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観測と振る舞い

「月は見たときにそこにある。」

これは観測しなければあるとも無いとも言えない
という「実証論」の考え方だと...

一方、「実在論」で考えると「月は見なくても、
つまり観測しなくてもそこにある」と...

しかし一生見なければ、あるいは視力がなけれ
ば月の光(太陽の反射光)自体が見えず、ある
事に気づかない。

いまひとつ、物は触ったとき固さや温度を感じる
。 見えるだけでは固いも柔らかいも判らない。 

すなわち人の五感で感じないもの(測定装置
で間接的に人の五感を越える周波数帯や温度
を検出できても最終的には五感の制限範囲に
還元される)は無に等しい。

結局自然現象は人の五感で感じる範囲で「重力
、光、音、物質、質量、熱」などとして「振る舞う」
(つまりそう感じる)だけでその実体は判らない。

ただそれらの振る舞いを数学的に定式化すると
こうだと言えそうだ。(観測事実に近いし、予言
も当たることがある)

という理解が今の物理学の根本と考えてよいの
でしょうか?

A 回答 (3件)

そういう考え方もあるでしょうが


今の物理学の根本と言ってしまうのは言いすぎでしょう。
分野ごとにいろいろなスタンスがありますし。

月の例の様な「観測しなければあるとも無いとも言えない」
みたいな極論は物理学の人にとっては意味が無いですね。哲学の人はするでしょうけど。
法則性を見つけるのが物理学ですから、この考え方からは何も生まれないですし。
(シュレ猫の話を思い出すかも知れませんが、物理学者は関心ないですし)

<すなわち~~無に等しい。

ある現象があってそれがもたらす如何なる副次的な現象も計測することが出来ないなら
まあそうでしょうね。

<結局自然現象は~~その実体は判らない。

実体のきちんとした定義はよくわかりませんが、
熱=分子の運動、のように、ある現象がより根本的なもので表される可能性は
常に残されているので、「あくまで振る舞いであって実体とは限らない」
と言っても間違ってはいないと思いますが、
ただ単に「わからない」「限らない」ではナンセンスなので、
理論ごとに根本となる概念を実体として設定してその範囲内で説明を行う、
というのが建設的な考え方でしょう。
その根本概念を、波動関数や虚数時間などの、定義からしてどうやっても直接観測
出来ないだろうもので設定するのが近代物理学の特徴のひとつなんでしょう。きっと。


<ただそれらの振る舞いを数学的に定式化するとこうだと言えそうだ。

振る舞いを(文脈的に測定データなどを指してるんでしょうか)を定式化・・・
これにもいろいろアプローチがありますから考え方は色々です。
マクスウェル方程式みたいに法則を数式にまとめるのが主体だったり、
相対性理論みたいに根本原理の設定からスタートしたり、
理想化したモデルで近似的に説明したり、
実用上の計算のために逆算的に性質を付け加えて計算したり

どんな手法で、どの程度まで追求すれば認められるかは分野によって違いますが、
質問者さんが言うように、そのモデルや数式を使えば測定結果から対象の挙動を
推測することが出来ます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「月は見たときにそこにある」という実証論の話は
量子力学の解説書に載っていたもので、哲学書
ではありません。

観測しなければ有るか無いか判らないというのが
「実証論派」、観測しなくても有ると考えるのが「実
在論派」だそうです。

シュレ猫の思考実験を用いたシュレーディンガー
自身はむしろ状態が確定しないような実証論に
警鐘を鳴らしたそうですね。 今の物理学者は
関心すら無いというのも驚きです。

>ある現象がより根本的なもので表される可能性は
>常に残されている。

是非ともそうであって欲しいですね。

私は少しコペンハーゲン解釈なる思想に違和感が
ありすぎるようです。 善し悪しは判りませんが...

このような質問のしかたになったのも現在多数派と
言われるコペンハーゲン解釈は実証論の立場をと
るそうなので物理学界全般がそういう傾向なのか?
と...

実証論や相補性という考えが必ずしも物理学の発
展性を損なうわけでは無いでしょうし、実在論が正
しいとも言い切れないとは思います。

ただ「原理的に不可能な根元的謎の追求は無意味
なもの」としてしまうのはいささか寂しいと思うのです。

一方でダークマターやダークエネルギーのように原
理的に検出きるかどうかも判らないようなものを見
つけようという努力もあることに感銘します。

お礼日時:2010/08/25 17:29

>はたしてそれは実体を見ているのか?振る舞いを見せられているのか?


コペンハーゲン解釈では「その質問には意味がない」になるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

やはりコペンハーゲン解釈ではそうでしょうね。

お礼日時:2010/08/25 16:46

>結局自然現象は人の五感で感じる範囲で「重力


、光、音、物質、質量、熱」などとして「振る舞う」
(つまりそう感じる)だけでその実体は判らない。

全く誤解です。数量化することは五感で感じる、感じないに関わりなく、
無限の現象に対して可能です。5感とは人間のセンサー、しかしセンサーは
5感を大幅に上回る能力があります。
望遠鏡なしに星雲の構造は解りません。
X線望遠鏡は宇宙の構造について多くの情報を与えてくれました。
中性子を検出するセンサーなしには原子力発電所の開発はできませんでした。
電気をびりびりと感じることはできても、電流、電圧、抵抗等によって定量化できなければ電気の実用化はできません。
顕微鏡から得られた情報は無限です。それらは可視化され、解析され、ミクロの世界に何が起きているかを教えてくれました。

そこに実態がないというのは科学の世界ではないでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

私は実体(物の本質)が「無い」といったの
ではなく「判らない」と書きました。

確かに現代科学の発展は目覚ましいですし
これまで判らなかった新しい発見が相次い
でいます。 それらを応用し実用化した先人
たちの功績もまた驚嘆すべきものです。

敬意を払わずにはいられません。

観測装置が人の五感を上回ることも()書き
の通り認識しています。

しかし最新鋭の原子間力顕微鏡をもってして
も電子を直接見ることはできず統計定確率
分布を間接的に見ることしか原理的に出来な
いそうです。 

その間接的確率分布を目という限られたセン
サーで見ているわけです。

はたしてそれは実体を見ているのか?
振る舞いを見せられているのか?

言いたかったことはそういうことなのです。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/25 10:24

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