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戦艦大和、武蔵につぐ第三番艦として建造されながら、途中で航空母艦へと作り変えられた「信濃」についての質問です。
戦艦大和の最後の模様はよく伝わっていますが、「信濃」についてはほとんど伝わっていません。
どういう最後であったのか知りたく質問いたします。
どういう戦いぶりであり、また戦死者は何人くらいだったのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

おお!実は父親が元乗組員なのです。



はっきり言って、信濃はしょうもない最後だったので
あまり取り上げる問題が少ないのだと思います。
単行本なども発刊されてますので、そういった物に
数字的なものなどは結構詳しく載っています。

で、最後についてですが、父は1乗組員で下っ端の兵卒でしたので
それほど詳しく分かっているわけではありません。
ただ、伝令兵でしたので、ある程度は把握できていたようです。

その時は、横須賀から呉あたりへ回航する時だったと思います。
出航していくらもたたないうちに、潜水艦を発見したの
だったと思います。
ただ、見失い(たしか信濃の船体の下に隠れていた)
いきなり魚雷にやられたのだったと思います。

不沈艦だから大丈夫という事だったらしいですが、
艦自体は、まだ工事中(模型にあるような機銃や砲塔は
ほとんどなかった、飛行機も積んでいなかった。
航海中も内部で工事が行われていました)
で、隔壁なども必ずしも完成していなかったようです。
で、時間はかかりましたが、結局、沈んでしまいました。
でも、沈むまでに間があっただけに、かなり生存者がいました。

信濃自体は、前述のように戦うというような状況ではありませんでした。
護衛の駆逐艦が、潜水艦を追って行きましたが、
取り逃がしました。
戦後、その潜水艦の艦長が信濃撃沈の様子を語っています。

生存者は(父も含めて)護衛の駆逐艦に救助されたのですが、
その駆逐艦は、潜水艦を追って行ってしまったので、
救助されるまで、何時間も海の上を漂っていたそうです。
その後は、機密保持のため、終戦まで
瀬戸内海かどこかの島に軟禁されたそうです。

戦死者など具体的な数字はすぐに分かりませんが、
まだ、艤装中や、航空関係の兵が乗っていなかったので
乗組員が少なかった事と、
(2千名という記述をみつけましたが、、)
沈むまでにかなり時間がかかった事で、必ずしも
多くはなかったようです。
(戦死者の方にはご冥福をお祈りします)
信濃会という生存者の会があると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
大変貴重な証言です。
工事中であったならば仕方がありませんね。
信濃の船体の下に隠れていたとは大胆不敵な潜水艦です。
生存者が多かったのがせめてもの救いです。

お礼日時:2004/05/30 13:20

信濃が沈んだ原因のひとつに、乗組員の訓練不足があります。

同じ空母の大鳳が魚雷1発で沈んだのも訓練不足があげられています。戦争も末期になると十分訓練ができない状況でした。信濃は呉で艤装や訓練をする予定でした。潜水艦の回避も訓練不足でうまくなかったこともあげられます。(日本で潜水艦からの回避が上手だった艦長は少なかった)
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>No.2さんの紹介してもらったサイトでは魚雷一発となっていました。



硫黄島の話ならともかく、戦闘にさえなっていない状態の沈没ゆえ、日米ともに生存者だらけなので、正確な資料が残っているはずです。

私は、大昔に書物でその事実を知り、回答の前にいくつかのWebsiteで再確認しました。
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確か、完成後すぐ米軍の潜水艦に撃沈されたんだと記憶しています。


大和は、最新の防水構造でしたから多分欠陥があったんでしょう。
これは、余談ですが大和型は欠陥だらけ(この時代に戦艦を作る自体間違いなんですが・・・。)で、大和も防水構造に欠陥があって沈没しましたし、武蔵に主砲は1発撃っただけで標準機が壊れ、仲間が仲間を殺す結果になってしまいました。
また、もう1つ言わせてもらうと、客船や戦艦から空母に改装したものは、だいたい欠陥があり、たいした戦果をあげずすぐ沈んでいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
戦艦大和の防水構造はすぐれていたとおもっていたので、欠陥があったとは意外です。(「その時歴史は動いた:戦艦大和沈没」を見ていたので)
武蔵は主砲に欠陥があったのですか?
普通テストするはずなんですが。

お礼日時:2004/05/30 13:24

戦いにはなっていない。



クジラ(信濃)がメダカ(米潜水艦)に見つかって、少々逃げ回ったが、4発の魚雷を受けただけで、みごとに沈んだ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
不沈船戦艦大和と同じ構造のはずなんですが、不運が重なったのでしょう。
No.2さんの紹介してもらったサイトでは魚雷一発となっていました。

お礼日時:2004/05/30 13:13

「信濃」の生涯については、過去に有名な著作が多数出ています



有名なのは豊田 穣の↓(その1)でしょうか?
「空母「信濃」の生涯―巨大空母悲劇の終焉」/豊田 穣/光人社NF文庫
ISBN:4769822758
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/ws …

また、こんなページ↓(その2)も見つけてしましまいた。
http://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_63.html

「信濃」は建造中に工事の都合で神奈川県から広島県へ輸送されている途中
和歌山県で沈没したってかんじですね。
戦いぶりが伝わっていないのも当然です。そもそも「戦い」なんてしていないのですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
たった一発の魚雷で沈むとはウソのような「世界一の大きさの航空母艦」ですね。
相手の潜水艦もおどろいたことでしょう。

お礼日時:2004/05/30 13:11
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
起工1940.5.4 、進水1944.10ですからずいぶんと時間をかけて造ったものですね。

お礼日時:2004/05/30 13:01

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