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「厳密さ」と「分かりやすさ」のどちらを採用しますか?

自分は、ここのサイトで、幾度となく質問を提出しました。
そこで、いくつもの回答をいただくのですが、自分から見て、難解な言葉で説明している事が少なくありません。

とびっきり難解な回答をする回答者に、分かりやすく説明する様にお願いした事があります。

その時の返答が次の様な趣旨でした。「分かりやすい言葉を用いる事は、誤解を招く事である。」
私は、「分からないで立ち止まるより、誤解でも前に進んだ方がよい。」と返事したのですが、
その回答者様から、返答はありませんでした。

哲学者の長谷川宏氏も、分かりやすく哲学を説明する事に力点を置いているということを、その著書で書いています。
例えば、最初にデカルトの著書を訳した人を「方法叙説」を「方法の話」とした方が良かったと非難しています。

言葉は、事象そのものではありません。事象にラベルを貼り、そのラベルを用いて思考する。
言葉とは、そういう物だと思います。
厳密な言葉を用いるにせよ、言葉を用いるなら、事象そのものとのズレは避けられません。
それなら、やさしい言葉を用いる。やさしい言葉の中でも事象とズレの少ない言葉を選んで説明する。
その方が、遙かに良いと思っています。

自分は、分かりやすさを支持する立場なので、どうしても、そちらに誘導する表現をしがちなのですが、それを認識した上で、私の言いたい趣旨を批判する姿勢も持ち合わせた上で、回答お願いします。
 
長谷川宏 wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7% …
 

A 回答 (52件中41~50件)

議論する相手がウントゲンシュタインなら、厳密を、小学生なら、わかりやすさを選択します。

つまり、この問いそのものには前提条件が必要だと思います。
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この回答へのお礼

 
前提条件は必要ですか?
小学生の時のウントゲンシュタインではどうなりますか?
考えてみていただけないでしょうか?
 
 
 

お礼日時:2010/10/03 19:42

数学には「ε-δ 論法」と言うのがあるのをご存知でしょうか。



(1)xがaに近づく極限を取る時、関数f(x)が f(a) = b の値に近づく場合、その関数の極限はbである。

ということを厳密に言うとき数学では、

(2)任意の正の数 ε に対し、ある適当な正の数 δ が存在して、 0 < |x - a| < δ を満たす全ての実数 xに対し、 |f(x) - b| < ε が成り立つ。

と表現します。これが、ε-δ 論法です。例えばxを-1に近づける極限、すなわち x -> -1 を取ると、例えばxの2乗は

x^2=(-1)^2=+1

となることを数学では a=-1, f(x) = x^2, b=+1 として、厳密には(2)の表現をします。

どうですか、(1)の表現の方が(2)の表現に比べて遥かに「分かりやすい」または「判りやすい」のではないですか。私は、(1)の表現は透明な表現、(2)の場合を不透明な表現と呼んでいます。

では、何故数学は判りやすさを犠牲にしてまで、時にはそんなにややこしい不透明な表現をするのでしょうか。それは、歴史的な経験に基づいています。簡単な数学を論じている時には(1)の表現で混乱する人は居りません。(1)の表現で圧倒的な場合、問題がないのです。しかし、数学の構造が込み入って来て滅茶苦茶に複雑な量を扱い始めた時に、数学者達は(1)の表現では表現しきれない、従って、病的と言っても良いくらいな量が存在することに気が付きました。何故気が付いたかと言うと、(1)の表現で計算して行くと、人によって値が異なってしまい、何がなんだか判らなくなってしって大混乱した経験を何度も経験し始めたのです。そこで、極限の意味に何の曖昧さもない完全な表現を探り出し、結局、(2)の表現のみが、その混乱を取り除くことに気が付いたのです。

このように、我々は普段、余り病的でない事象を論じている場合には(1)でも十分だったのです。しかし、例外に属するような病的な物事を論じるときのみ、(2)のように厳密に表現して置かないと混乱することを、長く、かつ痛い経験で気が付くようになったのです。

以上のことから、何故この世には「厳密な表現」があるのかお判りになりましたか。その論者がたまたま、一生の間に何度もお目に掛かれないような病的な事象に対して、それを取り扱うのに混乱が生じてしまう可能性がある場合にのみ、透明性を犠牲にしてまでも、厳密な表現が必要になるのです。人生で圧倒的に多くの状況では、そんなややこしい厳密な表現をしなくても、(1)のレベルの透明な表現で、相手に間違いなくこちらの言いたいことが伝わります。従って、厳密な表現をする必要がありません。


ところが、世の中には何のために「厳密な表現」が存在しているのか分からずに、厳密に表現することが学問であると、まるで学問を知らない方が時々おります。

学問を論じる場合には、相手がそれで誤解してしまう可能性が無いと考えられる場合には、少々厳密さ犠牲にしてでも、透明な表現をして、相手にそれを理解させるための無駄なエネルギーを消費させないように表現することが、学者としての当然な義務なのです。そして、例外中の例外に属する場合のみ、透明性を犠牲にしてでも、厳密な表現を使うべきなのです。四六時中厳密な表現をしている方は、単なる阿呆です。
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この回答へのお礼

 
>数学には「ε-δ 論法」と言うのがあるのをご存知でしょうか。

知っています。
高校時代、微分積分を学んだ初期にこの論法の存在を知りました。
(1)の説明で十分分かるのに、(2)の説明に出会い、理解できずに困惑しました。
微積への理解の扉が閉ざされた絶望感の様な感じに襲われたのを思い出します。
仕方なしに、(1)の説明を受け入れ、前に進みました。
ほろ苦い思い出ですね・・・・

>四六時中厳密な表現をしている方は、単なる阿呆です。

強力な支持ありがとうございます。
 

お礼日時:2010/10/03 19:26

以前、長谷川氏が翻訳した哲学者の本のごく一部を読んだ時の経験を踏まえ、満足な回答はできませんが、翻訳に限ってお話しします。



この本を長谷川氏の訳と、別の人のもっと直訳調の訳で読んだところ、後者の方がよく分かるという経験をしました。この哲学者の本には本人に固有の概念がいくつも現れますが、後者はその抽象的な言葉をそのまま1つの訳語に置き換えていたのに対し、長谷川氏は文脈に応じて訳し分けていたのではないかと思います。後者の訳し方だと、訳文が堅苦しくなったり、ぎこちなくなったりします。

前者の方が、文章表現の抽象性が低く、分かりやすいことは確かです。しかし、原著者が使っているキーワードを場所によって訳し分けると、読者は、著者にとって重要なはずのそのキーワードの存在に気づきません。このため、読者が、著者の思考を正確に再現するのは難しくなります。例えば、ピタゴラスの定理は、ユークリッド幾何学風にも解析幾何風にも証明できるのだと思いますが(昔の記憶なのでこれはあまり自信がありません)、あることを解説するために用いる言葉が、原著者と大きく変わるということは、原著者と別の仕方でその証明を行うのに近いのではないでしょうか。なぜなら証明の道具(言葉)が違うからです。つまり、著者が伝えようとしている真理を、長谷川氏訳でも伝えられるけれども、その伝え方が原著者とは違っており、その真理に至るまでの思考経路が読者に伝わるかどうかを重視する立場から見れば、それは邪道だということになるかもしれません。

分かりやすさと厳密さのどちらが大事かは一概には言えないと思います。偉大な哲学者については、その思考経路あるいは物の見方をなるべく正確に知りたいと思う人が世界中におり、そういう人のためには、彼の語彙を翻訳で正確に再現することが大事でしょう。しかし、その哲学者個人にはさほどの興味がなく、彼が指し示す真理だけを知りたいと思う読者のためには、原著の内容を忠実に再現する必要はなく、分かりやすく伝える方が大事でしょう。
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一般的に言って「説明」というのは、真実という遠いものがあって、それから更に遠くてそのものを自分ほどには明確に把握できないでいる(らしい)ひとに、その真実を自分なりにその人に向けて少なくとも自分が知っている分のすべてを正確に、出来る限り厳密に示してみせる、ということが必須だろうと思います。

そのひとが理解できるように、わかりやすく説明しなければならないのは当然のことでしょう。解りやすくしなければならないという立場から、その説明が厳密でなくなったらそれは何のための説明だろうということになります。
誰だって真実そのものを完璧に理解しているわけではないと思います。そのために厳密さが欠けるのは仕方がないことだと思います。ただ、自分が知っていること、自分が自信を持って説明できる範囲だけは厳密に、完璧に相手に伝える義務があるだろうと思います。
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asaqです



私は分かりやすく説明することを指示しております^^v
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この回答へのお礼

 
 <(_ _*)> アリガトウゴザイマス
 

お礼日時:2010/10/02 20:44

>「厳密さ」と「分かりやすさ」のどちらを採用しますか?



まず目指すべきは両方です

厳密さと分かりやすさは相反しておりません

とある事象を厳密に分かりやすく教えることが理想です
そしてそれほど不可能ではありません

ただここでいう事象と言う物が無限に存在し
(哲学、物理、数学、料理、スポーツ・・・・)
それを教えるという状況もまた無限に存在します
(相手は子供?、大人、障害者、高齢者、教授、アインシュタイン・・・・)

その状況によっては厳密に教えられないかも知れない
その状況によっては分かりやすく教えられないかも知れない

ここで最も重要となるのは
教える(伝える)ということです
教える必要があるから教えるんですよね?
じゃあ相手に理解してもらうことが目的ですよね

分かりやすさを重視しない人間とはすでに目的を忘れ
口から良く分からない音を発することが目的になっているだけの人です

理解してもらうことが目的
そのために分かりやすく説明する
そしてそれが厳密であればなお良い

そういうことです

質問者さんも分かりやすさ重視とのことなので
私の回答は意味がないかも知れませんが
このスレを見る人に見てもらえばもしかすると意味が生まれるかも知れないと
考え回答させて頂きました
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

>理解してもらうことが目的
>そのために分かりやすく説明する
>そしてそれが厳密であればなお良い

分かりやすさを支持している立場の自分だからかも知れませんが、
最初に、「そのためにに分かりやすく説明する」と、分かりやすいを持ってきているから、
分かりやすさを支持しているように、読み取れました。 σ(^_^;)アセアセ...
 
 

お礼日時:2010/10/02 19:21

問い:美しさを重視しますか、優しさを重視しますか?



答え:両方重視します。

二律背反でない事象を二者択一に問う質問に対して、二者択一でない回答です。


解りやすさを重視していくと結果的に厳密な表現にたどり着きます。
厳密さを重視していくと(その分野の基礎知識、術語が解る人にとっては)解りやすくなります。

一般に基本語彙は多義です。
ですから、基本語彙だけを使って表現すると多義語x多義語の結果、超多義の文章になりかねません。
それでも誤解の余地を減らすだけの紙幅を費やせば厳密な表現が可能かもしれませんが読むほうが疲れます。

一方、術語は語義が明確に定義されているので、術語を使って記述すると厳密であると同時に解りやすい(解る為に使う時間が短い)という結果にもなります。

だんだん日本語になれてくるにしたがい「分かりやすい」と言うべきか「解りやすい」と言わねばならないかなど、明確になり、間違えなくなります。

この回答への補足

 すみません。本題とは関係ないのですが、木造100年は分かりました。
 コンクリートの場合は何年ですか? ..ψ(。。)メモメモ...したいと思います。

補足日時:2010/10/02 20:33
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この回答へのお礼

 
すみません。木造100年さんの言いたい事が後半になるに従って、しだいに分かりにくくなりました。

厳密さを優先し、分かりやすさが犠牲になっている気がします。

(>両方重視します。
一般論としては、そうなんでしょうが、完全平等は無理ですから、どこかに比重がかかるでしょ!)

>分かりにくい人の説明は、説明を受ける人の考慮がなされていない事が多いですよね。

と、他の回答者のお礼に書いた文章を、なるほどと納得しました。

僕は、過去に何度も「お馬鹿」であると、言っていますよ。

木造100年さんの言っている事が、分からないと内容に踏み込めないと言うのを再確認したので、

勝手に、分かりやすさを優先するとしたいと思います。(ノ_<。)うっうっうっ

また、書き込んでいただくと、さらに詰められると思います。
(当然、分からないと、いけませんが・・・)
 

お礼日時:2010/10/02 20:29

『厳密さか』、or 『分りやすさ』か 悩むところです。

先日も私は大失敗しました。私は物理学を多少かじったものですが、大学卒30年以上の理系、文系混合部隊のあるクラブから 素数についての講義を頼まれました。 オイラー、ガウス、リーマンのゼータ関数までの一応の準備(証明されているものはおさらいして)ノートを作製し、中学生のハイレベルか高校生のレベルに合わせて説明したのですが、説明は上手ではないものの丁寧に説明したつもりでしたが、結果は惨憺たるもので80%は理解不能というか 拒否反応そのものでした。実際のところほとんど人にとっては 金勘定算数理解で実生活上問題ないわけで 義務教育で数学は必要かという問題を突きつかれた ような感じをもちました。私の失敗は 聴衆は 数学の素数について知ろうということではなく 素数に纏わる思想(哲学的解釈)を知りたことが分っていなかったのです。
 いいたいことは 聴衆は 何をしりたいか であります。厳密さを表す数式が出てくるなり、直ちに拒否反応が始まる聴衆には 厳密さより 分りやすさ ということです。分りやすさを求める 聴衆は 別の場面では 結構 ポストモダンがどうのこうのとか ソ連崩壊の原因弁証法はどうのこうのと厳密めいた文語発言します。だけれども 分りやすさ か 厳密か 両立しがたい場合は 聴衆を観て発言することおもいます。もちろん両立できる人は それに越したことはありません。
以上参考になれば。
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この回答へのお礼

>いいたいことは 聴衆は 何をしりたいか であります。

>分りやすさ か 厳密か 両立しがたい場合は 聴衆を観て発言することおもいます。
>もちろん両立できる人は それに越したことはありません。

そうなんですね。
分かりにくい人の説明は、説明を受ける人の考慮がなされていない事が多いですよね。
相手が変わっても、同じ説明をしています。

仏陀の「人を見て法を説く」って事ですかね。

総合的に考えて、どっちかというと、相手に分かる事を優先する。・・・と言っていると解釈していいですか?
 

お礼日時:2010/10/02 19:59

僕も「分かりやすさ」を支持します。



いかに「相手に分かりやすく伝えるか」が重要ではないか、と思います。

僕もこの点に注意して話しているつもりですが、なかなか上手くいかないのも現状です。


相手に伝わらなければ意味がない、とも思いますね。
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『分かりやすさ』です。


それがなければ『厳密』なものは存在しません。

丸暗記しただけでは、意味を理解したとはいえません。
理解していないから、分かりやすく説明できないのです。

だから、難解な言葉や専門的な用語をそのまま使うのです。
コピペと変わりません。

でも、そういう人に限って変にプライドが高いというか、
『よーし、賢い自分が教えてやろう』みたいな物言いを
するひとが結構多いような気がします。

本当に理解している方の説明は、分かりやすいですし、
『君等は何も知らないんだな』というような物言いは
しないと思います。
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