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夜、現代人は特に都心部ですが、家や部屋、店、ホテルどこへ行っても明かりがあり深夜でも人が歩いています。逆に朝は、人が少ないです。起きる時間も6時~7時が多いのではないでしょうか?

以前、番組で江戸は今よりずっと優れた町だったって聴いたことがあります。江戸と言えばまだライトがなかったはず。ライトのない生活とはどういうものなのか。江戸の人たちは朝何時に起きて何をしてたのか。夜は何をして何時に寝てたのでしょうか。

A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸などライトがなかった時代の人の活動時間は?

江戸では、夜になると「戒厳令」がしかれており、夜の外出はよほどのことがない限り、外出はできませんでした。
そして、必ず1軒には少なくとも1貼りの提灯を常備することが「義務付け」られていました。
夜の外出では、必ず提灯を持つことも「義務付け」られていました。
提灯を持たずに外出した際、夜盗と間違えられて切り殺されても文句は言えなかったのです。

>>江戸の人たちは朝何時に起きて何をしてたのか。夜は何をして何時に寝てたのでしょうか。

江戸では、石町の鐘楼から1刻ごとに鐘が鳴らされ、夜番が夜中でも「拍子木」で各町内に刻を知らせて廻っていました。
庶民の起きる時刻はこれにより何時だと・・・言うことが分かりましたが、基本的には、
「陽が昇ったら起きる。陽が暮れたら寝る」
の状態でした。
とは言っても、夏も冬もおしなべて、起床はおおよそ明け七ツ(午前五時)頃、就寝は夜五ツ半(午後10時)~四ツ(午後11時)が一般的でした。
また、町内にある木戸は明け六ツ(午前6時)に開けて夜五ツ半(午後10時)には閉まりましたので、この木戸が閉まった時刻からは外出が規制されていました。
ここで間違ってはいけないのは、木戸は町民の長屋にあるだけで、武家地や大通りには木戸はありません。これには、軍事道路としての役目があったからです。
さらに、四谷大木戸・・・と耳にすることがあると思いますが、これは、江戸と江戸外との木戸で、やはり、明け六ツ(午前6時)には開けられ、夜五ツ半(午後10時)には閉まりました。
従って、旅人は、木戸が閉まった場合には手前の品川宿で一夜を過ごすこととなりました。

NO1の方が吉原の大門に触れられていますが、大門は、基本的には、明け六ツ(午前6時)~夜四ツ(午後十時)までですが、横に木戸があり、ここから客は出入りをしていました。不夜城は吉原だけでした。

面白いところでは、「♪お江戸日本橋七ツ発ち・・・」と言う歌がありますが、これは、参勤交代の大名たちの出発時刻を唄ったものです。
つまり、大名などの宿からの出立は七ツ(午前4時)だったのです。
また、西国の遠い藩などは、八ツ半(午前3時)や八ツ(午前2時)などという時刻に出立をし、陽があるうちに距離をかせぎました。しかし、この早朝出発には幕府の許可を必要としました。
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江戸時代に限らず、電気による照明が発明されていなかった時代は、人間というのは原則的に太陽と共に生活していました。

陽が昇ったら活動し、陽が沈めば寝るのです。
ただし、江戸時代の江戸なんかは大都市ですから時代劇にあるみたいに夜でも吉原のような歓楽街は活気がありました。
ただし、江戸の街というのは実は戒厳令都市でもありました。夜10時くらいになると町中にある木戸が閉められて医者のような急を要する人たちでもない限り出入りができなくなってしまうのです。だから、木戸が閉まると吉原なんかじゃもう泊り客になるしかないんですね。

ちなみに、日本人がかくも夜っぴいた生活をするようになったのはせいぜいここ20年くらいです。元々セブンイレブンは「朝7時から夜11時まで」営業しているのが売り。その頃は夜9時になるともうお店なんて(居酒屋のようなところを除けば)どこも開いていなかったのです。だから、昔のセブンイレブンの宣伝コピーは「開いてて良かった」。「夜10時に急にいなりずしが食べたくなってもセブンイレブンに行けば買って食べられる」なんてCMがありました。でも当時はまだ子供だった私も含めて「そんな夜遅くにいなりずしなんて食べたくならねえよ」とツッコんだものです。昭和は夜9時以降に子供が起きていると怒られましたしね。

では夜は何をやっていたのかというと、ナニをやっていました。もうセックスして寝るしかないんですよ。
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