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クオリア問題って結局はこうでしょうか

視覚(赤いリンゴ)を例にすると、
リンゴに反射した光は網膜で電気信号に変換され、その信号は後頭葉で処理されます。
しかし、電気信号はどこまでいっても電気信号なのに、なぜこうして「赤いリンゴ」
として頭の中に表示されるのか?

クオリア問題ってそういう問題ですよね?
だとしたら、コンピュータを例にするとカメラのレンズから入ってきた光を
ハードディスクに電気信号として記録し、もう一度表示したいときはディスプレイに表示します
ディスプレイには我々が脳内で思い起こしたのと同じ赤いリンゴが表示されます
そこへ更にディスプレイ向きにカメラを配置し、コンピュータの中にフィードバックさせたら
内部では赤いリンゴを見た!とあたかも以前見た記憶を人間が思い起こしたように認識してると思います

うまく表現できませんが、ニュアンスを掴んで頂けたら幸いです。
つまり、人間の脳も機械と同じではないですか?
やはり人間は機械に還元されてしまうのでしょうか

以前もここや知恵袋で皆様に助けてもらいましたが
またこうして還元主義?唯物論?に堪え難い恐怖を感じています。
若干パニックになってるのでそれが原因かもしれませんが
どなたか、僕のクオリアに対する見解が間違っているかどうか
それと、仮に正しかったとして、万物に希望が持てる考え方を教えて頂けないでしょうか

A 回答 (34件中1~10件)

 主観的な次元というのは未だ解明されていませんが仮説で言うならばディスプレイという別次元が存在するということを肯定せずにはおれません。

つまり魂の世界が存在することの理論的証明になります。物理的世界からの情報を肉体を通して送られてくる情報を受け取る世界です。逆に言えば主観世界の主導権によって認識している訳ですから機械的に動いているのではなく主観的に動いている事になりますが物理的変化によって精神状態は変わるので主導権が主観に存在していても危ない自己啓発やセミナー、異常な新興宗教、大衆操作がお得意のテレビ番組はたまた普通の認識に至るまで物理世界の刺激によって誘導することは造作ない訳で目が覚めて文句を言っても「じゃあ何でやめんかった?」といわれて文句も言えないわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

>ディスプレイという別次元が存在するということを肯定せずにはおれません
それはデジカメのディスプレイで電気信号が画像に変換できるように
人間の脳内でも同じような変換が起きていると仮定でき、別次元というのはいまいちピンときません
むしろ電気信号を画像に変換できることが魂の世界が存在しないことの理論的証明の一部になりませんか?
というかそう思わざるをえない(機械的に還元される)ため僕は恐怖を感じているんです

お礼日時:2010/09/30 23:19

素人ですが


クオリア問題は、人間的情報の問題なのでしょう。
機械的な情報そのものは無機的であり、客観的な確実性があります(当たり前ですが)
実験により測定もできるし、完全なコピーも可能ですね。
ですが、人間が捉えた情報は不確実で常に変化し続けているように思えます。
感覚質ともいわれるクオリアは、主観的な情報であり、常に不確実なのでしょう。

情報そのものは非人間的であっても、感覚によってもたらされる情報は人間的になってしまうものだという見方もできます。
情報そのものが変化や変換をしてこそ人間に受け入れられているという事なのだと思います。
感覚というフィルターを通して入ってきた段階で、情報はすでに変化してしまいますし
記憶媒体にしても、その入力時においても、また出力時においても変化してしまっているのではないでしょうか。
こうした見方をしていくと、人間の情報の記憶とか再現の働きは余りにも不安定で不確実なもののように思えます。

情報全体の正確な伝達とか再現という見方からすれば、人間の脳の働きは失格かもしれません。
でも、情報の質感を正確に捉えているという見方からすれば、人間の脳の働きは合格であるとも言えるように思います。
情報に質感を与えるとか、質感によって分類するとかいった働きは人間にしかできないものです。
情報の把握において、そうした人間的な変換が自然に行われているという見方からすれば、その事を機械的な情報処理と比較するのは意味がなさないようにも思われるのですが・・・

新しい情報の質感は、すでにある情報の質感と照合され分類されていくように思います。
そうした素早い働きは感性によるものなのでしょう。
感性コンピューターが人間なのかもしれませんね。
感性コンピューターの情報処理がクオリアなのかもしれませんね。
その辺のソフトが開発されればコンピューターも人間に近ずけるかもしれませんね。
完全には無理のように思いますけど・・・

ご参考になさってください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

質感を伝えるということですね
自分はいまいち質感というものを感じないのです
特に視覚についての質感を感じない、というか理解してないのかもしれませんが。

カメラ(視覚)、体重計(圧力)、温度計(温度)などもクオリアとして感じとっているような気がしてしまいます

お礼日時:2010/10/01 15:46

 考えてみました。



 人間の“目”が捉える情報は、
 形、色、大きさ、遠近、速度、・・・・・ほかに何かあるでしょうか。

 これらの“映像”を網膜から後頭葉へ伝達する手段を調べると“電気信号”といえるのですね?
 それでは、現象(景色)から網膜の間は、電気信号なんだろうか。
 
 単にそれは光だ、ということなんでしょうか。
 素人なので知りませんが。

 遠近を感じる脳。大きさを感じる脳。形を感じる脳。色を感じる脳。
 電気信号のさまざまな変化が、これらの情報を脳に伝える。
 それらの情報を受け止めることのできる人間の脳は高性能ですね。

 私は、クオリアというのは、例えば金属製の物より、木製の製品のほうに温かみを感じる。といった事のように受け止めています。

 布団を見るとふわふわした感じを受けますが、こういった“感じ”の事をクオリアと言っているのではないでしょうか。

 でもいろいろ考えてしまいます。映像って、物質?だなんて。

  
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

>私は、クオリアというのは、例えば金属製の物より、木製の製品のほうに温かみを感じる。
>といった事のように受け止めています。
それは脳が金属を認知して、以前木製品を触ったときの感覚の記憶を思い出し
それと比較しているだけではないのでしょうか
一度も金属を触ったことのない赤ちゃんははたしてクオリアを感じるのでしょうか
やはり脳は何も感じてない気がします

お礼日時:2010/10/01 15:50

この感じの問題では一時悩んだので・・・



一時人間は脳じゃないのか? もしかして脳幹? やばい、と言うときがありました。
で、そうではない理屈を考えたのですが、別に現実をねじ曲げたというわけではないです。


それは、単純に、存在は、全宇宙の中にある、と言うことです。(細かい理屈省略の説明でいいかしら)
宇宙がもしないとして、それで存在もへったくれもありません。
存在する、と言うことは、時間空間を前提にしています。
宇宙があるから、なんでもそこにあり得ます。(すさまじくはしょった説明で済みませんが)
りんごがある、と言うことは、りんごを浮かべる宇宙がある、と言うことです。

この構図において、受動的な機械論と、能動的主体論は、足して2で割れます。
(というかあまりに緻密な論理的説明は僕もできてないんですねー済みません)




ただの脳の電気信号は、間違いなくただの電気信号です。
乾電池に電線つないだって同じものが流れます。それ以上でも以下でもないです。
簡単に考えて、それがりんごになるわけ無いじゃないですか?
この滅茶苦茶な断裂を、よく脳の研究者は(茂木さんら一部を除いて)、平気でおれるなーと驚きます。



問題は、質問に書かれてるところがポイントではないと思います。

>クオリア問題ってそういう問題ですよね
これは正しいと思うんですが、
>うまく表現できませんが、ニュアンスを掴んで頂けたら幸いです。
こちらのコンピュータの例は、ただ脳をそのまま置き換えただけです。そんな置き換えをしてもあまり意味はありません。

脳は有機コンピュータみたいなものだと思うので、脳の例えとして悪いわけじゃないですが、クオリアの問題は、脳をコンピュータに置き換えたからと行って、浮き彫りになる分けじゃありません。
そこでピントがずれてると思います個人的に。

脳だろうが、コンピュータだろうが、ただの電池で導線に電流を流すだけの一番簡単な電気回路だろうが、どうしてそんなものが、りんごになるのか? それが問題だと思います。
(ここから先は、無限と有限の組み合わせ、というやっかいな話になるので、できたらここで手を打てたら・・)

どうでしょうか?

この回答への補足

追記させてください(補足欄ってこの使い方であってますか?自分は質問者です)

>脳だろうが、コンピュータだろうが、ただの電池で導線に電流を流すだけの
>一番簡単な電気回路だろうが、どうしてそんなものが、りんごになるのか? 
>それが問題だと思います。

sheep67さんは機械も流れる電気信号でクオリアを感じるという立場ということでしょうか

補足日時:2010/10/01 16:05
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この回答へのお礼

たくさんの回答ありがとうございます。ひとつずつ返信させて頂きます。

>この構図において、受動的な機械論と、能動的主体論は、足して2で割れます。
ちょっとここがよく理解できないのですが、sheep67さんの回答をこのまま読み進めていっても差し支えないでしょうか


>脳だろうが、コンピュータだろうが、ただの電池で導線に電流を流すだけの
>一番簡単な電気回路だろうが、どうしてそんなものが、りんごになるのか?
>それが問題だと思います。
デジカメのディスプレイに撮影したリンゴが表示されるのが不思議だということでしょうか
それとは違うのでしょうか。いまいちデジカメの構造を理解しておりませんが
デジカメがレンズから取り入れた情報をディスプレイで表示できたように
脳内でも眼球から取り入れた電気信号を脳の一部分で再表示し、認識することに疑問を感じません

なんかピントずれてますか?そんな気も若干してきました。
sheep67さんもこの問題について悩まれたようなので、どういうわけかホッとします

お礼日時:2010/10/01 16:01

や、やっぱもうちょっと補足・・・



クオリアは、「意味」と置き換えられるでしょうか?
置き換えら得ると仮定します。

そうしたら、意味の重要性はなぜ生まれるか、を見てください。
意味の重要性と、物質の大きさは全く比例しません。


例えば、パソコンプログラム内の、ただ一つの0と1が間違って書かれていた、とします。
でもこれは、核爆弾の管理プログラムで、この一つの間違いで、地球が滅ぶとします。
そうしたら、この0と1の違いの意味は、とても大きいものになります。


なぜこの0と1の違いの意味は大きいのか?その意味を知った人間にでっかいクオリアを与えるのか?(ちょっとニュアンス違うけど・・・)
それは、その物理的?違いにまつわる、その意味を構成する、外世界が存在しているから。
その0と1の違いの意味を作成してるのは、そこに繋がる、でっかいでっかい外部の意味世界だから、です。


いい例えじゃないですねー。
でも逆に素敵な思い出の場所、なつかしいお味噌汁のクオリアも同じです。
他人にとってはどうでも良くても、本人にとってはすごく大事で意味のあるもの、と言うのがあります。
そのすごく大事さ、というのはクオリアです(アバウトに)


なぜでしょうか? となると、その、把握してるクオリアの意味に繋がる、全世界の意味構造が関係してるからです。
そして脳によるクオリアの把握は、この全体意味構造を捉えきれない、その出がらしみたいなものです。
いい言い方だと、抽象化? 象徴化? というたぐいの機能を、脳は実行してるに過ぎません。
と言う意味で、脳は、全体というある種の無限極限(アバウト)と、有限との間の、翻訳者、仲介者だと思ってます。
こういう象徴化の典型は、「言葉」です。この手の機能は、脳は大得意です。

すべての存在、すべてのもの、すべてのクオリア、すべての人が捉えられるものにたいして、この部分と全体は当てはまっている、といって、伝わるのでしょうか・・


という風な、アバウトで済みません。細かくつっこまれたらまだ無理ですけど。ちょっとは楽でしょうか・・それには自信ないけど・・・

この回答への補足

くれてる
じゃなくて
下さってる
ですね。恥ずかしいです。

補足日時:2010/10/01 16:24
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
後半難しいですが、なんとなく分かります
客観的?機械的?に見て価値のないものを、人間は価値があると感じ取れることが素晴らしいということでしょうか?
でもちょっと僕はその前段階の、価値がある(大切だ!という感覚?)に疑問なんです
本当に感じてるのか?と。
例えば従業員以外の不審者を感知する監視カメラがあるとします
そのカメラはレンズ(目)に入ってくる映像をコンピュータ(脳)で情報処理し
特定のものを選びとっているわけです
それってなんか人間と同じじゃないですか?
その不審者と従業員を選別してるところも、今回の回答文の「意味」という概念と重なる気がしてしまいます・・・
そんな感じで機械と同じくクオリアなんてないと思ってしまいます
そういう機械にはクオリアは存在しないとする立場なので。

なんか親身になってくれてる感じが文章から伝わってきます。ありがたいです。

お礼日時:2010/10/01 16:21

下に書いた脳の象徴化機能をひとつ。



というか僕もいい機会なんで考えさせてもらって・・
ちょっと味噌汁のクオリア、とかではアバウトだったので、ただ一つの要素的なクオリアに絞ります。




例えばよく例で上げられる色のクオリアです。
僕は青が好きなので、青で行きます。

青のクオリアが定まるには、色のグラデーションだけでも、無限の色の階層の中からただ一つが目の前にある。無限の違いの中のただ一つが目の前に存在します。それは、単純な、青、なんて言葉で呼べるような単純なものじゃありません。

青だ、という偏見で見れば、青としか思いませんが、青にすさまじいクオリアを感じるときは、そんな固定観念は取っ払われ、無限のグラデーションと無限の明暗の階層の中に浮かぶ、ただ一つの個性である、目の前の青を見ています。
無限の中の、一瞬の断面である切り口が、目の前に存在する青のクオリアです。だからこそ、理解不能なものとしてクオリアは存在します。
僕らがクオリアに無限を感じるときは、こういう無限の一断面としてのひとつの色をその全体の構図をうすうす感じ取ってるからこそ、「無限のひとつの側面としての表れであるクオリア」、としてみているのだと思います。
というか僕はそう感じますがねー、証明しろというのは無理ですが。



青なんて言葉は、その無限をぶちこわして、ひとくくりにする、木で鼻をくくるようなものですが、脳は残念ながらそんなことしかできません。脳は有限なので仕方ありませんし別に悪いわけでもないですし。

そして、それを認知するには、先に書いた宇宙も存在しないと、このクオリアも認知できません。
時間0秒ではいくら何でもクオリアを感じられませんし、空間が無くても、無限との触媒になる青を発する物体も存在できません。

なんだかんだで、ただ一つの要素的クオリアも、それを含む極限や無限と切り離しては、存在は考えられないのではないでしょうか・・・
と思うんだけど・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
僕も青が好きです
でも、「青に凄まじいクオリアを感じる」ということがよく分かりません
例えば、今なんかでは被写体の顔を探し出し、そこに焦点を合わし自動的に撮影してくれるカメラがあるじゃないですか。
あれってやっぱり顔の凄まじいクオリアを感じてるということじゃないですか
なんか下のお礼コメント欄と同じこと書いてしまいましたすみません

極限や無限・・・ですか、言われてみたら確かに壮大ですが
なんかここまできたお礼コメント欄で言うのもあれですが
まだ自分クオリア感じてない気がします
最初の方のsheep67さんの回答から着いていけてないような・・・

どうか僕のお礼欄で少しずつ書いてきたデジタルカメラを例にとったクオリアの否定について、教えて貰えないでしょうか
自分でも少しピントずれてる気はしてるんです

お礼日時:2010/10/01 16:38

ちょっと定まってきたのでもうちょっとすみません。





青にしたって、無限のさまざまな青があるはずなのに、どうしてよりにもよって目の前のただ一つに定まる青なんだ! という驚きが、青のクオリアの本体だと思います。
無限にある中から、ただ一つの有限性が選択される、その奇跡です。当り前が当り前でないことを、だれもが本音では知っているのでは、と思います。


そしてクオリア本体である、ひとつの概念の背後に前提として存在する無限は、脳で把握してるわけではない、というのは、多分実感として納得してもらえると・・・思うのですが。

これが本当だとしても科学や厳密な論理では説明しがたいと思います。
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この回答へのお礼

確かにクオリアが存在するとすれば
その壮大なバックグラウンドに驚かざるをえないです

お礼日時:2010/10/01 16:42

線路は続くよ・・



で続きです



トランプに例えると、無限枚のカードがある中から、ただ一つのカードが引き出されて目の前にある、その、もう偶然とも必然とも呼べないような信じられない光景です。なぜ無数にある中から、このたった一枚のカードなのだろう? いくら考えてもそれは分からない、というのがクオリアかと思います。
誰が選んだの? 偶然? 必然? という不思議です。

というのも僕は小さいときにものがすべて虹色に見えたことがよくありました。
それが大きくなってから不思議で、クオリアと呼ばれていることを知りました。でも仕組みは分からなかったんですが、今日ちょっと進んでうれしいです、自己満足的に。



ーーー

脳の象徴化機能についての想像があります。

脳神経回路のループ、というのは、無限でありながら有限です。それは次元をひとつ落とす、と言う意味においてです。神経回路がループを作っていることが、象徴化に強く関わる、と思います。

ループ、と言うものは果てがないくせに、大きさは定まっています。それはこの宇宙も同じで、果てない無限なのに、宇宙の大きさは限定されます。無限なのに有限、それはループの特徴です。
メビウスの輪しかり、クラインの壺しかりです。ある次元における無限は、別の無限においては有限になり得ます。脳にはそういう変換機能があると、想像します。

この、無限を有限に変える、幾何学的性質が、おそらく脳の中で、概念の象徴化に関わるものじゃないか、と想像してます。
そしてクオリアが無限をしょってる癖に、有限のものとしても捉えられる不思議のネックかなー。
単純に、感性と認識の間の翻訳だ、といっても良いかもしれませんが。

これも証明、と言われると、見当も付きませんが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
>というのも僕は小さいときにものがすべて虹色に見えたことがよくありました。
!?
幻覚みたいなものでしょうか?それとも言葉の例えですか

後半は難解です・・・
おそらく有限、無限について僕はあまり考えたことがないからだと思います
クオリアのことばかり考えています;
そのうち理解できる日がくるのでしょうか
ただ、文章から不可思議なものを感じます
考えだしたら僕も止まらないのでしょうね

お礼日時:2010/10/01 16:49

訂正



>ある次元における無限は、別の無限においては有限

ある次元における無限は、別の次元においては有限

です。すんません。
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この回答へのお礼

訂正ありがとうございます
補完します

お礼日時:2010/10/01 16:50

「死」を認識して嫌うことが出来るなら一般人です。


自分で自分の世界を(ここまでしますか?極限まで)ミクロにしているだけです。

もし自分が死ぬなど考えたこともない、恐れないということなら
人間以上の存在か、機械か動物かになります。

それ以外の可能性として
人間にしか見えない「哲学的ゾンビ」かも??


↑別の質問に回答を間違えて入れてしまったんですが(おっちょこちょいです)、
敢えて(?)それほど違わないかもしれない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
マクロ的に物事を考えるべきだと言うことでしょうか
確かに還元主義?が頭から離れません

お礼日時:2010/10/01 16:51
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