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私は自分を第三者視点である程度見れると思っていました。
また、他人に対して偏見を持たないようにしてきました。
それらにおいては自身の経験もあり、私なりに自負してきたつもりでした。

しかし、最近になり自分の思っていた事、上記2点については当り前の行為なのではないかという事に気がついてしまったのです。

皆さんはどうでしょうか。
どんな風に思われているのか知りたいです。

A 回答 (4件)

私も、かなり意識して、偏見等は持たない様にしています。

日本人は~、子供は~等の表現は避けています。知識として持っておく事は問題無いと思いますが、実際に関わった個人で判断しようとしています。逆に、悪い意味で括る・括られるのは嫌ですね。
自分を第三者視点で見る事は、親しい人といる時はほぼしません。必要性を感じない為です。親しくない方といる場合は意識しています。

世間一般についてですが、偏見については持っていない人は(残念ながら自分を含めて)ほぼいないと思います。誰もが多少なりとも持っていると思います。流行等が移ろい易い事からも、少なからず持っている人が多い、と感じます。(人の意見に流され易いと同義である為)
第三者視点はmojico74様とほぼ同意見です。一般論ですが、女性の方が第三者視点、というか「自分がどう見られているか」を意識していると聞きます。

個人的には、両方出来た方が良い事だと思います。少なくとも私は、そうありたいですね。
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何か文章の書き方から「自分は悟ったんだ。

どーだどーだ」っていう印象を受けました。まあ、それは置いといて。

自負という行為自体がエゴや自尊心・自慢などの主観的な考えなのでその自負の範疇で客観というものはないと思います。
また、偏見とは観測・被観測のどちらの視点かと言えば、被観測の視点です。観測側は被観測側に対して見下した意思を持つことが大概で、被観測側が偏見だと思っている事を偏見であるとは解釈しませんから。

つまりあなたの考えは「意識された当たり前」なのであって一般に当たり前ではないと思われます。

現に僕は宗教(特に政党の支持母体になっているような)には関わらない方が良いと思っていますし、シーシェパードのような団体は断固として存在を否定しますし、中国や朝鮮には行きたくありません。外国人参政権なんて言語道断。国籍で人を区別するのに何の問題も無いと思っていますし、どんなに頑張っても褒めてもらえない自衛隊や警察を褒めてあげたい人間です。
でもそれだって偏見だと言い始めるのはこの意見を聞いた方たちであり、僕自身は偏見だなんて考えていませんので。
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その2点は、人として非常に必要なことですが、それができてない人というのがいっぱいいると言うのが現実だと思います。


当たり前というのは違います。
自分を第三者視点で見ることによって、どれだけ自分を分解できるか、というのは大事なことなんですが、
あんまりやりすぎると何も言えなくなってしまうので、考えながらも言いたいこと言えれば大丈夫かなぁと思います。

自分の中に降りていくのは大事なことなんですが、それは人に言えるほど重要なことではないかな。
というのは、自分の中に降りていくことより、確固とした自分を持った上で外に出ていくことが、人として大事なことだと思うからです。
そうするとまた少し変化があると思います。
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第三者視点で自分を見ることは、誰もが当たり前に、無意識に行っていると思います。


ただ、それがどこまでか、という限界値は人それぞれで、本当に腹が立った時やショック状態となった時にその差が表れ、結果その人の人柄として周囲から認識されるのだと思います。
偏見の有無に関しては、育ってきた環境や、経験からによるものが大きいのかなと思います。
偏見を持たぬよう日頃から意識することはとても良いことだと思います。
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