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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6% …

上記に

和銅7年(714年)には首皇子の元服が行われて正式に立太子されるも病弱であったことと【皇親勢力と外戚である藤原氏との対立】もあり、即位は先延ばしにされ、

とありますが、
【皇親勢力と外戚である藤原氏との対立】とは具体的にはどういう対立があって
即位が先延ばしになったのですか。

よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

 


【軽皇子(かるのみこ){文武天皇(もんむてんのう)}】の擁立に功績があり、
その後見として政治の表舞台に立った【藤原不比等(ふじわらのふひと)】は、
娘の【宮子(みやこ)】を嫁がせて皇室の外戚となり、権勢を振るいました。
 
また、【不比等】は【軽皇子】の乳母を務め、自分の後妻である
【県犬養 三千代(あがたのいぬかい の みちよ)】の産んだ
【光明子(こうみょうし)】を【首皇子(おびとのみこ){聖武天皇(しょうむ てんのう)}】
に嫁がせて皇室の外戚としての権勢を強化していきました。
 

714年に【首皇子】が立太子して、皇太子となり、あとは即位するとなったところで、
皇后のことが問題になってきます。

 
”外戚である藤原氏”としては、
位階人臣を極めながらも、皇室の外戚だけでは飽きたらず、
自家出身の【光明子】の立后を願っていました。
 
”皇親勢力”の主張としては、
夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるので、
当時の社会通念上から皇后は皇族出身であることが常識である。
 

【長屋王(ながやのおおきみ)】という人がいます。
 
この人が”皇親勢力”のトップ的な人なのですが、
【藤原不比等】の娘を妻としていた関係で
親藤原氏と思われていました。
 
その証と言うわけではないのですが、
717年に左大臣【石上 麻呂(いそのかみ の まろ)】が死去すると
非参議(まだ朝政に任官していない)のに一気に大納言になり、
太政官で右大臣【藤原不比等】に次ぐ地位を占めました。
 (【不比等】が”皇親勢力”の権勢を削ぎ、
  自らの権勢を増強するために懐柔したともいわれる。)
 

720年に【藤原不比等】が死去すると
その子である藤原四兄弟【武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、
宇合(うまかい)、麻呂(まろ)】は、まだ若く、
【房前】以外は参議になっていないため、
【長屋王】が皇親の代表として政界の主導者となりました。
 
これにより皇親政権が樹立し、立后をめぐる
【皇親勢力と外戚である藤原氏との対立】に
終止符が打たれたかのように見えました。

そして、724年に【首皇子】は即位して、【聖武天皇】になります。

しかし、724年 『辛巳事件(しんしじけん)』勃発により、
ずっと水面下で行われていた
【皇親勢力と外戚である藤原氏との対立】が表面化しました。
 
729年 『長屋王の変』により、【長屋王】の服毒自殺で
【皇親勢力と外戚である藤原氏との対立】は、
”外戚である藤原氏”の勝利となり、
同じく729年に【聖武天皇】の夫人である【光明子】は
皇后にするとの詔が発せられました。
これは、皇族(王族)以外で初めて立后されたことになります。
 
先延ばし前後のことも書いたため長くなりましたが、どうでしょう。
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この回答へのお礼

丁寧な回答をありがとうございました。

長屋王とのせりあいがあってなかなか立太子できなかったということですね。
長屋王の邸宅跡より見つかった木簡には「長屋親王」と言う文字があり
皇位継承権があったのではないかと言う説もあるそうですね。

書いていただいた内容の中には知らなかったことがたくさんあり
大変勉強になりました。

心より感謝いたします♪

お礼日時:2010/03/31 18:23

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