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栗田艦隊はなぜ「運命の反転」をしたのでしょうか?
判断を誤ったのでしょうか?
それとも臆病風に吹かれたのですか?
また、ミッドウェー海戦では損傷した味方の重巡をほったらかして行方をくらました逃げ腰と評判のある栗田がなぜトップの司令官だったのでしょうか?

A 回答 (4件)

あくまで個人的な想像ですが。



当時の軍幹部のほとんどが「もう戦争には勝てない」と思っていたと思います。物量の差はあまりに圧倒的で、戦術レベルでひとつふたつ勝ったところで大勢に大きな影響はありません。特にマリアナ海戦で日本軍は日本軍的に理想的なタイミングで出撃した(日本軍は敵を捕らえ米軍はまだ日本軍の位置を特定できなかった)にも関わらず米軍に対し損害を全くと言っていいほど与えられずさらにこちら側はほぼ完全に全滅の憂き目に遭ったわけです。

レイテ海戦ともなると、もうここでちょっと勝利をしたところで結局は敗北することに変わりはないと皆心ひそかに思っていたんじゃないかと思います。
しかしながら、彼らは軍人であり政治家ではないので「もう勝てそうにないですからやりません」とはいえません。現代のサラリーマンも、もう会社が倒産しそうだとわかってもほとんどの人はそれでも真面目に会社に向います。それと基本的には同じです。
であれば、提督としては「引き際はどこか」とどこかで考えていたのではないかと思います。なにしろ戦艦には一隻に数千人もの乗組員がいます。そして、沈めばほとんどの乗組員が戦死します。勝っている戦さならまだしも、負け戦さなら洋上に漂う仲間も置いて帰らなければなりません。つまり、「善戦しつつもちょうど良いところで引き揚げる」というタイミングを見計らっていたのではないかと思います。

実際問題、もしレイテに突入していたとしても、その後米艦隊に包囲されそれこそ一隻残らず全滅になった可能性が高かったと思われます。そして栗田艦隊は護衛空母と駆逐艦で構成された弱小艦隊に善戦されて動きを阻まれてしまいます。戦争も三年目となり、優秀な人材がほとんど失われてしまった当時の日本軍の質も相当落ちていました。栗田提督始めベテランの将官たちは実務を仕切る中間管理職の質が落ちていることも実感していたと思います。
このまま頑張っても戦果は望めないし、むしろ袋の鼠となるより逃げ口があるうちに逃げたほうがいいと判断したのではないかと思います。
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この回答へのお礼

そうかもしれないですね。
作戦自体に相当無理がありましたね・・・

お礼日時:2009/09/29 20:57

漫談です。



このとき、連合艦隊司令部は横浜市日吉の慶応大学に置かれていました。
そこから、レイテで戦っている部隊に命令をしていたわけです。

レイテの現場は、日吉の山にこもっている連中にこの現状がわかっているのか、という感情をもっていました。
司令部は、ここまで犠牲を払ってきたのだから来たのだからあと一押し、と思っています。地図をみればそう思えます。

これではいずれにせよ、マトモな結果に終わるわけがありません。
この状況で栗田提督の思考能力が磨耗して、ことなかれ、という発想に至ったと言う意見もあります。

揚陸した米軍は、陸揚げした物資が山積みの混乱状態のなか、2時間後に日本の戦艦が突っ込んで来ると、パニック状態になっていました。
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この回答へのお礼

ご回答頂きありがとうございます。

お礼日時:2009/09/29 21:01

攻撃機の攻撃に戦力を半減され、撤退行動に支障をきたすほど燃料も消費し、あの段階で撤退しなければ艦隊は全滅です。


もともと無理のある作戦で、実行してみたら全滅を覚悟しなければ戦果を得られない特攻作戦みたいなものだったんです。
その割には全滅を前提とした督戦命令は受けていないし、当事者達にも全滅する覚悟はなかったんです。
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この回答へのお礼

あの栗田ですから大それた覚悟などなかったのでは?
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/29 20:59

謎です



 証言する人が居ませんから (^_^;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4% …
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