【コナン30周年】嘘でしょ!?と思った○○周年を教えて【ハルヒ20周年】

デュルケームの『社会分業論』の中で出てくるのですが、どういった意味なのでしょうか?教えてください。

A 回答 (3件)

・・追記です。





ちょいとデュルケムを抜きにして考えます。

で・・・
もう、メチャクチャ大雑把に、雑に言ってしまうならば、

太古、関東地方で営まれていた縄文時代の原始採取狩猟生活と、現在の東京の生活とでは、どちらがより自由であると考えるか?

ということです。

 
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この回答へのお礼

いーえ、実に的を得た解説だと思います。納得しております。
そして、自由を得る為に、集団のパワーもさる事ながら、個人のパワーも重要であると考えに至っております。私が現代社会に不自由を感じていたのは、自分で自分の感性を守る力がなかったからだと思います。規則や法律が存在するのが、何の為であるか深く知ろうとしませんでしたし、時に不当な規制を受けても、それに対抗しうる充分な理論を持っておらず、そういう自分に対する不満を社会への不満へ摩り替えていた感があります。「自由への闘争」とどなたかがおっしゃってましたが、これも私の中で実感がこもってまいりました。ちょいと自由への闘争を開始したいと思っておる次第です。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/06/13 15:11

 人間とは、個人のままでは、自然の圧倒的な力になされるがままの不自由な存在である。

社会を形成して、集団としてのパワーを発揮することにより、自然に対抗しえる存在となり、自由を実現することができる、ということだったと思います。

 彼は、本来的に自由な個人が集まって社会を形成しているという考え方を否定し、自由とは社会を形成することによって少しずつ実現されるものだと考えているのです。
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この回答へのお礼

そういう意味でしたか。私は自由というものを漠然とした捕らえ方しかしておりませんでしたので、現代社会の束縛から逃れる事を自由と前提しておりましたので、本来的に自由な人々といったときに原始時代の人々を思い浮かべておりましたが、確かに彼らの方が我我より不自由ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/06/13 14:54

根源的に人はあらゆる意味においてあらゆるものから自由であるはずだと僕は思います。


それは、社会”からも自由であるという意味も含んでいるのですが、

デュルケムの場合は社会学者ですので、

人には、とりあえず社会に参加してもらって、その社会の制約という枠の中で自由に振舞ってもらいたい。

というような意味であると理解しています。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
人が根元的に得ている自由と、デュルケームの言う社会的存在となることで実現される「本当の自由」とは、一体どのような違いがあるのでしょうか?

お礼日時:2003/06/11 16:31

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