄杭を振り下ろすと言えるのではないでしょうか。
そして「真の信仰」とは、その絶望的な諦観ニヒリズムを超越した果てにこそ見出せるもののように思われます。
ですから作品を通じ「白痴、愚かに生きること」を高らかに謳うことでドストエフスキー自らもキリスト教に真摯に身を委ねようと決意表示していたようにも感じられるのです。
では彼は一体何を「憎んでいた」というのでしょう。

今日も続きを読みつつ気付いた点を更に回答させていただくつもりですが、いかんせん村上、宮崎両作品共に馴染みが全く無いため(つまり苦手、笑)ロマンのかけらもないしょぼい内容につきましても、今まで以上にご容赦願います。
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この回答へのお礼

>墓所にその類の装飾を施した理由として、むろん「死」に対する諸々の感情、畏敬の念も当然あったのでしょうが、それとは別の理由、自らを辱め貶めることにより一層神に愛されたいと願う奇妙なパラドックスも存在したのではないでしょうか。

 お書きのような願望を「同感受難」と呼んだりしますが、ちょうど16世紀頃に流行った風潮です。このようなトランジ(貴人の墓所)に描かれるよりも前は、教会のタンパン彫刻に出てくるんですね。13世紀までは局所的で、カタリ派とか、戒律の厳しい宗派の特徴でした。こういうの、お好きですか?
 和訳された本で言えばエミール・マールとか。ちょっと調べてみたら、画像が見つかりました。

 ・http://danielmitsui.tripod.com/aaaaa/arsmoriendi …

 免罪符というはご存知でしょうか。それを手に入れると、罪が放免になるという魔法の護符です。この絵は、免罪符のひとつの形態だと解説されることが多いと思いますが、当時は荒んでいたんですね。図像から見る当時の習俗とは別に、この絵がホルバインによって描かれた――というところから、先に書いた錬金術との説明も、しばしば目にすることができます。

 今でもトランジは、棺桶の中身を見せるつくりが多い。特に高貴な人のものでないと、さすがに最近は憚られるようですが、バチカンとかへ行けば教皇の棺の中身を見ることができるでしょう。さて、

>いま『白痴』(新潮文庫版)を再読中です。

 初めてお読みになるのだとしたら、迂闊なことを僕は言ったもんだと思うんですが、再読だと聞いて少し胸を撫で下ろします。ムイシュキン公爵は、白痴ですか? という問いに対して、それをどう受け止めるか(最初に命名の経緯が書かれますよね)というのが、この物語の主題だと思うんですが、だったらなぜ最初に、わざわざ書くんだよ――というふうには、思いませんか?

 でも、楽しい読書の時間です。大丈夫です、ちゃんと質問は開けておきます。

お礼日時:2009/07/21 11:42

お礼を拝見致しました。

ありがとうございます。

>棺桶については、No.4に良質の回答をいただきました。

はい、思わず息を飲んでしまいました。
素晴らしいご考察だと感服致しております。
「自然人としての自分の死とは別に、もうひとつの死を描かせた。実に中世的な習慣――王として、貴族としてのシンボルの死」も含めて「死、死生観」そのものに対する自らの観念、概念が極めて乏しかったのだなあ、とつくづく思い知らされました。
昨年夫が肝臓を壊して入院した際、副腎にも小さな腫瘍が見つかってあれほど気が狂わんばかりだったのに、現在形状に何ら異常なく半年の経過観察のみのせいでしょうか、また「死」が日常からストンと欠落しまっているわけでして。

いいえ、自らの「死」というものの捉え方って、根本的にもっと何かが違っているような。

わたくしにとってのgooの質疑応答の醍醐味って、自分では気付きようもないことに気付かされ驚愕することなのです。
ですから今回は質疑に参加させていただいて本当に掘り出し物?といいますか、お二人には感謝の気持ちで一杯なのです!!

以前セックスレスに陥って恥を忍んでこちらで相談させていただいた時も、レス解消にこぎつけただけでなく、「夫婦とは」「性愛、エロスとは」とじっくり思索するまたとない機会をいただくことができました。
そして実際、「自らにとって真の性の歓び」を実感してからは、芸術鑑賞を例にとっても確実に何かが違うと強く実感するのです。

喧噪のパリ市中でなく、ひなびたMidiの教会、修道院の類を散々訪れて独り感傷に浸っていた「つもり」であっても、「肝心なものが全く見えてなかった」ってことなのでしょう。
いえ、何も中世のヨーロッパに思いを馳せるまでもなく、現代日本、しかも自分自身の「死に対する思い」が極めて希薄だったのだなあ、と。
以前指摘をいただいたことがあるのですよ。
ミレイのオフィーリアに対する洞察が脆弱すぎるって。
今、その理由が漸くわかった気がするのです。

芸術鑑賞の為にではなく、今年の夏は、ちょっと静かに自らと向き合ってみようかなと思うに至りました。
お墓参りも含めて、日頃語れない人とのご縁と会話を大切にするつもりです。
そしてくだんの『白痴』についても再度じっくりと読みなおしてみることに致します。
ドストエフスキーには強く心を揺さぶられます。凄い作家。
ですからご質問の件は、≪夏休みの課題≫とさせていただいてもよろしいでしょうか。
また夏明けにでも、是非ともri_rong様のどこぞのご質問に押しかけますから、よろしくお願い致します。

それと小さな可愛らしいお子様、どうかゆっくりと大切にお育てになって下さいませ。
過ぎ去ってしまうとね、あれほど甘く愛しいと思える時間はないと思われますので…。

最後に、
>痴愚というものについて、確か十節くらいに(ずいぶんむかしに読んだので記憶が定かではありません)エラスムスがどう考えていたか、モリアの口から語るシーンがあったと思います。

10節の後半部、これのことでしょうか。
「神の神たるゆえんは人間の苦悩を和らぐるにあり、とうまいことを書いた人がおりますが、もしそれがでたらめでないのならば、さらにまた、酒や麦やその他の利便を人間たちに教えた人々が、神々の集まりに加えられたのが当然だとするならば、あらゆるものをあらゆる人々に惜しみなく与えるこのわたくしを、いっさいの神々の第一位として、どうして認めていただけないわけがありましょう?」
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この回答へのお礼

 バーゼルという町は美術館や博物館が多いところで、建築館へ行った帰りにバーゼル博物館でドストエフスキーの展示コーナーを覗いたことがあります。くだんの絵にも小さなコーナーが与えられており、作家の自筆書簡や遺品などが展示されていました。そのなかに、小さなドン・キホーテのブロンズ像が置かれており、パネルで少し説明が付されていました。

 ご回答をありがとうございます。

 さて、キホーテは、中世の象徴です。
 中世では死においても、それはひとつの徴(しるし)でした。その徴を自分に類似させ、それが事実であることを証明しようとしたんですね。それゆえ徴は、しばしば度が過ぎるほどに大げさなものであり、その度合いはまた、それに応じた効果をも意味したわけです。単純に言えば、表象と、表象されるものとが結び付いていた時代です。
 リンク先に挙げた図案は、恐らくamaguappaさんがおっしゃるところの、「異質で近似する複数の限界のあいだで、要素が同化して同質になるシステム」によって描かれている。すなわち、ルネサンス時代の特徴である事実や伝聞、井戸端の風評やら神話など、次元の異なる様々な要素が、類似の法則によって結びつき、記述されるという摩訶不思議な時代なわけですね。

 けれどこの関係性は、時代とともに変わってゆきます。『哲学者の薔薇園』は古典主義時代の到来とともに多くの書籍に姿を現し、新古典主義の到来とともに姿を消します。表象は、表象されるものとの関係性を断ってしまうんですね。代わりに、ものから独立して自由度を増した記号は、あらゆるものを同じテーブルに載せられるようになった。
 そのテーブルのことを、美術では「タブロー」と呼ぶように思います。

 ホルバインの絵画は、それ自体は中世的な徴を持ちながら、古典主義時代の到来とともに再評価されるという皮肉な経歴を持っています。ドストエフスキーは、この絵をタブローとして扱っている――という見方が多いと思いますが、どうでしょうか、あの博物館にあったドン・キホーテの像を見ると、そうとも言えない気がしたんです。

 エラスムスの引用は、まさに的を射てますね。ひぐらしの鳴く頃合が良いと思い、あるいは晩夏にてナスターシャとモリア、そのご感想をお待ちします。

お礼日時:2009/07/16 13:46

ご参考になるかわかりません。


ご存じと思いますが、貴族階級の嗜好に、生前に自分の屍体の壊死・腐敗の様子を描かせるというものがありました。
カトリックで今はこういう絵のついた棺桶は用いませんか?
これは自分の石棺の側面に添えるためのもので、テンペラで描かれるのだと思いますが、
中にはきわめて凝り性の依頼主がいて、続き絵で蛆虫に喰い尽されるまで克明に描いたものがあると読んだことがあります。
たしかスペインかイタリアのそれを書いた記述者にも、
この古い蛆虫画の意味は探れなくて、二重の意味で解釈し述懐していたと記憶しています。
東洋について触れられていたかどうかわかりません。
たぶんそれを読んだときにわたしが九相を想起したという記憶でしょう。
鎌倉のは写生ですけどね。

虚無感なのか、それとも、肉体は滅び魂は不滅であるという信仰を徹底したものなのか、
この二つは平行に見えても一点に交わるような気がします。
そして中世的な発想、異端か異端でないか以前の想念であるように思います。
あるいは、蛆虫の作業を聖なる作業とする何かの思想なのか、
とにかくこうしたものには死と死後の生についての本源的な真剣な眼差しがあるのでしょうね。
石棺に飾るというのは祈りと不思議の力を込めたのかなと思いますが、掘り下げてみたことがないのでわかりません。

ホルバインは死後1~2日くらいの屍を描いたように思いますが、キリストだから石棺の中身はどうなのよというところは悩ましいですね。
薔薇色ほっぺで微笑んで輝いていなければいけないとしたら、
少なくとも上記の古びた自然な信仰の眼差しと魔術的意味はなくなりますね。

ドストエフスキーは、復活を信じられないと言わせることによって、
病床の青年らしい、リアルな死、肉体の終焉に圧倒される気持ちと、無邪気な信仰---薔薇色ほっぺの偶像の瓦解を表したのではないですか。
聖なる蛆虫思想と魂の不滅を、ドストエフスキー自身がどう思っていたかはまた別のところに探り得るのでしょうが、
お詳しければ何かお聞かせください。
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この回答へのお礼

>これは自分の石棺の側面に添えるためのもの

 そうですね。ご回答をありがとうございます。ホルバインのこの絵は、棺桶の側面に描かれたものだから横に長いんですね。王家や貴族など、位の高い人々は、自然人としての自分の死とは別に、もうひとつの死を描かせた。実に中世的な習慣――王として、貴族としてのシンボルの死です。
 詳しくは、筑摩書房から出ているカントーロヴィチの『王の二つの身体』という本が詳しいだろうと思いますが、実は別な質問で「個人」についての問いをちょうど立てており、その絡みで、この絵について問うています。

 さて、15世紀あたりまではシンボルの死に描かれる像は、多くの場合(僕の知ってる限りですが)、威厳に満ちて神々しいのがふつうです。ところがホルバインの絵は、まるで逆になっている。まるで自然人としての死が箱の外に出て、シンボルのほうが内に入った様子です。これを宗教的な転生のひとつだと解釈するのは簡単ですが、ひとつ図像をリンクいたします。

 ・http://www.alchemywebsite.com/prints_series_petr …

 リンク先の図は、14世紀半ばにペトルス・ボヌス(Petrus Bonus)が著した『新しい貴重な真珠』に描かれたエンブレム集のようです。ここには、ひとつの転生が描かれています。棺桶のなかに埋葬される人物に注視してください。さて、つぎにもうひとつリンクします。

 ・http://www.alchemywebsite.com/prints_series_rosa …

 こちらは作者不詳(同定のはなしは割愛しますが、15世紀の作品)ですが、俗に『哲学者の薔薇園(Rosarium philosophorum)』と題されて18世紀までいろんな著述家が本に掲載してきた図像です。
 これは、初期近代を境にして、ふたつの身体がひとつに変わる例です。中世世界では単性的な転生の物語だったものが、初期近代になるとこれに「発酵」の概念が加わり、転生されたものは異質に変わってきます。おっしゃる蛆虫は、その過渡期にあたるシンボルだと思います。

 ドストエフスキーについては、もう少し別な回答者のおはなしを待ってみることにいたしましょう。エラスムス、そしてラブレーについて伺いました。『痴愚神礼讃』について、もう少し聞いてみたい気がします。

お礼日時:2009/07/16 10:06

>ホルバインは人体解剖の知識が無かったか、もしくはその現場に居合わせたことが無かった。

そして(これが重要ですが)、このことから彼は聖書を信じていたと言えるように思います。
>ホルバインの絵が、どうしてこんなに横長でなければならなかったのかという点です。

はい、先に「歴史の非連続性」と偉そうに申し上げましたが、世界で最も物質的恩恵を享受している現代日本に住むわたくしにとって、当時のこの絵画の制作状況に思索をめぐらすのは「難儀」なことです。
ネットも美術館も無い時代、絵画彫刻を目の当たりにできる機会を一体いかほどの人が得たというのでしょう。

この絵画は一部の特権階級の悦を満たすものではなかったはずです。

「どうしてこんなに横長なのか」「磔刑にそぐわない損傷」から、第一印象として、「中世の病 ─ ハンセン病、ペスト、麦角菌による中毒」といった≪業病≫との因果関係を想起致しました。
当時これらは「悪魔のなせる業」として隔離、忌み嫌われていたはずです。
殊に麦角アルカロイドによる中毒は四肢の壊死に繋がります。
奇しくも先日のNHK第一で、現代医学をもってしても、四肢の一部切断により2年生存率は半分程度と放送されておりましたから、当時の凄惨な状況たるやいかばかりであったことでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6%E8%A7%92% …

どうなのでしょう。
ホルバインはどこでこれを制作したのでしょう。
もしかすると、修道会の付属の治療院内にこの横長の絵画が掲げられているのを等しく横たわる病人が見つめたかもしれません。
でも…一片の復活の兆しも見受けられない絵画によって、惨い現実を突き付けられ、この絵画を観る者は一体何を思い信じる拠り所としたのでしょう。

それが「聖書」なのでしょうか。
そしてホルバインも「聖書」を信じていた証となり得るでしょうか。

>だからホルバインは言葉を口にするよりも、描いたのだろうと思うんですね。
>絵には咎めがありませんから。

はい、そうですね。
「親愛なるモアよ…じつは、わたくしはあなたご自身のお名前のMorusという字をまず考え、それと似ているMoriaという字を想い出したのですが、…」と捧げたトマス・モアも処刑後晒し首にされることになるのですが、まるで「予知しうる言及しがたいもの」をも先の『大使たち』の歪像に込めていたかのように映ります。
ということは、ホルバインの生きた時代というのは、現代日本からは想像もつかないほどに「制約の多い苦渋に満ちた時代」だったということでしょうか。

>モリアは、言葉としぐさを巧みに使い分けています。いちいち、しぐさに表すのです。

ですね。
この「道化」の根源はどのあたりまで遡るのでしょうね。う~ん。

この回答への補足

 船に乗るって、どんな感覚なんでしょう? 
 港から離れ、真っ青な大海原へ出る。まっすぐな水平線と、白い雲しかなく、波しぶきを立てて進む。いったい、どんな感覚なんでしょう。

補足日時:2009/07/16 10:58
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 棺桶については、No.4に良質の回答をいただきました。さて、『痴愚神礼讃』に戻りましょう。トーマス・モアに宛てた序文を引用なさるだろうとは思っておりました。

>この「道化」の根源はどのあたりまで

 むしろ、痴愚というものについて、確か十節くらいに(ずいぶんむかしに読んだので記憶が定かではありません)エラスムスがどう考えていたか、モリアの口から語るシーンがあったと思います。
 そこを読むと、中世の寓意にはどんな効用があったのかがわかります。
 エラスムスは本書によって、カトリック教徒からは異端者、ルター派の新教徒からは裏切り者というレッテルを貼られますが、どちらにも組みしない姿勢というのは、なんだかどこかで見たような構図に映るじゃないですか?

 さて、ドストエフスキーはもちろん、このエラスムス的な寓意を『白痴』に織り込んでいると思うのですが、どう思われますか。

お礼日時:2009/07/16 10:05

ああ、至ってお元気でいらっしゃるとのこと、何よりです!



>エラスムスの表情もまた、(似ているかどうかは別にして)実にリアルですね。

はい、凄くリアルさを究めていますよね。
ご承知の通りホルバインは『死の舞踏』などの「木版画」という新たな分野、そして「肖像画」に全力を傾けた画家です。
中世とは宗教的主題から徐々に非宗教的主題への過渡期であり、また、宗教改革に至る胎動とその衝撃波からは免れない時代なのでしょう。
のちに『大使たち』上でアナモルフォーズの歪像「頭蓋骨」を潜ませ、奇妙な存在性を感じさせるトロンプ・ルイユもイコノロジー的考察にはうってつけかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …
エーコが言うところの「美は諸部分の比例にあるといういわゆる≪大原則≫は、ルネサンス期に高度な完成を見た。しかし同じ時期に、不安で人を驚かすような美の方向へと押し動かす遠心力の萌芽も認められた。」作品の一つであることは間違いないようです。

>これはキリストではない――にも係わらず、身体はきっとキリストもまた同様だっただろう――と推定することができるのではないか? 
>なぜなら、もしもどこにもキリストとの類似点が無ければ、画中の人物はキリストだとは思えないからです。

はい、おっしゃる通りだと思います。
『墓の中の死せるキリスト』画中の人物はホルバインの視界に映り投射された「特定の誰でもない人間の死体」に過ぎません。
でもその痛ましくも腐敗が進行している様と対峙することで、なおキリストの復活という観念を孕みつつも、観る者はあらたに思いを馳せるのではないでしょうか。
虚ろで濁った眼や壊死損傷した黒ずんだ部位。
それらに否が応にも注視せざるを得ず、奇異なまでの圧倒的な存在感を観る人信ずる人各々に喚起させます。
そしてこれはri_rong様のご推察「イエスを信奉するすべての方に向けて、いちいち絵にしてみたいと思いました」に全く相違ないと思いますけどね。

これにつき「思いをめぐらせる」だの「いちいち絵にしてみたいと思う」という行為につき、いかなる咎めを受けるというのでしょう。
痴愚なわたくしには全く想像もつきません。
ドストエフスキーの「知識階級の理性万能思想を憎んでいたふしがある」は『白痴』に絡む所以でしょうか。
もちろん深遠な思索にもとづき「この絵画により信仰を失わせる」と推察できますでしょうが、事の次第によっては、案外単純な理由「理解し得ないサレンダー状態」だから「嫌い」「憎む」というケースもあるかもしれません。
とにかくそれを「憎まないといけない並々ならぬ理由」「あえて明言する理由」が存在するのは間違いないのでしょうけれど。
仮にri_rong様なら、あえて「憎む」「否定する」ことなどなさいますか。

>その顔はキリストではない――にもかかわらず、それは紛れも無くキリストなのだ。
>そう思える仕立てになっている気がします。

はい、そのような仕立てのように読めますよね。
ただエラスムスはルター等のような行動には結び付けようとはしませんでしたし、作中におけるモリアを語る「一人称のわたくし」からは、既に「狂気」を帯びた存在として「理性、自己認識」の発露を見出せるのではないでしょうか。
『狂気の歴史』へは「時代の非連続性」故に言及しません。

>そして僕は、マシュマロさんをその影響下へ誘惑しようと企んでいます。

ええ、「その経緯」につきましては≪手元にオレンジ色で夏に相応しいカバーの二冊の叢書が置いてある≫ということをお伝えして、溢れんばかりのわたくしの感謝の気持ちを表させていただきたいと思います。
もうね、そのうちの一冊なんか、目眩がするほどだったのですよ!(笑)←買えとは命令されてないが

「おやまあ、わたくしとしたことが! ずいぶん前からわれを忘れてしまったこと。すっかり埒を越えてしまったこと! でも、わたくしの話に、あまり傍若無人なところ、あまりおしゃべりなところが見つかりましても、どうか、これは痴愚女神なんだから、女のおしゃべりなんだからと、思し召しくださいな。(同書68節)」^^
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 いくつか教えて欲しいことがあるのですが、一つひとつ参りましょう。

 まず、絵についてです。これは、ホルバインを探るうえで、重要な意味を持ちます。画中のキリストは、手と足、そしてわき腹に傷を負っています。前者は磔にされた際の釘の跡、後者は刑吏によって貫かれた槍の跡だと思いますが、釘の位置が前者では人を磔にすることができません。
 指の骨にかからず、肉が引き裂かれて身体は十字架から落ちてしまうでしょう。そして足もまた同様です。ホルバインは人体解剖の知識が無かったか、もしくはその現場に居合わせたことが無かった。そして(これが重要ですが)、このことから彼は聖書を信じていたと言えるように思います。

>仮にri_rong様なら、あえて「憎む」「否定する」ことなどなさいますか

 僕が憎んでいるのではなく、負の感情があるのだとすれば、それは「咎め」という言葉のなかにこそ、あるのでしょう。だからホルバインは言葉を口にするよりも、描いたのだろうと思うんですね。
 絵には咎めがありませんから。

 モリアは、言葉としぐさを巧みに使い分けています。いちいち、しぐさに表すのです。さて、お聞きしたいのは、ホルバインの絵が、どうしてこんなに横長でなければならなかったのかという点です。
 どうでしょうか。

お礼日時:2009/07/15 19:47

ri_rong様、こんにちは。


暑い日々が続きます、どうかお身体ご自愛なさって下さいね。

>「イエスを信奉するすべての方に向けて、いちいち絵にしてみたいと思いました」――というのが、作者の気持ちだったのではないかと、僕は予想しています。

これから外出しますので今晩あらためてきちんと回答をさせていただきたいのですが、ホルバインのスタンスを理解する上で幾つかキーワードがあるかと思うのです。
例えば「エラスムス」です。
ご存じの通りエラスムスは『痴愚神礼讃』を記した旅人でありユマニストでした。
この人間風刺はなかなかのものだと密かに思います。

一見、神学中心の風潮に対する批判と人文芸の強調とみなしがちかもしれませんが、フィレンツェの御方同様、越境的な見地から古典古代とキリスト教との「新たな融合」を希求したのだと思います。

そのようなユマニストに対し、ホルバインは以下の『ロッテルダムのエラスムス』において、真摯な敬意を表していると感じます。
鋭い描写と共にまるで教父のような重々しい風格と知的権威を賦与しているのです。
エラスムスの「人となり」に肉薄しているあたり、非常に見事だとは思いませんか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …

ホルバインが『墓の中の死せるキリスト』において「死以上でも以下でもない」ことを描いた意図と心情。
そしてドストエフスキーの「知識階級の理性万能思想を憎んでいたふしがある」とすれば、「憎まざるを得ない理由」がやはり相応にあったに違いありません。

ではまたあとで!
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この回答へのお礼

 ご回答、ありがとうございます。
 エラスムスの表情もまた、(似ているかどうかは別にして)実にリアルですね。そして僕らは、「エラスムスはこのような顔だった」と推定することができます。けれど、キリストがあのような顔だったとは推定することができません。まず、こんなふうに思いました。
 さらに一歩踏み込んで、これはキリストではない――にも係わらず、身体はきっとキリストもまた同様だっただろう――と推定することができるのではないか? というふうにも思いました。なぜなら、もしもどこにもキリストとの類似点が無ければ、画中の人物はキリストだとは思えないからです。この点について、どう思われるでしょうか。

 実は、別な質問にて「個人」についての質問をしました。
 ですから僕は、その質問の影響下にいます。そして僕は、マシュマロさんをその影響下へ誘惑しようと企んでいます。そこで上述の内容について、どう思われるか訊いてみたいと思いました。僕は、個人がどうも、顔に居座っているような気がするんですね。

 さらに、モリアのお話しを聞きました。エラスムスの風刺は確かにひとかどのもので、ホルバインの絵がその土俵に載っているのは紛れも無いことだと思います。そして風刺にかこつけて、エラスムスが神学者たち知識階級をこきおろそうとしているのは、まるで「顔」を見比べるかのように、はっきりわかるものです。その顔はキリストではない――にもかかわらず、それは紛れも無くキリストなのだ。
 そう思える仕立てになっている気がします。

 僕のほうは、至って元気です。
 滅多に外へは出ませんから、とても静かで涼しくすごしています。窓から見る外の世界は、まるで狂ったように明るく、なにもかもが白い。とても重い光です。

お礼日時:2009/07/15 12:03

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