電子書籍の厳選無料作品が豊富!

なぜ自分を変えるのが難しいのか?
私は「自分」の思考パターンを変えたい。
それを意識しているうちに少しずつ変わっているような。。。

例えば、他者からの評価が、自己側の客観視、に直結した思考パターン。
こういう人は多いでしょう? 私も含め。。。
(これは良くない思考パターンで、真の客観性ではない)

A 回答 (12件中1~10件)

自分でやってみればいい。

「自分を変える」ということを。
そうすれば分かるでしょう。
    • good
    • 0

人が変われば楽だから。



ただまあ、変わろうと思わないで
しっかり自分を見つめどうして行こうと
思えば自然と思考も変わってきますよ。
(たぶん)
    • good
    • 0

 私は、こうありたい、こうしたいと願っても、ほとんどの人がそれを実現することができないのではないでしょうか。

それは「自分を変える」だけに限りません。他人を変えることなどなおのこと難しいことです。だからといって不可能なことではないはずです。本を読んだり、話を聴いただけでは、実現は難しく、様々な修行が必要になるはずです。そんな者のために様々な宗教の教えがあるような気がします。理由は承知しませんが、自分を変えるのがあまりにも易しくなっては、困ることがあるかも知れません。
 「人は欲する方に誤る」といいます、性急に考えない方がよいのかも知れません。その前にやることがいくらでもあるはずです、それからでしょう。
    • good
    • 0

個々の思考パターンに実態はなく、それは光のように永遠に拡散していきます。

思考パターンの変更はすなわちデットポイントの先にあるからです。実態のあるもの(外観など)は個々の思考パターンに左右されています。外部からの評価も、自己の客観視も実態はありません。したがって、「あのような人になりたい」は自己の思考パターンに支配されているわけですから「あのような人ではないが演じてます」となるわけです。「自分は変わったようだ」は「実は何も変わってないんだけどね」と個々の思考パターンに支配されているわけです。
    • good
    • 0

こんにちは。


思いついたことをちょっとだけ。

●人間は思考して言葉を発している、と錯覚している。
 実は、使い慣れた言葉といつもの文脈を繰り返しているだけ。
 逆に言えば、言葉に支配されているのは思考の方なのです。
 だから、違う言葉、違う文脈を意識してデザインしたものを
 使うように習慣化します。

例:「ふざけやがってあのやろう、こんどあったらぶっころしてやる」
   というような頭の中の言葉を、
  「とても悔しい。仕返しがしたい、と私は思っている。
   具体的にどうすればいいだろう。」

いささか物騒な例ですが、同じ復讐心でも別人格であることが
お判り頂けると思います。

表面的な思考は言葉でするものです。
自分を操る言葉を自分で選び、思考文脈をデザインする。
どのような自分になりたいか考えなければ自分を望む姿に
変えることは出来ません。 まずは、言葉で自分をデザインするのが
始めにやることです。

トライ&エラーです。
    • good
    • 0

本気で変える気がないから。

    • good
    • 0

人間は悪い方には簡単に変わりますけど、いい方にはなかなか変わりません。



また、ふらふら変わっては人間関係がめちゃくちゃになります。
なので、それなりのエネルギーで落ちないように支えている状態です。

つまり、キープするのにもエネルギーが要る。

そこからさらに上に持ち上げるのですから大変です。
しかも、実際変わったらちょっと違ったりもします。

ゴールへの道のりもはっきりしないのに、重い荷物を運ぶのはこたえますね。


客観性とかも、結局は弱さですね。諦めたり責任を他に押しつけたりしたいのです。
それに負けないことが大事なのですが、分かってるだけでは足らない。

難しいものです。
    • good
    • 0

自分を変えることができる人はおそらく人生の勝者になれるのであろうと思います。



人類悩みの多くは、「自分は何をしなければならないかわかっているがそれができない」という嘆きだと思いますがいかがでしょうか。

しばしば自由を謳歌しているように見える人が、単に自分の欲望の奴隷になっている場合があります。真の自由とは「しなければならないことができる力を自分の内に持っている」場合にのみ自由になれるからです。

他者からの評価が気になるというのはご自分の世界観が確立していないことを露呈していますし、自分を変える力もないということを暗示しています。
    • good
    • 0

 「知力」の方面から理性を持って「自分の考え」を変え、それを生き方に反映させる事によって、「性格」も変わるのではないか、変えてみたい、といった考えを述べたものと受けとめました。


 でも、こうした方法で自分を変えてみても、それは真に自分が変わったわけではない、と疑問視する気持ちがあるらしい事も。

 情的面(人の“性格”は情的なものであるとして)を優先した意見です。

 生物は生きようという力“意志”があります。哺乳類になると“感情”も働くようになります。そして人間は高度な感情を身に付けただけでなく、知力“理性”という能力を備えました。

 その高度な感覚を備えた“感情”はなぜか心の中で善、悪という価値的要素?(観念)を感じてしまいます。

 ☆感情に善し、悪しという念があり、それを理性が捉えて善、悪と判断する。そしてそうした心の働きを「意識」する能力があるから“主観、客観”という見方が出来る。

 なんてことを考えているうちに、質問への回答?という点においてズレを感じてきたので、修正しようと思いますが、うまく出来るかどうか。

 感情を分析し、判断するのは理性。その理性は感情の影響を大きく受けます。意志も根本的な生きようという“力、エネルギー”はともかく、この意志さえも感情の影響を受けているはずです。

 自分を変えるという意味が、理性的な価値観の変化、という意味ならば理性の分野ということになり、性格を変えるという意味ならば、感情の分野かと思います。

 ここでいう“感情”を植物の種とするならば、杉の種は杉の木にしかなりません。このたとえを当てはめれば“感情(性格)”を変えるのは難しいと言う事になります。

 でもその感情から現われる現象は、周囲の環境で変化します。杉の木にとって“良い環境”ならばすくすくと大きく育つように。

 また、突然流れを変えるようですが・・・・・
 心は環境の影響を受けるだけでなく、使うほどに育つ、と言う性質を持っているのではないでしょうか。
 心(感情)から現われる現象を善、悪という視点に立ってみた場合、好ましい心も好ましくない心も使うほどに育つ、と受けとめています。

 人間はこの善と悪の間を右へ左へとふらつきながら生きているのでしょう。言い換えれば、悪魔に引っ張られたり神さまに引っ張られたりして。

 だから回答No.1さんの回答が事実か、仮定かは分かりませんが、この場合は好ましくないほうの心を育てる事に努力したので、こうした“成果”を“実らせた”のだと考えます。
 
 

 
    • good
    • 0

なぜ自分を変えるのが難しいのか?



○ 走っている車にブレーキをかけてもすぐには止まらないと同じことですね。
考え方も長年にわたって培った傾向性がありますので、その傾向性は走る車と同じようなものなのですね。
天台ちぎは「一念三千論」という考え方でそれをあらわしています。これは「思い」を時計の針に置き換え思いや考えの違いを三千世界においたものですね。「思い」の針は自由にどの世界にも向くのですが個人個人には長年培った傾向性があり、特定の方向に向いてしまうというという考え方ですね。
それが思考パターンということですね。これは本能のようにあらかじめ設定されたものではありませんので変えることは出来るものですが、それはつまり思考の傾向性を変えるということなので、時間がかかるということですね。
日々、心の動き(思考)を監視し、くるくる回る思考の針、またある事象に対して同じような結論に向く思考の針を日々、反省的修正をしていけばいつかは思考の傾向性は変わるものです。
若くして気づけば修正は早いですが、中年に気づけば10年、20年かかりますね。人生の晩年に気づけば、修正はほぼ無理でしょうから来世に引き継ぐしかないでしょうね。車のブレーキをかけて止まるまでに人生が終わってますからね。
私の気づきはすでに中年でしたから、瞬時瞬時の思考に、また日々修正をかけ何とか修正可能でしたが、それでも20年かかってますからね。
まあ思考パターンの修正は難しいものです。でもはじめればいつかは変わるものです。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す