三位一体を否定している人に伺いますが、なぜ三位一体は間違えているのでしょうか?

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A 回答 (11件中1~10件)

NO3です。



三位一体論は、西暦325年のニケア公会議で、ほとんど聖書を理解していなかった、当時のローマ皇帝コンスタンティヌス(当時はキリスト教徒ではなく、後に改宗したが、洗礼を受けることはなかった)が政治的目的を達成するために積極的に後押しすることによって基礎づけられたものでした。つまりこのような形で異教徒とキリスト教徒をうまく融合させ、人々を一致させることが支配層にとっては非常に都合がよかったわけです。彼は聖書の内容よりも自分の権力の確立に関心を抱いていたのです。

ブリタニカ百科事典(英語)は次のように述べています。ニケア公会議では,「コンスタンティヌスが自ら主宰者となり,討論を積極的に導くと共に……同公会議で発布される信経の中でキリストと神との関係を『父との同一実体』とする重要な定式を……じきじきに提案した。……同皇帝に威圧された司教たちは,わずか二人の例外を除き,多くは不本意ながらも,その信経に署名した」。
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父と子と聖霊は,ひとりの神の三つの位格です(父=子=聖霊)・・・というのが三位一体の定義ならば聖書の中でイエスがそうは言っておられない事は注目に値します。

一例、聖書、ヨハネ17:3

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。

どの訳でも別存在として述べられています。
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「聖書は初めから終わりまでおとぎ話や夢の中の話のような物語であふれている。

」というのがいわゆるクリスチャンでない方々の聖書に関する印象ではないかと思います。私はプロテスタントのクリスチャンで聖書をそのまま神の言葉として読んでいます。おそらく多くの方は人間が書いたものを神様の言葉だと述べる根拠を示せと言いたくなるのではないでしょうか。

聖書の目的は、聖書の中に書いてありますが、ひとつだけです。この一つが理解できますと、おとぎ話や夢に出たような話の背後にある聖書の目的が「そうだったのか」と一人うなずくことができるようになります。ご質問者さまのご質問は「なぜ三位一体は間違えているのでしょうか」となっておりますが、この言葉さえも実は表面的な理解では納得できない言葉の一つです。つまり常識的なあるいは科学的で数学的な思考では理解ができないのが聖書といえます。

たとえばイエスが私の父はと述べたとき父とは神であることはわかりますが、常識的にはイエスは子供以外の何物でもないと判断せざるを得ません。しかし聖書はおとぎ話の一部やある文章だけを取り上げて議論すべき書物ではございません。聖書は読むかたに決断を要求しておりますので、何らかの傍観者的な態度でお読みいただいても得るものは極めて少ないと思います。おおむねインテリのつまみ食い程度の知識にしかなりえません。

イエスはあるとき姦淫の現場でとらえられた女に石を投げている群衆に対して、この中で自分に罪がないと思うものが先に石を投げよと言われました。聖書はご自分に罪があるのかないのか吟味せよと述べています。私は石に打たれるべきは自分であると思いました。聖書は神様の言葉を自分に向って語られていると思って読む必要があり、事実が語られているならばそれを認める必要があります。ここでも自分の罪を認めるという決断が求められています。そのような態度で聖書を読み進められましたら、必ず「三位一体....」という質問にご自身で回答を見出すことができると思います。くれぐれも言葉のお遊びに陥ることがないようにご注意ください。あなたの人生を遊びで終わらせないためにも重要なことと思います。
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誤謬1 神のこイエスについて



実質母子家庭に育って、ワガママ放題
自分は最高と思い上がっているオレオレ君が、

一人ぼっちであることは神に近いことであると信じ込み、一人ぼっちの自分は現代の「イエス」であると思い自分はキリスト者だと主張する。
いい年こいて他人から説教されてもその本意がわからないうぬぼれやが、三位一体の基礎を作ります。

狂った嫡男がキリスト教を信じることで家系・地域・国が滅びる。

だから三位一体は間違っている。

誤謬2 処女受胎と父の関係について

キモイおっさんに虐げられて、自分はわが子と共にあるということだけに執着。

心のつながりを一方的に斬り

理想だけを語り
まだ生まれてこない子どもに対しては、なんとか生まれてこないようにもみ消す。

生まれてきた子どもには、「父は不在であり、父親がいなくても自分たちは素晴らしい人生をおくれる」と話して聞かせ、だます。

猜疑心と後悔の渦の中で理想化されたわが子
自分の息子は最高だと信じて疑わないモンスターママ。自分が浮気したことを一生隠し続ける偽善が間違っています。

誤謬3 精霊と世界について

他人の扇動に惑わされ、3つのものが1つであるといううそを信じ、
1+1+1=1をみとめることで、全てのうそを認め
自分には夢があると錯覚する。

精神は素晴らしいといいながら、物と金・自分の株だけに興味がある醜い人。

サンタさん・ねてるくんをはじめとして
メディアで宣伝されていることが現実だと信じさせられている惨めな消費者。

主体性がなく 宣伝に負けて
すぐ壊れ古くなってしまう価値のないものを執拗に買占め、

いらないものがありすぎるので、その処理に困る物欲の塊。

なぜそういう人が自分には夢があると思えるのか不思議な現象であるともいえる。

自分が「奇跡」の買い物中毒者なのに、精神的には満ち足りているという思い違いが
まちがっています。

以上
偽善者の妄信が間違っています。
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 こんにちは。



 ★ なぜ三位一体は間違えているのでしょうか?
 ☆ 思うにですが ひとつは 人間の経験合理性によって論証しえないことだから分かりがたいでしょうし ひとつに キリスト・イエスという存在についてきちんとした理解が得られていないからでしょう。
 これは 訪問者やほかの回答者に向けて書きます。

 これは いわゆる非思考の場について 想定として捉えた物語に属します。ただ《絶対》を想定するだけではなく これを擬人化して《絶対者》と表現し さらにこれを存在するところの神と名づけています。そういう結構(構え)のもとに――その中では 論理的に――仮りに明らかにした内容となっています。

 その解釈例をかかげてみます。

 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ この内容を図式において示すかたちです。

 ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~~~~~~~

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 ☆ もう一つには イエス・キリストの存在について つぎの命題です。

 ○ イエスは ヨセフとマリアから生まれたひとりの普通の人間である。このイエスが 人間であると同時に キリストと呼ばれる神――神の子であり みづからも神――であった。

 ○ 言いかえると まづ三つの位格(ペルソナ)が一体であるという意味は 上に光のたとえで説明しましたが そのとき 一つひとつのペルソナは ほかのペルソナと等しい。ということが 大事です。
 子の父は 父の子および聖霊とそれぞれ等しく 父の子は 子の父および聖霊とそれぞれ等しく 聖霊は 父および子とそれぞれ等しい。また それぞれのペルソナは その一体なる全体とおのおの等しい。
 無限の三分の一は 無限です。

 ○ 弟子たちでさえ 十字架にはりつけになってさらには復活して現われるまで イエスが何ものであるかを知らなかった。だから イエスの生前のことがらを書くときに いくら復活のさらにあとで書くと言っても 初めから《イエスは 人間であり同時に神であった》とは書けなかったか もしくは わざと書かなかったかだと思われます。

 ○ ただし《人の子》という呼び方のほかに 《神の子》だとも書いている。
 ▼ (ヨハネ福音1:15-11) ~~~~~~~~
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 このことばは はじめに かみとともにあった。
 すべてのものは これによってできた。・・・
〔このことばは〕世に来た。かれは世にいた。・・・かれは自分のところにきた・・・。


 ・・・父の独り子・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《ことば》が 神の子キリストです。それが《世に来た》その貌として 人間イエスです。

 ▼ (ヨハネ福音14:6-7) ~~~~~~~~~~
 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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なぜ三位一体は間違えているのでしょうか?



○ 父と子と聖霊は個性の異なる神だからですね。救世主が地上に肉体を持った時には、天上界の全ての権限〔父と聖霊の権限)を預かっているという意味が三位一体という意味なので統合したものがあるわけではないということです。
これは会社も同じですよ。役員や部長が外国で商談をする場合、会社の全権を預かって実行しますね。それと同じことですね。この例では会社が天国にあり外国がこの世の仕事と置き換えればいいだけですね。
まあ、キリスト教は霊的な側面を魔女裁判という形で前向きに切り落としてきましたから、霊的事実と異なる解釈になってしまったということでしょう。
さりとてイエスはあの世でもNo.2のえらい神様ですからね。イエスのえらいところはNo.2を自覚していたところですね。大抵の神様は我こそは1番といいたがるのです。そのほうがわかり安いからですね。
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三位一体の考え方には、二通りあります。


カトリックやプロテスタントの考える三位一体と、正教会や単性派やネストリウス派の考える三位一体です。
そもそものキリスト教の考える三位一体は、正教会などのものでしたが、カトリックが意図的にニケーア信条を誤訳し、カトリックの考える三位一体が生まれてしまいました。
カトリック地域である西ローマ帝国の版図では、誤ったキリスト教がローマ教会により広げられてしまったため、ローマ帝国共通のニケーア信条では、矛盾が生じてしまうために意図的に誤訳したものと思われます。
ですので、カトリックやプロテスタントの主張する三位一体「父(神)と子(キリスト)と聖霊は、同一である」とする説は誤りであり、正教会などの主張する「父の性と子の性、そして聖霊の使命を持った者キリスト」とする考え方が正しいと考えます。
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キリスト教って、異教徒の宗教をパクったわけです。



異教のシンボルを自分たちのシンボルとしたので、キリスト教は十字架がシンボルになっているんですね。

三位一体も他の宗教のパクリ。
例えばエジプトの神話で最後の審判で登場するマアト。
この女神は<法><正義><真理>を司るとされたんです。
一つだけじゃなくて3つを併せ持つ女神。

あとは神は創造主・養育者・破戒者という三相を持っているともされたんです。
ヒンドゥー教だと、創造主がブラフマー、維持神がヴィシュヌ、シヴァが破戒神。
名前が違うので3つの神が別々にいるかのように見えるが、見せる面でそれぞれ呼び分けていたわけです。
例えば阿修羅像など三位一体を表してますでしょ?
3つそれぞれの顔が違うが、胴体は一つですよね。


まあ いわば出世魚も似たようなもん。

で、キリスト教では 父 子 精霊 ってなってますよね。

父の遺伝子が精子を通して子どもに伝わるので、父と精子と子どもは同一人格だとするのかというと、、、、
古代ユダヤ教では、子どもは父親の分身だとしたんです。
だから子どもができるってことは、自分の分身ができるっと考えられており、子どもができないってのは、神に呪われているから分身ができないと思われていた。

当時の哲学者が頭を悩ました問題が、子は男の分身なのに、何故男の子じゃなくて女の子ができることもあるのか だった。

で、こう考えるしかなかった。

   きっと男が善くない人間だったので、それに準じた不具者(チンコが無いから)の女を神はお与えになったのだろう。


うーーん 精子は目で見えますが、卵子は見えませんからねぇ・・・・・
そうとしか当時は考えられなかったのでしょうね。



まあ 間違いですが、当時はそれが常識だった。

で、今の知識でいけば、父親と精子と子どもは 別ですよね?

精子ぴゅーって出ちゃって「おお 私の分身よぉ」って精子を抱きかかえて育てる人います?
なわけで 男と そのチンコから出た精子と 精子と卵子が受精してできた子どもって別物。

親が車のドアに指はさんだら、家にいた子どもが「いてーーー」ってなりはしないでしょ?


なわけで、神とその子どもとされるイエスと精子 違った精霊は同一じゃあない。

子どもができるには卵子が必用。
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 こんにちは。

エホバの証人です。聖書中のイエスキリストの言葉が根拠です。

(マタイ 4:10) その時,イエスは彼に言われた,「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」。

(マルコ 10:18) イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。

(ヨハネ 5:19) それゆえ,それに答えてイエスは彼らにさらにこう言われた。「きわめて真実にあなた方に言いますが,子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を[行なえる]にすぎません。何であれその方のなさること,それを子もまた同じように行なうのです。

(ヨハネ 7:16) それに対し,イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです。

 このように聖書は神とイエスキリストを区別していると考えています。他にも根拠聖句は多数存在します。ちなみに「キリスト教に見られる異教の起源」という本は、「三位一体の起源は完全に異教に発している」と述べています。

 ご参考になれば幸いです。
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「神様なんていないんだよ」ってコトではないかと。

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Q三位一体改革について

最近、新聞やニュースなどで三位一体改革が取り上げられてますが、三位一体改革とは何か、また三位一体改革のメリットとデメリットの部分がよくわからないので、もしよろしければ、教えてください。

Aベストアンサー

いい質問ですね。
三位一体改革っていうのは、誰だったか(小泉さん)が言い出した造語(宗教用語に改革をくっつけた)で、はっきりした定義ってないんじゃないかしらん。
でも、私の知っているところ。

国と地方の関係を見直すことが目的で、そのために行う3つの改革。その3つとは・・・

1.補助金削減
2.税源移譲
3.地方分権

と理解していたのですが、どうも3が違うようで、先日財政学のえらい先生の講義をきいたら、どうやら官僚は歳出削減だと捕らえているようです。

と、それはさておき、いま国と地方の関係はどうなっているかと言うと、私たちが納めている各種の税金は所得税などの国に納めるものと、住民税などすんでいる自治体に納めているものがあります。
大体、国と地方では6:4の割合で税金を集めています。
ところが、やっている仕事は外交や防衛など国の仕事と教育や福祉など地方の仕事の割合は4:6と言われています。

では、地方がどうやって教育や福祉に使うお金をやりくりするかというと、国に補助金としてもらうわけです。
例えば、学校の先生なら給料は国が半分補助金で都道府県にあげます。
で、そのときに、先生は40人学級で一人とか、いろいろと補助金を渡すときの条件をつけます。

ところが、最近では30人学級がいいとか、土曜日も授業をしてほしいとか、地方によっていろんな需要があります。
そこで、補助金として地方に渡す代わりに、所得税を減らして住民税を増やすなどして地方が税金を集めるほうが地方にとって使い勝手がよくなる。
というのが三位一体の改革です。

で、メリット。
地方の裁量権(自主性)が高くなる。
つまり、それぞれの地域にあった行政が行える。

デメリット
地方によって行政サービスにばらつきが生じる。

ですね。
で、デメリットの部分については、地方を信じてもらうしかないし、知事や市長の方針が気に入らなければ選挙で他の人に変えればいいと思うのです。
問題は、国の権限が少なくなること。
なかなか三位一体の改革が進まないのは、補助金で地方をコントロールしたい官僚や一部の族議員が抵抗しているからです。

いい質問ですね。
三位一体改革っていうのは、誰だったか(小泉さん)が言い出した造語(宗教用語に改革をくっつけた)で、はっきりした定義ってないんじゃないかしらん。
でも、私の知っているところ。

国と地方の関係を見直すことが目的で、そのために行う3つの改革。その3つとは・・・

1.補助金削減
2.税源移譲
3.地方分権

と理解していたのですが、どうも3が違うようで、先日財政学のえらい先生の講義をきいたら、どうやら官僚は歳出削減だと捕らえているようです。

と、それはさて...続きを読む

Q三位一体なる神は 無宗教である。そこから 哲学への伸び。

三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき
出した神論です。純然たる神学です。

しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認
識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。

それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが その
キリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムな
るオシヘや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚
棄されている。と言ってよいと考えます。
これを問います。

つまり まづ
▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、
神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基
礎としては アウグスティヌスに拠っています)。 

○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・光(光源・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神 )
             ↓  ↓      ↓      ↓
 ___________________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ___________________________________

             ↓   ↓      ↓     ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神・(記憶・・・・・知解・・・・意志 )
 ・・・・・・・・・・・・↓・・(↓・・・・・・↓・・・・・↓ )
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・家 族(秩序・・・・・労働・・・・愛 )
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治 )
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・生産・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・↓ ・・・ ↓・・・・・↓・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・↓・・・・・↓・・・・・↓・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・(国 家 :司法・・・・立法・・・・・行政 )

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。

   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。

2. ただし 光はただのタトヘですから 本体の三位一体には時間的なへだた
りはなく 三つの位格は つねに一体である。

3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割って
も三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひと
しく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。という
ものです。

4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:

 父なる神は 人間の自然本性にあっては精神の秩序作用としての《記憶》に 
 子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
 聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に

それぞれ当てはまるというタトヘです。

5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立
が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわ
ち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかた
ちであるというタトヘです。

6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけ
れども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得ら
れそれが実現されることがある。かも知れない。

7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報
とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみな
がら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。
いわゆる自由意志は みづからの心にさからうという自由度をも持っている。

8. 人間として・また社会の仕組みとしてのミクロコスモスなる三位一体(三
一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハ
タラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていて
それらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによってマ(間)
の違いを生じやすい。

9. 自由意志は 記憶とその基礎資料である知覚(感性)の内容を無視してで
も そしてさらに勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとし
てでも その自由を発揮しようとすることがある。


10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は 
それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。すなわち
三位一体なる神論は 無宗教であり 普遍理論への道と成り得る。

11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。



添削・批判をどうぞ。

三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき
出した神論です。純然たる神学です。

しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認
識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。

それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが その
キリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムな
るオシヘや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚
棄されている。と...続きを読む

Aベストアンサー

度々の回答、失礼いたします。

実は、下の質問に回答をしましたところ、何度かのやり取りのあと、質問者さんが体調を崩してしまわれました。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9484786.html

煩悶するharuさんに、こちらのNo.13のお礼にいただいた、”もののあはれ”のお考えを教えて差し上げたら、彼の心の慰めになるかと思い、No.25の回答をいたしました。ハンドル・ネームも出しております。

事前にお知らせせずに、申し訳ありませんでした。ご了承いただければ幸いです。

Q三位一体という中の、位という字(ことば)

 位階を表示する“位”という字(ことば)は、父と子と聖霊の三位一体というようにも使われます。

 ○ 位階での“位”という字(ことば)は高い位というように身分を表示していると理解できます。
 三位一体の中の“位”という字(ことば)はそれとは関係なく、或は関係があって、立場、主格というような意味だと理解してもよろしいのでしょうか。

 ○ どうして“三位一体位”を“三者一体”といわないのでしょうか?

Aベストアンサー

『広辞苑』
------------

(1) 人や物のおかれている場所。「位置・地位・方位」。霊のやどる所。「霊位・位牌(いはい)」▼人や霊を数える敬称としても使う。「各位・三位(さんみ)一体・霊百位」
(2) (宮中などの)席次。くらい。「位階・位記・官位・学位・名人位」。特に、天子のくらい。「即位・譲位」
(3) 等級。「下位・首位・第一位・品位」
(4) 基準。「百位の数」「単位・本位」
------------

だそうです。
三者一体と言わないのは、「父なる神・子なる神・聖霊なる神」を「者」とは呼べないからではないでしょうか。

ちなみに近年の三位一体はどれにもあてはまりません。
(1) 国庫補助金を削減する。
(2) 税源を地方へ移譲する。
(3) 地方交付税を見直す。

Q三位一体論は そんなに不人気なんですか?

 《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。

           *

 三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。

 しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。

 それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。
 これを問います。

 つまり まづ
 ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。 

 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
               ↓  ↓        ↓      ↓
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________

              ↓      ↓      ↓     ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。

   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。

 2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。

 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。

 4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:

  父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に

 それぞれ当てはまるというタトエです。

 5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。

 6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。

 7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。

 8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。

 9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。


 10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。

 11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。



 三位一体論は 役に立ちませんか?

 《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。

           *

 三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。

 しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。

 それによると イエスが指し示した神で...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんはです。


キリスト教の三位一体説の説明、ペルソナ説は、
どうも、わたしにはしっくりときません。
考えれば考えるほど、奇妙なものに思えてならない。
ペルソナは、仮面であり、性質や性格、役割でしょ。
ペルソナはあくまで属性であって、本質や実体ではないので、
これでは、
父なる神も神の属性ということになってしまう。

~~~~~~~~~~
   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。
~~~~~~~~~~
の説明にある「子の父は光源であり」は、実体や本質ですよね。
ですから、
これはペルソナと言えないのではないか?
となってしまいます。
ずっとここに引っかかりを覚えています。

もっとも、光源が真なる神の見せる《仮面・ペルソナ》や、人間が直覚、直観する神の現われ(?)であって、それは真なる神ではない、というのならば、話は違ってきますけれども。
bragelonneさんのおっしゃる《非思考・非経験の場》でとらえた《???》の影のようなものを、子の父というのならば、話は違ってくるのでしょうが。

ですから、
わたしは、
ペルソナは、神や霊の位格ではなく、《神の現われ》の違いとしてとらえるべきであろう、
と考えています。
《神の現われ》よりも《(神の)ハタラキ》といった方がいいのかもしれませんね。
でないと、
《聖霊》≒《内なる神(のハタラキ)》の図式は成立し得ない、
と思うので。
───たぶん、こうした《聖霊》観は、真っ当なキリスト教(?)の聖霊観とは違うのかも知れませんが・・・。
ですが、
イザヤ書11:2には、
「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」
とありやす。───


~~~~~~~~~
  父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に
~~~~~~~~~
とあり、
bragelonneさんも《ハタラキ》や《機能》、
《機能》はちょっとまずいのかもしれないので、
《ハタラキ》としてとらえているわけですから、
《ハタラキ》としてとらえた方がいいのでは?

で、わたしは、さらに進んで、
《聖霊》だけでいいのであろう、
《聖霊》を真理や神に対する《気づき》や《ヒラメキ》ととらえれば、
《聖霊》と《神》の関係だけで十分であろう、
と考えます。
三位一体説は、不純物が紛れ込む恐れがあり、信仰の純粋な形態を歪める危険性がある、
と考えています。

《記憶》や《知解》ですと、オシエに関わるものになってしまいますし、
bragelonneさんの神論や信仰論とは相容れないものになってしまうじゃないですか?
もっとも、《記憶》や《知解》が、オシエに関わるものではなく、生まれながらに魂や命に刻まれた何か、《???》を意味するのであれば、別な話になるのでしょうが、
それであったとしても、
それは《聖霊》に含めればいいのではないか、と考えます。

罰当たりなわたしには、
三位一体説のイエスという存在は、どうも中途半端な存在に思えてしょうがない。
ロゴス・言葉なる神・イエスとすると、イエスは福音などの神の言葉そのものになってしまう。
宇宙を統べる何かをロゴスとするならば、イエス=神となってしまうので、
父なる神と子なる神という区別が曖昧になってしまう。
イエスを受肉した神と考えれば、イエスは神の愛そのもの、もしくは神の愛の現われになるのでしょう。であるならば、「言葉・ロゴスによって伝えられる愛」や「父なる神と子なる神の永遠の愛」・聖霊との区別が曖昧になってしまう。
「三位一体で、本来、この三者は区別はできないのだ」と言うのであるならば、
そもそも、こんな難しいことを言わなければいいのですよ。
「不条理なるが故に、我、信ず」でいいんですよ。
イエスは永遠の《???》でいい(笑い)。


わたしは、キリスト教のオシエには結構、寛容なのですが、
キリスト教の難解な《三位一体説》には厳しい目を向けています。
《三位一体説》は不要なのでは、と常々考えています。
この際ですから、
神・イエスには、哲学のために、もう一回、死んでもらいましょう(笑い)。
もう一度、《十字架》にかけちゃいましょう!!

こんばんはです。


キリスト教の三位一体説の説明、ペルソナ説は、
どうも、わたしにはしっくりときません。
考えれば考えるほど、奇妙なものに思えてならない。
ペルソナは、仮面であり、性質や性格、役割でしょ。
ペルソナはあくまで属性であって、本質や実体ではないので、
これでは、
父なる神も神の属性ということになってしまう。

~~~~~~~~~~
   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。
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Q三位一体改革って

第3次小泉内閣がいよいよ発足しましたが、小泉首相がよく言われることで「三位一体改革」という言葉があります。行財政の見直しとかと言う意味みたいですが、具体的にはどういった改革なのでしょうか?「三位一体改革」の「三位」ってどのことを指すのでしょうか?教えてください。

Aベストアンサー

・国庫支出金の減額
・地方への税源移譲
・地方交付税の見直し
の三つを包括的に改革することを「三位一体の改革」といっています。

国庫支出金は補助金とも言って、国から使い道を指定されて地方に渡されるお金です。これは道路建設、これは福祉事業と指定されるので地方は自由な裁量でお金を使えません。これが中央(国)の権力の強さであり、ここを見直すと地方分権が進むわけです。

しかし、補助金がなくなったのでは地方は立ち行かなくなります。そこで、国税として国が集めていた税金を地方税にして、地方が直接その税金を利用するように改めるというのが税源移譲です。

一方、地方交付税は地方が自由に使えます。しかし、国税である消費税・たばこ税の一部は必ずこの地方交付税として地方に流れてしまうので、国が安定的に財政運営を行うことができなくなってしまうきらいがあります。そこで、税源移譲をした代わりに、国税の一部の自動交付化を改めようという動きが出てきます。

Q三位一体

キリスト教の三位一体(父と子と聖霊)
何となくわかるのですが、深く考えるとわからなくなります。
どうやって理解したらよいのでしょうか?

Aベストアンサー

水と水蒸気と氷

見かけは違うけど、H2Oという成分は同じという
ことに近いかな

Q新プラトン主義が三位一体論の形成に与えた影響について

キリスト教の三位一体論は新プラトン主義の強い影響の下に
形成された教義だという言及をよく目にします。
こういった言及はよく見るのでおそらく正しいのでしょうが、
【どのようなプロセスを経て】新プラトン主義が三位一体論の形成に影響を与えたのかがわかりません。
一者(ト・ヘン)、精神(ヌース)、霊魂(プシュケー)という新プラトン主義における三位一体が、
キリスト教における三位一体論に影響を与えた、らしいですが・・・。これは本当なのでしょうか?
できることなら、どなたか、信頼できるソースを教えてください。
そんなにむずかしいものでなければ、書籍でもかまいません。
よろしくお願いいたします。

参考として:こんなサイトにもいろいろ書いてあったのですが・・・。
http://www.geocities.jp/ch1kv/catholic.htm

Aベストアンサー

調べてみました。まったく、私の推測です。

325年・ニケア公会議で、アタナシウスの三位一体説が正統とされ、
451年・カルケドン公会議が、こう宣言しました。「神の第二位階・ロゴスが人になり、キリストになった」

『御言(ロゴス)は人となりき』(新約ヨハネ福音書1章14)に由来するのですが、これはまた、
新プラトン主義による、9層に重なる宇宙像
1神、2知性、3霊魂、4第一質量、5第二質量、6秩序世界、7天圏、8月下界、9鉱物・植物・動物
の、第2層:知性であって、第3層が聖霊。だと考えられます。

新プラトン主義vs三位一体説は、ここを基点として、
トマス・アキィナスが出るまで、すっかり神学・哲学が廃れていた西欧ではなくて、
ギリシア哲学を継承したイスラムと、東方キリスト教世界で、深く議論されて教義を確立したのでは?と考えます。

8~9世紀に、こんな↓論争があったそうです。
リンク貼りますが、読みにくいので、一部を抜粋しておきます。

>ネストリオス派、単性論派、皇帝派一カルケドン派一問のキリストをめぐる論争が、シリア教会のアブー・ラーイタの短篇の中に遺されている。

>ネストリオス派
>『私はキリストが二つの位格(shakhş)より成る〕と申します。〔すなわち、〕父とその性質(ţabī'ah)やあらゆる属性(şifah)において等しく、〔父から〕不断に生成され続けている位格と、様々な罪を除いてあらゆる人格を共有する、マリアから産み落とされた人間としての位格です。
>そしてキリストの名は、二つの位格のどちらかをおいて片方に帰属するものではなく、その両方に〔帰属する〕のです。ゆえに、キリストは神と人間という二つの性質を備えた二つの位格なのです。
>その証明は、〔このようです。〕我々は万物を見ますと、総じて必ず実体(jawhar)と偶有('arad)に分かたれますが、その分かたれたものは一般的('āmmī)なものか個別的(kh'āşş)なものかいずれかでなければなりません。既に我々はキリストが偶有ではないと合意していますから、〔キリストは〕すべからく実体であることになります。そして我々は、その実体が一般的か個別的かいずれかでなければならないと気付きます。
>もし仮に、神と人問とに別々に分かたれて〔その実体に〕付された名が一般的実体の仕方で付されたとしますと、キリストの名は父と子と聖霊を包含し、またすべての人間を包含しなければならないことになります。これがあり得ないことから、別々の名はそれぞれの位格そのものに付されたに過ぎないと証明されます。
>これは、〔キリストが〕神的実体と人的実体という二つの個別的な位格である実体〔から成ること〕を必然とするのです。』

>皇帝派
>『私はキリストが単一の位格であり、神性と人性の両性を〔有していると〕申します。ゆえに〔キリストは、〕神性において神であり、人性において人間であり、二つの異なる面から神と人問である単一の位格なのです。
>その証明は〔このようです。〕我々は既にキリストが唯一であり、ある性質において神、ある性質において人間であると合意しています。そして、ある性質において神である者は、ある性質において人間である者か、そうでないかのいずれかでなければなりません。
>もし仮に、〔その者が〕単一の位格であってその性質において神であり、その性質において人間でなければならない者ならば、これは我々の言説に〔他なりません。〕
>もし仮に、ある性質において神である者がある性質において人問である者ではなくかつある性質において神である者が無始の神の子であり、キリストはその性質において神であるならば、キリストは神の子ではなく、神の子はキリストではなくなります。
>これはキリスト教の立脚するところと矛盾します。』


ここ↑に出る『実体・偶有』とは、イブン・シーナ(アヴィケンナ)が受けつぎ、トマス・アクィナスに伝えた、ギリシア哲学です。
(井筒俊彦「イスラーム思想史」中公文庫1991、277頁)

結論として、451年・カルケドン信条から、三位一体説は新プラトン主義に拠っていたのだが、
それが、神学・哲学として深められたのは、8~9世紀ではないか?
(だから、5世紀までの歴史を見ても、新プラトン主義があまり出てこないのでは?)
と思うのです。

参考URL:http://www1.doshisha.ac.jp/~knakata/lecture1.html

調べてみました。まったく、私の推測です。

325年・ニケア公会議で、アタナシウスの三位一体説が正統とされ、
451年・カルケドン公会議が、こう宣言しました。「神の第二位階・ロゴスが人になり、キリストになった」

『御言(ロゴス)は人となりき』(新約ヨハネ福音書1章14)に由来するのですが、これはまた、
新プラトン主義による、9層に重なる宇宙像
1神、2知性、3霊魂、4第一質量、5第二質量、6秩序世界、7天圏、8月下界、9鉱物・植物・動物
の、第2層:知性であって、第3層...続きを読む

Q三位一体について

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8810312.html
この質問を読んでいて思ったのですが、父と子と聖霊」の三位をわかりやすく解釈すると。
父→存在、子→心、聖霊→奇跡なのかな?と思ったんですが、それでよろしいでしょうか?
父」神は見えずとも唯一存在している。
子」であるイエスキリストは神の心を体現し伝承するために、現世の人物から選ばれた人。
聖霊」は神の子である人間に、他人を愛し理解を深めるために起された奇跡を成す奇跡的な事象。
と考えたのですが。

更に、使徒である天使はこの中にはなく、崇めるべきものではないのでしょうか?

Aベストアンサー

引用された質問でベストアンサーを頂いたNo.7回答者です。

私のこの時の回答の「三位一体」の説明部分を読んで、あなたなりに
父→存在、子→心、聖霊→奇跡
と「翻訳」されたのは、大した「翻訳力」だと思います。

確かに、大筋では、その通りかなと思います。
つまり、
「父」は天地を創造し、万物の上に「デーン」と鎮座する大きな「存在」であり、
「子」であるイエス・キリストは、神の子でありながら、人間社会に降って、
貧しい人、恵まれない人などの味方となり、それまでの宗教のユダヤ教のように
「律法」を最高規範とした考えに代えて、「心」(ハート)を重視する「隣人愛」を最も重んじました。
そして「聖霊」も、「炎」、「鳩」、「風」、「息吹」などで象徴的に表わされることがありますが、確かに、
①マリアの体内にキリスト(「子」)を宿らせたり、
②「聖霊降臨の日」に弟子たちの上に舞い降りて、言語の異なる彼らがお互いに
翻訳なしで、話が通じるようにさせたりするなど、
「奇跡」を我々にもたらしてくれました。

ただ、こうしたあなたなりの「翻訳」は、あなたなりに理解するための道具に使う分には結構ですが、
「言葉」とその言葉の持つ「ニュアンス」というものには、常にギャップがあり、
人によって、その捉え方が微妙に違う面があることを、是非承知してほしいと
思います。メールなど文章で自分の意志を伝えようとする時、自分の伝えたかった
ことが、その通り伝わらないことがあるのはそのせいです(ですから、Face to Face
の付き合いが欠かせないのです。)

従って、今回のあなたの質問のように、自分なりに解釈や翻訳をして、第三者に伝える
時には、よほど慎重にやってほしいと思います。そして、あなた自身も、物事を学ぶ
時には、解釈者・翻訳者の解説をうのみにせず、極力「原典」にたどる癖をつけて
欲しいと思います。

三位一体のイメージを深めるために、もうひとつ私の以下の過去回答をご参照下さい。
聖書:三位一体
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9274728.html
(回答No.5=ベストアンサー)

最後に、「使徒」はイエスの弟子の中で最も中核に位置した12人のことであり、
その筆頭ペトロは初代教皇(ローマ法王)となりました。
「天使」は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や伝承に登場する神の使いのことです。
似ていても、異なる存在なので、「使徒である天使」などと混同しないで下さい!
「使徒」(ユダを除く)や「三大天使」(ミカエル、ガブリエル、ラファエル)は、カトリック教会の「聖人」になっていますが、「神」ではないので、「崇める」というとちょっと違う気がします。
「聖人」には、「使徒」や「三大天使」の他にも、聖職者や一般人も含め、信仰が厚かった人や、殉教した人が含まれており、カトリック教会が信仰の模範と考えている人です。(今週の日曜2016年9月4日、マザーテレサが聖人に加えられました。)
「崇める」というのではなく、親しみを込めて、その遺徳を偲び、神様への取り次ぎをお願いする、というスタンスでしょう。

引用された質問でベストアンサーを頂いたNo.7回答者です。

私のこの時の回答の「三位一体」の説明部分を読んで、あなたなりに
父→存在、子→心、聖霊→奇跡
と「翻訳」されたのは、大した「翻訳力」だと思います。

確かに、大筋では、その通りかなと思います。
つまり、
「父」は天地を創造し、万物の上に「デーン」と鎮座する大きな「存在」であり、
「子」であるイエス・キリストは、神の子でありながら、人間社会に降って、
貧しい人、恵まれない人などの味方となり、それまでの宗教のユダヤ教のように
「律法...続きを読む

Q「三位一体」って何?

昨日、親戚の集まりがあり、叔母さんたち5人がなにやら「三位一体」の話題で盛り上がっていました。

でも、聞いていると最近ニュースで取り上げられている「三位一体」の話題ではないように感じました。
そこで、話に加わろうとしたのですが、叔母に
「若い子にわかる話じゃないわよ。あっちへ行った、行った。」
と、追いやられてしまいました。

この叔母さんたちが、何を話していたのかわかる方はいますでしょうか。
キーワードは、
バレーボール、三位一体、こずえ&みどり(検索したら「漫才師」とでました)です。

Aベストアンサー

紛れも無く『アタックNo.1』のことでしょう

鮎原こずえが主人公、早川みどりは親友なのは既出の通りです

三位一体攻撃とは、ライバル校である大阪・寺堂院高校の
八木沢三姉妹(香織・静香・桂)が繰り出す技の名前

三人が交差しながらネットの前をやたらと走り回り、そして同時にジャンプ
三人の内、誰がどこへスパイクを出すのか予測不能なため
こずえチームは散々てこずります

しかーし!姉妹の一人が試合中に捻挫したため足にサポーターを装着
すると三人が入り混じる際に、サポーター付きの足の動きを追えるようになり
それがキッカケで、こずえチームは三位一体攻撃を破ることが出来たのでした

・・・・・だ、だいたい、このようなコトだったかと

# >(検索したら「漫才師」とでました)
# すみません、↑の文で思いっきり笑わせていただきました

Q三位一体とカントールの無限集合

そもそも集合について不案内ですので おしえていただければさいわいです。

落合仁司がその著《〈神〉の証明――なぜ宗教は成り立つか》(1998現代新書#1392)で いわゆる神の受肉は 数学的に説けると言っています。

わたくしの理解では。――無限集合にも 全体と部分とがあり また全体とベキ集合とがある。部分集合もむろん無限だが 全体集合に対して 大きさで差異化される(つまり より小さい)。ベキ集合は 全体集合より大きい しかも 両者は――そして上の部分集合も含めて三者は―― 無限としての本質において 同一である。
子なる神は 神なる無限集合の部分集合であり それゆえ――というのは 父なる神との差異化があることによって―― 人間イエスと成ったということは 合理的であり 受け容れられると言います。

よく把握できていないかも知れないのですが そうは言っても結局 部分だろうが差異化されようが 無限は無限ですから その無限が有限〔なる人間存在〕となったとは どういうことかと疑問は尽きないのですが。はて どうしたものでしょうか。 

Aベストアンサー

カントルの(無限)集合論の画期的な成果として、「無限にも階層がある」という認識に到達したことが挙げられます。
1つ、2つ、3つ、...と数えていける無限(可算無限)と、それとは1対1に対応しない要素を持った無限(非可算無限)があること。また、ある集合の冪集合を考えると、冪集合の濃度はつねにもとの集合の濃度(有限集合の要素の個数を無限集合に拡張して考えた場合の「要素の個数」に相当する概念)よりも大きい、従って、無限に大きな濃度の集合が存在すること等、まさに驚くべき認識を得たのです。

冪集合は、ある集合の(可能性としての)部分集合すべての集まりですが、個々の要素は必ずしも(有限記述の観点からは)個別に取り出せるとは限らないので、具体的にイメージするのは凡人の能力では難しいのではないでしょうか。あくまでも非常に抽象的な(数理)論理の中での話しだと思います。カントルが精神を病んで神学に深入りした思想の深淵は容易には見極められないのでしょう。(それは、歴史的にも論理的にも、カントル以後の集合論がたどった道程に集約さています。)

そのような概念を 日常言語で記述された神学や哲学の一部として取り込むには、通常の表現では無理があります。それが、さも日常言語の記述形態内で可能であるかの様な理屈を述べる「哲学者」は、ほとんど信用できませんね。「高等駄弁」と断定したことには自信があります。

近頃「似非科学」あるいは「似非哲学」が多く見受けられるのは、現代の「哲学者」の問題意識の薄弱さ、あるいは欠如にあるというのが、当たらずとも遠からずの情況認識ではないかと....

カントルの(無限)集合論の画期的な成果として、「無限にも階層がある」という認識に到達したことが挙げられます。
1つ、2つ、3つ、...と数えていける無限(可算無限)と、それとは1対1に対応しない要素を持った無限(非可算無限)があること。また、ある集合の冪集合を考えると、冪集合の濃度はつねにもとの集合の濃度(有限集合の要素の個数を無限集合に拡張して考えた場合の「要素の個数」に相当する概念)よりも大きい、従って、無限に大きな濃度の集合が存在すること等、まさに驚くべき認識を得たのです。

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