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物体のほうではなくて、心のほうについてです。

身体的特徴や性格についてああだこうだ言われたり、好きな人にフラれたり、就活で落ちたりして傷つきますね。

生物学的に言って、必要だから傷つくという機能が備わっていると言えると思うのですが、この機能が持つ本来の役割と、副作用について、思うところを書いてみてください。

傷つくってなんでしょう

A 回答 (11件中1~10件)

傷つくことが副作用なんだと思います。

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物事、事象に対する心の免疫作用だと思われる。

記憶の行動の一種で、次に同じような物事が起きたときに、記憶がよみがえり回避するために最初に出るものが、傷つくという事象と考えられる。
副作用は、傷が付いて回復するまでに時間がかかることではないか。
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>物体のほうではなくて、心のほうについてです


えーと、つまりトラウマ(心的外傷)と捉えていいのかな

だとしたら、多分、人間以前の進化の過程で身に付けた防衛作用と思う
つまり、一度危険な出来事が生じて心的外傷を負う
そして、類似した出来事に出くわすと、その人的外傷がうずき、
その場から逃げたい衝動が生じ、そして危険を回避するという感じ

副作用ねぇ

第一に、以前体験した危険な出来事と少しでも似ているところがあれば、
傷はうずき、嫌な気分になるとか
それがたとえ自己に危険を及ぼすものでなくても・・・

第二に、高度に進化した人間にとって、心的外傷となる要素が増えたということ
動物は、弱肉強食の下、存続をかけて生活をしているため、危険といえば、
食うか食われるかの問題にとどまる
そのため、心的外傷となる要素は生命身体の危険である

人の場合、生存はもとより、人格やら地位等の問題も考えねば・・・

生物学的にいえばこんな感じなのかな(自分の憶測だけど。ちなみに生物学の知識なし・・・)
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自分の欲求、願望、信じている事物が、自分の心を満たさない時に、「傷つく」のではないでしょうか。



傷つくか、喜ぶかは、心の満たされ具合。

欲求・願望・信念は、生物が生きる為に必要な要素で、それらがあるから感情が生まれる。

そして、欲求・願望・信念が大きいほど、傷つく感情の度合いも大きい。

何にも欲せず、望みもなく、信じるものもないとなれば、傷つくこともない。

周りにああだこうだと言われて傷つくのは、自分を理解してもらいたいから。

自分は○なのに、Aさんは、外から自分を見て「君は△だ」と言うならば、あなたの心は「いや、私は○だ」と反発し、理解してもらえてないことに傷つく。

それは、自分を○だと信じているからです。

人生、喜びも悲しみもありますが、傷ついた事は、嬉しかった事よりも記憶に残っているように思います。

そして嬉しかった時は感情だけが記憶に残りがちで、悲しかった時は、その因果関係や過程まで詳細に覚えているのではないでしょうか。

傷ついたという感情よりも、なぜ自分は傷ついたのか、そう考えよと示唆されているかのように。

何を欲し、何を得られなかったのか、傷つけたものは何か、きっとそこから学ぶ真実があるのではと感じます。

その学びは、虫や動物とは違う人間ならではのものなんじゃないかと思います。

なぜなら、人間は感情と思考の生き物だからです。

副作用という言葉の意味をちょっと理解できてないのですが、

副作用は、その傷から学ぶことができなければ、また同じような事が起きることでしょうか。

長文失礼しました。思ったままをだらだらと書いてしまいました。
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釈迦が「心なる実体は存在しない」と言っていますが。


どにも存在しない心が、どう傷つくんでしょう。
心とは縁(自己の内側の能力と方向性と今の状況、場面)によって、今、想起している、意識している。という単位の連続であって、縁が変われば想起する心も変わる。今想起している心は、次の瞬間にはもう何処にも存在しないのです。
「好嫌戦慄は己より発し己を去る」(釈迦)
ころころ変わるからこころだ、と言っている者もいますが。
幼児、の心は「今泣いたカラスがもう笑うた」であり。
心が悩んだり苦しんだりする原因は執着である。は仏教の基本思想でしょうが。
心が傷つく=自分が自分の心を苦しめている。(地獄を造っている)
じゃないでしょうか。
私は、馬鹿とか、はげ、とか言われても、全然気にしないですけどね。
(何言われても、馬鹿どもが何をさえずっている。との傲慢もあるのかも知れませんが?)
最近気づいたんですが、頭の毛が生えてきている。若返っている?
 気のせいでしょうか
 ともあれ       新年おめでとうございます
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釈迦(釈尊)は、仏教を広めた第一人者であります。

その釈尊が死ぬ8年間で説いたのが「法華経」であり、その法華経の仏典の中に、二十四の非という項目が出てきます。
空に非ず、色に非ず、形に非ず等々・・何を指すか分かりますか?答えは「命」です。
その命が、外界の縁に触れて「悲しんだり」「喜んだり」「怒ったり」「慈しんだり」等々これが「事象」です。経典には「十界論」としてあらわされております。
すべての人に当てはまりそれは、生まれた環境によって、「性格」が形成され、家族によって「人格」が作られていきます。「三つ子の魂百まで」とありますが、死ぬまでそのものは変わりません。
ちょっと難しいですかな・・・・

この回答への補足

質問ちゃんとお読みになりましたか。
傷つくとは本来どのような機能をもち、どんな副作用があるのか
全く答えられていませんね

補足日時:2011/01/03 05:30
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生きていく中で人間は色んな事を経験しますよね。



五感覚を通して色んな情報・データが入って来る訳でございますが、その入ってきた情報・データに対して何らかの処理をかけています。その処理を更に深める事を通して、何らかの知見とする訳でございますが、一連のその作業は最終的にはアイデンティティを蓄積している作業となります。

アイデンティティは自己同一性と言います。
自己を何に同一するか、自分自身をどう思うか、という事でございます。

例えばですが、りんごを食べたという行為や意識は、実は無意識では「りんごを食べた私がいる」という様に、どんな私なのか、自分自身をどう思うのか、を蓄積していく事となります。

全ての行為や意識は、そうしたアイデンティティに蓄積されていき、どんな自分を積み重ねているのか、が無意識化では常に常に起きている事でございますが、自己を同一させるという事は、同一させない何かも当然にして存在する訳でございます。それを俗に言うならば関係無いと言えるかもしれません。

人間が生きる上で、常に常に行う作業はアイデンティティの蓄積です。

その中で、「これは自分だ」と思っていたものが、ある時、「自分では無かった!?」となれば大きな反動でございます。この反動が傷つくという形で現れます。傷つくという現象は、アイデンティティの蓄積を行う中で、自己と同一してきたものが自己から切り離されなければならないというショック・衝撃の事を指します。

そのショックを受けて、次に一体何を選択するのでしょうか?

それは心の動きの事ですから、心によって自由でございます。

自由選択意思によって、やはり繋がりを持っていたいのであればアイデンティティを柔軟に変化させながら自らに蓄積していきますでしょう。即ち、傷つくというショックをキッカケにしてよりアイデンティティの蓄積に励みます。或いは自由選択意思によって、それは自分とは関係無いんだと言って切り離す作業をしながら自らのアイデンティティとするならば自分からは切り離されていきます。

勿論、自由選択意思による場合は、∞の選択の余地がございまして、傷ついた後でも自由自在に自らを動かし得ます。心は自由でございます。基本的には何を選択しても良いという権利が人間にはございます。

ですが、力は一方向ですね。この場合、基本的には力に従うか、力に抗うか、という様にある程度の方向性が定められてしまいます。心が力に支配されてしまった時には、∞の選択の余地の中から数種類に束縛されてしまいます。

即ち、傷つくという現象に遭遇した後に、力に支配されている心の状態でしたらある程度の方向性の中からしか選択する事が出来なくなってしまいます。その状態が副作用です。

如何でございましょうか?
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間違った思い込み、劣等感が肉体に染み付いていることを確認するための現象。


副作用として傷をあたかも自分のものだととらえて悪循環におちいることがある。
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リンゴを丸かじりして、中が腐ってた場合、「こんなはずでは」と傷つきます。


ペッペと吐き出し、リンゴを捨てて新しいのを手に取るまでに、経済負担、時間と手間の無駄が出ます。
次のリンゴは気をつけて選び、丸かじりせず、皮を剥いて4つに割ります。これが学習機能で、学習しない人は同じ事を繰り返します。

傷の深い・浅いと立ち直りの早さはそれぞれ。これが学習だ、と知っているとペットの死にも意味を見いだし(悲しいけど自然の流れだ、自分のせいではない等)、早く立ち直れます。

リンゴがなぜ腐ってるんだーっと店に文句を言う人も、行動に変換した事で、傷から非常に早く立ち直っています。

この回答への補足

りんごの例は傷つくのではなくて、怒りや驚きだと思うのですが・・

補足日時:2011/01/04 13:24
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私たちが関心を持つ自己像とは「ありたい(と思える)私」と「現にある(と見える)私」の二通りです。

両者の相違を引き算する、あるいは差をゼロにする手続きを「心」などと呼びます。差が苦しみです。
 さて、傷つくのは「現にある私」です。「ありたい私」マイナス「現にある私」の差が増大(より苦しむ)しております。そこで心が働いて、「現にある私」を向上させる努力をするのです。この努力が成功すると私の苦しみが減少し、「現にある私」は「ありたい私」に近づきます。
 努力が成功しない場合には「もっとガンバレ」との声が胸腺を通して(ホルモン作用だとの小生の推断)私を励ますのです。一層の努力がやがて功を奏するでしょう。そうなれば別のテーマでガンバレとの声が聞こえて来ることは皆様よくご経験ですね。私と仲間の暮らしはこの作業を通して向上することになるのです。これが「傷つくことの機能」です。だがしかし、ガンバリ続ける私自身はへとへとになってしまいそうです。副作用がここにあるのです。酷使される私の心身を和らげる声「エエジャナイカ」が脳内麻薬(エンドルフィンなど)としてやってきて心身が保護されるのです。
 まとめて言えば、「ありたい私」「現にある私」のモニターを通して私を向上させましょう。駆動力は「ガンバレ」でブレーキが「エエジャナイカ」ということになります。お付き合い有難う御座いました。
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