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 「随伴現象説」についての質問です。カテゴリーが良く分からないのですが、ここで質問させていただきました。よろしくお願いします。

 随伴現象説について色々考えております。「随伴現象説」はよく「煙突のある工場」に例えられたりしますよね。(ウィキで調べても出てます。)
 いわゆる、「工場で生産を始めると煙突からは煙が昇り、生産を止めてしまえば煙も止まるだろう。 つまり煙の状態は工場の生産状況によって決まる。」ってやつですよ。脳が工場と例えられて、煙が意識とか心に例えられるわけですよね。

 ここで疑問なんですが、工場で煙が出るって事は何か燃やしているわけですよね。けど、この工場で同じものを燃やしているのに、違う煙(色とか形)が出るってことはあるんですかね??つまり、ニューロンの発火がまったく同じ経路をたどれば(「できれば」といったほうが良いかも)、そのあと随伴現象としての意識や心の表象もいつでもまったく同じものが生じるって事ですか??

 まだまだ、勉強したてなのでおかしな質問をしているのかもしれませんがどうぞ教えてください。

A 回答 (3件)

こんにちは。


#2です。「意識と心はどう違うか」、自分にとっても興味のある問題ですので、一応、宿題を纏めてみました。

まず、「心」に科学的な定義というものがありませんので、これには国語辞典の解釈を使いますと、心とは「知、情、意」のうち「情動と意志を含む部分」ということでありますから、これはほぼ我々の脳内で情動反応を司る「大脳辺縁系」の機能に対応します。
現在、脳科学では「三位一体説」が主流となっており、我々の脳は以下のような三層構造に機能分化していると考えられています。
「本能行動:生命中枢:無条件反射」
「情動行動:大脳辺縁系:情動反応」
「理性行動:大脳皮質:認知・思考」
ここで、「大脳皮質には意思決定の機能はない」、と申し上げますとたいがいの方が首を傾げると思いますが、実はそれが我々の脳の原則と考えて頂いて構わないです。
どういうことかと言いますと、大脳皮質といいますのは最も高度な情報処理を行う脳機能の最上位中枢であることに間違いないのですが、ここで如何に知的で論理的な判断が行われようとも、果たして辺縁系の情動反応が好き嫌い、やりたいやりたくないの判定を下さない限り、実際にはそれが行動に移されることはないのです。では、本能行動を実行に移すならば辺縁系の許可は一切不要ですが、ここには本来意志というものがありません。ならば、それが即ち「人情」であり、情動と意志が我々の「心の姿」であるならばこれは大脳辺縁系ということになるわけです。
ですが、これで「心=辺縁系」とすることはできません。例えば、「お腹が空いてご飯が食べたい」、正に人情であります。では、空腹と言いますのは本能行動の判定であり、片や「ご飯」といいますのは大脳皮質の学習結果です。そして、おにぎりを食べたいのかサンドウィッチを食べたいのかはそのひとの「人格」が決めることです。このように、それは決して辺縁系が単独で行うことではなく、我々の心といいますのはそれぞれ双方の関わりによって映し出されるものです。更に、外界からの感覚に何を思い、どのような言葉を使って何をするのか、このような入出力の機能も含め、心とは即ち我々の神経系における「総括的な人格を反映する精神活動」と定義するに至りました。

意識というものの取り扱いはその場その分野で様々に異なりますが、脳科学で意識といいますならばそれは「モニターリング機能である」というのが恐らく中心的な考えになると思います。ですから、哲学などではしばしばそこに理性や人格などが含まれる場合もありますが、モニター機能という立場を執りますならば、当然、そのような解釈はできなくなります。
このモニター機能といいますのは唯一「自覚」をもたらすものであり、我々が自分の心理を内省する手段はこれしかありません。では、その役割とは何かと言いますならば、最終的には「フィードバック機能」ということになります。
我々の神経系は入力を基に中枢処理を行い結果を出力します。これで入力に対応した適切な選択できるならば意識など発生する必要ありません。ですが、この過程で情報のフィードバックが行われるならばより価値の高い結果の選択が可能であり、モニターといいますのはこのために行われます。
このため、単純に考えますと、ここで自覚されたものが即ち我々の心であり、それが人格を持って一貫した行動を司っているということになるわけですが、実際にはこのモニター機能説を執るならば逆にそこに人格はなく、果たして意識には心を司ることができない、という結論が導き出されることになります。
まず、反応といいますのは発生するまで絶対に自覚することはできません。ですから、我々の脳内ではまず心の動きがそこにあり、これにより初めて意識はそれをモニターすることが可能となります。では、意識がモニター機能であるならばそこに人格はありません。人格とは心の側の働きであり、意識はただそれを映し出しているだけです。そして、心が意識よりも先に働くのであるならば、意識がそれを支配するというのは原理的にあり得ないとなります。

また字数オーバーです。どうやらこの二つは一見同じようなものに思えますが、その性質は全くの別物です。ただ、心とは神経系の機能によってもたらされるものであることは明らかなのですが、果たして我々の脳内にその実体はありません。ならば、意識と同様にそれは随伴現象として扱わなければなりません。では、我々動物の心や魂とは何かと言いますならば、それは「生命活動に伴う随伴現象」ということになるのではないでしょうか。そして、仮に無意識状態であったとしましても我々は死んでいるわけではありませんから、こちら意識とは、「脳活動の随伴現象」であろうかと考えます。
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こんにちは。


#1です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。

>つまり、私の持っている質問は「随伴現象説」とは直接的に関係のある質問ではない言って事ですね?

そういうことではないです。質問者さんがこの先その問題に関するご自分の理解を深めてゆこうとなさるならば、それは十分に関係することだと思います。実は前の回答にはまだ続きがあったのですが、文字数の関係で全部送信することができませんでした。折角ですから、前回答で削除した内容も含めてもう一度これを整理させて下さい。
どうやら質問者さんのご覧になられたウィキの説明にはまだ若干古い解釈が混ざっているようです。実は近年、随伴現象を巡る状況には脳科学を中心にはっきりとした変化が起きました。これはつい最近の出来事あるため、まだ一般的に受け入れられたとすることはできないかも知れませんが、これを期にそれまでの随伴現象の取り扱いに修正が加えられたというのは間違いのない事実です。そして現在、意識を解明する研究の一部が既にこちらの方向に向かって動き始めています。ですから、私は従来、哲学などではそれがどのように扱われていたのか良くは知りませんが、現時点ではこれが現状と一致した最も適切な解釈として全く構わないと思います。

前回答で述べましたように、「意識の内容」には入力と出力に因果関係があります。従来、心理学ではこの因果関係を基に我々の脳内で発生する様々な心理現象を説明してきました。これに対しまして、脳科学といいますのは神経系における生理学的機能からその構造を明らかにしようというものです。心理学の手法では意識の構造そのものを解明するのは困難ですが、物理的な解剖学的根拠を裏付けとする脳科学は、当初、随伴現象説を執る立場にありませんでした。
果たして「感覚」「感情」「記憶」、心理学ではこれまでこのようなものを概念、仮説としてしか扱うことができませんでしたが、脳科学はそれも脳の解剖学的構造と一致する生理学的現象であることを次々と突き止めました。生理現象であるということは即ち物理的現象であり、これを随伴現象と扱う必要はない。ところが、その後どんなに詳細な解剖を行ってみましても、我々の脳内には意識を司ると思われる組織は果たして何処にも発見できません。このため、脳科学は一旦、この事実をどうしても受け入れざるを得なくなってしまいました。これが、最先端を自負する脳科学を直撃した随伴現象説を巡る事件です。

この結果、同時にそこには「意識の内容」と「意識の条件」は分けて考える必要があるという線引きが成されたことになります。
随伴現象とは「伴って発生する結果」です。ですから、表象とは入力に伴う結果なのですから、これを随伴現象としていけないということはないわけです。ですが、そこに再生されるのがどのような表象であれ、それが常に意識であることに変わりはありません。ならば、「意識の発生」は表象の内容に対応するのではなく、それは「条件に対応する随伴現象である」ということになります。
意識は特定の入力情報によって発生するものではありません。我々の脳内に意識を発生させる機能に対応する組織は見当たりません。そして、それは量子力学的なマクロ現象であるため、仮に神経配線の一本一本を全て調べても計算によってこれを求めることはできません。どっちを向いてもお手上げ状態です。
そこで脳科学者たちは考えました。この現象を特定の因子や何れかの組織に対応させるのは無理だ。ならば、脳機能全体の中から意識を発生させるために必要な「最低の条件」を割り出せば良い。
これにより、既に一部の脳科学者たちは意識の発生に伴って活性化する組織や、あるいは構造的に不必要と思われる機能などを脳内でひとつひとつ選別するという作業に着手しました。そしてこれには、脳科学の十八番であるfMRIなどの最新技術がその本領を発揮すると思います。一旦は随伴現象説を受け入れなければならない状況に追い込まれましたが、脳科学者たちは手を拱いていたわけではありません。逆に、脳科学はこれを期に研究の方向に抜本的な修正を施し、意識の科学的解明に向けてまた新たなる挑戦を開始したことになります。

次に、「意識と心はどう違うか」というご質問ですが、よくよく考えますとこれはたいへん難しい問題であり、果たして私にきちんとお答えできるかどうか分りません。ただ、何れにしましても回答文字数に制限がありますので、この続きは分割投稿とさせて頂き、誠に勝手な話で申し訳ないのですが、一日ほど私に考えを纏める時間を下さい。最低でも自分の意見は何とか纏め、その上でご報告だけはさせて頂くつもりですが、その結果、もしかしたら「分りません、降参です」という回答であったとしましても、そのときはちょっとカンベンして下さい。
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この回答へのお礼

 たびたびの回答ありがとうございます。何度も読み直させていただいております。
>>もしかしたら「分りません、降参です」という回答であったとしましても、そのときはちょっとカンベンして下さい。
 もちろんです。これ以上ご迷惑をかけることは出来ません。本当に感謝の言葉もありません。ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/08 10:40

こんにちは。



>ここで疑問なんですが、工場で煙が出るって事は何か燃やしているわけですよね。けど、この工場で同じものを燃やしているのに、違う煙(色とか形)が出るってことはあるんですかね??

煙が出るのは工場が生産を行うからです。この場合、随伴現象説では「何故、煙が出るのか」というのが「意識の条件」に当たり、解明されなければならないのはこちらの方です。
これに対しまして、何が生産されているのかというのは「意識の内容」であり、それによって出る煙の色は当然変わります。従いまして、出てきた煙の色から何を生産しているのかというのは因果関係によって追求が可能であり、このようなことは専ら従来の心理学で研究されてきたことです。
ところが、心理学で幾らそれを調べてみたところで、「何故、意識が発生するのか」というのは何時まで経っても分りません。ですから、煙の原因を突き止めようとするならばその内容ではなく「煙の出る条件」を調べなければならないわけです。そしてそのためには、そこで何を作っているのではなく、その工場、即ち「我々の脳の構造」が根本的に明らかにされる必要があります。

>つまり、ニューロンの発火がまったく同じ経路をたどれば(「できれば」といったほうが良いかも)、そのあと随伴現象としての意識や心の表象もいつでもまったく同じものが生じるって事ですか??

只今述べましたように、「心の表象」と言いますのは「意識の内容」であるため、これは随伴現象としては扱われません。何故かと言いますと、表象といいますのは視覚や聴覚、あるいは記憶情報など再生されるべき何らかの対象と対応します。ですから、神経配線の一本一本は無理としましても、入力と出力の関係を辿るならば役割を特定し、その意味を説明することができるからです。
これに対しまして、意識には入力との因果関係がありません。何色の煙であろうとそれは必ずや意識として発生し、どのような表象やどんな内容が処理されたかというのはその性質とは全く関係がありません。このため、入力対象や出力の結果からその役割を特定することはできず、いったい何が原因で意識が発生するのか、はたまたどうしてそんなものが必要なのか、我々は未だその意味さえ知ることができないわけです。果たして、これが他の心理現象とは異なり、唯一、意識だけは随伴現象であると解釈される理由です。

同じ入力が全く同じ経路を辿るならば意識として出力される結果は常に同じでなければなりません。この場合、例えそれが何千何万という回線であろうとも原理的には同じことであり、果たして入力と出力の関係に物理的な対象性が保たれているならば従来の古典力学でも十分に解決の可能な問題ということになります。
ところが、言うまでもなく我々の脳内では全く同じ情報処理がコンピューターのように正確に繰り返されるということはありません。コンピューターならば同じ結果が出るのは当たり前ですが、脳の場合、処理過程には必ずや不規則なバラつきがあるのですから、それで同じ結果の出せることの方が返っておかしいのです。

いったい幾つの空気分子が集まり、このひとつひとつがどのくらいの運動量を持てばそれは台風になるのか、このようなことを計算することはできません。ですが、ある一定の条件が整うならばそこには一様に「台風としての性質」が現れます。
我々の脳内に発生する意識もこれと同じであり、それは何か特定の入力に対応して出力される結果ではなく、無数の神経伝達がそれぞれの処理を行うことが条件となり、そこに「意識としての性質」が生み出されます。
処理されたのがどのような内容であろうとも、それが意識という現象であることに変わりはありません。ですから、何色の煙が再生されたのかというのは意識の本質とは関係がありません。では、これが常に意識として現れるのは、我々の脳内ではそれが「意識の性質」として再現されるからです。そして、このような無数の因子が集まることによって発生する「集団としての性質」は、これは複雑系における量子力学的な「マクロの現象」です。従いまして、ひとつひとつの因子をミクロの状態にまで分解し、その性質を決定するという従来の古典力学の手法ではこの問題を扱うことができない、ということになります。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 私は認知科学に興味があって学び始めたばかりで、デカルトの心身二元論とか、ホッブスの心身一元論のあたりまでしか分からないもので、説明の内容もなんとなく分かるのですが、ちゃんと理解してないだろうなって言うのが現状です。

>>煙が出るのは工場が生産を行うからです。この場合、随伴現象説では「何故、煙が出るのか」というのが「意識の条件」に当たり、解明されなければならないのはこちらの方です。
 つまり、私の持っている質問は「随伴現象説」とは直接的に関係のある質問ではない言って事ですね?

 あと、私は脳科学の言葉の定義ということに関して無知なので教えてください。
 「意識」と「心」の違いなんですが、英語で言えば「コンセンシャス」と「マインド」となるんでしょうが、私は本来仏教学を専門としているものですから「意識」と「心」の区別が付きません。意識や心とはどのようなことを指すか、また、意識と心の関係、そのあたりは脳科学ではどのように考えられているのでしょうか??

 理解力がなくてすみません。教えていただければ幸いです。

お礼日時:2010/05/07 09:22

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