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 時代劇などでは江戸時代の夜の花街を描写する時、決まって現代の繁華街のようにそこらじゅうが明るくて歩くのにも何不自由ないような場面をよく見ます。

 しかし、実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?
 資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます(笑)
 本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?

 江戸時代に詳しい方のご教授をお願いいたします。

A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます

遊郭では、百目蝋燭をふんだんに点していましたので、遊女の顔や衣装は、けっこう明るかったので見ることができした。
大門は、基本的には、明け六ツ(午前6時)~夜四ツ(午後十時)までですが、横に木戸があり、ここから客は出入りをしていました。不夜城は吉原だけでした。


>>本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?

江戸では、夜になると「戒厳令」がしかれており、夜の外出はよほどのことがない限り、外出はできませんでした。
そして、必ず1軒には少なくとも1貼りの提灯を常備することが「義務付け」られていました。
夜の外出では、必ず提灯を持つことも「義務付け」られていました。
提灯を持たずに外出した際、夜盗と間違えられて切り殺されても文句は言えなかったのです。

また、道を歩くだけであれば、月夜の晩などは、月の明かりだけでも十分歩くことができました。
現代の我々のように街路灯に慣れてしっている人々からは考えられないくらい、夜は暗くて当たり前だったのです。

従って、提灯一つあれば十分な明かりだったのです。


>>実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?

屋内では、江戸時代中期(元禄年間)頃より行灯が大変に普及しました。
これは、受け皿に灯心を灯しただけよれも、その四方に紙を貼ることで、明かりが集中して照らしてくれるようになり本も読めるくらいの明るさになったのです。
ただし、菜種油を使用できるのは、武家や商家など裕福層に限られており、庶民は「魚油」を使っていました。
魚油は臭いもきつく、また、煤がたくさん出ましたが、庶民にとっては安い魚油で我慢しました。
「暗くなったから、寝るぺーか」
が、常識だったのでしょうね。
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この回答へのお礼

 「百目蝋燭」検索してみると、百匁(375グラム)もある蝋燭だったようですね。当時蝋燭は高かったので庶民には買えなかったとか。当時の遊郭はそれだけピンハネで大儲けしてたということでしょうね。

 庶民は暗くなったら寝る。一部の金持ちだけが夜になったら花街で遊ぶ・・・という図式だったのかな。

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/12 20:04

 夜間照明をいうのなら、暦と時刻についておさえておく必要があるでしょう。



 よく、明六つは午前6時で暮六つは午後6時。で、一刻は2時間などと説明されています。

 また、明六つは日の出の時間で暮六つは日の入りの時間などという人がいます。

 これじゃ、ダメです。

 明六つは、夜明けの時刻です。日の出の少し前、空が白々とした時。時間ではなく、時刻です。

 暮六つは、日暮れ時。日没後、宵闇になるとき。

 なので、明六つ前および暮六つ後は闇だったということです。

 おわかりと思いますが、明六つ・暮六つは、季節によって、また土地によって変わってきます。

 江戸時代、日常生活は、明六つと暮六つを基準にした昼夜それぞれの時間帯を6等分し、1日を12の時に分けた「不定時法」によりました。

 真夜中、暁九つから始まって、暁八つ・暁七つ・明六つ(ここまで夜の時間帯の後半)。
 明六つ・朝五つ・昼四つ・昼九つ・昼八つ・夕七つ・暮六つ(ここまで昼の時間帯)。
 暮六つ・夜五つ・夜四つ・暁九つ(ここまでが夜の時間帯の前半)。

 暁九つ・暁八つ・暁七つ・明六つ・朝五つ・昼四つ・昼九つ・昼八つ・夕七つ・暮六つ・夜五つ・夜四つ・暁九つは、十二支の子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の正刻になります。

 なので、「正午」は、正午刻(しょううまのとき)となり、「午前」「午後」があるのです。

 一刻(いっとき)の中心が正刻。つまり、十二支であらわす刻は正刻を中心にした時間帯なのです。

 元禄十五年十二月十五日は、グレゴリオ暦では 1703年1月31日。江戸における丑刻は、01:47~03:57です。

 怪談などでいう「草木も眠る丑三つ時」は、丑刻の時間帯を四等分した3つ目ということです。


 討入が終わって吉良屋敷の裏門を出た一行は、それぞれ手に持った灯を消して回向院まで行った。
 月が落ちて真っ暗闇のなかを行進しましたが、おそらく数名ずつのグループの先頭を歩いた人は、提灯を持っていたことでしょう。

 回向院で休憩しようとしたけれど、明六つの開門時刻前ということもあって門内には入れてもらえず、両国橋の袂で休憩していました。
 まもなく夜が明けて空が白々となった。明六つです。

 元禄十五年十二月十五日(1703年1月31日)の江戸の地の明六つ時を計算すれば、06:07(日の出は06:42)です。


 暦は、遣唐使によって伝えられ、800年使い続けられた宣明暦(せんみょうれき)に誤差が生じてきたため、貞享二年一月元旦(1685年2月4日)から国産初の貞享暦に改暦されました。

 貞享五年九月三十日(1788年10月23日)に 元禄に改元されたので、国産の暦を使い出して3年半後に元禄となったのです。

 このあと改暦はいくつかあって江戸時代最後の天保暦の計算では、ケプラーの楕円軌道の法則まで使っていました。

 旧暦と総称しているものは、すべて太陰太陽暦です。新月の日から始まって、次の月はまた新月の日から。だから十五日(性格には時間的に多少前後する)は、ほぼ満月。

 空の月を眺めればおよその日がわかって便利ですが、地球から見た月の運行はひと月が30日弱。そこで、大の月を30日まで、小の月を29日までとしましたが、季節に相関する太陽暦からすれば、1年の日数は少し少ない。

 そこで2~3年に1度、「閏月」を入れていたのです。

 それでも農作業などに対応しきれないので、太陽の運行から二十四節気を決めていあたのです。

 元禄の頃には、時刻管理に日本独特の不定時法の時刻に対応する時計が使われていました。

 大名時計と称されているものは、昼の時間帯用と夜の時間帯用の2本のテンプがあって、明六つ時と暮六つ時に自動的に切り替わるという優れもの。

 2本のテンプには櫛状の刻みがあって、この刻みにかける錘の位置で周期調整する仕組みでした。季節によって異なる昼夜の時間帯に対応するために、二十四節気毎(半月毎)にテンプの錘の位置を変えていました。
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この回答へのお礼

江戸時代の詳細な時刻の表し方を教えていただきありがとうございます。

 現代人は「時間」というものは普遍で常に同じ物という考え方を持った人がほとんどですが、人間の生活を中心とした「不定時法」は今からみると非合理的なようですが、案外理にかなったものかもしれませんね。

お礼日時:2011/03/13 11:41

 室内照明として使われていた行灯については、実際に江戸時代に書かれた書簡や木版刷の本を使って実験してみました。


 行灯では、どんなに近付けても今の活字文字を読むのは苦痛です。
 江戸時代の大きな文字でも、行灯にくっつくくらい近付けないと、よく読めません。


 月夜でも外出時には、提灯を持っていったものです。
 提灯の底に油石を落としてふらつかないようにし、前方三尺ほどの地面を見ながら歩くのです。

 江戸時代には裸足生活者が大勢いましたが、ふだん履物を履く人でも、夜間、急ぐとき、坂の多いところを行くとき、雨降りのときなどは、裸足であることもありました。

 騎乗を許されない下級武士では、麻裃や羽織袴姿で裸足で行くこともありました。
 出典は、最近再発見された「佐藤條衛門覚書」のなかで、元禄十五年十二月十五日(1703年1月31日)の午後の泉岳寺門前の様子を書いたなかにこんなことが書かれてありました。

 歩行目付(麻裃着用)3人と小人目付(羽織袴着用)6人が、いずれも裸足で泉岳寺まで来て、山門の際で足を洗い、草履を履いた。
 冬なのに、裸足で長距離歩いてきたのです。草履を履いても足袋はなし。
 理由は、急いで泉岳寺まで行かなければならず、当時の泉岳寺は東海道から海とは反対方向の坂を上ったところにあったからだと考えられます。
 歩行目付(徒歩目付)も小人目付も、公儀小役人。目付の配下に歩行目付がいて、その下に小人目付がいました。
 騎乗の身分ではないので、どこに行くにも徒歩です。

 同史料には安部飛州公(寺社奉行安部飛騨守)の家来2人もでてきますが、彼らは騎馬の人でした。

 江戸時代には裸足生活者が多く、ふだん草履を履いている人でも、時と場合によっては裸足で歩くこともありました。
 農作業も裸足です。

 明治34年(1901) の5月29日に、ペストの予防と風俗の改善のために「裸足禁止令」が出されました。


 愛知県豊田市に昨年できた豊田市能楽堂(http://www.t-cn.gr.jp/index_n/)での、「ろうそく能」の写真を添付しておきます。

 この「ろうそく能」は、電灯照明の無い時代に座敷などで百目蝋燭を灯して演じたものを再現する趣向で、舞台の周りに燭台を巡らせ、蝋燭の灯で能・狂言を演じるものです。

 行灯の灯で夜間過していた人から見れば、百目蝋燭の灯は明るかったにちがいない。
 でも、蝋燭の灯だけでは良く見えないのです。
 で、「ろうそく能」の実際ではわずかに電灯照明を入れるのです。
 それでも普段の舞台よりははるかに暗い。目が慣れてきてやっと見えるというくらいです。
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この回答へのお礼

色々な興味深い逸話ありがとうございます。

 やはり現代人と江戸時代の人間では感覚的にかなり異なる・・・われわれ自身の感覚でそれぞれの時代を理解しようとする態度自体が間違っているという事ですね。

 遊女の顔がぼんやりとしか見えなくてもそれはそれでよかったのでしょう。でも翌朝にびっくり仰天なんて事がよくあったのではないかと(爆)

お礼日時:2011/02/14 19:50

当然、暗かったので、遊廓の女郎などは白粉で真っ白です。



当時の人々はその暗さが当たり前だったので、平気だったのでしょう。

ランプの明るさに驚きガス燈の明るさに驚き電灯の明るさに驚いてきた、人類の歴史ですね。

学生時代に一晩、菜種油の行灯で過ごすと云う遊びをしましたが、蛍光灯の傘に一緒についている常夜灯ぐらいの明るさしかなくて、とても新聞は読めませんでした。
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この回答へのお礼

なるほど、遊女らが真っ白けな顔なのはそういう理由もあったのですね。

 江戸時代の人たちは、現代人と違って夜の暗闇に慣れていたので夜目もきいたのでしょうね。

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/12 15:17

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