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「厳密さ」と「分かりやすさ」のどちらを採用しますか?

自分は、ここのサイトで、幾度となく質問を提出しました。
そこで、いくつもの回答をいただくのですが、自分から見て、難解な言葉で説明している事が少なくありません。

とびっきり難解な回答をする回答者に、分かりやすく説明する様にお願いした事があります。

その時の返答が次の様な趣旨でした。「分かりやすい言葉を用いる事は、誤解を招く事である。」
私は、「分からないで立ち止まるより、誤解でも前に進んだ方がよい。」と返事したのですが、
その回答者様から、返答はありませんでした。

哲学者の長谷川宏氏も、分かりやすく哲学を説明する事に力点を置いているということを、その著書で書いています。
例えば、最初にデカルトの著書を訳した人を「方法叙説」を「方法の話」とした方が良かったと非難しています。

言葉は、事象そのものではありません。事象にラベルを貼り、そのラベルを用いて思考する。
言葉とは、そういう物だと思います。
厳密な言葉を用いるにせよ、言葉を用いるなら、事象そのものとのズレは避けられません。
それなら、やさしい言葉を用いる。やさしい言葉の中でも事象とズレの少ない言葉を選んで説明する。
その方が、遙かに良いと思っています。

自分は、分かりやすさを支持する立場なので、どうしても、そちらに誘導する表現をしがちなのですが、それを認識した上で、私の言いたい趣旨を批判する姿勢も持ち合わせた上で、回答お願いします。
 
長谷川宏 wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7% …
 

A 回答 (52件中31~40件)

#6です。



雨合羽さん、素晴らしい!

>わかりやすさというのは、表層によって一息に理解に結びつくような能動であり、厳密さを廃棄して得られるというものではないのです。

上記は、正に我意を得たり。

『「厳密さ」と「分かりやすさ」のどちらを』を、
『「難解さ」と「分かりやすさ」のどちらを』と改題していただきましたが、
もう一歩「分かり易さ」を進めれば、
『「解り難さと」と「解りかり安さ」のどちらを』になるじゃないですか。
どちらを取るのかと問われて、前者を取ると回答する者がおるのでしょうか。(笑)

残った質問は、
『「厳密さ」と「曖昧さ」のどちらを』選ぶのか? ということになりましょうが、これまた愚問ですね。

愚拙は言語能力が低く、雨合羽さんの回答を読むまで質問が包含している問題を明確にすることができませんでした。直観的にふたつの概念が相反している物では無いと「感じる」だけだったので、#6の回答にて、「美しさ」と「優しさ」を例示し、その二者が相反するものでない(自明)であることをもって、二者択一を求める質問自体の問題に気づいてもらおうとしましたが、その説明自体が難解だとのご指摘を受けてしまいました。

今回、愚拙#6の回答が「質問の未熟さ」を指摘するにとどまったのに対し、雨合羽さんの回答では「代替案の提示」ができていることが最大の相違であります。この相違は、提示されてしまえば、大した相違で無いと思いがちですが、提示される前にどちらのスタンスを取れるかは、大いなる相違であり、雨合羽さんと愚拙は指数目盛りで数段違うと言う事を認めざるをえません。

今後とも厳密で且つ解りやすい言葉遣いに努めたいものです。

この回答への補足

 

補足日時:2010/10/07 10:30
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この回答へのお礼

 
 

お礼日時:2010/10/07 11:01

ご質問は、難解な回答への問いかけから始まり、翻訳の問題を例に挙げ、結論として事象と言葉のズレをふまえた上でやさしい言葉を選ぶとよい、という内容です。



これを題して、『「厳密さ」と「分かりやすさ」のどちらを』となる理由が、わたしには分かりません。
なぜ、『「難解さ」と「分かりやすさ」のどちらを』という題ではないのでしょうか。

翻訳の問題は例としてあまりふさわしくないかもしれません。デカルトがdiscoursという語を選び、traite(~概論)や essai(~試論)や histoire(~の話)という語を選ばなかったという態度と心情を汲もうとするなら、discoursの訳語を考えることは、なかなか難しい作業でしょう。
そこで、言葉以上に、発語の背景や地層をとらえようとしますと、言葉を発した人の、過去の発言や同時期の発言によく照らして、思考の特徴や癖、言語運用の特徴や癖を把握しなければなりません。

さて、叙説と訳される場合、説を文によって述べることを意味しているので、discoursの語の持つ一面にしかあたらず、ロンより証拠のロン、空ロンのロン、ハナシが別というハナシ、ハナシの接ぎ穂というハナシ、といったクチから発して流れて霧散するペラペラ感が滲み出ません。したがって中心軸は取られていますがdiscoursより狭義となっており、厳密な訳ではないです。
また、序説と訳される場合は、ご存じとは思いますがまったく厳密ではありません。デカルトが三つのessaiに先立つ序文としてこれを書いたのだから、その態度や心情を活かそうという配慮によっています。事情に合わせたズレなら許されるだろうと見込んで、めいっぱいズラしています。
このように、おっしゃるところのラベルで言えば、言語間でのラベルの貼り替えに苦労するのが翻訳ですが、同じくらいの実用的射程範囲でズレない張り替えができれば、それは厳密というものでしょう。
まさに、『方法のはなし』『方法を語る』『方法についての論』のほうが、訳として厳密なのです。

ですから、kunobouさんのおっしゃりたいことは、難解でいいのか、ということにただ尽きるのではないかと思います。
何を指して厳密な表現や厳密な説明といいうるか、ということを考えてみれば、広さを広さのとおりに、深さを深さのとおりに、時には距離感を距離感のとおりに、心理状態を心理状態のとおりに、約束や定石を約束や定石のとおりに、伝えていくなかで、
円周率を3.141592と書くかπと書くかのような処理のしかたは、いわば円周率の模像を立て、代替表象を得て、文字化け的展開を果たすことであり、それ自体は厳密さの正体ではなく、上記のようなことを上記のようなとおりにする点にかけて、厳密さというのは働きかけてくるものでしょう。

すると、たとえば、しばしば見かける回答で、宇宙はなにかの相補であり縦だか横だかに切断すると、、、という瞠目に値するものがありますが、
こうした説明も、説明者本人のイメージするところ(像=イマーゴ)をそのとおりに伝えようとする限り、模像であり代替であり文字化け的展開であっても、本人のイマーゴに忠実であろうとする点に厳密さがはたらいていると言えます。
だから、厳密でなくするということは説明者にとって、イマーゴを厳密に伝えることを放棄することになり、忠実さを歪め、誤解を生むしかなくなるのです。
この説明者が努力しうるのは、難解でなくするということです。分かりやすくしてください、と言って悪いことは何もありません。しかし、厳密だから難解なのだと考えるとしたら、その時点で説明者のイマーゴを捉える手段はひとつもなくなります。むしろ、もっと厳密に、いっさいの誤魔化しがないように説明を重ねてもらうことで、説明者のイマーゴに作用しているさまざまな前提やさまざまな背景が明るみになってくるのです。これが象徴形式を解くという作業です。難解でも本当に厳密なものならば解けます。

そこでたとえば八歳の児童におけるわかりやすさを求めると、要素に分けて視覚化するか、言葉なら詩的表現にするか、何らかのデザインが必要になると思います。八歳児が意図を誤解しないような、なおかつ説明者のイマーゴの全体性も要素もうまく抽出するデザインというのは、非常にすぐれた仕事だと思います。これ以上厳密な仕事はないくらいと言えるでしょう。そして、たぶん大人がそのデザインを解こうとすれば、難解なはずです。わかりやすさというのは、表層によって一息に理解に結びつくような能動であり、厳密さを廃棄して得られるというものではないのです。そして、難解で厳密なものとは別の価値があるといえます。
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kunobouさん



 「分かりやすさ」を採用します。

  答えは単純です。分かりやすく説明できないのは、
  その人に力量が無いからです。
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この回答へのお礼

 
 m(_ _)m アリガトウゴザイマス

なんか、自らの支持を取り付ける、政治家の様な気がしてきました。 (;^_^A アセアセ・・・
 
 

お礼日時:2010/10/06 22:57

お若いの。

年寄りに噛み付くたあ、中々見込みのある方だね。その負けん気を上手に叩き直すことができれば、あんたも芽が出るかもしれん。あんたが一生懸命考えてることは、こちらにも良く伝わって来ているから、その調子で頑張りな。ただ、あんたにはまだ修行が足りないって言うことも、こちらにはヒシヒシと伝わってきてるよ。何が足りないかって言うと、人間の大きさにあんたは未だ気が付いていないんだね。

もう亡くなってしまったが、ロシアにランダウちゅうえら~い物理学者がいたんじゃね。20世紀にロシアが生み出した最大の物理学者だ。そのえら~いお方が、物理学者の能力のの分類をしてた。その先生によると、物理学者は、第1級の優れたクラスから、最低の第5級のクラスまで5つのクラスに分類できる。そして、ランダウ神は宣うのじゃ、「わしのこの分類の尺度は対数目盛りなのじゃ」と。対数目盛りちゅうのは、その対数の値が倍違うと、その物の本当の値は10倍違うっちゅうことだ。だから、第1級と第2級では能力が10倍違う、第1級と第3級では100倍違う、第1級と第5級では1万倍違うと、まあこんなところだ。

そして、そのその基準は、まあ以下のようだったと記憶している。

第1級とは、ノーベル賞を授賞した人達で特に優れた連中。このクラスには、プランクやボーアやハイゼンベルグや、その他ほんの少しの数える人しかいない。

第2級とは、ノーベル賞を授賞した連中のほとんどの人と、本来ノーベル賞を貰っても良い筈だったのに運が悪く貰えなかった連中。

第3級とは、上のクラス程ではないが、その時代の指導的物理学者と言われている連中。この連中は、役に立つ論文を書いている。

第4級とは、役に立つ論文を書いている訳ではないが、害になる論文も書いていない。このクラスにはほとんどの物理学者が入る。

第5級とは、本来物理学者になるべきではなかった連中で、害になるような論文を書いている連中。このクラスに属する人の数は少ない。

ランダウ神は、この尺度に入らないお方が一人居られる、それはアインシュタインで、彼は第0.5級だと言っておられた。また、謙遜して自分は第2.5級だと言っておられた。

ここで肝心なのは、人間の能力の違いを我々には対数目盛りで感じてしまうと言うことだ。自分より一寸上に見え、どうもこの人は自分の倍ぐらい優れているのかなと思ったときは、実は10倍優れており、3倍ぐらいかなと思ったときには、実は100倍優れているちゅうことだ。この事実に、あんたは未だ気が付いていないようだね。あんたがこれから一生懸命考えながらいろいろな遭遇のドラマの経験を繰り返して行くうちに、この対数目盛りと言う事実が、理屈は何だ、証拠は何だ、その根拠は何だと言うようなレベルではなく、そのうちに、体で解るようになって来るんじゃよ。上からの目線と言うのは当たっているが、その高さはあんたが想像しているような、一寸した高さから物を言っているんじゃない。実は、あんたの想像を絶した途轍もない高さから物を言っているんじゃよ。人間てそこまで大きな存在なんじゃよ。

それに気が付くようになったら、あんたも上からの目線大歓迎と言うようになることが、私にゃ今から判っちゃうんだね。

この回答への補足

 

補足日時:2010/10/05 11:03
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この回答へのお礼

 
え~。なんと言っていいのでしょうか?

未来に生きることも出来ず、自分以外の人間で生きるわけにもいかず・・・
今を、自分を、生きる事しかできないわけです。

>理屈は何だ、証拠は何だ、その根拠は何だと言うようなレベル

でしか、今は生きられないわけです。
上から目線にかみつく今の自分を生きるしかないわけです。
(これで、良しとはせず、自分なりに哲学書を読んで、不足な所も認識したりしていますが・・)
未来は、自分の所有物ではないですからね。
変わっていったら、変わっていった自分でしかないわけで・・・

大分、本スレの問いの解とは違う、横道にそれる話題ですが、大局的な目で受け入れたいと思います。
(そんな、懐の広い所もあると、見栄を張る自分も居たりします・・・)

最後になりましたが、書き込みありがとうがございます。 m(_ _)m
 
 

お礼日時:2010/10/05 08:46

#6です。



質問者の源質問:    私の言いたい趣旨を批判する姿勢も持ち合わせた上で、、、、
質問者の#13「お礼」: 自分の立場で主張するのではなく、、、、

こういうのが一番分かりにくいですね!(笑)

もう一度#6の回答を熟読してみてはいかがでしょうか。
後半が分かりにくいとのことでしたが、どの文が解りにくいかはっきりすれば追加回答しますよ。

ちなみに「僕は、過去に何度も「お馬鹿」であると、言っていますよ。」は回答を熟読しないことの免罪符にはなりません。

なお、この長いスレッドのなかで#15のCyototuさんの回答が最も「厳密」でかつ「解りやすい」文章だと思います。上等な日本語は厳密でかつ解りやすいことの実例ですね。
反対に、厳密でなく、かつ解りやすくない例は、質問者自身が唐突に書いた「本題とは関係ないのですが、木造100年は分かりました。」という文です。

これらの実例からも、厳密さと解りやすさが相反していないことが理解できるでしょ。
折角の多くの皆さんが貢献してくれている質疑応答ですから、このなかから学ぶ姿勢を持ってください。

この回答への補足

 

補足日時:2010/10/04 23:23
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2010/10/04 23:07

 ANo.16継続:


 ラートブルッフはドイツ語ですが、ここ15年ほどは英語でインド哲学の本を読んでいます。
 回答者のかたが取り上げておられるのですが、いずれの場合もタームの日本語での読解のためには、同一タームを固定しなければならない側面と、ここではこういう内容であるという意訳はどうしても避けられません。
 ヨーロッパ語は主語や数にこだわり、日本語での読解は苦労です。
 しかし、「厳密さ」と「分かりやすさ」は両立しないと読解として不十分です。
 そして両立して始めて、どちら(「厳密さ」も「分かりやすさ)も成立するというもだと存じます。
 二者択一は残念ながら、存立し得ないということを私の自戒にしていますが、果たして私のこの文章はどうなっているのか。
 質問者や皆さんのお目利き鑑定に敢えて晒す次第です。長くなり棲みませんでした。
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 文章を扱うことが自分の専門ではありませんが、そういう非専門の人でもご質問については少なからず関心があり、悩んできた経験があると存じます。


 私もそういう人の側で、ご質問とご回答を拝読してきました。

 ここまでの私の文章表現には、問題はないでしょうか?
 私は自分で伝えたいことを自分の中で整理し、共有的な言語表現ではどのように厳密に(正しく)、読解してもらえるか(他人が接するときに、入りやすいか、そして読み進む上でつっかえたり、思い考えたりしないでリズムを以って、読み進められるかというか)を気にしながら書いてきました。

 質問の内容のご参考にしてもらえることを書くために、自分なりに質問文よく読んでみました。
 その結果、質問者のkunobouさんにひと言(こと)確認させたもらいたいことに気付きました。
 それは以下のことです:

 【「厳密さ」と「分かりやすさ」のどちらを採用しますか?】は、【二者択一において】というフレーズを省略しているのですか?

 そして更に、「厳密さ」とは正確さでしょうか?正しさでしょうか?その内容設定は回答者が自分で内心に前提としているだけでいいのでしょうか?

 そして更に、「分かりやすさ」は「伝わりやすさ、ないしは理解受け入れしやすさ」ということでしょうか?これも回答者が自分で頭の中に画くのに任せているのですね。

 そして更に、【「厳密さ」と「分かりやすさ」との関係やそのケースないしは、場面】についても【回答者の経験や知見に依拠します】ということでしょうか?

 このことを確認しておかないと、ご回答されている先輩のように質問者から厳しい再質問に遭遇することになると存じます。

 質問に関連した感想(1):
 言葉とそれが示す内容や対象は真に多様で一致するなんて事は、期待できないのが言語で人を個別化したというバベルの塔以来の常ではありませんか。
 それでも人は言語や言語経験以外の機能を駆使して、お互いにつたえ、受け取ろうとしてきましたね。
 だからこそ、相互の齟齬はやむをえない事象の一つですね。

 質問に関連した感想(2):
 60数年前中学に入ったとき、大学からすぐにきてくれた若い先生が“ギョウテとは俺のことかとゲーテいい”なんて川柳を紹介してくれました。
 そしてその先生のお薦めでロマン・ロランを読みました。訳文の序文でロマン・ロランがいろいろ行っています。
 その中に「クリストフが揺籃をでて、青年、大人に為り、全世界を歩き、靴を減らして帰ってきた時、私は思わず口にした。『なに、君があのクリストフかね』と。」という文章があったかのように思います。

 ご参考のために:(グスタフ・フォン・ラートブルッフが著作で引用している法諺)
 法(条文と判決だと思いますが)は知性があるならば、悪魔にも理解でき通用しなければならない。
 (言語知性はヒンドゥ的思想でも、人間の機能としてはもう大分下降してきた底辺的能力とされています。)

 ご参考のために:(わたしの経験)
 私は図書館が仕事でしたが、労働の自己疎外の問題に対処したくて(具体的には職場の民主化)から教員と職員、そして現業員を含む大学労組で10年ほど書記長をやっていました。
 その必要から、労働法や社会思想を少しやりました。
 この経験をだいがくの管理者が利用して、学則以外に何の規定もなかった大学の殆どの規定の成文化をやらせてくれました。
 ここでは厳密性(正しさと、誤解のなさ)が要求されます。
 それは誤解されたり、違う解釈の余地のないように書き現すさなければなりません。
 それは従って、伝わらない文章ではいけません。分る(判る、解る)文章でなければなりません。
 議論と紛争の解決の為の規定が解釈のために議論と紛争の対象になってはいけません。
 従って、多様に取れる文学性は排除されます。心理も度外視です。
 そして、「厳密さ」と「分かりやすさ」は一致しなければならないし、一致して始めて目的性が確保されるという側面を持つ作業でした。

 それで私は「厳密さ」と「分かりやすさ」は一致するものであるという経験と考えを持っています。
 あららぎの歌人を友人に持っていますが、彼の文学的文章も決して読みつっかえるものではありません。
 和歌も俳句も最も読者に直接に浸み込みます。漢詩もそうです。
 やさしくそして正しく。
 きちんと自分を持っていれば、やさしく正しい内容を伝える言語表現は可能だと存じます。
 どちらを取るかというなら、独り事の、何かの判決文ではないなら、伝わってもらえる文章を択一します。
 自分のノートはやはり自分の内心の用語を使いますが、これは時の経過で第三者になってしまう自分には使用不能の文章となっています。
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#11です。



木造100年さんの援護射撃をいたします。

>この文を読むと、質問者さんは「解りやすさを採用していない」ということが理解できます。「木造100年は分かりました」とありますが何が解ったのですか? ひょっとして「分かった」のですか?

質問者さんの文章では、自分で理解したつもりになっていることは当然相手も判る筈だとの独りよがりの思い込みで物事が表現されているようにお見受けしました。その結果、質問者さんの文章が何を言っているのか理解しづらい不透明な文章になっていることに、ご自身気付いていないようです。易しい日常の言葉を使いさえすれば相手に理解される訳でもないし、ご自分で理解している訳でもないことに気付いていない。

木造さんも言っておられますように、「わかる」一つとっても、それが「分かる」、すなわち、それが他のものと区別が付くようになったのか、それとも、それが「解る」、すなわち謎が解けたのか、それとも、それが「判る」、すなわち何を言っているのか判じ物として判断がつくようになったのか、皆それぞれ意味が違います。木造さんは、「分かる」と「解る」の意味の違いを正確に使いこなしながら、貴方は「解りやすさを採用していない」、すなわち、物事の不明なことに関してその不明さの謎を解きやすい表現をしていないと指摘しているのです。

事実、貴方は唐突に「木造100年は分かりました」と言っておられるが、そもそもそれが「分かる」前には何が「区別付かなかった」のか。そして、この唐突な文で何がどう「分かる」ようになったのか。多分貴方はご自分ではその意味する所は自明だと思っておられるようですが、読者には貴方が「分かっている」つもりになっているらしいことが、全然自明ではない。従って、解らない。だから、木造さんは、「この文を読むと、質問者さんは『解りやすさを採用していない』ということが理解できます。」と言っているのだと私は理解いたしました。

質問者さんはご自分では「分かりやすい」表現をしているつもりになっているようですが、質問者さんの文章は、厳密か厳密でないかという以前に、省略や不正確で曖昧な表現があるので、理解しにくい不透明な文章になっています。そう言う場合には、省略せづに、また曖昧な表現をせずに、しかし、易しい日常の言葉を使いながら厳密に表現する練習をすることをお勧めいたします。

木造さん、もし私の理解が明後日の方向に行っていたら、悪しからず。
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質問の最初に「ここのサイトで」とありますので「分かりやすさ」以外は考えられません。


とかく哲学カテでは質問者への配慮が足りない回答を多く見かけます。
中には意識的に不明瞭な言い回しを多用し質問者の反応を楽しんでいる輩も見受けられます。
どうしてかは存じませんが、この一年はそのような手合いが数人いなくなりましたね。
また、質問者そっちのけで回答者同士で議論を始める悪質利用者も未だ多く存在します。
何れにしても質問者が理解できる回答でなければ意味を成しませんね。
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この回答へのお礼

 
>哲学カテでは質問者への配慮が足りない回答を多く見かけます。

そうですね。
もしかすると、ここの質問は、なぜ相手の事を考えずに、自分の立場で説明するか?
と、問い直した方が、問題の本質に近付けるかも知れないと、思い始めています。
 

お礼日時:2010/10/03 19:29

#6です。



>すみません。本題とは関係ないのですが、木造100年は分かりました。
>コンクリートの場合は何年ですか? ..ψ(。。)メモメモ...したいと思います。

この文を読むと、質問者さんは「解りやすさを採用していない」ということが理解できます。
「木造100年は分かりました」とありますが何が解ったのですか? ひょっとして「分かった」のですか?

もし、コンクリートの耐久性に関する質問であれば、とくに一般住宅に使われる鉄筋コンクリートのことをご質問であれば、設計耐用年数で60年です。

でも、東名高速道路の橋脚に使われている鉄筋コンクリートが築50年なのに初期強度が維持されていないと言う事が判明して、現在では、目標が60年、現実は40-50年と考えられているようです。住宅金融公庫の技術者などは安全側の立場を取って35年しかもたないと考えているようです。

木造と同じ値段で建築でき、廃棄の時にも木造と同程度の環境負荷なら、60年ごとに破壊・再建築しても良いですが、木造よりも5割以上も高い費用を掛けて、しかも50年で初期強度が維持できなくなるなんて、酷いですね。

もし、1964年当時に東名高速の橋脚を木造で作っておればまだ後50年、2060年までは問題なく使えたでしょう。

最近は木造の耐久性と軽量であることの利点が理解され、駅舎や体育館(スポーツアリーナ)などが木造で建築されるようになりました。これらは100年後の22世紀にまでその姿を保ち続けるでしょう。
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この回答へのお礼

 
>この文を読むと、質問者さんは「解りやすさを採用していない」ということが理解できます。
「木造100年は分かりました」とありますが何が解ったのですか? ひょっとして「分かった」のですか?

質問の意味がよく分かりません。
何を、聞いているのでしょうか?

何を聞いているか、分からないと答えようがありません。

>解りやすさを採用していない
「分かりやすさ」と書いています。なぜ、勝手に漢字を変えるのでしょうか。
この辺も、十分に分かる様に説明する必要があるのではないでしょうか?

他に回答者も言っていますが、自分の立場で主張するのではなく、質問は相手があるのですから、
相手に伝わってなんぼではないでしょうか?
相手への配慮が不足していないでしょうか?
または、これを見ている第三者への配慮はされているでしょうか?
 

 

お礼日時:2010/10/03 19:37

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