これ何て呼びますか Part2

なぜ物々交換から貨幣ができて流通が盛んになり、経済が発達したのかわかりやすく説明できる方がいらっしゃったら、よろしくお願いします。

日本にまだ通貨がなかったころ、平氏が宋と貿易して外貨をたくさん獲得し、潤ったそうですね?
なぜ外貨獲得で潤うのでしょうか?
たとえば私はドルや元やペソをたくさん持っていても困ります。
両替すればいいだろうと言われるかもしれませんが、当時は何に両替するんでしょうか?(当時は銅銭だったみたいです)

また、江戸時代は米で物を交換していました。両が普及するまで大変苦しかったみたいです。
平氏時代、豊臣時代、貨幣経済で国中が潤っていたのになぜ米に戻したのでしょうか?

教えてほしいことはまだたくさんあるのですが、とりあえずこのへんから質問させていただきました。

要するに通貨の普及がなぜ経済に影響するのか教えてほしいのです。
私の知識ではこういった表現が限度です。
子供に教えるレベルでかまいません。よろしくお願いします。

また、わかりやすい本やサイトがありましたら教えてください。

A 回答 (3件)

●日宋貿易と宋銭について


>日本にまだ通貨がなかったころ、平氏が宋と貿易して外貨をたくさん獲得し、潤ったそうですね?
>なぜ外貨獲得で潤うのでしょうか?
>たとえば私はドルや元やペソをたくさん持っていても困ります。

この当時、外貨・自国通貨の使用上の分類も規制もありませんでした。
そして粗末な日本製の貨幣より先進国である宋の貨幣の方がずっと重宝されていたわけです。
ジンバブエでジンバブエドルよりもずっとドルの方が重宝されるのと同じようなものです。

>両替すればいいだろうと言われるかもしれませんが、当時は何に両替するんでしょうか?

上記の通り、宋銭はありがたがわれましたから、日本にあるものは何でも買えました。
したがって、両替などせず輸入した宋銭をそのまま使って買い物をすればいいだけです。
つまりは当時は、日本から銀や銅や硫黄や木材、日本刀などが輸出されていたようですが、宋銭でこれらの財を購入して再び輸出することも可能だったわけです。
まあ『宋銭を様々な財と両替した』ともいえますね。

●石高制について
石高制は徴税通貨と行政上の統計基準だとお考えください。
・徴税通貨としての石高制
農民から税を取り立てるときに米を使って取り立てていたというだけです。
つまり、畑も牛も家も何もかも田んぼ換算にして、その分の税金を全て米で徴税していたわけです。
例えば、畑800m2、牛一頭、大きな家、田んぼ400m2を所有していた農家に対し、全て田んぼ換算で1000m2の田んぼを持っていることと同じことだと見なします。
その上で五公五民なら1000m2の田んぼから取れる米の50%分を税として徴収するわけです。
これなら、複雑な農民の収入を一元管理できて効率的なわけです。

武士たちは、そうやって集めた米を大阪に集めて商人に売って、金を得ていたわけです。

・行政上の統計基準としての石高制
また当時はまだまだ農業国家であった日本において、米の産出量≒経済力≒人口≒軍事力を養う力でした。
つまり、諸藩の国力を測るには石高を見るのが一番手っ取り早かったわけです。
ですので、石高とは当時の大名・武士たちの持つ力、格、それに応じた責任の大きな基準になったわけです。
(例:一万石以上の領地を持つ武士は『大名』として他の武士より一ランク上として扱うなど)
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この回答へのお礼

まだ完全にしていませんが、すごくわかりやすかったです。
でもまだモヤモヤしてまして。

お礼日時:2011/02/16 20:45

なぜ物々交換から貨幣ができて流通が盛んになり、経済が発達したのかわかりやすく説明できる方がいらっしゃったら、よろしくお願いします。



日本にまだ通貨がなかったころ、平氏が宋と貿易して外貨をたくさん獲得し、潤ったそうですね?
なぜ外貨獲得で潤うのでしょうか?
○ 言い方を変えると、平安末期の日宋貿易というのは「宋銭と銅の原料」を物々交換していた。
アラブの某国  原油はでるけど、ガソリンに精製する装置を持っていない国
東アジアの日本 原油は出ないけど、ガソリンに精製する装置を持っている国
というのと、
大昔の日本  銅はでるけど、銅銭を作ることの出来ない国
大昔の中国  銅は出ないけど、銅銭を作ることが出来る国

自動車を運転するには、ガソリンが必要なので、原油を輸出してガソリンを輸入するのが「アラブの某国」
経済を運転するのには、銅銭が必要なので、銅を輸出して銅銭を輸入するのが「大昔の日本」


たとえば私はドルや元やペソをたくさん持っていても困ります。
○ 円があるのにドルや元やペソがあっても無駄だけど、円がなければ、円以外の他の通貨が必要だぁ。


両替すればいいだろうと言われるかもしれませんが、当時は何に両替するんでしょうか?(当時は銅銭だったみたいです)




また、江戸時代は米で物を交換していました。両が普及するまで大変苦しかったみたいです。
平氏時代、豊臣時代、貨幣経済で国中が潤っていたのになぜ米に戻したのでしょうか?

○ ちょっと違います。石高制にしたのは、豊臣時代です。
豊臣秀吉が、朝鮮に攻め入ったのはなぜでしょうか?
最後の交渉で本音が出ます「日明貿易の復活」です。
銅銭を作ることが出来ないので、輸入したいのだが、16世紀半ばから公式ルートが無くなっていたんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%98%8E% …
銅銭が不足したので、コメにしようということであります。
で、その後徳川時代になって、寛永通宝と国産の銅銭を作ることが出来るようになったので、基本的な通貨は銅銭になります。


教えてほしいことはまだたくさんあるのですが、とりあえずこのへんから質問させていただきました。

要するに通貨の普及がなぜ経済に影響するのか教えてほしいのです。

===経済規模と通貨
通貨って何よ?というときによく言われるのが、通貨は経済の血液。
通貨が足りないと、貧血を起こします。
経済規模(=体の大きさ)に見合った通貨量(=血液量)が必要です。

中国から安定的に銅銭が供給されていれば、室町中期までの(日明貿易があった時代)銅銭経済が進展していたはずです。
信長の時代は「貫高制」で、銅銭で所領評価しています。
貫高制が遅くまで残ったのが、関東や東北。後北条家は秀吉に倒されるまで「貫高制」です。
んじゃなんで、経済の発展していた近畿地方を抑えていた秀吉が貫高制でなく、石高制に移管したのか?
伸びる経済、足りない通貨(銅銭)なので、コメで評価しちゃえということです。

コメで評価すると何がいいかっていうと、当時の経済の主体は農業なので

農業生産高 = 経済規模

経済規模にみあったコメが生産されるので、経済運営が安定的に行なえます。
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 最近まで日本経済新聞の経済教室(25面あたり)、左側コラムのゼミナールに説明してありました。


 簡単に言うと、通貨とその他公社債や(物々交換の)物体の違いは、匿名性です。つまり交換に使われるほとんどが、記名や、使い方にある種の制約があります。例えば小切手には裏書き、物々交換においても、食料が必要なのに土器などとは交換しませんでしょ。ただ通貨だけは名前が書いてある訳でもなく、手にしただれでもが交換に使えます。つまり匿名の交換財というわけです。
 そしてだれでも、人間がいるどこでも交換が出来れば、順番に交換を繰り返していけば、地球の裏側の商品とでもやがて交換できます。ですからギリシャローマ時代の物品が、正倉院にある訳です。そうなれば、その地になかった商品を外の世界から持ってくる動きが活発になり、見たこともないという驚きが付加価値となって、高い金額で売れ、当然交換されるお金も増えていきます。資本主義のエンジンがスタートしました。
 交換されるお金が増えるにつれ、必ずすべての商品がお金に交換されてから動くようになります。ですから江戸時代は、納められる米は、帳面上でお金に換算され、証文だけを送って決済していました。重要なのはお金を交換する時には、商品の価値と釣り合った金額でないといけないので、そのお金はどの基本商品と対応しているということを政府が決めておく必要があったため、はじめは米でしたが、やがて銀や金に代わり、現在では実は何もありません。しいていえば国力とかいわれる、国の信用でしょうか。
 昔の日本に外国から入ったコインは、単にコインを大量生産する技術基盤がなかったから外国に作ってもらったものです。ほんの少し前に、外国の紙幣を日本の造幣局で印刷した例もあります。別に外貨を使う訳ではありません。
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