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真実を求める→疑いようのない確実なものがほしいから→苦しいから

救いを求める→苦しいから
違いますか?

A 回答 (9件)

 真実が救いなのではなく、真実の中に救いがある、といえるのではないでしょか。



 人はなぜ救いを求めるのでしょう。

 人はなんとなく救われたいと思う、その気持ちをはっきりとつかめていません。
 それは‘満たされない心’がどこかにあって、それが救われたいという気持ちになったり、真実が知りたいと思ったりすることになるのです。

 心にぽっかりと空白の部分があって、そこを何かで満たすことができれば人は満足するのです。

 人の得られる満足というものは様々。

 thymosさんは、ゆるぎない、迷いのない満足を、求めているように思います。

 と言う事は宗教的レベルでの救いだと思います。

 苦しいから真実を求める。
 苦しいから救いを求める。

 当然の気持ちだと思います。

 真実を求める=解りたい=理性で。
 救われたい=安心したい=感情で。

 解りたいなら、学問を。
 禅が理解を深める手助けとなるのではないでしょうか。

 救われたいなら、念仏を。
 親の手から離れた幼子(おさなご)は‘泣いて’母のみ胸を求めます。
 マリア様にい抱かれる幼子(おさなご)になって‘救われた’気持ちを想像してみてください。

                 独り言(人の心に宿る‘良心’は神の心の反映)
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探求心は、いずれ確信に成って行く。

不安が無いなら、すんなりと。
苦悩に至る場合は、これで間違いと太鼓判が押せないから。
「死」の連想は、最期の形が分からない。
これを考えても、無意味に近い。誰にも分からない。
苦悩が有るから、救済を欲する。
救済が有ってから、苦悩に至る訳が無い。
救済を得ての現状維持は、難しくは有る。
最初から救済が有るならば、誰一人とて、苦労はしない。
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>真実=救い?



α真実=救い。
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真実=救い=?


まだ=は続きます。
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 No.1です。



 ★ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自然本性とはなんでしょうか。自然本性とは自然本性なのかもしれませんが、、苦しい状態でなく、かつ疑いようのない確実なものはなにかと言われれば自然本性と言うよりは自分は「死」を連想してしまいます
そう考えると自然本性とは死に限りなく近いものであると感じてしまうのですが、それとは全く別物ですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 生まれながらにそなわっているものが 自然本性です。
 身体および精神もそうですし 精神の能力もそうです。それは 記憶と知解と意志の三つを基本とすると捉えています。(いろんな分類や捉え方があると思います)。
 
 《死》は 確定しているといった感じなのでしょうね。
 問題は 《すくい》というとき 生きて救われたほうがよいと思うことです。
 自然本性にすくいがあるというのは 例の《仏性》を思い浮かべると分かりやすいのではないでしょうか? これも もともと仏性を誰もが持つという想定ですね。
 《想定》の問題になっているようなのです。
 どうでしょう?

 * 《想定》は 《物語》と言いかえてもいいのではないでしょうか? 《良心》という言葉も いわば想定ですね。証明できないし しなくてもよい公理として想定されているのだと思います。
 そのように 《死》に到るまでのあいだの人生において 物語を編んでいます。あたかもシナリオがすでにあるかのように。
 ○ 《自然本性における初めの救い→意志行為におけるへそ曲がり→苦しみ→真実を問い求める→初めの自然本性にあったと知る=われに還る》
 ☆ これの繰り返しとしての《たゆたえども沈まず》の動態 そういう過程としての人生 むしろこちらに《疑いようのない確実なもの》をひとは見ているのかも知れません。

 * もっと言えば この自然本性における初めの救いという《うそ(虚構)》のほうが わたしは好きだから こうやって述べているということなのかと思います。その程度にとっていただかなくてはならないかも知れません。
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人が、真実を知り救われる時は、人が、脳が宇宙で不調和な存在である事に気づき、人が、脳への依存を止めた時です。

人は、脳という井戸の中でぐるぐる回っています。脳を捨てると、井戸からでる事が出来ます。そして富士山の頂上より世界を見る事ができます。これは私の体験です。
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真実=救い?



一般的に真実は救いにはなりえませんね。
いわしの頭でも石でも壷でもありがたいと信じればすくわれると考える人が多いですね。ちょっと考えればおかしいなと思うことでもほとんどといっていい人にはそれが救いですね。むしろ真実からは距離を置いているというのが現実でしょうね。例えが極端ですが、お金、家・財産、学歴、家族、地位、名誉などなども同じですよ。
ただ、真実で救われる人もいることも事実ですね。この人たちは本当の真実を求めている人たちですね。ごくわずかですがいますね。これらの人は全てを一度白紙に戻して考える人ですね。地位や名誉や有名度、学問、学説、通説、モラールに無関係に何が妥当で真実かを追い求め続けている人々ですね。
真実を知るために3000年に一度咲く優曇華の花(仏陀)を待ち続けるということもあるわけですね。その一瞬の機会のために永遠の今を生きている人もいるのですね。
真実というのは得るに困難ですね。
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不安や恐怖も苦しみのひとつ、しかし、畏れ(神の不興を買うことによる神罰)は苦しい状態になる以前の心理ですが、



富んでいても、健康でもそういうものは不確かなもの、まして老いや死は確実にやってきます。

真実が救いであるという前提があるのはなぜだろう?

それは、現実にある目の前の苦しみを忘れたいからかもしれません。

人生はやはり、苦しいもののようです。

それと、変なたとえですが、興味のある分野で、あるクイズを出されたとします、
もともと興味のある質問であっても答えが「解りません」
それはある意味苦しいことかもしれませんが、それよりも「知りたい」という欲求があるからだと思います。

宇宙の果てを考えても、人間にはどうにもなりませんが、知りたい欲求が生きる糧になるのかもしれません。

真実を求める理由は、苦しいとは限らないと思います、でも、ほとんどの人は生きる苦しみに納得出来ずに、現実を否定したがるのでしょう。
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 こんにちは。



 そういう見方もできます。
 とえらそうに言うのは 
 ○ はじめの自然本性
 ☆ を想定するからです。そういう場合には 別の見方が成り立つという考えです。
 すなわち ことは単純です。
 ○ 《疑いようのない確実なもの》がわれわれの自然本性にはそなわっている。もしくは それとつながっている。
 ○ われわれは 自然本性においては 《苦しい》状態にあるのではない。
 ○ むしろ自分がその意志行為において 多少はへそを曲げて欲しいと思ったものを求めた。その結果 苦しい状態になった。

 ○ すくいはすでに初めにあった。そなわっていた。もしくは すくいにわれわれは自然本性においてつながっていた。
 ○ この自然本性に或る日或る時さからった。このへそ曲がりによって 苦しみ悩む。よって 初めの状態を求める。

 どうでしょう。

この回答への補足

こんばんは
いつかあなたさまのいうことが理解できるようになりたいと心のどこかで思いながら日々を過ごしておりました
今回も結構回答を繰り返し読んでみたのですが完全な理解には至らなかったようです
見当違いになるかもしれませんが少々補足質問させていただきます
自然本性とはなんでしょうか。自然本性とは自然本性なのかもしれませんが、、苦しい状態でなく、かつ疑いようのない確実なものはなにかと言われれば自然本性と言うよりは自分は「死」を連想してしまいます
そう考えると自然本性とは死に限りなく近いものであると感じてしまうのですが、それとは全く別物ですか?

補足日時:2009/10/27 00:16
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