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よく人生論や仕事のやり方で「先に出来ない理由を言わない」というアドバイスがあります。
例えば「今月の売上目標は前年の2倍」と上司が言ったとき、否定的意見を並べない、先ずは実行するというやつです。

これは悪魔の証明と関係がありますか?可能性の不存在を論ずればキリがないからですか?
存在を論ずるにしてもキリがなく、何れにしても水掛け論になると思うのですが。

それとも?「出来ないと思い込むから出来ない」という自己暗示を戒めたものと解するべきでしょうか?

あるいは、会社内の処世術として?

A 回答 (8件)

>>ふと思ったのですが、悪魔の証明の射程範囲というのは、事実の存在・不存在に限られ、可能性の存在には適用されないのでしょうか?



同じように適用されると思いますよ。
例えば、「可能性がある」といえば「ある」ことの証明をすればいいのですからね。「可能性がない」ということの証明は大変ですよね。
裁判における判例などの引用は現行と同一なものでないのに推量で「可能性がある」ことを証明しているわけですからね。
むしろ過去の判例を引用して現在の裁判に適用できる可能性だけを論じているだけなのですが、なぜか信じてしまう人が多いですよね。これなんかは「可能性」が「存在」に転化されるマジックですね。
>>可能性と蓋然性をわける境はどこにあるんでしょうかね?
マジックを駆使できるかどうかだけのことですね。
つまり、人の判断はあいまいなので藁をもつかみたい心境であるわけです。その心理に可能性と蓋然性をわける境があるのでしょうね。
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経験からですが、その目標を達成するためには、こういう前提条件が必須です。

と言うと、じゃあその前提条件がクリアされないと、目標達成できないのか?と聞かれ。はい、しかし、前提条件がクリアされれば、目標達成する可能性に近づけることができますので、この前提条件をクリアすることが越権行為でないのなら、その為にかかるコストや、時間、方法も考えてみますが、どういたしましょうか。それとも、そちらに、お任せした方が良いでしょうか。とこちらとしては建設的に言ったつもりでも、何故かやる気がないと思われる時は、その上司は無能でしょう。
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>これは悪魔の証明と関係がありますか?可能性の不存在を論ずればキリがないからですか?



悪魔の証明というのは良くわかりませんが
可能性の不存在を論ずればキリがないというよりは「そういう判断を的確にできる人が存在しないと想われることが多いため」ではないでしょうかね。

それが実現不可能であるのならば
「そもそも、実現しようとしているのに、不可能がわかっているのであれば、する必要はないもの」ということにもなりますので。

ただ「何を主体として相手が持ってきているのか」にもよるので
例えば「今月の売上目標は前年の1.2倍」を目標としているのにも関わらず「部下に全身全霊を尽くさせるために2倍」と言っておくとか。

もう一つとしては
「できない方向性でいくとついできない方向性で話が進んでしまいます。」

その反面
「できる方向性で物事を進めていくと、できる方法をみんなが四苦八苦(実際は試行錯誤するだけで済むときもありますが)して“最初はできないと思っていた道が見えてくる可能性を比較的出現させやすいため”」だと想われますね。

実際はどっちがいいとは言えませんけれどね^^;

確実にできないと判っているのなら行き成り「それは無理です、理由はこうこうだからです。」といって、最初から別の道を考える手もあれば

「できそうにないけれども、できるとしておいて、後で本当にできる可能性をみつけて成功させてしまう。」という風にも持っていけるので。

一見当たり前すぎることで意識していないだけで
悪魔の証明がそもそもなんなのかわかりませんが、もしかしたらそういう概念が存在しているのかもしれませんし、なんとなく言ってしまっている人もいるでしょうし、実際に部下に何倍もの力で働いてもらうために言っている人もいれば、可能性を見出し易くなるから、として言われていることもあったりと、案外と幅広い意味で「先に出来ない理由を言うな」という言葉は在るのだと想いますよ。

直接の回答にはなってないと想いますので、あくまで参考ください。
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現実は実践の世界だから。


机上の空論では、どんな変化も起こすことができないから。
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>悪魔の証明と関係がありますか?可能性の不存在を論ずればキリがないからですか?存在を論ずるにしてもキリがなく、何れにしても水掛け論になると思うのですが。



現実問題としてお金を稼がなくては食べていけない位置にいるサラリーマンや自営業の場合1円にもならない悪魔の証明などというものを論じているヒマがあったら今、今日、金を稼ぐほうが大事だからですよ。
関係があろうがなかろうが会社の経営とは全く関係がありませんから。

そういうものを1年中論じていても絶対に飢え死にしない立場にたったら好きなだけやればよろしいのです。
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この回答へのお礼

会社の経営は何らかの根拠があってやっていることです。根拠について証明責任はないんでしょうか。

お礼日時:2009/10/15 03:55

「先に出来ない理由を言うな」というのは経験的事実に基づいた言葉ですね。


どうすれば目標が実現するかを考え・実践するというのが経済活動と考えられているからですね。利潤の拡大・再生産が企業活動だからといったほうがいいのかもしれませんね。これは企業理論ですから企業理論を個人に優先しているというだけですね。
企業理論を個人に当てはめても、実社会では人間程度の知能で考えた事柄が実現しないことはないという厳粛な経験的事実から「先に出来ない理由を言うな」といわれていますね。
ただ、個人の能力にもよりますので、パレートの法則なんかが出てくるのでしょうね。目標は目標で平均七割達成できればいいのでしょうね。でも、全体の2割ぐらいの人は実際に100%目標を達成するんですね。
そこで、足を引っ張る8割に対する戒めが「先に出来ない理由を言うな」でしょうね。

この回答への補足

ふと思ったのですが、悪魔の証明の射程範囲というのは、事実の存在・不存在に限られ、可能性の存在には適用されないのでしょうか?

確かに可能性のような曖昧なものは、存在・不存在の双方から論じても水掛け論になりますから、悪魔の証明の対象外かも知れません。
ですが、可能性でも「蓋然性」(ほぼ間違いなく存在する)となれば、悪魔の証明の対象になるでしょう。現実に裁判の証拠調べでは、証明責任について悪魔の証明が適用されますし。

可能性と蓋然性をわける境はどこにあるんでしょうかね?

補足日時:2009/10/15 03:52
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ジェネレーションギャップです。



安保世代の方に
a)出来る
b)出来ない
という「アーギュメンテーション」を根拠として人間の「種類=カテゴリー」を「党派的に区分けする」性質があるからです。(天国/ユートピアは存在するかの議論を参照のこと)

差別意識です。

大本の論理は、「よなおしは、可能か?不可能か?」です。

派生系として良心は、あるか?ないか?

ひどい人になると「常識」「基本」という言葉が出ます。

「マスメディア」世代は、一方通行の論に慣れてしまっており、
「同意を得られなければ敵」と判断する傾向にあります。

会社内の処世術です。「ダメ上司をほめる」事が大事です。このQ&Aにも実例がたくさんあります。

弁証法と称して屁理屈をこねる「経済関係」の人に多い現実です。コレは日本に独特の現象であるということも、ここに、付け加えておきます。

救いようのない場合、無神論者(OX主義)から転向し「自分宗教」を語り始め、人生の晩年になれば、欲求不満から、キリスト教信者を騙って権威ある著名人・偉人をさげすんでゆきます。

社会に実害を及ぼしている例としては、ねずみ講。
それに順ずるやから(あきんど)として
「能力開発XX」「サイエントXX」=マルチまがいの教団に多い現象です。
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この回答へのお礼

ねずみ講とまではいきませんが、どこの会社も大変ですから、結構こき使われます。あまりにアホな提案はバシッと論破してやりたい気もするのですが。とりあえず処世術として控えてます。

お礼日時:2009/10/15 03:38

 


上司は2倍を期待して無いから「出来ない理由が不要なの」
上司も出来ない事は判ってる。
努力の中で1.8倍になればOK、1.6倍でも許容できる。
 
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この回答へのお礼

なるほど!求められているのは、可能性の立論でもなければ、不可能の証明でもないわけですね。

私には、こういう根拠のない自信というのがないものですから、哲学に走ってしまいました。

お礼日時:2009/10/15 03:33

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