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「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出られないわ」

この女優さんの表現に不自然さを感じますか。
「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出れないわ」
という発言との比較が、当質問の眼目であります。
どちらも「出る」の可能表現なわけですが、

前者の、「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出られないわ」は、
『みんなの前に出るなんて不可能だわ』というニュアンスを強調した表現。
つまり、出れない対象に着目した表現。

後者の、「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出れないわ」は、
『この私が出るなんて不可能だわ』というニュアンスを強調した表現。
つまり、出れない主体に着目した表現。

と思います。
みなさんは、どう思われますか。
すでに似た質問をしていますが、改めてみなさんのご見解を伺います。
  

A 回答 (16件中1~10件)

>本当の美人は化粧は必要ないんですよ!

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この回答へのお礼

いや、全くそのとおりですね。^^;

お礼日時:2011/02/17 22:26

後者は唯の文法的な誤り(ら抜き)に過ぎませんよ。



中学校の国語の教科書を見直して下さいませ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

大変お詳しそうなので、差し支えなければ、下記の質問にもお立ち寄り願えないでしょうか。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html
専門的お立場からのご見解をぜひ伺わせてくださいませ。
  

お礼日時:2011/02/17 22:25

後者はNo.2さんのおっしゃるとおり、「ら抜き言葉」です。

現在のところ、単なる誤用です。

ただ最近の傾向として、「ら抜きは可能表現に、元来の「ら」のある形は尊敬表現に、という使い分けの意識が生まれつつあるようだ」という話を聞いたことがあり、もっともだなとは思います。「ら抜き」のメリットと言ってよいかもしれません。
ただ、可能と尊敬がまぎらわしくてどちらかわかりにくい、という場面を私は簡単には想定できません。そういう場面があってこそ、この使い分けが有効と言えるのであって、そんな場面がないなら、ただの誤用でしかないでしょうね。

さて、八十歩ほど譲って、この「ら抜き」である後者の例文が可能を表しているとしましょう。何が可能かと言えば、「出る」という動作に関してです。他のことは言っていません。

また「出られる」という昔ながらの可能表現、こちらも「出る」が可能だ、と言っています。他のことにはふれていません。

質問者様は主体か対象かということに注目していらっしゃいますが、それは語順や、他の強調表現によって表現されるもので、可能動詞や可能の助動詞の関知するところではありません。
誤用だから、というわけではありません。五段活用からの可能動詞(たとえば「歩ける」)と昔使われていた可能の意味の「歩かれる」で比較してみられたらいかがでしょう。同じ結論になりはしませんか?
・大女優の私がこんなスッピンでみんなの前を歩かれないわ。
・大女優の私がこんなスッピンでみんなの前を歩けないわ。
何か違いがありそうですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>・大女優の私がこんなスッピンでみんなの前を歩かれないわ。
・大女優の私がこんなスッピンでみんなの前を歩けないわ。
何か違いがありそうですか?

そうですね。一見するとどちらでも同じ、と見えますが、実は違うのではないか、というのが私の考えです。
なにが「実は違う」のか、と言うと、話者の意図です。
この意図は、ほとんど無意識的なもので、話者本人も、ひょっとすると気づいていない場合がおそらくあることだろうと推測されます。
しかし、文法にしてもそうだと思うのですが、言葉があって意味ができるわけではなく、あくまで人間の心情を表わすためのツールとしてあるのが言葉だろうと思います。
挙げていただいた例文の場合、次のような(もしかすると無意識的な)違いが、話者の意図に含まれているはずです。
「歩かれない」「歩けない」が、どの部分を受けているかと言えば、それぞれ、
1.
大女優の私が→歩かれないわ。
(こんなスッピンで)みんなの前を→歩かれないわ。
2.
大女優の私が→歩けないわ。
(こんなスッピンで)みんなの前を歩けないわ。
と2箇所になるでしょう。

大雑把に受け止めると、両方を受けていると考えることもできないわけではありませんが、
1.(こんなスッピンで)みんなの前を→歩かれないわ。
2.大女優の私が→歩けないわ。
に、それぞれ重点が置かれた表現だと思うわけです。


私の言いたいことをもう少しわかりやすくするため、別の例をあげてみましょう。
3.こんな派手な靴じゃ、(他人に見られるのが恥ずかしくて)外を歩かれないわ。
4.こんなに大きな穴が空いている靴じゃ、(足の裏が痛くて)外を歩けないわ。
()内は、発話されていない、とお考えください。

3は、自分の足で歩くことが不可能だ、と言っているわけではありません。
(他人に見られるのが恥ずかしいので)『外という対象』を歩くことができない、と言っているわけです。
つまり、家の中なら歩ける、ということになります。
このように、歩く対象(=外)の都合による不可能性を表現したい場合、「歩かれない」と言うと思うのです。
本質的に、その不可能性の責が主体に及ぶ性質のものではない場合、と言っても良いかもしれません。

これに対して4は、
(足の裏が痛くなる)という自分の理由によって、歩くことが不可能だ、と言っています。
歩くことが出来ない要因は主体にあることになります。


marisuka さん、お手数ですが、差し支えなければ、下記の質問についてもちょっと目を通して再検討してみていただけないでしょうか。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html
以下に、質問文から一部抜粋してみます。

〇この海は汚れているので泳げない。
〇この海は汚れているので泳がれない。
などは、どちらも可能でしょう。
ただ、この場合でも、
前者は、「海が汚れているという理由で、【私たちは】泳げない」という主体重視のニュアンスで、
後者は、「この海は汚れているので、泳ぐことが【不可能な海】だ」という対象重視のニュアンス。
という感じがします。

そして、
「怖い」という主体重視の意図が明確な場合は、
〇私は海が怖くて泳げない。
×私は海が怖くて泳がれない。
のようになるのではないか、というわけです。

また、
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%82%8C%E3%82 …の
2 可能の意を表す。…することができる。「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」
という辞書説明は間違いである、というお立場になるでしょうか。
   

お礼日時:2011/02/18 01:33

意外なご依頼に感謝致します。



仰っていたページ(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html)を参照しました。

そちらのページへも入力を致しますが、先ず此のページの欄へも、
纏めの言葉を記載させて頂きます。

そもそも「可能動詞」が江戸時代に普及した訳は、現代の「ら抜き」と同じで、
口語用の圧縮だったのですが、
現代には「可能動詞」が文語でも市民権を得ておりますね。

因みに「ら抜き」とか「可能動詞」とかの『破格』が誕生したのは、
「れる・られる」の助動詞の意味の4つが同じ起源に由来している事情への理解が
乏し過ぎたからなのでしょう。(「受け身」「可能」「自発」「尊敬」)

とすると、此処に凄く重要な問題が潜んでいる事情に気付いて頂けましたでしょうか?

そうです。
此のサイトの国語の項目で頻出している「れる・られる」問題です。
つまり、是等の意味(「受け身」「可能」「自発」「尊敬」)の関係性は、
日本独自の『謙譲』の価値を現代に見直す為にも、非常に重要な価値が御座います。

※日本語の「尊敬」は、西洋近代の"Respect"の訳語と違うのですが、
最初に訳語を割り当てる際に、適切な単語が無かったので、
たとえ日本的な尊敬が西洋近代的なアイデンティティを対象に据えていなかったとしても、
無理遣りに、当て嵌めるしかなかったのでしょうから、
それが現代での無理解・過ちを促している、と言えます。

如何でしょうか?その説明もが必要ですか?
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この回答へのお礼

再度のご回答でありがとうございます。

>日本独自の『謙譲』の価値を現代に見直す為にも、非常に重要な価値が御座います。

深い問題をはらんでいるのですね。

>如何でしょうか?その説明もが必要ですか?

現段階の私が伺ってもおそらく理解できない可能性が高いと思われます。
もう少し勉強してから、機会がございましたら、また、その必要性をお感じになりました際にはぜひお聞かせください。
もう一方へのご意見も楽しみにしております。
  

お礼日時:2011/02/18 13:57

前のご質問にも回答した者です。



今回のご質問も、「出られない」と「出れない」のニュアンスの差は私には感じられません。
『みんなの前に出るなんて不可能だわ』なのか『この私が出るなんて不可能だわ』なのかは、他の発言やその発言のなされた状況によって決まり、「出られない」も「出れない」もどちらのニュアンスの時にも使用できると考えます。

逆にお伺いしますが、質問者様は「出られない」と「出れない」、「歩かれない」と「歩けない」を質問者様が主張するニュアンスの違いを常に意識して使い分けていらっしゃるのでしょうか?
また、質問者様のおっしゃるニュアンスの違いを意識して使い分けている例文が他者の著作・発言等にあればお示しいただきたいと思います。
私は不勉強なのか、かつてそのような例文を見聞きしたことがありませんので、後学のためにお教えいただければ幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>逆にお伺いしますが、質問者様は「出られない」と「出れない」、「歩かれない」と「歩けない」を質問者様が主張するニュアンスの違いを常に意識して使い分けていらっしゃるのでしょうか?

いえ、むしろ無意識的に使い分けるような気がします。(常にというわけではないように思うのですが)
しかし、使い分ける際には、縷々申し述べてきたような明確な差異を意識しての発話になっているように思うわけです。

>また、質問者様のおっしゃるニュアンスの違いを意識して使い分けている例文が他者の著作・発言等にあればお示しいただきたいと思います。

ちょっとうまく検索できませんでしたが、たとえば次のような場合はいかがでしょうか。
・風邪を引いて病院へ行き、点滴を打ってもらった。医者からは、「今のあなたはお酒を飲まれない体なのですから、十分注意するように」と念を押された。

この場合、「お酒を飲めない体」という表現にはどうしても違和感を覚えます。
・私はすぐに具合悪くなるのでお酒が飲めない。
であれば自然でしょう。
お酒【を】飲まれない。
お酒【が】飲めない。
のように、お酒を目的格として捉えているか、特定対象として捉えているかの違いからアプローチするのも面白いかもしれませんね。
つまり、
前者が、「私はお酒を~」という構文で、「飲まれない」はあくまで「酒を」という対象を受ける形であるのに対し、
後者は、「私は~飲めない」という主体重視の構文になっている、というわけです。
   

お礼日時:2011/02/18 14:22

要望される答えには、なっていないかも知れませんが、


私の感想を述べます。

単なる「ら」抜き言葉ですが、大女優のこの場合に限り
ニュアンスの違いが感じられます。

「みんなの前に出られないわ」は不可能の表現で、
「みんなの前に出れないわ」は意志の表現と感じました。

前者は皆さんのイメージをこわすことは出来ません。
後者はプライドがあり、皆さんにお見せしたくありません。

こんな風に何等かの差を感じられるのは私だけでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>前者は皆さんのイメージをこわすことは出来ません。
後者はプライドがあり、皆さんにお見せしたくありません。

いや、全くそのとおりです。
この大女優は、間違いなくそういう意図でシチュエーションによって使い分けるはずですよね。
  

お礼日時:2011/02/18 14:26

No.4の者です。



畏れ入りますが、私の回答の後にも奇妙な回答例が並びましたので、
再度の投稿を試みました。

私の回答には主観的な解釈が含まれておりません。

そもそも複数のページで、
複数の方々がニュアンスの相違を論じていらっしいますが、
残念乍ら全てが的外れになっています。

若しそれ等のイメージによる格差の受け入れが許されるのでしたら、
「国語」は学問でなくなってしまい、
試験でも共通の回答が出来なくなります。
(文法的な誤りを修正させる入試問題に拘っていらっしゃる大学もが、
実際に存在しております。)

従いまして、「ら抜き」・「い抜き」は駆逐されねばなりません。

確かに企業の上司達が長らく誤用を続けてこられた場合には、
自己の判断を正当化するべく、其の方式を押し付けてくる可能性が高いのでしょうが、
学術的な問題の回答を主観的な解釈に貶めてはいけません。

たとえ此のサイトへ回答を投稿する権利が、
全ての会員に平等に分配されている、とは申しましても、
此の項目は学術的な回答が求められる分野にぞくしておりますので、
主観的な印象を語る意見が投稿された場合にも、
それ等に振り回されないでいてほしい、と思います。

<追記>
特に不特定多数者が御覧になる項目で誤りが正当化されてしまうと、
悪循環が加速される温床もが出来上がりますので、
今後の学問の発達の為にも役立つ様に、
厳しい意見を申し上げましたが、御容赦を頂けると、幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

参考にさせていただきます。

>今後の学問の発達の為にも役立つ様に、
厳しい意見を申し上げましたが、御容赦を頂けると、幸いです。

論理的ご見解であれば、この点に関しては全く気にしていただく必要はありません。
  

お礼日時:2011/02/19 16:06

2・4番の者です。



先程の投稿の内容では、
未だ十分とは考え難い箇所もが残っておりましたので、
更に直接的な説明を致します。

質問者様は、他のページでも、
『主体重視と対象(客体)重視とによるニュアンスの違い』の存在を
誤解されておりますが、残念乍ら、
元から其の様な考え方は存在しておりません。

主観的な印象の違いは、唯の誤解の結果でして、
もしそれが許されるのでしたら、もはや学問とは呼ばれ得ません。

そもそも質問者様は、誤用の価値の肯定を希望なさっているのでしょうか?

質問者様が国語関連項目へ出された疑問群を潰してしまい、
大変に畏れ入りますが、
中学校の国語の教科書の内容を復習なされば、
それ等の全てが解決されます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>質問者様が国語関連項目へ出された疑問群を潰してしまい、大変に畏れ入りますが、

いえいえ。
潰れたとは全く思っておりませんのでご心配なく。^^;
また、色々なご見解を伺うこと自体が目的ですので、推測と異なるご見解がないと質問した意味がありません。

>中学校の国語の教科書の内容を復習なされば、
それ等の全てが解決されます。

その可能性はありますね。
とりあえず、もうひとつの質問へのご回答を楽しみにしております。
よろしくどうぞ。
   

お礼日時:2011/02/18 20:18

(1)「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出られないわ」



(2)「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出れないわ」

質問者様のようには思いません。
(1)も(2)も同じ。
どちも大女優ではなくアバズレ三流女優の台詞で、(2)の方がアバズレ度高い。
なんだかそちらの方に気が取られて質問者様のご趣旨に沿えません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご見解は承りました。
  

お礼日時:2011/02/18 20:19

もう煮詰まっているとは思いますが、語感としましては


みんなの前に出られないわのほうが、
自ら大女優と言うだけに幾分品格がありまともな感じがいたします。
出れないわときたらもう大女優やらその他大勢やらと言う感じがいたします。
どちらもこの大女優ともあろうわたしがを主語としています。
がは強調の意味の格助詞だとおもいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>がは強調の意味の格助詞だとおもいます。

なるほど。
これは、とう質問の仕方に対する根本的なご指摘ですね。
おっしゃるとおりかもしれません。
「大女優のわたしが、」
の部分は無しの例文にしたほうが、質問の意図は伝わりやすかったのでしょうね。
大変参考になりました。

お礼日時:2011/02/19 12:04

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