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室町幕府以来の日朝外交は将軍と朝鮮国王の対等関係を前提に展開されてきましたが、気になるのは天皇の存在です。例えば、江戸時代、将軍の代替わりごとに日本に派遣されてきた朝鮮通信使一行は、天皇をどのように認識していたのでしょうか?

A 回答 (3件)

それについては、金仁謙が書いた『日東壮遊歌』があります。

(第11次通信使の書記官)
(1761年、9代将軍徳川家重が没し、将軍の襲職を祝う目的で招聘された通信使)

当時の朝鮮は、華夷秩序からくる小中華思想と腐れ儒教により、中国以外の外国を蔑視しています。
華夷秩序(中華思想)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF% …
小中華思想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B8%AD% …
腐れ儒教
http://ameblo.jp/doronpa01/entry-10002795295.html


その中でも、中国の柵封を受けていない日本は、彼らの価値観では最下層の野蛮国ということになるのですが、現実の差は↓のような有様なので色々と複雑な葛藤もあって、本心からの敬意を払ってはいないようです。

●大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。ソウルの繁華街の10,000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。

●京都
街の繁栄では大阪には及ばない。しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。悔しい。
「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。悔しい。
この犬のような倭人を全て掃討したい。この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。


日本人は、穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間だそうです。
名古屋や江戸でも色々言ったり、やらかしてくれています。

朝鮮歴史館
http://ameblo.jp/campanera/entry-10088393494.html
屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする。
夜具や食器を盗む。
日本人を見下しながら、固有の文字(平仮名・片仮名)の存在に驚く。(ハングルは普及すらしていない)
揚水式水車の構造の絵図面を何度も持ち帰ったが、難しすぎて自主開発できなかった。
(当時の朝鮮は、木を曲げる技術がない為に、樽や車輪が作れないレベル)
乞食が食物ではなく銭を欲しがる貨幣経済の発達に驚く。(朝鮮では貨幣経済が成立せず物々交換が主)

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>朝鮮通信使一行は、天皇をどのように認識していたのでしょうか?



日韓サッカー戦での、某韓国選手の行動と同じ認識です。
今も昔も、何ら変わっていませんよ。
「朝鮮通信使の天皇観」の回答画像2
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 朝鮮国として明確な天皇への認識が明らかにされた文書があるということを私は知りません。

しかし、朝鮮通信使の公式・非公式な記録には、使節の見解が示されていますので、少しご紹介しましょう。


 朝鮮通信使は室町時代が最初ですが、この頃は(1)『天皇制の初認識の時代』です。
次は朝鮮人が、豊臣秀吉の頃、東アジアの冊封体制的思考方法で(2)『天皇を格付けする時代』です。
 江戸時代初期に入り、徳川将軍と対等の交流を指向しながら(3)『天皇と幕府の二重構造に迷う時代』です。
 江戸時代中期になり、中国や朝鮮にない日本の権力構造に気付き(4)『朝鮮王は天皇より格下に置かれていたと確認する時代』です。朝鮮使節の認識も時代と共に変わって来ているのですね。
 
 この時の朝鮮使節の(4)の認識は、十分に朝鮮王朝で議論もされないまま、日本では江戸幕府は倒され、明治新政府が誕生しましたが、その新生明治政府から開国要求を突き付けられた朝鮮王は、その日本政府の上に天皇が君臨していることに気付き、明確に拒否反応を示しました。これは、(5)『天皇が中国皇帝と同格であり、朝鮮王は格下であることを認識した時代』と言えるでしょう。


では、具体的な資料をどうぞ・・・・・上の番号順に・・・・・

(1)天皇制の初認識の時代
1443年(日本・嘉吉3年、明 ・正統8年、李氏朝鮮・世宗25年)、『海来諸国記』、書状官 申叔舟・・・・・(内容)日本の歴史書「日本書記」等を入手し記述したと考えられ、使節として、天皇と神話時代も含め日本の歴史について詳細に記述している。

(2)天皇を格付けする時代
1590年(日本・天正18年、明・万暦18年、李氏朝鮮・宣祖23年)、『海槎録』、副使 金誠一・・・・・『・・・関白とは、偽皇(皇帝は中国・明国皇帝のみ)の大臣である。・・・日本では、偽皇すでに国主となす。すなわち関白(秀吉)は貴しといえども人臣なり・・・』

(3)天皇と幕府の二重構造に迷う時代
1617年(日本・元和元年、明・万暦45年、李氏朝鮮・光海君9年)、『扶桑録』、従事官 李景稷・・・『・・・将軍と関白異同なし、いわゆる天皇は尊位にあるといえども国事にあずからず・・・』

1636年(日本・寛永13年、明・崇禎9年、李氏朝鮮・仁祖14年)、『海槎録』、副使 金世濂・・・『・・・国政と外交に天皇はあずからず。倒置の患は源頼朝に始まる。・・・関白これすなわち陪臣である。国中では天皇を君としている・・・』(朝鮮王が対等に親書を交わしている大君(徳川将軍)は陪臣ではないかと疑問を書いている)

1719年(日本・享保4年、清・康熙58年、李氏朝鮮・粛宗45年)、『海游録』、製述官 申維翰・・・徳川幕府が公家と武家に重複する形で官位、官職を与えていたが、これに対し『これまさしく君臣の分を弁えないものである』と述べているが、一方、将軍を「大君」として容認している。

(4)朝鮮王は天皇より格下に置かれていたと確認する時代
1764年(日本・宝暦14年、清・乾隆29年、李氏朝鮮・英祖40年)、『海槎日記』、正使 趙巌・・・徳川将軍が、国王あるいは大君と称していることについて『これ、まさに君にあらず、臣にあらず、名号は不正なり』と述べている。そして、将軍のくらいは臣下なので、その臣下と朝鮮王が対等の意味で交流するのは好ましくなく『すなわち倭皇と抗礼すべきなり』と述べている。
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