痔になりやすい生活習慣とは?

警官の武装手段として、短銃でなくサーベルだったわけですが、なぜなのでしょうか?そのほうが理にかなっているの他のでしょうか?

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A 回答 (7件)

 明治大正時代の警官でも、非常時での拳銃携帯が確認されています。



 サーベルである理由は、諸外国の警官がサーベル武装であったことから倣ったと考えられます。
 
 当時の帯刀事情では、警官に限らず、公務職は帯刀が許されていた(士族の精神的保護の意味での帯刀許可だったんでしょう)ようですから、現実には、帯刀の威圧効果は、望めません。
 
 海外に比較して、農村部まで大小(刀)の普及している日本では、帯刀は大きな効果はないとも言えます。

 逆に公務職者の風紀・綱紀の側面での帯刀の意味があったかもしれません。

 拳銃は、警官の護衛手段ではなく、威嚇・示威の目的で使われるものですが、当時の警官の質が高くなかった事情も含めて、拳銃携帯を許すことは難しかったと考えられます。
 簡単に言えば、当時の綱紀があまりにも低品質だったために、拳銃が市販化される恐れがあったなどの危険性を勘案したのでしょう。
 
 特に長州出身の野蛮人警官の野蛮な行為は多々あったようですから、警官の信用性を確保する・治安維持の目的で、警官を信じることも不可能だった背景もあるでしょう。

 同時に、拳銃の質が低く暴発の危険性を考えると、高給取りの警官に貸与させることに不安もあったでしょうし、警官自身の士族的精神性からも拳銃を嫌ったなどの背景もあるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

諸外国の華美な趣味に倣ったと言う感じはします。
日本は刀になれた国民ともいえそうですので、威圧感はさほどでなかったかもしれません。警官は氏族下がりのあまり質のよくないもんが中心だったのでしょう。拳銃までは持たせる寛容さがなかった。

お礼日時:2009/08/24 19:49

こんにちは。



西南戦争時、白兵戦において、薩摩の抜刀攻撃に官軍側は手を焼いていました。
切り込みをかけてきて超接近戦になるため、刀が威力を発揮したのです。
それに対抗するため、警視庁抜刀隊が組織され、その活躍の影響で明治15年からサーベルが佩用(はいよう)されました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
西南戦争の抜刀隊の流れもあったのでしょうかね。帯刀の神話のようなものが後々まで生きたのでしょうか。

お礼日時:2009/08/24 19:53

余談ですが、警察官の帯刀が許されたのは1877年だそうです。


で、その頃、すでに郵便配達夫には拳銃の携帯が認められていました(1873年より)。これは、郵便強盗に対処するためです。

すくなくとも、この頃の当局は拳銃を護身用として考えていたのだと思います。
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警察に拳銃が行き渡ったのは昭和30年代です。


サーベルは山のようにあった足軽刀などを改造して作ったので大量に配備できました。また、重犯罪が多発したわけではありませんので拳銃はそんなに必要としてません。

ただし、満洲・朝鮮国境の警察はサブマシンガンに機関銃まで持っていました。不逞●人(公式文書の●●鮮●とはっきり書いてあります)による村々への襲撃が相次いでいたためです。

終戦後、GHQの命令でサーベルを没収したら、今度は日本国内で暴力団や不良外国人が事件・暴動を起します。その結果GHQは日本軍から没収した拳銃を各警察に支給したのです。また、北陸本線でサラリーマンが不良外国人に襲われて死亡する事件が発生し鉄道公安官(現在の鉄道警察隊)が設置されます。昭和20年代前半で50%の配備率です。拳銃は日本軍の拳銃と米軍の拳銃でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
昭和30年代ですか。サーベルよりはずっと効果ありますでしょうから。

お礼日時:2009/08/24 19:52

良くわかりませんが、明治維新前は、侍の刀。



西洋かぶれして、サーベルになったのかもです。
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この回答へのお礼

そのような印象を持ちます。ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/24 19:46

サーベルをつっていたのは、拳銃は将校用として使用されるので、数が確保できないのと、刀よりも軽いからではないでしょうか。


まあ、「西洋かぶれ」も否定できませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そのような理由かとも思います。

お礼日時:2009/08/24 19:45

拳銃も所持していましたよ


ちなみにサーベルはなまくらですよ、階級を表す☆の数のような物

『小さな親切大きなお世話、アナタの悩み辛口ママンが解決』
from maman
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Q昭和初期の警察官の地位は?

昭和初期に交番の巡査(お巡りさん)だった人の世間的な地位、経済的な裕福さ等は
どんな感じだったのでしょうか?

小学校の行事とかあると
肩に房の付いた制服を着てサーベル?をして
来賓席に来ていた事もあると聞きました。

交番?を転々としていたとも。

そんな方の世間的な地位や家族の生活程度等
お分かりになる方教えてください。

Aベストアンサー

昭和初期ということになるといささか難しいです。
何分にも軍部が突出して戦争遂行を優先していた言わば日本の歴史上も類を見ない時代でした。
治安維持即ち警察権の行使に当たっても軍部の横やりが横行していた時代ですから、一般論は難しいです。
通常の警察官の活動領域が浸食されていた時代です。
軍部主導の思想犯に対する独善的警察権が行使されていた時代です。
特別高等警察(通称、特高)などという組織と本来は軍隊内のみを対象としていた憲兵なども平気で民間人に対して警察権を行使していた時代です。

明治末から大正時代にかけての平常の状態であればこんなサイトがあります

戦前の暮らし 職業編|文學への不實なる誘い - アメーバブログ
ameblo.jp/recherche-du-temps-perdu/entry-11133135916.html
抜粋
注)推定年収です。
絶対額よりも相対的に数値を比較して下さい

総理大臣                           9600円                     
警視、判事、税務局長                   1500円
警部                               500円
巡査部長                            250円
町長、村長                           200円
巡査                               150円

陸海軍々人
大将                              6000円
中尉                               600円
少尉                               440円
准尉                               400円
曹長                               300円
軍曹                               200円
伍長                               150円

教員
大学総長                           4000円
高等学校長、専門学校長                 3000円
大学・高校・専門学校教授、中学・高等女学      1500円 
中学教諭、高等小学                      500円
尋常小学校長                          400円
小学校訓導                            200円

・民間企業、一般職、芸能など

三井家理事                         29400円
住友家理事、鴻池家理事、三菱財閥           9793円
興業銀行頭取、三井物産重役              、3500円
上等俳優、上等力      3500円
弁護士、医師                        1700円
ホテル料理長、新聞記者、上等音楽家、一等芸妓    600円
西洋料理人、ペンキ屋、脚本家、薬剤師、産婆      350円
料理人、大工、左官、植木屋、床屋、看          200円
牛乳配達、新聞配達、小作人                120円
風呂屋の三助、饅頭屋出前持                 20円

相対的には経済的には余り恵まれた職業ではありませんでした。

軍部が突出してくる前にはこんな事件もありました。

ゴーストップ事件 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ゴーストップ事件

警察官のプライドが非常に高かったことがご理解いただけるかと思います。

学校行事などの来賓としては、公務員がよく呼ばれ地方の名士とされていました。
村長、郵便局長、駅長 駐在さん 消防署長etc
村長と並ぶ名士は校長でした。

大阪や東京などの都市部では伝統的に警察官は敬して遠ざける、という形で扱われていました。
現在と殆ど変りません。
必要最小限のお付き合いということです。

「社会的地位」という表現は非常に難しいです。
少なくてもエリートとしては扱われませんでした。
これは、軍人も一緒です。
昭和初期の軍人は文字通り武力で恫喝していただけで、一般市民はエリート扱いはしませんでした。
旧制大学生や旧制高校生の方が頭脳的に優秀なグループと看做されていました。

公的な行事では公務員として民間サラリーマンよりは上位に扱われました。

明治初期の警察官制度が発足した時期の要員は没落下級士族が大半でした。
地方出身者が多いこともあり大阪や東京では言葉問題もあり、一般社会とはやや距離を置いた存在でした。

警察官というのは地元民との癒着を防止する意味で移動させます。
(滞在期間の長短はあります)
厳格な階級社会ですので、昇格と職場の移動は基本的にはセットとなっています。
この制度的習慣は戦前も戦後も変わりません。

昭和初期ということになるといささか難しいです。
何分にも軍部が突出して戦争遂行を優先していた言わば日本の歴史上も類を見ない時代でした。
治安維持即ち警察権の行使に当たっても軍部の横やりが横行していた時代ですから、一般論は難しいです。
通常の警察官の活動領域が浸食されていた時代です。
軍部主導の思想犯に対する独善的警察権が行使されていた時代です。
特別高等警察(通称、特高)などという組織と本来は軍隊内のみを対象としていた憲兵なども平気で民間人に対して警察権を行使していた時代です。...続きを読む

Q明治時代の警察機構と陸軍について

明治時代の警察機構について調べています。
どのような役職があり、どのような仕事をしていたのか。
御存知の方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。
また、当時の警察は陸軍の下にあったのでしょうか?
その場合、陸軍のことも教えてくださると、大変助かります。

Aベストアンサー

警察と軍は全く別組織。上下はありません。
しかし現実には武器のレベルの高いほうが威張っていました。
憲兵というのもありますが、軍隊の組織です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E5%85%B5

Q明治から昭和初期の住み込み使用人の一生

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの事情で住み込みで働くようになるのでしょうか。
2)どういった仲介などの方法があったのでしょうか。
3)住み込み使用人を求める側は、住み込み使用人が欲しいことをどのようにしてアピールし、実現させたのでしょうか。
4)住み込みで働くとき、藪入りのような形で里帰りするのだろうと思うのですが、例えば5人の住み込みを使用している主家では、全員がいなくなってしまうようなこともあったのでしょうか。日程をずらすのが普通でしょうか。ほとんど主家に住み込んだまま、時々休暇で私用をたすような人も多かったのでしょうか。
5)住み込みで働いていた人が100人いた場合、何人くらいが結婚したのでしょうか。住み込ん後ではもう結婚しないで一生を終えた人はどのくらいいたのでしょうか。 (感覚的な割合で結構です)
6)住み込みを辞めるということもあると思います。結婚してしまうから。通いに変更するから。単に使用人であることができなくなったから。死んでしまった。 住み込みの主家で一生を終えるというケースはどの程度あったのでしょうか。
7)住み込み使用人が事故、疾病、老齢などで死んでしまった場合、主家は葬儀や遺体にどの程度関与したのでしょう。【住み込み使用人に実家や身寄りで遺体引き取りをしそうな類縁がいないケースの場合で、どうだったのか】 主家はどう扱うことが多かったのか。 葬儀、埋葬や墓はどうしたのか。

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの...続きを読む

Aベストアンサー

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。

 また身元がしっかりしていることが条件なので、あまり斡旋所(桂庵)などの利用はなかったと思います。

 大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。

 詳しいことは、たとえば小泉和子『女中のいた昭和』などがお役に立つと思います。末尾にある読者の書評も面白い。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727921/chickensoupwi-22/

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられま...続きを読む

Q明治~大正時代の庶民が着た普段着としての着物

こんにちは。
今となっては浴衣で外出される方も多いようですが、実際に明治~大正あたりに生きた人々(特に男)が、普段着として着物を着る場合、どんな服装だったのでしょうか?
どこを調べても、重々しいもの(ごっつい袴だったり羽織だったりを着たもの)しか出てこないのでこんな格好毎日してるわけはない…と思いつつ見ているのですが、どうなんでしょうか?

昔の人がどんな格好をしていたか、またそれの画像はありませんか(通販とかで売っていればそこのサイトを張ってもらえれば画像が見れるのでうれしいです!)?

どうか皆さんご教示願います。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

当時の庶民の、特に男子の服装や格好だけを集め、まとめた本・画集・写真集はちょっとないのではないでしょうか。
いろいろな風俗や日常を写した写真やスケッチ等の画像を丹念に拾い集めて、自分自身で作り上げていくしかないと思いますが。

あまりパッとしたものではないかもしれませんが、参考までに
   http://oldphotosjapan.com/ja/period/%E6%98%8E%E6%B2%BB

Q明治時代の服装について

明治時代の服装についてなのですが、私のイメージでは江戸時代までは男性も女性も和服(男性=袴、女性=着物)なのですが、明治時代に入ると西洋化も進んで、男性はズボン、女性は袴?みたいな感じでして。
このイメージは合っているのでしょうか?
この場合、男性で袴を穿いていたり、女性で着物を着ているというものはなかったのでしょうか。
あと、男女の学生の服装も教えていただけると嬉しいです。
お願いします。

Aベストアンサー

今の「着物」のイメージは、明治から昭和初期にかけての物です。
女性は、江戸時代には、今の着物で一般的な太鼓結びもしていませんし、帯締めもしていません。訪問着と呼ばれるものができたのが明治時代、つけ下げや名古屋帯など、現在主流の着物のほとんどは、もっと後です。
男性も「着流し」と言って袴をつけない着方がほとんどです。本当のフォーマル、大名が江戸城にご機嫌伺いなどの場合は、裾を引きずる長い袴ですしね。

明治時代には、庶民は着物。
軍人や華族の一部エリートが洋服。しかし、この時代の洋服はいわばフォーマルであって、日常の衣服は着物だったようです。
女性の袴姿というのは、明治30年頃に、女学校から始まったそうです。着物でいすに座ると、どうしても裾が乱れます。裾を乱さないために袴を使う。つまり、この時代には女学校に行くような特権階級のお嬢様でも、日常は着物だったわけです。この時代の女性の洋服というのは、すなわちドレスのことだったんですね。

大正になって、庶民にも洋服を着る人が出てきます。モボとかモガとか言われる人たちですね。大正末期から昭和初期です。
もっとも、この時代でもまだまだ着物が主流です。特に女性は。今「アンティーク着物」と呼ばれている物は、大正から昭和の物ですから。
男性は、外では背広、家では着物、になっていたようです。
大正12年に関東大震災が起こり、東京では、これをきっかけに洋装化が進みます。というのも、この後、建てられたアパート類に、洋室が取り入れられはじめたためです。明治の女学生同様、着物で椅子は、裾さばきが面倒ですから、必然的に洋装化が進みます。
と言っても、まだまだ着物も残っていますけれど。

昭和初期も、まだまだ着物が主流ですが、戦争が度重なり、絹や木綿を確保することが難しくなっていきます。必然的に布が少なくて済む洋服へシフトしていきます。
もちろん、動きやすいというのもあったでしょう。

明治から昭和初期の服装を、イメージしたければ、マンガがお勧めです。もちろん、本当に研究されるなら、その元になった専門書にあたるべきですが。
「着物」とか「洋服」と言っても、その時代のスタイルが今の物とはかなり違います。あまり、ご存じでない方が具体的なイメージを持つには、文章だけでは難しいでしょう。
一番よく言われるのは、「サザエさん」昭和初期の庶民の服装です。20台前半のサザエさんや子どもたちは洋服、お母さんのフネさんは家でも外出でも着物、お父さんは家では着物で外出は洋服。
私がお勧めなのは、市川ジュン氏の「陽の末裔」「天の黒 地の紅 海の青」「新編懐古的洋食事情」ですね。特に最後の作品はイメージがしやすいです。

今の「着物」のイメージは、明治から昭和初期にかけての物です。
女性は、江戸時代には、今の着物で一般的な太鼓結びもしていませんし、帯締めもしていません。訪問着と呼ばれるものができたのが明治時代、つけ下げや名古屋帯など、現在主流の着物のほとんどは、もっと後です。
男性も「着流し」と言って袴をつけない着方がほとんどです。本当のフォーマル、大名が江戸城にご機嫌伺いなどの場合は、裾を引きずる長い袴ですしね。

明治時代には、庶民は着物。
軍人や華族の一部エリートが洋服。しかし、この時代の...続きを読む

Q大正期の「1円」って今のどれくらい?

 100銭で1円といった単位についてはわかるんですが,大正時代の1円の価値が現在の価値に換算するといくらくらいの価値になるのか知りたいです。どなたかご存じありませんか?

 例えば,「当時の1円は現在の感覚でいえば●●円くらいだよ」というようなニュアンスで教えていただきたいのですが。宜しくお願いします!

Aベストアンサー

こんにちは♪
週間朝日編「値段史年表 明治・大正・昭和」から(参考URLからの孫引きですが)物価水準から比較をすると
【白米10kg】 大正 1年 1円78銭 平成16円 3,500円 から換算で 1,966円
【金地金1g】 大正 6年 1円36銭 平成16年 約1,500円 から換算で 1,103円
【国家公務員初任給】大正15年 75円 平成16年 201,376円 から換算で 2,685円
なので、1,200円から2,500円くらいの価値ということが言えそうですが、スッキリしませんね。
「これ!」というものがあれば教えて頂きたいです。

参考URL:http://www.mof.go.jp/singikai/kinka_kenkyukai/1_auctioncatalog/02.pdf

Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Q「仕舞う」という漢字表記について

「仕舞う」という漢字について、質問があります。

「しまう」は「終う」と「仕舞う」と2つの表記がありますが、なぜ「仕舞う」とい
う漢字表記なのか、何かもともと別の意味があるのか、を教えていただきたいのです。

「仕舞」という能楽用語があるようですが、それと何か関係があるのでしょうか。
「終う」と「仕舞う」2つの表記の使い分けなども、教えていただければ幸いです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「しまう」には「了う」という表記もあります。
「仕舞う」だけは常用漢字表の音訓で書き表せますが、「了う」「終う」は表外音訓になります。
公用文や新聞では仮名書きの「しまう」を使うことになっています。

いくつかの辞書を見た限りでは、「しまう・しまい」の見出しの漢字はまちまちで、使い分けには触れていません。
また、能楽の「仕舞」との関連などに触れた辞書も見当たりません。能楽の「仕舞」を見出しに立てている辞書も、「しまう・しまい」との関連は全く触れていません。

ということで、「しまう・しまい」を「仕舞う・仕舞い」と書くのは、おそらく当て字であろうと思われます。

『広辞苑』
 |し‐ま・う【仕舞う・了う・終う】
 |し‐まい【仕舞】 …終りの
 |し‐まい【仕舞】 …能楽の
 |終 〔漢音〕シュウ 〔訓〕おわる・おえる・ついに
 |了 〔呉音〕〔漢音〕リョウ 〔訓〕おわる・しまう・さとる
『大辞林』
 |しま・う【仕舞う/▽終う/▽了う/▽蔵う】
 |しまい【仕舞(い)/▽終い】 …終りの
 |しまい【仕舞】 …能楽の
『大辞泉』
 |し‐ま・う【仕舞う・▽終う・▽了う】
 |し‐まい【仕舞(い)・▽終い・▽了い】 …終りの
『明鏡』
 |し‐ま・う【仕舞う・▽終う・▽了う】
 |し‐まい【仕舞う・▽終う・▽了う】 …終りの
 |し‐まい【仕舞】 …能楽の
『新明解』
 |しまう【《終う】(「仕舞う」とも書く)
 |しまい【仕舞(い)】 …終りの
 |しまい【仕舞】 …能楽の
『岩波』
 |しま‐う【仕舞う】
 |しまい【仕舞(い)】 …終りの
------------------------------------------

堀井令以知編『日常語の意味変化辞典』(東京堂出版)には、
 | しまう 仕舞う
 | 終りにする。片付ける。シはスル(為る)の連用形で「仕」は当て字。
とあります。

室町時代には「成し遂げる」の意味で使用。「終りにする」の意味は江戸時代からの用法。さらには「入れ収める」「片付ける」「殺して始末をつける」の意味も。補助動詞としての「シマウ」は江戸時代からで、「~し終える」の意味や強調としても用いられたとのことです。

能楽の「仕舞」は、これらの「しまう・しまい」とは意味のつながりが全くありません。たんなる憶測ですが、音が同じ「仕舞」の表記を借りて「しまい」に当てたのかもしれません。

「しまう」には「了う」という表記もあります。
「仕舞う」だけは常用漢字表の音訓で書き表せますが、「了う」「終う」は表外音訓になります。
公用文や新聞では仮名書きの「しまう」を使うことになっています。

いくつかの辞書を見た限りでは、「しまう・しまい」の見出しの漢字はまちまちで、使い分けには触れていません。
また、能楽の「仕舞」との関連などに触れた辞書も見当たりません。能楽の「仕舞」を見出しに立てている辞書も、「しまう・しまい」との関連は全く触れていません。

ということで...続きを読む

Q電話の普及について質問です。

電話の普及について質問です。

昭和初期(満州事変)らへんで電話の普及率はどれくらいだったのでしょうか。
夫が他殺された件を妻に伝える方法で悩んでます。


よろしくお願いします。

Aベストアンサー

昭和ひとけたの頃の東京の話です。
父が役人(公務員)だったので、役所が自宅に電話を引いてくれました。
回り近所の10軒近くがうちの電話を利用していました。
結構電話を借りに来ますが、掛かってきて呼びに行くのもありました。
名刺をもらった事があり、見たら呼び出し電話が載っており、うちの
電話番号と名が書いてありました。(ちゃっかりしています)
50m位離れた知り合いもおり、呼びに行かされるのはいやでした。
相手が留守の時も多くありがっかりです。
利用者はいくらかの通話料(お礼か?)を置いていくようですが、細かい
話は不明。

公共施設か大きい店には電話があり、そちらの利用者が多かったようです。
うちの例で見ると、人口100人あたり2,3本の電話という事です。

ところで緊急時の電話連絡は、個人では難しかったと思います。
役所、会社、金持ち間などでしょうね。
庶民は先方に電話がなければ、先答にある電報を使いました。
田舎では電話を引いた家は殆ど無かったのではないでしょうか。

昭和9年茨城県の祖母がなくなり「ハハシス・・・・」の電報が来ました。   
朝亡くなり葬儀の手配をし、昼ごろ打ったようですが、夕方早く来ました。   
母が役所の父に電話し早く帰った父はその夜立ちました。    
電報は以外に早く着き役に立ちました。

田舎でも電報電話局はあり、夜中でも電報は受付ます。
ただ伝送処理や配達がおくれるので、深夜受付は昼間の受付より時間が
掛かるようです。
うちの場合も深夜に依頼したと思われる「ハハキトクスグカエレ」の電報は
朝には間に合わず、「ハハシス・・・・」の少し前に着きました。

緊急時の電報連絡の見本は明治9年、熊本新風連の乱で、鎮台司令官の
種田中将が自宅で殺されたとき、一緒にいた妾が東京の親元へ打った電報
「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ(旦那はいけない、私は手傷)」
が有名です。
主人が死んだあと、自分の安否を気遣う両親に、軽傷は負ったが心配ない
といち早く知らせ、新聞等より早かったかも知れません。

参考URL:http://park.org/Japan/NTT/DM/html_ht/KA001300_j.html

昭和ひとけたの頃の東京の話です。
父が役人(公務員)だったので、役所が自宅に電話を引いてくれました。
回り近所の10軒近くがうちの電話を利用していました。
結構電話を借りに来ますが、掛かってきて呼びに行くのもありました。
名刺をもらった事があり、見たら呼び出し電話が載っており、うちの
電話番号と名が書いてありました。(ちゃっかりしています)
50m位離れた知り合いもおり、呼びに行かされるのはいやでした。
相手が留守の時も多くありがっかりです。
利用者はいくらかの通話料(お礼か?)...続きを読む

Q軍人が気兼ねした時代。

大正軍縮の時代、軍人(兵隊さんと呼ばれる位の人)には嫁の来手がなかったとか、電車に乗っても白い目で見られたとか聞きましたが、ホントですか。
具体的な事例があれば(例えば新聞・雑誌記事)を教えて下さい。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

投書欄が中心のため偏りがあるかもしれませんが、
下記<研究ノート>にて当時の軍人イメージが集約されていますので、
ある程度はそのイメージが捉えられると思いますが、如何でしょうか?
(欄外注記もお見逃しなく^^)

・「<研究ノート>両大戦間期における軍人のイメージ:新聞投書欄を中心として/谷口俊一」
『京都社会学年報第8号/京都大学大学院文学研究科社会学教室/2000.12』(147-165頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000483214

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^


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