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どうにも、価値観の違い、主観だから、とかいう言い訳で、問題の本質が見えていないことが多すぎると思います。この質問は、価値観の多様性を損なうものではなく、いかにリアル(真)に、物事をはかれているのかという事が、気になるので質問します。
あれが正しい、これが正しいというのではなく、あなたにとって、その価値観は果たして本物か?という点で、価値観の違いが起こす矛盾、不幸を是正できたらよいと思います。
あなたが疑っている、あなた自身の持つ価値観とは何ですか?どのようなものがありますか?
私の場合は、春は曙です。
曙もいいが、生暖かい風の吹く、宵がすごくいいと感じます。そのときには、そのときの最高があるということです。今ももちろんです。できてませんが。
 CMなどの情報操作による価値操作は、もう有効期限が切れ掛かっています。明日にでも使えなくなると思っています。あれらは空虚になっています。
価値を、多少なりと共有する時代が来ているようです。
そんな中で、自分の持つ価値観は果たして本物か?という姿勢が、意味の足しにはならんかと思うのです。
どう思われますか?

A 回答 (15件中11~15件)

No.3の返答についてのコメントです。



>>その人の価値観が間違っていれば、いずれ淘汰され
>>消えていきます。そういう実例は、過去の歴史や現在
>>の社会の中で多く見られます。
> 
>それは、公益性にもいえることではないですか?

もっとはっきり言えば、絶対的な価値観とは宇宙の真理
それ自体です。真理が何かということに関しては、とても
わずかな文面では伝えきれないので割愛します。
それに真理はとても私の拙劣な文章では伝えられませんので。

では公益性をなぜ一つの価値観として評価しているかについて
ですが、すべて相対的なこの世の価値観の中にあって、比較的
マシな価値であるからです。
少なくとも自己中心的な事柄よりは、公益性のある事柄の
方が重要性を感じます。

もっとも公益性自体も、万物流転のこの世にあっては変化
していくものの一つに過ぎないことは明らかです。

絶対的な価値を求めるならば、真理を探し求めてください。
私に言えるのはそれだけです。

この回答への補足

>私に言えるのはそれだけです。
そうですか。
>絶対的な価値を求めるならば、真理を探し求めてください。
 
絶対など必要ないと、私は思っています。そのような価値も求めていません。
相対的である必要もありません。
二項対立では無理があるのです。
一項(絶対)でも無理です。
真理が絶対だとは、背景が決めることであり、その背景が真理であるという保証はないのです。
真理とは、いつでも場合わけで考えられてきたものであり、その真理の置かれている背景そのものを論じることはないのです。
景色を、一つ二つとは言わないでしょう。
背景とは、観方ではなく、その観方がある背景のことを言うのです。
景色が広がるとか、垣間見えるとか、背景とはそんな感じでもあります。それは、シーンであり、切り取らなければ、今の人語では語れないのです。
真理というのは、絶対とか、相対とか、そういう意味ではないのです。ただあるということです。
>もっとはっきり言えば、絶対的な価値観とは宇宙の真理それ自体です。
 
ここも、今あなたがいる場所も宇宙ではないですか?
ということは、あなた的には、真理もそこにあるということです。
私もそう思います。
私のいる場所に、真理があります。
とおい、宇宙が、今のここなのだと。
言うまでもないことです。
>公益性のある事柄の
方が重要性を感じます。
 
人権運動などのことですか?
それとも、インフラ整備などのことですか?
他の何かですか?
公共が求めてない公共事業がなされることはあります。あなたのおっしゃる公益性とは、皆が喜ぶことと、もしくは、多かれ少なかれ、人の苦悩を取り去り、反作用で他に苦悩をもたらさないことと、とらえていいですか?

補足日時:2003/04/03 11:38
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この回答へのお礼

あなたのおっしゃる公益は、道徳的なものですか? 
公益性の中にも、私は矛盾があると思います。
現実として、公益の中にも価値観の淘汰があり、淘汰された方は、いかに公共事業といえど、被害を受けるのです。そして、今までは、不平等な金が出回ることで、経済の指標が非常に偏ったものとなり、その指標にしたがってきたけっか、不具合が今、大量に起こっているのだと思います。
誰も欲しくないのに、金が動くならそれが実行されたのか。
自分がホントはしたくないのに、やってしまっていることとか、いっぱいあると思うのです。
そういう自分自身を虐げる、自分の持つ不遜な価値観は、是正した方がいいだろうと思います。誰しもそう思うと思います。
大体の人が、「自分に正直に生きたい」と、心底ではそういう欲求があるのではないかと思うのです。
人間の持つ、本来的な欲求ではないかと思うのです。
私には、それがあります。
私は、自分に正直に生きたい。
そのために、自身の価値観を見直すわけです。
自分の価値観のうち、疑えるものは疑います。
いつでも更新できる、自由なものであると同時に、その背景には、いつでも無意識にしたがっているわけです。
この背景を見つめるのは、自分に正直になってからです。私は、自分に正直になる前に背景を見つめていたので、ちょっとミスったのです。好奇心によるものか、ひきつけられたのか。それはそれで、そのミスを生かしたいと思います。ミスったなりに、いろいろ見えたこともあった。
 
あなたはどうですか?
自身の価値観を見直すという私の質問を、どうとらえますか?あなたがそれをした場合、どんな価値観をまず疑いますか?
ありがとうございました。 

お礼日時:2003/04/03 11:38

NO.2です。



補足をお願いいたします。

>昔あっても今はない。それはよくあることです。でも、幻のように消えてしまうものが本物か?といえば、どうにも難しい。本物ではないということはいえても、本物であったというのは、論拠に不足します。

「本物」の定義をご提示願います。


>百年も、同じミスを繰り返すわけには行かない。

歴史を学べば同じ過ちを犯すのが人間であると分かるはずですが。


>時間的な視点とは、過去も、未来も考慮に入れて今を見ることなのか、それとも、今は今、昔は昔、後は後と、価値観の違いに埋没してしまうことなのか? 前者で考察するのが望ましいと思います。後者は、思慮が足りない。

過去・現在・未来を考慮に入れて価値観を考察するのが望ましいのはもちろんです。ただし過去の価値観の違いを「昔は昔」と考えることは決して考察の放棄ではありません。過去に対する価値観の違いを容認することは思考停止とはいえないからです。

今は今、昔は昔、後は後という考察の仕方は思慮が足りないとは思えないのですが?どういう点で思慮が足りないとお考えなのでしょうか?

時間的考察では前後関係は存在しない(過去というものはどこにも存在しない、保存されているわけではない)ので、現在・過去・未来を分けて考えるというのは空間的考察に陥っているように思えるのですが?
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この回答へのお礼

>「本物」の定義をご提示願います。
あの気持ちは嘘ではなかったと、今、疑う余地がないなら、その気持ちは本物です。でも、あの時は騙されていた。今の私の気持ちが本物だという場合、騙されていたときにはその気持ちは嘘の気持ちです。
嘘を、嘘と見破れるかということです。
嘘をつかれて、騙されている状態で、どうしてそれが本物だと分かりますか?嘘は、嘘だとばれたときに、はじめて嘘と分かるのであり、当初は本物のふりをするのです。
>過去に対する価値観の違いを容認することは思考停止とはいえないからです。
今は今、昔は昔、後は後という考察の仕方は思慮が足りないとは思えないのですが?どういう点で思慮が足りないとお考えなのでしょうか?
 
昔は昔、あの時こう間違ったから、今はこうしよう。今、こう間違えているから、将来こうしよう。
それは、過去の価値観を容認することではありません。 
たとえば、私たちは戦争を知りません。そんなの昔の人がやったことだ、私たちは知らない。そういうのを、思慮がぜんぜん足りないといえます。
過去、中国を侵略したり朝鮮を侵略したのは、過去の価値観からすれば正当ですが、過去を越えてきた今からすると、正当ではないでしょう。
過去、日本という国家に、国民が扇動されたのも、今から見れば正当ではない。
 
そして今、しているその行為、それの元になる価値観は、正当か?疑う余地のないことか?それを言っているのです。後になってから気づくようでは、考えたとはいえない。それは、成り行き任せです。
>時間的考察では前後関係は存在しない(過去というものはどこにも存在しない、保存されているわけではない)ので、現在・過去・未来を分けて考えるというのは空間的考察に陥っているように思えるのですが?
 
過去というのは今に在るし、未来というものも今に由来しているのではないですか?
時間的考察と、空間的考察と、あなたが言っているのは、分けて考えるのは空間的、分けて考えないのが時間的、ととらえてよいのでしょうか?
それならば、時空的考察とはどの様なものでしょう?
私は、空間が分かれている、隔たりを生んでいるとは思っていません。
>歴史を学べば同じ過ちを犯すのが人間であると分かるはずですが。
 
歴史を学ばない人間が、同じ過ちを繰り返すのでは?
間違いを、越えて来たのが人間です。これからもそうです。だけれど、間違わないですむことは、間違わないで済ますのが、いいに決まっているでしょう。間違ったら間違ったで無駄にしてはいけないが。
だけれども、今間違っていることはないか?を、間違いを認識しようとつとめることは、よいことです。
フツーの人はそれができるはずです。
それが、その価値観は本物か?という、問いの本意です。別に、この問いは、なんら特別優秀でもなんでもない、人と比べてどうこうでもない、ほかならぬ、個人的問題に焦点を当てているのです。
ですから、私の場合はこうです。
と、最初に私がこの問いに答えているのです。
皆さんはどうですか?
というのが、この質問です。
それに対してあなたは、全部本物だと、おっしゃったと、受け取っています。昔は昔、今は今、後は後、そのときにおいて、それは少なくとも本物だと。
 
では、仮に、今騙されているとして、その騙されていることは本物ですか?
私は偽物だと思います。それは、嘘だからです。
嘘と気づいていないだけだからです。
現実には、それは嘘なのだと、私は思います。
 
あなたの意見を私が間違って受け取っているなら訂正お願いします。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/04/03 10:57

>実体を持っているということは、少なくない人が、その価値観に「動かされて」いるからです。

知らなかったことを知る。それまではいいが、その価値を吟味することなく実生活に取り込むのは、危険だと思います。その危険を、平気でやってのけてきたのが現代人だと見ています。

これって難しいですね。(私にとってです)
私はテレビでやっている事は表面的で
何も実体がないと思っていますが
自らの価値観に影響を及ぼしてないかという意味では
実態があるのかと思います。
テレビから得られる価値観を自身のものにするのと
あえてそれとは逆の事を価値観にするのも同じことですよね。
テレビを見て1から10までただ賛成反対ではなく
きちんと分類しているか(ただ逆をしたいということではないということ)
といわれればしていないだろうし
また、そんな事をしていたらえらくテレビを見るのが疲れそうですね。
テレビに依らないで即ち空虚なものとして利用するのって
難しいですね。

普段の生活の行動に関する価値観は厳密に言えば
意識していなくてもたくさんあるのでしょうね。
そのうちで有意義な価値観はどれなのか?
分類不可能な気がします。
質問者さんと価値観に対する考察の仕方に差異があるかもしれませんが
私は有意義な価値観とは人生を有意義にするものだと思っています。
これらは流動的なものであり答えを得られるものでは有りませんが
唯一(言いすぎでしょうか?)これらの事を考察しつづける事が有意義な価値観なのかもしれません。

いろんな人といっても
「誰かより優れていたい」とかだったらそれは
あまり違いはないでしょうね。(中にはそうでない人も居るのでしょうが)
何が言いたいかというと大局的に見れば私だって違いが有るとは思いません。
極端な話分類という一点においてのみ考えるのならば
私たちは人類なのだから色々とはいえないですから。
これは同時に細分化できるという事ではないでしょうか?

>自分自身の価値観を、果たして持てているのか?
自分自身の持っている価値観は、自分自身心底納得のいくものか?いつでも更新できる自由なものか?
それに従って、幸せになれているか?
そういうことです。
公共に合わせて、幸せになったか?
公共に反して、幸せになったか?

「はい」、「いいえ」、「どちらでもない」という答えがあれば3^6通りの人間が居るのですよね。
上に挙げら得られた質問は私はどれかに偏るとは思えないのですが。(幸せは主観的なものですし)

価値観の衝突になりますが
似たり寄ったりと感じるのは先にあげた通り
大局的な観点からではないのでしょうか?
確かにうんざりするかもしれないですけど
いいところだってありますよね。
そういうところをないがしろにしてしまっている気がするのです。
長所は誰にでもありただ気付けないだけつまり
付き合いが浅いだけだと私自身は思っています。(質問者さんがそうだというわけではないです)

価値観の矛盾を超越した方がいいのでしょうか?
価値観の超越は「真の喜び」に通ずるものでしょうか?

この回答への補足

>私は有意義な価値観とは人生を有意義にするものだと思っています。
これらは流動的なものであり答えを得られるものでは有りませんが
唯一(言いすぎでしょうか?)これらの事を考察しつづける事が有意義な価値観なのかもしれません。
 
言い過ぎとは思いますが、人生をよりよく感じるための姿勢であると思います。
>普段の生活の行動に関する価値観は厳密に言えば
意識していなくてもたくさんあるのでしょうね。
そのうちで有意義な価値観はどれなのか?
分類不可能な気がします。 
 
分類するというより、今ある現実に逐一対応するという意味で、分類できないものにも目をやることもできるし、数をこなすことで、自分の習性などもあらかた分かってきます。
意識していない隠れた価値観も、その場その場でつかまえることはできるのではないでしょうか?
今、私がこうしてお礼を書いている。
これは、言いたいことがあるからで、あなたに聞いて欲しいことがあるからです。その価値観は本物かどうか?疑ったときに、この価値観は、日常よくはたらいていることに気づきます。~でもしよっかな、という感じです。だけれども、いったん入ると熱が入ることもあります。
こういう風に意識しだすと、程度というものが身につき、ほどほどに、適切に、適量に、行動にバランスが取れてくるように思うのです。合理的になり、無駄が省ける。→人生が、濃くなる。おいしくなる。
こういう一連の作用を、私は、認めています。
自分自身の価値観を見直すということは、そういう作用を生んでいます。
退屈を感じるということは、何か行動を促す意識下の価値観?が働いているのであり、しかし、この意識下の価値観は本物か?とみると、結構疑えるのです。
自分の中にいる容疑者を見つけて、尋問するのです。
SMでいうなら、S的でもありM的でもある楽しみです。
退屈を感じさせる価値観は、あせっている自分だということに、今気づきました。何故あせっているのかを、問いただそうと思います(笑。
自分遊びです(笑。

補足日時:2003/04/03 11:45
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この回答へのお礼

>似たり寄ったりと感じるのは先にあげた通り
大局的な観点からではないのでしょうか?
確かにうんざりするかもしれないですけど
いいところだってありますよね。
 
いいところが、隠されていると思うのは私だけでしょうか?付き合いが深くなれば、その人の愉快なところ、不愉快なところがおのずと知れてきます。
無論、それすらも私とその人の関係だけの話であり、他の人とはどうかはいえません。
しかし、みなの本音を探ってみると、案外隠れた本音が共通しているということは、少なくないと思うのです。それが隠されているということは、騙し騙し共同生活を営んでいるということです。
それはよくない。仕方がないことではないのです。
本音を隠すことがどういう結果をもたらしているのか?本音がはばかられることが、どういう結果につながるのか。それは、大方の人が分かっていると思います。仕方のないことではありません。
>価値観の矛盾を超越した方がいいのでしょうか?
価値観の超越は「真の喜び」に通ずるものでしょうか?  
 
矛盾とは虚構のことです。嘘のないことが本物です。
真の喜びが、うそだったり本物だったりすれば、それは真の喜びではありません。
真とは、嘘よりも本物であることは、いえると思います。嘘だと思っていたことが真実だった場合、嘘と思いこんでいたことが間違いで、分からないことが分かるようになった、ということの場合には、そこに嘘を感じません。
嘘の価値観、本物の価値観、本物かどうか分からない。価値観を超越するということは、価値観をものにできているということです。価値観に振り回されるのではないということです。
他者との、公共との価値観の衝突や、差異が問題なのではなく、自分自身の中で、自分が自分の価値観を吟味して、どうなのかということを問題にしているのが、この質問の本意です。
言えば、「自分に嘘をつかない」ということです。
自分に嘘をつかないということはどういうことか?
どうすることか?という事です。
それで、自分自身の価値観の見直しということを、私はこの質問であげたのです。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/04/03 10:33

>どうにも、価値観の違い、主観だから、とかいう言い訳


>で、問題の本質が見えていないことが多すぎると思います。

これは客観的な指標を取り入れない限り、永遠に解決しない
問題でしょう。

私の持つ価値観とは公益性ですね。
公益性の高い物事は高く評価しますし、公益性が低ければ
低く評価します。


もっとも私は他人の価値観にまで干渉しようとは思いません。
その人の価値観が間違っていれば、いずれ淘汰され消えて
いきます。そういう実例は、過去の歴史や現在の社会の中
で多く見られます。
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この回答へのお礼

>私の持つ価値観とは公益性ですね。
公益性の高い物事は高く評価しますし、公益性が低ければ低く評価します。
 
>その人の価値観が間違っていれば、いずれ淘汰され消えていきます。そういう実例は、過去の歴史や現在の社会の中で多く見られます。
 
それは、公益性にもいえることではないですか?
大多数の人間が謝ったとき、その公共は淘汰され、消えていきます。
価値観を多少なりとも共有する時代というのは、右の足が前に、左の足が後ろに進むような時代はもう終わるということです。
人社会に、神経(情報の道)がはりめぐるからです。
 
>もっとも私は他人の価値観にまで干渉しようとは思いません。
 
自分の価値観に、もっと積極的に干渉する余地が、在るのではないかと思います。
>これは客観的な指標を取り入れない限り、永遠に解決しない問題でしょう。
 
客観とは文脈から判断するに公共のことでよいでしょうか?
自分の中で、矛盾する価値観を持った民衆が集まって公共を作る。その公共の何処に、どうやって、客観的価値観が存するのか?
科学は公共ですが、没価値姿勢です。価値を論じません。
しかし、公益性というのは、大いに価値を論じ、公共という名で、その価値観に従い行動をします。
その価値観、本物ですか?

お礼日時:2003/04/02 22:21

「その価値観」ってどの価値観のことですか?個人個人の価値観のことですか?



これはすべて本物といえるのではないでしょうか。たとえCMのように刹那的な価値観であっても、その瞬間には確かに価値があったと考えられます。1分後に価値がなくなったとしても価値はあったといえるでしょう。

100年前の価値観と今の価値観が異なるからといって、100年前の価値観が間違いではないのと同じことだと思います。

価値観は固定できるものではなく、時間的な視点でも考察する必要があると思います。

ayamati様が「春は曙」=「そのときには、そのときの最高があるということです」と解釈されているのであれば、時間的価値観の解釈を(無意識のうちに?)されていると思われます。
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この回答へのお礼

>「その価値観」ってどの価値観のことですか?
 
あなたの価値観です。
>その瞬間には確かに価値があったと考えられます。1分後に価値がなくなったとしても価値はあったといえるでしょう。
 
昔あっても今はない。それはよくあることです。
でも、幻のように消えてしまうものが本物か?といえば、どうにも難しい。本物ではないということはいえても、本物であったというのは、論拠に不足します。
>100年前の価値観と今の価値観が異なるからといって、100年前の価値観が間違いではないのと同じことだと思います。
 
百年も、同じミスを繰り返すわけには行かない。

>価値観は固定できるものではなく、時間的な視点でも考察する必要があると思います。
 
そのとおりだとも思います。時間的な視点とは、過去も、未来も考慮に入れて今を見ることなのか、それとも、今は今、昔は昔、後は後と、価値観の違いに埋没してしまうことなのか?
前者で考察するのが望ましいと思います。
後者は、思慮が足りない。
 
ありがとうございました。

お礼日時:2003/04/02 22:13

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