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赤穂浪士47人が吉良邸に着くまでに、辻番・木戸番に出会ったという記録はありますか。
図書館である程度調べてみたのですが、見つけることができませんでした。
辻番や木戸番を避けて行ったのでしょうか。
ネットでは、
当時の本所は「場末にて辻番しまりこれ無き所、さまざまの諸浪人衆多く入り込みたる所の由に候」と浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような新開地だった、という記事を見つけましたが、これが正解でしょうか。
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>当時の本所は「場末にて辻番しまりこれ無き所、さまざまの諸浪人衆多く入り込みたる所の由に候」と浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような新開地だった、という記事を見つけましたが、これが正解でしょうか。

回答から先に述べますと、あながち「間違い」とも言いがたいのですが・・・。

確かに、辻番は江戸市中には辻番所がいくつかありました。
辻番は、幕府の負担による公儀辻番、大名によって設置される一手持辻番、いくつかの大名や旗本が共同して設置する組合辻番とに分かれますが、当時、辻番所が設置されていたのは、大川(隅田川)より千代田城に近い場所にあり、吉良邸のあった川向こうの本所松坂町辺りには辻番所はまだありませんでした。
(元文年間頃・1736~1740頃には川向こうにも設置されました)。

では、赤穂浪士たちが集合して市中へ繰り出した時は・・・と言うと、
良く知られているのが、両国橋西の米沢町にあった堀部弥兵衛宅に一旦集合し、その後も3ケ所に分散して吉良邸に向かいました。

当然、辻番もいたでしょうが、「場末にて・・・」とあるように、すっかり、辻番の役目を果たしてはいなかったのです。
従って、大石内蔵助らが集団で市中を歩いても咎められなかったのです。

なお、木戸番は長屋などの庶民地だけにありましたので、木戸番と出会うことはありませんでした。
武家地の道路は軍事用道路で、「いざ鎌倉」と言う時に、木戸が幾つもあったのでは役に立ちません。

>>浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような

これは「嘘くさい」ですね。
辻番と出会っていれば、お咎めもあったでしょう。
しかし、まあ、当時の風潮として「赤穂びいき」が多かったので、辻番も見逃してくれたのかもしれませんね。

この回答への補足

ご回答の一部に少し解らない箇所がありますので、教えていただけませんか。

>>当時、辻番所が設置されていたのは、大川(隅田川)より千代田城に近い場所にあり、吉良邸のあった川向こうの本所松坂町辺りには辻番所はまだありませんでした。
(元文年間頃・1736~1740頃には川向こうにも設置されました)。

>>当然、辻番もいたでしょうが、「場末にて・・・」とあるように、すっかり、辻番の役目を果たしてはいなかったのです。
従って、大石内蔵助らが集団で市中を歩いても咎められなかったのです。

質問。当時、辻番所はなかったのですか。
 吉良邸の小者が上杉邸へ危急を知らせに走っていますが、同時に番所にも届けた、という記録はなさそうなので番所も木戸番もなかったと推測しています。

>>木戸番は長屋などの庶民地だけにありましたので、木戸番と出会うことはありませんでした。

質問。集合場所は、町人の住む町中ですから「木戸番」がいたのではないでしょうか。

補足日時:2010/12/26 16:34
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(続き)



(1)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。

(2)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われたとも言われて、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。

(3)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。

(4)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。

(5)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。
しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。
そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。
この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。

(6)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。

(7)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。

(8)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。

(9)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。

(10)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。
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忠臣蔵の雑学。



(1)上杉家へ報せたのは吉良邸に出入りを許されていた「豆腐屋」との説があります。
もっとも、表門も裏門も赤穂浪士にって固められていましたので、猫の子一匹抜け出すことはできなかった状態でした。

(2)上杉家5代の綱憲(つなのり)は、吉良上野介義央(よしひさ)と、上杉家3代定勝の3女富子との次男で、上杉家に養子に出されていました。
綱憲は、報せを聞くと、実父の応援にすぐにも駆けつけようとしましたが、家老や重臣たちに、
「たとえ、吉良家と姻戚関係とはいえ、また、実父とはいえ、もしも、もしも、義央殿が討たれるうなことがあれば、上杉家にも徒党を組んだとのお咎めがおよびます。ここは耐えて、耐えてくだされ」
と、必死の形相で止めたといわれています。

(3)吉良邸の東隣りは土屋平八郎の屋敷でしたが、もつろん「赤穂びいき」。そして、町人はおろか武士でさえ許可なく勝手に武家の屋敷内に立ち入ることは「厳禁」でした。そこで、大石内蔵助が、
「我ら、主君、浅野内匠頭の無念を晴らすべく参上。御隣家様にはしばしの騒動となりましょうが、平に御容赦、願いたてまつります」
と、声を張り上げると、土屋平八郎は急ぎ高貼提灯を何本も立て、
「その方らの儀十分承知。塀を超えた者があらば、どちらの家の者であろうと討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」
と、返答したと言われています。
ただ、25日の忠臣蔵は、少々様子が違っていましたが、いずれにしても、後世の演出ですので、どちらが正確かは分かりかねます。

(4)吉良邸の西隣りは、回向院で通用門がありましたが、回向院側は、その通用門を開けませんでした。

(5)赤穂浪士たちは、TVなどでは、皆、揃いの衣装を身につけていますが、実際は、怪しまれないよう「ばらばら」の衣装でした。25日のような揃いの衣装は、歌舞伎で取り上げられてから定着したものです。

(6)大石内蔵助だけは、「火消し装束」だったようです。これには、もし、咎められたら「火の用心」に回っているのだ。と、答えるため、とも言われていますが、自分を入れて47人もの武士が街中を歩いていたら、そのような「言い訳」がとおるはずもなく。大石自身も、せいぜい羽織、袴姿だったと考えられます。

(7)大石内蔵助と長男主税は「切腹」しました。次男吉之進良以は、仏門に入り、三男大三郎家は浅野氏の本家(広島)に召抱えられ、今も続いており、内蔵助から数えると、現在11代目だそうです。

(8)大石家直系の子孫、大石雪絵さんが演歌歌手をしているそうです。

(続きへ)
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この回答へのお礼

再々のご教示、ありがとうございます。
教えていただくと、また新しい疑問や興味が湧いてきます。
例えば、その豆腐屋はその後どうなったのだろう?
店は吉良邸のごく近くだそうですが、特定できているのだろうか?
上杉邸へ報せたことが世間に分かると、そこでは商売できなくなったのでは?
凍てついた残り雪の道を小走りに駆けていく途中、自身番や橋番に見咎められなかったのだろうか?

土屋平八郎が高張提灯を立てたのは、ほんとうに討ち入り直後だったのだろうか?
提灯をすぐ出せるように用意していたのだろうか?
首尾よく目的を果たしたという報せを受けてから提灯を出したのでは?

大石雪絵さんは10年ほど前にテレビで見ました。
25日の忠臣蔵は観ていません。

また、後日質問したいと思っていますので、その節はよろしくお願いします。

お礼日時:2010/12/28 10:46

こんばんわ。


bungetsuです。

>>質問。当時、辻番所はなかったのですか。
 吉良邸の小者が上杉邸へ危急を知らせに走っていますが、同時に番所にも届けた、という記録はなさそうなので番所も木戸番もなかったと推測しています。
>>質問。集合場所は、町人の住む町中ですから「木戸番」がいたのではないでしょうか。


元文年年間頃まで、本所付近には辻番所はありませんでした。
また、町地と言っても、木戸は主に長屋の警護のために設けられていましたので、長屋住まいでなげば木戸を潜ることはしません。また、両国橋西の米沢町にあった堀部弥兵衛宅は堀部がいかに浪人とはいえ、武家地に当たりますので木戸はありませんでした。
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この回答へのお礼

よく解りました。
いつも丁寧に教えてくださって感謝しています。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/12/26 20:08

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