フランシス・ベーコンの四つのイドラについてですが、それに対してモンテーニュが批判をした、という話をどこぞで聞いたのですが、本当でしょうか?

もし知っている方がいたら教えてください。
単に考え方の違いから結果的に批判したような感じになっているのか、本当に名指しで批判しているのか・・。

まずベーコンはわかるのですが、モンテーニュの考え方自体がよくわかってないのが問題ですが(笑)
参考文献でもよいので教えてくださると嬉しいです。

A 回答 (2件)

下記の書籍から引用します。


「人類の知的遺産30 ベーコン」坂本賢三、講談社

P.96「幼少年時代」より引用
--
またモンテーニュの『エッセイ』を読んでいたく刺激
され、このような書物を書きたいと思ったそうである。
それはのち『随想録』で実現された。
    • good
    • 0

時代的にずれているのではないかと思い、確認してみました。



モンテーニュ:1533-1592

フランシス・ベーコンの『ノウム・オルガヌム』の発表は1620年なので、物理的に不可能ではないでしょうか。

モンテーニュといえば、自分自身
・『エセー(随想録)』の作者
・"Que seis je?"(私は何を知っているか)という言葉で、デカルトに影響を与えた
という知識ぐらいしかないのですが、検索するとそれなりにヒットするので、質問者さんの問題意識と一致するサイトもあるかと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

時代!(笑)ありえませんね。それは。
ぬかっていました。
小説か何かの台詞でモンテーニュがベーコンを批判(否定?)しているとあったと思うのですが・・
可能性としては
1)やっぱり二者の考え方の違いから考えられた作者の作り話か解釈。
2)ベーコンがモンテーニュをの間違い
3)最初から勘違い
このくらいでしょうか。
ありがとうございました♪

お礼日時:2003/09/17 07:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q日本リーバのポンズダブルホワイト アイスティックに関して

日本リーバのポンズダブルホワイト アイスティックに関しての質問です。

アイ スティックセット
2002年3月4日発売
アイ スティック
昼用/夜用
2002年3月18日発売

新製品情報/ポンズダブルホワイト アイスティック
http://www.nipponlever.com/newproduct_pdweye.html

質問: 上記商品のTVCMに出演している女性の名前(芸名でも可)をぜひ教えてください。どうかよろしくお願いします。

※ 柴咲コウさんの出演したポンズダブルホワイトのCMとは違います。
  新商品のポンズダブルホワイト アイスティックCMです。

Aベストアンサー

すいません。それは芸能人しりたがりの私が
過去に質問したので参考にしてください!!

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=253982

Qフランシス・ベーコンは何故処刑されなければならなかった?

フランシス・ベーコンは何故処刑されなければならなかった?

Aベストアンサー

風邪ひいて死んだんですけど?

Qイドラって?

いろいろな化粧品で、イドラ・・・というのがありますが、いったい「イドラ」って何なんでしょう?

Aベストアンサー

こんにちわ。

フランス系の化粧品(ディオール、ランコム、シャネルとか)にHYDRAって付きますね。
それらの化粧品、例えば化粧水・クリームは保湿系っていう共通点があります。フランス語なのかな?

ちなみに英語では発音が違うけど
「hydrant」→給水栓
という意味があります。

ではでは。

Q参考文献には一次文献の記載も必要ですか?

こんにちは。
発表原稿を提出したのですが今更記載に関して気になりだしました…。

大学での発表でニーチェ『道徳の系譜』を扱うのですが、発表のために読んだのは『道徳の系譜』と、もう一冊その概観書です。

しかし参考文献に書いたのは概観書だけで『道徳の系譜』は記載しませんでした。
『道徳の系譜』からの引用はありません。

これってまずいでしょうか?
まずいだけでなく、「コイツ概観書だけを読んで発表している?!」と思われるのでしょうか?

お願いしますTT

Aベストアンサー

別に、概観書の「概観」の部分を議論するのであれば、概観書を参考文献にするしかありません。だって、原典・一次文献であるニーチェの著作にニーチェが書いたものではないのですから。

最近、生類憐みの令とか江戸しぐさとかで、一次資料を全く出さずに江戸時代の実状がどうだったのか検討確認されぬままに、出典なしの綱吉のお達し書きと口語訳がネットに流れたり、平成しぐさを募集する江戸しぐさ保存会ができたり、というのとは違って、

ちゃんと一次文献の存在を認識した上で、それをどう概観するか、という部分に焦点をあてたものに論点をおくなら、それは一次文献にこだわる必要もないでしょう。それをやりはじめたら、ロゼッタストーンから全言語学論文が書き出されるかもしれませんものね。

Q洞窟のイドラって・・・?

 こんばんわ。よろしくお願いします。
ふと、何気に思い出した単語があります。
自分でリサーチすれば良いものの、
こちら(教えてgoo)が気に入って利用させて頂いてます。

 「洞窟のイドラ」と言う単語がフット記憶に戻りました。
なんでしたでしょうか?
言語で問い合せるべきかな?とも思いましたが・・・
授業で習ったような・・・
「**のイドラ」って何種類かありませんでしたか?
それと連なって、「人間は考える葦である」うんぬんも・・・
社会科でしたでしょうか?
時々こんな事がフフフット思い出します。
お手数かけますが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 哲学者フランシス・ベーコンの「四つのイドラ(影)」論ですね。イドラを論じた著作『ノウム・オルガヌム』自体を読んでいないので正確な把握をしていないのですが、私なりの理解は次のとおりです。

■市場のイドラ 市場でリンゴに百円の値段を付けると、リンゴの価値は百円と見なされるが、それは取り決めに過ぎず、決して本質的なものではない。本来不定型な世界を「言葉」が限定している。

■洞窟のイドラ まるで洞窟の丸い穴から外を眺めているように、人は個人的な性格や習慣、過去の経験といった限定的条件を基準に物事を判断する。

■劇場のイドラ 舞台で演じられる演劇や手品は、その劇場の中だけで成立するファンタジーである。個々の社会が持っている伝統的価値観や思考方法もこれに等しく、その論証手法はローカルな社会の中でのみ通用し、必ずしも普遍性を持たない。

■種族のイドラ 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚といった人間の感覚器官は、その能力の範囲内でのみ世界を認識することができる。また、感情が認識を大きく歪めもする。

Qモンテーニュの「エセー」

こんにちは。
ある本にモンテーニュの「エセー」の中の一文が
2,3個、紹介されていて、結構面白そうな本だ
なと思ったのですが、哲学とかを特に学んでるわけ
でもない一般の学生にとって、難しい本ですか?

読んでみるには購入が必要ですが、立ち読みでは
難しいかどうかなんて判断できませんし、あまりに
難しい本は挫折しがちな性格なので…

Aベストアンサー

この本は哲学に興味がある方にとっても、また、ない方にとっても、共に大変読み易い本です。私は何方にも、この本を読むことを薦めています。ただし読み方にコツが在ります。先ず、解説を読まずにいきなり本人が書いた部分を読むべきです。この本はそもそもエセーすなわち随筆ですから、各章が一見バラバラな内容で、超崇高な題材から、超下ねたまで、人間のあらゆる行為をまな板にあげて論じていますので、本を順番通りに読む必要が在りません。面白そうな見出しから自分で勝手に順番をつけて、読んだ所に印を付けながら読み進んで行けば良いのです。

どんな名著にも、読む時期と言うものが在ります。質問者さんは既に、この本の幾つかの文を読んで「結構面白そうな本だなと思った」のですから、質問者さんにとっては機が熟しているのだと思います。この本を是非楽しんで下さい。

この本は、一見どんなに優れた説得力のある論理に対しても、その反対の論理にもまた説得力のある論理が在ることを、一つ一つ具体的に示してくれると言う意味で、懐疑論の権化とも言える本です。事実、西洋哲学史のなかで、この本は懐疑論を究極まで押し進めた本として評価されています。モンテーニュ自身、懐疑論を徹底的に押し進めると、結局あらゆる物には両面が在るので、我々はその是非を決めることができないという、所謂「思考の停止」以外にないという意見に到達しています。

この思考の停止を何とか打破しようとして、何とか懐疑論を生産的に使えないものと苦しんだ末、デカルトが「我思う故に我あり」と言う形で「生産的懐疑論」を構築したのです。ですから、デカルトの仕事はこの本の回答としてなされたと言う側面もあります。将来デカルトに付いて理解したいと考えるようになった方にも、この本は必読の書だと思っております。

私は自然科学者ですが、この本を読んで、どんなに理屈の通った理論でも、その反対が正しいことも在り得ると言うことを教わりました。そのことは、自分の研究で、独りよがりする危険を教えてくれました。その結果、私は自分がどんなに自信を持っている意見を述べるときにでも、それを覆す意見も同時に考えながら述べていると言う習慣を身につけることができるようになりました。

また、この本に出てくる面白い話の題材が、多くの場合ギリシャやローマの古典から採られているので、どうしてもその元の出典を読みたくなってしまいます。ギリシャやローマの古典のどの本を読んだら良いのかを教えてくれると言う意味でも、それらの古典の大変良い入門書です。

この本は分厚い本ですので、しばしば抜粋のダイジェスト版が在りますが、そんな一部だけを読むのではなく、最終的には全部を読むべきです。大変面白いので、本の厚さが気にならず一気に読めてしまうことを保証致します。また全てを読んでおけば、その本の専門家も含めて誰かとその本に付いて語り合うときに、「私の記憶では、モンテーニュはそんなことを書いてはいなかった」と自信を持って言えるようになります。この自信は、貴方が生きて行く上の自信にも繋がり、貴方にとって貴重な財産になるはずです。この本を読み切ったと言うだけで、貴方は思索をする者としてある高みに登った人間になって居りますので、その高みに登る努力をすることをお薦めします。岩波文庫で読めば、安いし運び易いので便利だと思います。

この本は哲学に興味がある方にとっても、また、ない方にとっても、共に大変読み易い本です。私は何方にも、この本を読むことを薦めています。ただし読み方にコツが在ります。先ず、解説を読まずにいきなり本人が書いた部分を読むべきです。この本はそもそもエセーすなわち随筆ですから、各章が一見バラバラな内容で、超崇高な題材から、超下ねたまで、人間のあらゆる行為をまな板にあげて論じていますので、本を順番通りに読む必要が在りません。面白そうな見出しから自分で勝手に順番をつけて、読んだ所に印を付...続きを読む

Qスパークリングワインの甘さを好むのは素人ですか

 最近,ふとスーパーで800円の安いスパークリングワインを見つけたので買って飲んでみました。
すると,上品な甘さで気に入りました。私は,なぜ,甘いのか気になり,インターネットで調べたところ,スパークリングワインは,その製造工程で,リキュールを加えているため,甘いということがわかりました。つまり,足された甘さであるということです。悪く言えば,混ぜ物ということで,がっかりしました。
 そこで,質問なのですが,スパークリングワインの甘さを好むのは,素人で,この甘いスパークリングワインを飲み続けるとすぐに飽きてしまうのでしょうか。
 また,リキュールをほとんど加えていないスパークリングワインでおすすめのものがあれば紹介してください。飲み比べて,リキュールの有無と味との関係を体験しようと思います。

Aベストアンサー

再び#1です。

>甘い酒が好きな方が,スパークリングワインを楽しんでいると理解していいのでしょうか。

それはちょっと違います。
人間の味覚は炭酸が入ると辛く感じようになってますので、それを調節する意味で甘みを加えているのだと思います。

>スパークリングワイン意外にも上品な甘さのワインがありましたら,紹介してください。

先にも書きましたが、甘めのワインで代表的なのはドイツワインです。
個人的にはピーロート社のピーロート・ブルーが好きです。初めて美味しいと思ったワインです。
個人向けに小売してなかったのでなかなか飲む機会がなかったのですが、今調べたらネットで通販してるのですね。
しかも最近羽田空港にワインバーを出店しているのですね。
おかげさまでこちらも勉強になりました。

Qミシェル・ド・モンテーニュについての愚問です。

或るウェブページ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5)への記述によりますと、ミシェル・ド・モンテーニュの著書は「無神論」の著書と見做されているそうですが、この著者は積極的に「無神論」を主張なさっているのでしょうか?

それとも、「聖書」からの引用が殆ど無い故に批判を受けて、
それ等が「無神論」の著書だと見做されたのでしょうか?

別段に信仰の話では御座いませんでして、単純な疑問ですから、
諒察を御願い申し上げます。

Aベストアンサー

モンテーニュの『随想録』の中で一番長い「レーモンスボンの弁護」の内容のことですね。

モンテーニュは西洋哲学の中で、懐疑論を徹底的に押し切って、結局は思考の停止以外にないことを実証してみせた方ですね。その概念は、彼の座右の銘「我何をか知る」に濃縮されています。彼の出現は西洋哲学界に深刻な打撃を与え、彼に対する解答としてデカルトの「我思う、、、」で象徴される建設的な懐疑論が出て来ました。ですから、モンテーニュ抜きでデカルトは理解出来ないと思います。しかし、その後の哲学の発展を見て行くと、哲学者達が持ち上げるデカルトの合理主義はどうも屁理屈であることを否めず、余り生産的であったとは思えません。それよりも、その後自然科学者たちに営々と引き継がれたモンテーニュの懐疑の方のが遥かに生産的であったと言うのが、人類の経験して来た歴史的事実のようです。

もともとは、カソリックの神学者であるレーモンスボン氏の主張の擁護として、この章が書かれ始めた筈だったのですが、モンテーニュの持ち前の懐疑が徹底的に表に出て来て、結局、カソリックの正統派の解釈とは似ても似つかない宗教論が語られてしまった。それが、伝統的な教会をして無神論とのレッテルを貼しめてしまったのでしょう。

そもそも、無神論とはユダヤ・キリスト・イスラム教の内部でだけ意味を持つ局所的で地方的な概念です。従って、この概念は人類のもつ普遍的で深刻な概念とは無関係な偶然に起因する概念です。モンテーニュがたまたま西洋の地方性を超えて思索出来る人間だったので、西洋人達たちは理解不能な混乱に陥り、モンテーニュにそんなレッテルを貼ったのだと思います。

モンテーニュの『随想録』の中で一番長い「レーモンスボンの弁護」の内容のことですね。

モンテーニュは西洋哲学の中で、懐疑論を徹底的に押し切って、結局は思考の停止以外にないことを実証してみせた方ですね。その概念は、彼の座右の銘「我何をか知る」に濃縮されています。彼の出現は西洋哲学界に深刻な打撃を与え、彼に対する解答としてデカルトの「我思う、、、」で象徴される建設的な懐疑論が出て来ました。ですから、モンテーニュ抜きでデカルトは理解出来ないと思います。しかし、その後の哲学の発展を...続きを読む

Qイタリアワインで赤のスパークリング

イタリアワインで赤のスパークリングで甘口
一度飲んだのですが、名前を忘れてしまいました
キャンティークラシコだったような気がするのですが
甘口の赤でスパークリングの物がみつかりません
誰か教えて下さい

Aベストアンサー

キャンティのスプマンテ(スパークリング)ってのはないような・・・・・自信はありませんが。ただ、一口にキャンティといっても夕に100種類以上ありますから、中には「微発砲」とかあるのかも。
トスカーナ地方自体がスプマンテは余り多くないですから。

キャンティはフィアスコっていうあのわらで包まれたようなボトルがイメージとして強いですが、そんなボトルでした?だとしたら、スペインのカヴァとかと間違えてたりして・・・・でもカヴァにもそんなボトル見あたらないし・・・・・気になる・・・凄く気になる・・・・

 甘口のスプマンテの赤なら、ピエモンテ州あたりの物が上質で宜しいかと。中でも「ブラケット・ダックイ」が代表ですけど、ブラケット種で造るスプマンテは甘口だと思っていいでしょう。

 いずれにしてもイタリアのスプマンテは安くて美味しい^^。中途半端なバンムスー飲むより遙かに宜しい。

「スプマンテ」 「ピエモンテ」 「ブラケット」なんてキーワードで検索すれば色々情報が得られると思います。

イタリアではスパークリングワインの事を「スプマンテ」と言います。

自分でもちょっと気になる(いや、かなり)から、もうちょっと調べてみます。っていうかソムリエに聞いてくる。

キャンティのスプマンテ(スパークリング)ってのはないような・・・・・自信はありませんが。ただ、一口にキャンティといっても夕に100種類以上ありますから、中には「微発砲」とかあるのかも。
トスカーナ地方自体がスプマンテは余り多くないですから。

キャンティはフィアスコっていうあのわらで包まれたようなボトルがイメージとして強いですが、そんなボトルでした?だとしたら、スペインのカヴァとかと間違えてたりして・・・・でもカヴァにもそんなボトル見あたらないし・・・・・気になる・・・凄く気...続きを読む

Qこの批判の姿勢についての批判をお願いします。

批判するときには相手の受けていれているドグマ、相手の自己矛盾などなどを基盤として、、、つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。
同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。
そうでなければお互いが自分の宗教論争と同じく、全くもって何も産まないものとなってしまう。

私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。もしかしたらアタリマエのことかもしれませんが。

これに対して批判があるとすれば問題点の指摘からお願いします。ただ、問題点の指摘の最後にはよりよりと思う批判のあり方について書いていただけると助かります。

Aベストアンサー

No20です。
再回答です

まず確認します。
「相手の土俵に立つ」

このフレーズの意味を一番詳しく述べているのは、No19さんに対する「この回答へのお礼」の欄の中の記載でよろしいのでしょうか。
下にそこの箇所を引用します。

No19さんの回答より
「同じ土俵に立つ、などといわずに、相手の基盤なりを十全に理解する、…(中略)…だめでしょうか」

314hさんの「この回答へのお礼」の欄より。
「(1)いいとは思いますが哲学的批判すべてについて当てはまる姿勢を追及したいと考えています。(2)例えば相手が100個の考えを述べたとしても先ほど上げたように最初の2つがすでに矛盾していて、それと次の3つの考えを元に他の95の考えが構成されていたとします。(3)そういった場合批判するにおいて最初の2つで十分となりませんか? (4)そういった批判においてはあなたが先ほどおっしゃった、十全に理解というのとは少し齟齬が生じる可能性のある言葉となるような気がします」

主に(2)(+(3))で示される内容が「相手と同じ土俵に立つ」ですね。
言い換えると、
「相手の考えのうちのごく一部の問題点をベースにする姿勢を、そしてそれだけを「土俵に立つ」
と表現していたということになり、そしてそれに(1)の内容を加えたのがこのスレッドの質問文になると考えてよいのですね。


だとしたらこのスレッドにおいてこの解釈が314hさんの中でぶれています。
それがいちばん分かりやすいのはNo7さんとの質疑においてです。
以下、説明します。



No7さんは、
>相手の土俵に立つ必要はないと思います。
と仰っていますが、その次の文では
>相手の土俵を一部(もしくは全部)包含していればいいと思います。
と述べています。

No7さんがお書きになった前の文が否定文となってしまったのは、単に314hさんが土俵について明確な定義をしなかったためなので、後の文だけに注目します。するとNo7さんが意味されたであろう「土俵」についての考えは、上述の314hさんの「土俵」の考え方とほとんど変わるところはありませんね。

そしてその説明なのですが、No7さんへの「回答へのお礼」の欄では、「土俵」とは、「世界のうちにあるもの」であり、「世界観」という言葉で表されるものであり、「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」、と述べていますね。さらにもう少し後では、「霊能者(などの特殊能力者)は除外して考える」旨の記載もあります。

この中で「世界」、「世界観」とは多義的な言葉であり、実際はその内容についての説明を要するものです。したがって文脈上はこれらの文の後に続く箇所、すなわち「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」という箇所、つまり「古の多神教世界、あるいは現在の世界宗教である二つの一神教を信奉する人類の中で、霊能者などの特殊能力者以外の人間に共通した世界」、あるいは「それらの人類に共通で、かつ不変の認識方法を有している世界」という意味内容が、「世界観」を限定しかつ説明したものとして読む者には受けとめられます。

この世界観について、314hさんは、「土俵は前の方もおっしゃってくださったように世界観です」とおっしゃっていることになります。

言うまでもありませんが、この「回答へのお礼」の欄で述べられている「土俵」に関する説明は、No19さんの「回答へのお礼」の欄で述べられていたもの(上述)と明らかに異なります。

またNo7さんの回答につづいて述べてられている古典力学、相対論の例ですが、私は適切だと思います。物理学における革新的進歩を、「新たな世界」が開けたと314hさんは表現しましたが、しかしそれらを記述した人物(17世紀イギリスのニュートンや20世紀西欧社会のアインシュタイン)と、それらの成果を享受した人々において、いったい「認識すること」や、その生活していた「社会」について、古代ギリシャ人と現代のキリスト教徒、イスラム教徒ほどの差異はあったでしょうか。十分に「共通した世界観」の範疇に入ると思いますが、それでも314hさんは同じ土俵であるとは認めておられませんね。

これでは、わからない。
同一人物に対する質疑においてすら、「土俵」の概念が首尾一貫しておりませんので。
「ぶれ」という表現を使いましたが、この相違は「ぶれ」以上のものであり、また「齟齬」として片付けられるものではないと思いますよ。

さらに付け加えます。
このNo7さんへの「回答へのお礼」の箇所で314hさんが用いた「土俵」なる概念は、きわめて広大な世界を意味しています。広大すぎて、「同じ土俵に立つ」ということが、古今の全人類(除外・霊能者、シャーマン)とすら思えてくるため、前提自体が無意味のないものに思えてきますし、そのいっぽうで広大過ぎる世界の中の各要素(人種、国籍、宗教などなど)の隅々まで「同じ」であることを要請してしまう非常に厳しい条件だと解釈されてしまう怖れもあります。この後者の解釈の下に回答されたのがNo8、No9の方々といえるでしょう。


さて
No9の方はそれを「100%」という数字で表していますが、そのすぐ後で、
「普通は99%以下の理解で相手を批評する」と述べており、その意味するところはNo19さんとの質疑で示された「土俵」の定義とほぼ同じ内容であると私は解釈します。
同様にしてこのスレッドを通覧すると、No2さんも「土俵」に関する考えはほぼ同様ですし、No5さんも、「「相手のドグマに立つ」のではなく、「相手のドグマを理解して…」」と仰っており、ドグマという語を用いていても基本的には314hさんと同じ理解をしているものと思われます。

したがいまして314hさんが欲していた回答も、それらの方々の回答の一部にすでに記述されているものもあるのでは。


以上が前段です。
後段はシンプルに当初の質問に対してお答えします。
その回答内容はNo20の2行目と変わりありません。

「相手の立場に立つというのは、批判する際に気にかけたらいいひとつの心構え」でしょうね。

説明します。
ある言説Aの正当性に関してし、相手が提示したa(1)からa(n)の証拠や説明が仮にあったとしても、たったひとつの証拠bによって言説Aが否定されれば、それで十分に反論は成立します。よって相手と同じ土俵に立つ必要はありません。つまり質問の文は必要条件とはなりません。

また相手と同じ土俵に立っていれば十分かと言うと、相手の矛盾点、論理思考の飛躍や誤謬などが見出せない場合、同じ土俵に立っていても反論は成功するどころか、その糸口さえ見出せないでしょう。したがって十分条件とも言えません。
要するに御質問の文は必要条件でもないし、十分条件でもない。言わば単なる参考事項にすぎません。というわけです。でもまあ実社会ではたいへん役に立つやり方だと思いますよ。

よりよい方法。
そんな万人、そしてあらゆるケースに共通な魔法のやり方があるんでしょうか。あるならすでに誰かが発表していそうなものです。
ただこのスレッドのように言葉の意味がぶれていては要らぬ混乱の元です。そこはきちんとしなければなりませんね。またお互いが議論しあっているテーマに関して、言葉にはなっていない前提があることにも注意が必要でしょうね。相手を打ち負かすことを目標にし、なおかつ建設的に議論したいのなら、相手が気づきにくいそこにも一応配慮しておくといいと思いますよ。


なお、
私はこのサイトでの質問や解答には慣れていませんが、確か「質問の補足」という機能があったのでは。今後は各回答者の「お礼」の欄に断り書きをするのではなく、この機能を使って分かりやすい位置にしっかりとした補足を書き足すように配慮されたらいいと思います。

No20です。
再回答です

まず確認します。
「相手の土俵に立つ」

このフレーズの意味を一番詳しく述べているのは、No19さんに対する「この回答へのお礼」の欄の中の記載でよろしいのでしょうか。
下にそこの箇所を引用します。

No19さんの回答より
「同じ土俵に立つ、などといわずに、相手の基盤なりを十全に理解する、…(中略)…だめでしょうか」

314hさんの「この回答へのお礼」の欄より。
「(1)いいとは思いますが哲学的批判すべてについて当てはまる姿勢を追及したいと考えています。(2)例えば相手が100個...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報