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宗教の成立要件について1つ確認しておきたいのですが、この公式あっているでしょうか
つまり、右辺の3つが揃わないと宗教は成り立たないと。

※添付画像が削除されました。

A 回答 (36件中1~10件)

.


んな事はない。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …


wiki 神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E
の抜粋

仏教
仏教は本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。
原始仏教は煩悩から解放された涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。

宗教は、複雑で難しいよ。
.
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この回答へのお礼

>宗教は、複雑で難しいよ。
真理は常に単純明快なものであるはず。
別に難しく考える必要はないはずです。
もし宗教が複雑で難解なものであれば、そこに真理はないのだと直感しますがどうでしょう

お礼日時:2010/01/09 17:48

>3つが揃わないと宗教は成り立たない



いいえ、違います。

大分前にビルマの方と話をする機会がありました。その方が奈良の大仏のを見て感激して、そこに座り込んで手を合わせていたら、日本人の観光客達がその方を珍しそうに見ていたことに驚いたそうです。日本の人達はだれも膝間付いていない。大仏様の前に何のために来ていたのでしょうね、と言っておりました。さて、その方にビルマでの仏教について聞いたら、仏教には神様や仏様がいないのですよね、と言ったのが大変印象に残っています。もしかしたら、禅がそれに近い考えを持っているかもしれませんね。ビルマは上座仏教の国で、日本の大乗仏教とは違うので、同じ仏教でも考え方が随分違うようです。

それに対して地獄の無い例として、日本の神道に関しての江戸時代の指導者の一人、平田篤胤の意見があります。彼は『霊能真柱』の中で黄泉の国について説明しながら、極楽や地獄があるわけではなく、死者の霊は何処か遠い所に行ってしまうわけではなく、我々の周りにいて我々子孫を優しく見守っているとのだ言っており、黄泉の国を地獄とする彼の先生の本居宣長の意見には反対だと書いてありました。

また、中世から江戸初期の切支丹バテレンと仏教の僧侶や儒者との間の論争集が残っております。私の記憶では、その中の確か鈴木正三の『破切支丹』だったと思いますが、「未開で下等な宗教ほど魔法や魔術を述べ立てて、未熟な者どもを恐がらせたり喜ばせたりしてたぶらかし、それを切っ掛けに入信させようとする。高度な宗教ではそのような子供騙しはしない。ところで、キリスト教には奇跡と呼ばれる子供騙しが多すぎる」と論破しておりました。もしかしたら他の著者の文献だったかもしれません。切支丹論争関係の原本は幾らでも出版されておりますので、もし興味があったらご自分で探してみるのも一考かと思います。

いずれにしても、こと程左様に、天国地獄の有る無し、魔術や奇跡に関する考え方は文化によって違うようです。
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この回答へのお礼

大仏様というのは仏の偶像のはずですが、その大仏様を神様や仏様をもたないビルマの人が熱心に拝むというのはこれは一体どういうことなのでしょうか、まったく分かりません。
大仏様を拝むのは仏を拝んでいることではないのでしょうか。
イスラム教には強力な神がいますが、別の理由により彼らは決して大仏様のような仏像を拝んだりはしません。イスラム教徒にとってはこのようなこと(偶像崇拝)は最も卑しむべき行為とみなされているらしいです。
仏教は地獄については実に事細かく説明しており(八大地獄、十六小地獄など)、地獄について仏教の右に出る宗教は他にないのではないかとおもいますがどうでしょう。
もちろん宗教によって天国、地獄、神などの表現方法、呼び方は違いますが結局概念としては同一のものであり、必ずこの3つは登場すると考えますがどうでしょうか。

お礼日時:2010/01/09 00:36

#2です。


質問者さんは、

 何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

という歌をご存知ですか。西行が伊勢神宮を訪れた時に詠んだ歌です。そのビルマの方は、大仏様を見た時にかつて存在したお釈迦様に思いを致し、目の前の像に対してよりも、その心の中のお釈迦様に対して、かたじけなさにただひたすらに手を合わせたのだと思います。ですから、その話を聞いた時に私には何の矛盾も感じませんでした。私は、人々の苦しみを除き、その人達の幸せのために、あるは家族や国の人々の身の安全を守るために身も心も捧げ、あるいは、命まで捧げた方には、それが生きている方に対しても、また、既に亡くなった方に対してでも、心から頭が下がります。このことは宗教に関係なく、多分何方も同じではないでしょうか。

神道でも、神様に願いごとをするようになったのは比較的新しい現象であると、日本民俗学者の巨人柳田國男が言っておりました。昔は、心を清めて空っぽにし、神社の前で無念無想で頭を下げることが習いだったそうです。

>仏教は地獄については実に事細かく説明しており(八大地獄、十六小地獄など)、地獄について仏教の右に出る宗教は他にないのではないかとおもいますがどうでしょう。

ダンテの『神曲』の中の地獄篇はキリスト教における地獄を実に事細かく描写しております。実は、地獄に関しての想像は誰にでも出来ることであり、それをあらゆる想像力を巡らして事細かに描写することは、どんな文化でも、どんな時代の人にでも出来ることです。人生は誰にでも苦難の連続ですから、地獄の形容は誰でも簡単に納得してもらえるのです。それよりももっと難しいのは天国や極楽の描写です。私はダンテの『神曲』の天国篇を読んだとき、こんなところは1週間もいたら飽きるだろうなと思いました。ところが、あるとき源氏物語にも載っているあの恵心僧都の書いた『往生要集』を読んだときに、彼の地獄の描写もさることながら、彼の言う極楽は知的で大変な物でした。そこなら私も是非行ってみたいの思いました。

昔から、小説の類いで悲劇の描写で名著とされるものは幾らでもありますが、喜びをテーマにした作品で名著と言われる物は大変少ないです。実は、悲劇は誰でも体験することなので、作家の才能が特別に優れていなくても読者は共感でき、したがって名著の誉れを簡単に手に入れることが出来るのです。一方、喜びの描写は大変難しく、余程の才能が無くては読者を説得できません。喜びをテーマにするのは、何だか、歴史的に著名なクラッシック音楽の作曲家達が幾らでもピアノ協奏曲を書いたのに、バイオリン協奏曲はほとんどの作曲家では一生の間にたった一曲しか書いて来なかったことに相通じるものがありそうです。

私のインドの友人は「イスラム経の天国はキャバクラみたいなところ、キリスト教の天国はアナーキーで、ただ奇麗で良い香りがするだけの退屈なところ、ところがインド人が考えた極楽は、知的で深い喜びをいつまでも味わえるところだ。どうだインド人は頭良いだろう」と、イスラム教やキリスト教の人が聞いたら激怒するような冗談を言って自慢していました。

悲しい、不安だ、惨めだ、などと言うことは誰にでも出来るのですが、喜びを生産的に表現できる方は、なかなか居ないようですね。

神の存在を認める宗教あり認めない宗教あり、地獄の存在を認める宗教あり認めない宗教ありと、人間は何処までも知的で多様な深みを持っているようです。私は、そのような多様な人間の文化の中にたまたま生まれて来たことに対して、その幸運さに大変感謝しています。

この回答への補足

この回答を読んだ後、ヒンズーやイスラムについて少し調べてみて思うのですが、やはりヒンズーやイスラムよりは仏教の方が良いです。
ヒンズーやイスラムはまるで化け物の世界です。
たとえインド人がどうであろうと、こんなものには到底ついていけない、そう感じております。イスラムも同様です(ヒンズーよりは若干マシですが)。
仏教にもいろいろ問題はあると思いますが、まだこの2つよりは大分ましです。

補足日時:2010/01/10 20:54
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この回答へのお礼

イスラム経の天国はキャバクラみたいなところ、キリスト教の天国はアナーキーで退屈なところ...ですか
これはおもしろいですね、なるほどインド人ならそう言いかねないです
私も何人かインド人を知っていますが、彼らは宗教については圧倒的に自信をもっていますね。ヒンズーの教えは最強であると、ヒンズーの教えに勝るものはないと
世界中どこに行ってもぶれることがないというか自分たちのライフスタイルを変えようとはしない、だからインド人はどこにいても見ればすぐ分かる。
ヒンズーの教え、ぶれない心、日本人など到底太刀打できない精神を備えているようであります。
しかしヒンズーの教えもやはり、”天国 + 地獄 + 神”の枠内に収まっているようですが。

お礼日時:2010/01/09 13:02

「宗教をしない」のもひとつの宗教です。


「宗教をしない」という信条を持っているのですから。

この回答への補足

スミマセン、下のお礼は少々勢いあまりました、修正しないといけません

「宗教をする」も宗教、「宗教をしない」も宗教、まったくその通りです
ただ話によると無宗教は国によっては人間扱いされないらしい
なのでそのような場所では宗教しなくても適当にごまかすしかない
まったくもって無礼なはなしだと思うが、以前に仕事でサウジに言ったときそういうのを見てきているので申しあげます
 

補足日時:2010/01/14 14:31
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この回答へのお礼

「宗教をする」も宗教、「宗教をしない」も宗教
となると全てが宗教ということですか
宗教三昧、メデタシ、メデタシ、とこういうことですか

お礼日時:2010/01/09 13:22

古代エジプト。



人は死ぬと心臓をマアトの天秤の片方に置かれ、もう片方はマアトの羽が置かれ、マアトの羽より重かったらアメミットに食われ、釣り合いが取れたらオシリスが支配する死の国に行くとされた。

このオシリスの国が現在でいう天国のようなもの。
アメミットの心臓を食われたものは、再生できないとされる。
まあ 力技でやれば、アメミットに心臓を食われることを地獄に落ちたと表現してもいいのかもしれませんが、永遠の地獄って概念じゃあない。


yamaはリグ・ヴェーダでは最初に死んだ人間の名。
オシリスのように死者の国の王だったのですが後に死者の国が地下めいた概念になりだし、地獄の番人みたいな概念に変わりだした。
さらにエジプトのマアトと同じように審査するものという概念が加わり、日本では閻魔様と呼ばれている。



天国ってのは、ユダヤ教にはもともとなく、比較的後に作られた概念だそうです。
天の国を構成する人はユダヤ教のトップ12人で、<大衆者>と呼ばれていた。
ランクによりガブリエル とか ミカエルとか肩書きがあったそうです。

ってことで、天の国を構成している天使の名前を肩書きに持つ者はわれわれと同じ人間。



ヤマも人間。


オシリスは・・・・神格化してますが、もともと人間だったようです。
枝葉がついて神になっちゃったみたい。



日本のイザナミ。
うーーん 妙に人間っぽいですが、いろんな神様を生んだことになっている。
死んで黄泉の国に行ったとされますが、yamaの妻yammiの話が日本に伝わったとき、変化してイザナミになったのかも。
イザナミの支配する国が黄泉で、闇(yami)とも関連づけられ、悪いイメージになったんじゃないか と。


yamiの国が黄泉の国で、いわゆる地獄とするなら、日本で天国ってなんて呼ばれるのか?
高天原かな?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9% …
諸説がありますが、私は飛騨高山説の本を読んだことがある。

だったら行ったことあります 天国。笑


まあ 要するに天国・地獄ってのはたくさんの悪魔を生み出したキリスト教の概念だと思うんですね。
上記のように他の宗教もそうだってわけじゃないです。
ユダヤ教など、大衆者が構成していた集団が天の国でしたから。
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この回答へのお礼

イザナミノミコトとイザナギノミコトそして高天原、どうやら日本の場合は原始宗教と民話の世界に境界はないようですね。

お礼日時:2010/01/09 18:04

 科学は物質を以って物質の世界を解き明かそうというもの。


 宗教はこころを以ってこころ(精神)を解き明かそうとするもの。

 日本の宗教観は、昔は暗闇や天候など自然の大きな力を恐れ、そして敬うといったところから始まったように思っています。
 それがいつのころからか、個人のこころの苦しみを取り除こう、救おう、という要素が入るようになりました。
 現代は、それに加えて個人の心を浄化する事が宗教の目的であると、大衆も捉えるようになってきました。(と思います)

 なぜ人の心はいつも満たされていないのでしょうか。不安感があるのでしょう。

 心の安らぎってどんなとき、と考えると母の御胸(みむね)にい抱かれた幼子(おさなご)の姿をいつも思い出します。

 母と子、親と子。
 こうして連想していくと、我々の満たされない心や不安感があるのは『精神の親』を求めているから、ではないかと思うのです。

 そして『親』を求めるために、理性的な禅を行ったり、感性的な念仏をしたりしているのではないでしょうか。

 これからは、一人ひとりがこの満たされない気持ち、不安感に気づいて『親』の御胸に飛び込もうという心が「宗教心である」と考えたいものです。

 そう受け止めれば、天国+地獄+神は揃わなくても宗教は成り立つと思います。付随するもの、という事でよいのではないでしょうか。

 もっとも『親』は“神”に通ずるものがありますが。

 
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この回答へのお礼

>天国+地獄+神は揃わなくても宗教は成り立つと思います。付随するもの、という事でよいのではないでしょうか。

私も単に付随するものであってもらいたいのです。
しかし、単に付随するものであるとするのであれば大上段から十界論を説くのはなぜなのでしょう

お礼日時:2010/01/09 18:15

宗教・天国・地獄・神をどう定義していますか?



たとえば、
神を「全知全能の存在」と定義すると、多神教の神(たとえば日本神道やギリシアの神)は神ではないし、
神を「人間も能力を超越した存在」とすると、「仏」は神なのかどうかボーダーライン上になります。

で、儒教は宗教ですか? 倫理学であって宗教でない、という立場ですか?
儒教には、天国も地獄も神もどう広義に解釈しても全部なかったと思います。
※天帝(=神?)、仙人(=神?)、桃源郷(天国?)などがあるのは道教です。
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この回答へのお礼

多神教と1神教の違いなど大した意味はありません。別にこれらを区別したところで何の価値も生まれないでしょう。
人類の歴史おいて真の宗教など今だ誕生していないのです。実際、誕生しているとすれば宗教紛争、宗派争いなどあろうはずがない。
これまでにあったもの、現にあるものは単に社会を治めるためのツール、政治の道具にすぎなかった、つまりは天国と地獄などを用いて作った子供騙し程度の悪ふざけにすぎない、とこう考えますがどうでしょう。

お礼日時:2010/01/09 15:39

 大上段?に十界論を説くのはなぜか。



 仏教では人間の心の境地を十段階に分類できるとして、地獄界・餓鬼界・畜生界・・・・というように分けてます。
 このように名称をつけて心のレベルを表わしたのは分かりやすいから。一合目、二合目、三合目なんて表示するより。

 宗教は、信仰は、こんな事知らなくても不都合ということはないと思います。
 神や仏の世界に近づきたい、安らぎの世界に入りたい、といったゆがみのない正しい信仰心をもてるならば。

 でもそれが難しいので、地獄とか天国という世界を作り出して、衆生を仏の世界へ導こうとしたのではないでしょうか。

 そう解釈すれば、正しく導こうとするための方便(付随するもの)との受け止め方が出来ると思うのです。

 十界はあると思っています。だから“姿勢”が悪ければこれじゃあ地獄行きだなぁ、なんて思うことはあります。
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この回答へのお礼

>そう解釈すれば、正しく導こうとするための方便(付随するもの)との受け止め方...
う~ん、この説明は極めてアジア的というか、日本的なものの考え方ですね
すべて方便なのだから仕方ないでしょうという
どうやらこのあたりが仏教の限界のような気がしてきました
分かりました

お礼日時:2010/01/10 02:27

 こんにちは。



 たぶん成立要件としてなら 《ともかく〈神〉というたぐいの超越的存在》が何らかのかたちで《規範的な〈おしえ〉》に組み込まれていて それを言い広める人間たちがいるなら 集団としての宗教は成り立つでしょうね。《天国と地獄》は その教義の中に含まれます。《規範》というのはそのように褒美や罰が含まれるということでしょうから。


 いかにして宗教が発生するかについて考えるところをしるします。


 人間は 広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人と人との関係性を この宇宙の中で 持っていると考えられる現象が見受けられます。
 その昔 アイヌの間で こういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
 してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
    の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
    あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

 おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
 神体山(かむなびやま)であるとか神木とよばれた樹木そしてそれらの依り代としての神籬(ひもろぎ)などなど これらに身心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があったのだと思います。アニミスムともよびます。

 これをいいことに そこからは 自分でこの現象を操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があったり衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法ではなくて そうではなく このシャーマンの出番となる場合があったようです。
 何が何でも 自己の努力によって 自己の意識を突き抜けて(身心をい離脱してと言うのでしょうか) 何ものかの世界に行ってしまい さらにそこから 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニスムです。

 さらに時を飛びます。
 やがて あたかも初源のアニミスムの自然性を取り戻してのように しかも 新たな心性を 人は獲得したと思われます。単純に それは 時間の獲得によるものでしょう。
 農耕をとおして つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして つまりその種まきから取り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であることを知ります。
 要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく 死ぬのだという認識がからんでいるようです。時間的存在であることは 心性を高めて その精神および身体において 歴史知性を獲得したと考えられます。世界へ その時間的存在なる自覚において 入った。
 ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。

 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性のほうを備えているでしょうから(むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。
 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。
 ヨセは このムラムラのマツリを 一段高いところから(ふつうの歴史知性を超えたところの精神において)束ね《マツリゴト》として 社会制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。
 古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
  コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には 九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。
 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに 人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。

 つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びとと同じ地平に立っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったようです。
 嫌ったので 強引に 社会のいわば第二階に みづから上がって行ったのか それとも 人びとが その新型シャーマンに辟易して これを敬遠し 人びとの合意で これを社会の神棚に据えてまつろうということにしたか いづれとも推し測られます。(国譲り説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。
 要するに ここに 神の代理が 出現しました。見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。
 
 * ニーチェは 話になりません。神の代理とその権威の下に作られた宗教つまり 宗教の教義の神(つまり これは 観念です)に対して 必要のないけんかをふっかけているだけです。そのような神は 観念の神として はじめから死んでいます。

 * 愛とは 社会における人びとのあいだの ふつうの共生のことであるでしょう。神との共生も 個人にあっては信教・良心の自由において 伴なわれることでしょう。《神の代理》〔と自称する者〕との共食つまりマツリゴトはやがて歴史的に しかるべく揚棄されていくことでしょう。
 《まつり》と《まつりごと》から成る社会の二階建ての構造が しかるべく再編成されていくでしょう。わたしたちは 人がいいから永く 働き蜂に甘んじていたというわけです。イリ歴史知性の回復 万葉集いや億葉集のルネサンスということではないでしょうか。
 いやいや 《ヨセ》としてのスーパー歴史知性が指導したがゆえに 経済も社会もスーパー高度成長を成し遂げることが出来たのだと 反論してくるかも知れません。人間のこころの真実は いったいどういったところにあるでしょうか? いかがでしょう?
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 仏教の限界・・・・・



 仏教に限界があるのではなく、
 それを知るために、
 理性のみに頼る事、
 理でのみ解釈しようとする事、

 これが“限界”を感じる原因かと思います。

 “感性”も重要です。

 天国とか地獄とかは、理性より感性に訴える“教え”だと思いませんか。
 

この回答への補足

この回答を読んだ後、ヒンズーのことを調べて分かったのですが、やはり仏教の方がまだましです。ヒンズーは恐ろしい。人を人とも思っていない、まるで化け物の世界だ~。

補足日時:2010/01/10 20:57
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この回答へのお礼

全てのものは進歩、発展していかなければならない
仏教とて例外ではないのです。
ただ解釈のしかたで乗り切れ、ということでは仏教は発展しない。これでは単に詭弁の世界になってしまう。これではダメなんです、これではアカンのです。
これだと単に思い入れの世界になってしまう。これではダメだ、これではアカンのだ。
この世に永久不変なるものなどなく、全ては弁証法的に進歩、発展しなければならない、これが哲学の基本です。これには例外などないのです。

お礼日時:2010/01/10 14:22
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