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20代、女性です。

私は「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉が苦手です。この言葉を聞くたびに何だか切なくなります。

これから何かを成し遂げようとする人にとっては素敵な言葉なのでしょうけれど、

虐待の果てに亡くなった子供は?
孤独死した老人は?
難病で苦しいままの人は?
災害で命を落とした人は?どうしようもなくなって、自殺した人は?

これは乗り越えられる試練なのか?と思ってやりきれない気持ちになります。

「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉に対しての皆さんの
・言葉のとらえ方
・こういう風に考えたらいいのでは?

など、意見・感想をお聞かせください。
よろしくお願いします。

A 回答 (32件中11~20件)

私は、先月、癌を告知されました。


告知された時は、ある程度覚悟を決めていたので冷静に先生と話をすることができましたが、
帰途につき、家に帰り、そして何日も、不安、恐怖、理不尽さ、哀しみ、
そのようなもので心はいっぱいでした。
これからしたいと思っていたこと、老後はこう過ごそうと夢見ていたこと。
それができないかもしれないこと。
親より先に死ぬかもしれないこと。
なぜ私が? 何も悪いことをしていないのに?
インターネットを調べると、癌を告知された多くの人が思うことを、私も思いました。
告知されてから一週間後ぐらいに、ふとした時に、これはもしかしたら全部悪い夢じゃないのか、
今、覚めるのではないか、今、覚めるのではないかと、本当に、そう思いました。

そんな状態でいる時、ふとした瞬間に、テレビで子供がこの言葉を言って、
誰かを励ましていたのを思い出しました。
「神様は、乗り越えられる試練しか与えないんだ」

もしかしたら、いつか病気に負けて、思っていたより早く死ぬかもしれないですけど、
生き延びることだけが、乗り越えることじゃない。
私は独身なので、一人で死を迎えることになるかもしれないけど、
それが必ずしも惨めな死とは限らない。
私なりの「乗り越え」が。どこかに・・。
そう思い、この言葉を思い出したことで、私は、得難い勇気を得ることができました。
とりあえずの勇気かもしれませんけれど、今、私は、1日に何度か気持ちの凹みが来るたび、
この言葉を思い出すことで顔を上げようとしています。

質問者様が言われているように、そのように思う機会さえ与えられずに居る人がいることは知っています。
だから、質問者様の疑問もよくわかります。
ただ、勇気や希望をなくしかけている人の中の、少なくともある人たちにとっては、
この言葉は、後押しとなる力をもっているのではないかと思います。
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はじめまして。



私も質問者さまと同じくこの言葉は苦手です。

質問者さまが例にあげた以外にも沢山の不公平、理不尽が世の中には沢山あります。
そうですね、例えの難病で助かる道が無い、遠からず死ぬとわかってるものをどうやって乗り越えようというのか。
「死」が最悪の事態ではないという考え方もあるでしょうけど。

と、いろんな理不尽で解決不能な例は置いておいて、その言葉自体を考えます。

これは人間が作った言葉です。昔の誰かが言った言葉なのです。
人間が言った言葉なので、この世の真理だ!というわけではないのです。

おまけにその昔の誰かは外国の人でした。
それが日本に来て日本語に訳された時元々の意味から少々離れてしまったのです。

こちらの方のブログを読むととてもわかりやすいです。

http://blog.goo.ne.jp/knkimura/e/81fe3f2df383e8a …

ドラマのせいもあって、とても有名な言葉になってしまったようですが
もともとは私たちと同じただの人間が言った言葉にすぎません。
しかも、元々の言葉は続きがあって「逃れる道も用意されている」というような意もあるのですが、
その訳した時代の日本人の気質からか気合い、根性めいた言葉になってしまったのです。

この言葉を重く真実のように捉える必要はないと思います。
この言葉が好きな人は自分の好きに、苦手な人はそんなにこだわらなくてよいと思います。
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私はカトリックですが、今は幅広く神道の勉強をしています。

信仰の考え方は様々ですから、一概には言えませんが

これはあくまでも自分を励ますための言葉だと思います。
神は試練など与えません。全能なら与える必要もないでしょ。
そのものがどうするかは判っているだろうし、或いは自分の思うがままに動かせばいいだけです。

ただ、本意ではなく亡くなった人に対し、それが乗り越えられなかった試練だと考えるのは違います。
死は誰も乗り越えられない唯一の宿命です。例えそれが他に奪われようともです。
私は決して平和主義者ではないです。だから攻撃する者は理由も意義もなく攻撃すると思っています。
話し合えばナントカなるだなんて思っていません。だから防御しなければならないのです。
弱い立場のものが理不尽な暴力に屈してしまう。それもこの言葉とは無関係です。
そして、この言葉はまさに、自殺を考える人に対して語られるべき言葉なんです。
「死んだ気になれば乗り越えられないことなど存在しないよ」という意味においてです。

私の師事する人は、本当に命以外の全てを失いました。しかも障害のある子供まで育てなければならない時期を過ごしたのです。
親戚の家を訪ね歩き、頼み込んで、ようやく庭の納屋に住まわせてもらい、その日暮らしを始めて、徐々に収入を得られるようになり、まずは子供を医者に診せる。食事はその道すがら、草を積んで粥を作ってすすったそうです。
やがて中小企業の社長に嫁ぎ、今では亡き社長に代わって取り仕切っています。どんなに貧乏でも勉強心だけは捨てなかったのだそうです。

「人間には乗り越えられない障害はない。」それがこの言葉の真の意味だと思います。
でも、自分がその立場に置かれたら、多分乗り越えられる自身はありません。私にはそんなに残りの人生は多くないですから。
今回の震災で、自殺なさった農夫の方もそうだったかも知れません。
復興に20年といわれても、60歳なら80歳になってしまいます。復興する間をどうやって生きていけばいいのか。
今の激励の言葉は、性別や年齢。状況などに配慮のない、冷たい言葉にしか聞こえない人も沢山いるでしょうね。
そう考えたとき、真面目で一本気であればあるほど、この言葉が逆に冷たく突き刺さるのかもしれません。

私達は文明に染まりすぎ、文明から外れては生きていけない「ひ弱な生き物」に成り下がった。ということかもしれません。
でもこの言葉は(例え表現が間違っていても)基本的に“アリ”だと思っています。ただ、最後に「だからまずは生きていよう」と付け加えるならばです。
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格言とかことわざって、的を得ていると思う反面「真実」ではないですからね;



人間には色々な不幸や幸せがありますから、ひとつの言葉だけをとらえて「じゃあ○○の人はどうなんだ」と議論するのはあまり前向きではないと思います。

この言葉を使うタイミングは恐らく、「自分にとって」乗り越え難いことに出会った時やくじけそうな時に
「いや、待てよ。神様は乗り越えられる試練しか与えないって言うよな…」と、自分を叱咤する時ではないでしょうか。
あとは他人にアドバイスを求められて言葉を掛ける時も有効だと思います。

今まさに、誰から見ても「乗り越えられない」状況にいる人には別の言葉をかければ良いだけのこと…
だから格言・ことわざには反対の意味を持つものがあるのだと思います。
それぞれを上手く使い分けて、騙し騙し自分を勇気づけられるっていうのがこういう言葉の良い所かな?と個人的には思ってみたりします。
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あなたはこの言葉の意味を知らない、ただそれだけのことです。



不幸な亡くなり方と第三者が思っている亡くなり方は本人からみてどうなのか、苦しかったのか何なのか分からないという冷静な認識の元から話をスタートしなければなりませんよね。孤独死した老人が第三者から見て「かわいそう」に見えても本人にとってはどうだったのか、第三者は本人ではないのだから分かりません。もしかしたら孤独を好む人かもしれません。客観と主観は違いますよ、まずこの辺の概念を持った上で考えましょう。

虐待の果てに亡くなった子供は、そういう経験をする学習のために生まれてきたのです。これはカルマの法則と言いまして、過去世または来世に子供を虐待して殺す経験をし、逆に虐待されて殺される経験の2つの経験を学ぶことによって、物事の表裏一体を会得し、人に対する優しさ、生きとし生けるもの(魂を持つもの)を愛する心を育むのです。これほどの痛い思いをすると、どれだけ愛情が磨かれるでしょうか。魂はその飛躍的な進化を狙ってこの過酷な課題に挑むのです。さて、この場合、霊界に帰って晴れて成長した魂はどうでしょうか?。課題を乗り越えられなかったのですか?いいえ、違いますね。乗り越えられたのです。乗り越えられたから魂は消滅せずに霊界に帰ったんじゃないですか。乗り越えられないとは、魂が消滅することを言います。実際には魂が消滅することは永遠にありません。だから、どんな死に方をしても魂が乗り越えられない試練はないのです。あなたはこの言葉の意味を知らない、ただそれだけなのです。そしてこの言葉は素敵なセンチメンタリスムでも何でもありません。リアルにただ霊的真理を述べているだけの言葉です。

難病で苦しんでいる人も全く同じ意味で生まれてきたのです。愛を磨くため。苦しんでいる人に対する思いやりを磨くため。また、その難病という制約によって生じる様々な経験を積んで霊的に成長するため。あなたは乗り越えるということを「現世で」と思っているフシがあるのではないかと思いますが、そうではありません。この言葉はスピリチュアリズムの言葉なのです。「あの世から見て」乗り越えられない試練はないのです。現世の生活はせいぜい100年以内です。あの世の生活は永遠です。だから、「現世で」と思う必要などない。「現世で」という注釈など要らない。あの世が本当の世の中なのです。

災害について。これは日本全体が蓄積したカルマの解消を自然霊が行ったというのがスピリチュアリズムの見方です。そして、大霊(神様)はすべてを計算し尽くしてその地に災害で死ぬよう定められた人間を置いたのです。人間の愚かな心が自然霊を怒らせ、大災害を引き起こす。その時数々のドラマを演じる生存者、死ぬ定めの者。すべてはカルマの法則を利用した経験学習なのです。その事柄に関連した経験を必要とする魂に、精密に時間、場所、条件を与えた。これが大霊の愛です。愛のために大災害も起きるのです。魂に学ばせるために。そして霊界に帰った魂。すべてがあの世に帰りました。帰っていない魂はありません。ということはすべての魂は試練を乗り越えられたということです。そして被害者のみならず日本人全体、いや世界中の人間がどういう対応をとるか、これも学びとして我々は試されているのです。さて、みなさん、大災害が起こったことを大霊に感謝しましょう、これがスピリチュアリズムなのです。イエス・キリストなら必ず感謝するでしょう、すべての出来事に。そういうことなんです。

自殺は人間に与えられた自由意思を悪用する行為です。学びを自らストップさせる行為なのでやってはいけません。スピリチュアリズム最大の罪と言われています。しかし、これすら学びなのです。死後、自分がやった行為がどれほど勿体ないことだったか。自分が挑んだ試練を途中で放り出したわけですから。来世で同じ人生をやり直すのも、本人が仕方なしと選ぶことです。必ず本人はそれを自ら選ぶのです。だからいちいち「本人が選ぶ」という注釈などつける必要はない。自殺した者は同じ人生をやり直さねばならない、ただそれだけです。そして来世では自分の命の尊さを知った上で生活する、つまり、それだけでもものすごく成長しているじゃないですか。だからスピリチュアリズム最大の罪は、スピリチュアリズム最大の学びでもある訳です。

あなたはこの言葉の意味を知らなかった、ただそれだけなのです。
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身の毛がよだつほどに、実におこがましい、一方的な言葉です。


この震災で乳児が大勢死にました。
その子達はどうすれば死ぬような困難を自力で切り抜けることができたでしょう。
その言葉が事実であれば、神はあらかじめ乳児達に自力で生き残る方法を与えて置かねばなりません。そうであれば、乳児が震災で死んだのは自助努力が足りなかった」とはいえます。さて、神は乳児にどのような生き残り手段を生まれたときにインプットしていたでしょう?
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あまり好きな言葉じゃありません。



これを論理的に考えると、
乗り越えられないものは試練じゃないと言う言い方もできます。
乗り越えてる感覚が無いものはそもそも試練になりません。

なので、情報としてはあまり意味がないなぁと思います。

人事を尽くして天命を待つとかは好きですね。
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乗り越えられないことが、沢山あるように思います。

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何を持って試練とするかにもよるのではないですか。


耐えることが試練だとするならどれも立派な試練でしょう。
この質問にはハッピーエンド以外は認めないという前提があるようです。
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こんにちわ。


『人』は誰しも“リスク”を伴って生まれてくる・・・。と思っています。
>「神は乗り越えられる試練しか与えない」

確かによく耳にする言葉ですよね。私自身は否定はしていません。乗り越えなければならない“壁”にぶち当たった時は個人の(その人なりの)思考性のもとで行動されることと思われます。
>虐待の果てに亡くなった子供は?
孤独死した老人は?
難病で苦しいままの人は?
災害で命を落とした人は?どうしようもなくなって、自殺した人は?

ご相談様の言う『「神は乗り越えられる試練しか与えない」 』とした事とはまた別の世界ではないでしょうか。“スピリチュアル”性としたことには違い無いとは思いますが、こうした事は“宿命”とした捉え方(解釈)が近いように思われます・・・。

ご相談者様が例として挙げられている方達はとても“尊い”人たちではないでしょうか。“学”びとして私達に伝えて居られるのでしょうね。
“生きていたくても宣告を受け亡くなってしまわれる方”・・・

それに、『天国、地獄』は人が亡くなった後のことの様に思われている(考えられている)ようですが、それは違っていて、“現世”こそが“真にそのもの”ではないかと思います・・・。

『神様』何でも“願い”を叶えて頂けるもの。とした“固定観念”は人間が勝手に創り上げたものの様にも感じられます。
『神様』とは言えども、“万能の神”でもなく拝めば良いと言うことでは無いと思います。
結論としては“自分の心の中”に神様は宿って居られると思っています。
“ピント外れ”かもしれませんが、そんな気がしますね・・・。
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