人生最悪の忘れ物

物事を諦めることと、自分を受け入れることは根本的に同じなのではないかと感じています。
他にも「割り切る」とか「しゃーない」とか「完璧主義」とか色々別の言葉はありますが。

でもそれがつまりどういうことなのか。
できない人は「なぜ」それができないのか?
また、できる人は「なぜ」それができるのか?

説明できる方いらっしゃいますでしょうか?

A 回答 (13件中11~13件)

この結論は、論理的に書くならば簡単に出来ます。

ですが人間の感情が絡んだ場合には『頭では分かっても、納得が行かない。』と云う事になります。

この事を論理的に書いてみたいと思います。尚この事を読んだだけで『身体で分かる事=体得』する事が出来た場合、心を病む事と、神経症が治らない事と、自律神経失調症の理解が難しいと云う事の全てをクリアーした事を意味します。

人間の理解が理論のみで出来ない場合を、知、情、意が一致しない、或は『心が矛盾していて』心が圧迫を受けて『苦しい想いでいる事』を意味します。

『物事を諦めることと、自分を受け入れることは根本的に同じなのではないかと感じています。』と言う指摘は当たっています。

自分の欲しいものが手に入らない場合、当然ながら、いくらかの『心の負担』を強いられます。或は自分が欲しく無いものを自分が持った場合も同じです。

この願わないものを、『心のままにする事』を葛藤や、反省すると言いますが、この場合自身の心に負担が掛かります。この事は分かり難い事ですが、『自身の心が争う事を意味します』

如何云う事かというと、『自身の心の矛盾に悩む事』を意味します。自身の心の中には『全てを受入れて、なお超然として動かし難い者が存在するからです、』この者と、自身の心が対立と矛盾を起す事を意味します。

この場合、その悩みの対象が深刻な場合を『深刻に悩む』と言い、その対象の深浅の浅い事を、少し悩むと言います。その深さが最大の場合が『生と死』と言っても良いかも知れません。

この場合にも『自身の心には二つの者が相争っている事』を意味します。その二つのものを『同時に人間の心は内在している事を意味します』

この場合有限であって『死にゆく者』とは自我意識です。その意識が『死』を意識した場合『とてつもない闇が心を覆う事を』意味します。最大のピンチを、心は味わうと言う意味です。

ですがその時でさえ、心の中には『死なない者を内在しています』この場合、自分の心が『死をも含めて、全てを諦める場合』もう一つの『意識』は姿を見せます。この心の在り方を『悟り』と言っています。

人間の極限状態の『願いを』諦めた場合、人間には全てが備わっている事を知る事です。死を受け入れられなくて『苦しんでいた自我意識が』全てを諦める事によって、逆に『全てを手に出来る瞬間です』心の矛盾が解消する瞬間です。

自分の命が有限な事を『心の奥底から受け入れた時です』今までは、諦めが付かなくて『苦しみが襲っていました』受入れた瞬間から、死でさえも『心を煩わせなくなります』

今までは『漠然とした不安が、』意識の根底から湧き上がっていました。今度は違います、『心は争う事をしなくなります』

この事の説明は、脳の機能にあります。心は二つの機能によって成り立っています。大まかに言うなら『感情が湧きあがって、その感情を言葉に翻訳して味わっている心の働き』とその心に『外界の情報を言葉に拠らない情報として送る方の脳の機能』の二つです。

言葉を学んで、言葉で考える機能が自我意識です。『顕在意識』と言う言い方で呼ばれている心です。

もう一つの心は『無意識の中に封印された形で』存在する心です。どちらも自分の心です。

この二つの心(意識)は交替制を取っています。意識の、或は無意識の状態になるまでは、二つの意識はどちらの機能が出番かを『本当は相談しながら』決めています。この交替制というシステムが崩れる事を、心に湧き上がる感情に感じた場合『心を病む』と言っています。

行動に『交替制』に対するシステムが崩れた場合を『神経症』と言っています。

身体の機能に、交替制のシステムが崩れた場合を『自律神経失調症』と呼んでいます。

どちらにしても『心の矛盾』をその症状として感じています。その共通した症状には『漠然とした不安』が在ります。その漠然とした不安は『意識の根底からのものです』

自我意識には出来なかったと認める事で、もう一つの意識が問題を全て解決してくれます。

人間の『意識の根底で』今だ意識が覚醒する前段階で二つの意識が共に在る瞬間があります。その刹那に二つの意識が出会う場合があります。その体験を仏教では『生死の問題が解決する』と言っています。

キリスト教では『神に会って和解する』と言っています。共に『物事を諦める事と、自分を受け入れる事』を云っています。

頭での理解か、或は、身体で分かるのかの違いがありますが、身体で判った場合『体得した』といいます。たった一回の体験が、それ以後の人生を『不安がない境涯』にしてくれます。この教えを『釈迦の教え』というのかも知れません。

その教えは世界中から姿を消したと言われていますが、日本には『禅』という形を取って伝えられているらしいです。鈴木大拙博士の話です。

禅は、言葉を持たない『もう一つの意識』を人間に体得させるためのテキストとも言えます。禅問答は、その言葉を持たない意識が『書かせたもの』かもしれません。言葉に頼りすぎた考え方に対する警告とも言えるかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

理屈は分かるのですが、
できる人は「なぜ」それができるのだと思いますか?
運でしょうか。きっかけがあるかないかとか。
できる人は、みな極限状態を経験したということでしょうか?
できない人は、まだ悩み足りない、本当の危機でないということでしょうか?

>自我意識には出来なかったと認める事で
どうやったら認められるのでしょうか・・・。
「認める」って何ですか?

お礼日時:2011/05/06 09:24

あなたの考えたことと同じです。



「出来ない」のは諦めてしまったから。
「出来る人」は、途中で諦めないから。

失敗は「この方法では上手く行かない」との知らせ。方法を変えてみれば上手く行きますよ。
生まれた時代、場所とか性別以外はあなたが自由に変えるが出来ると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

質問がうまく伝わっているか不安ですが・・・。

質問で言った
>できない人は「なぜ」それができないのか?
は言い換えると、
>諦めることができない人は「なぜ」諦められないのか?
ということです。
カンタンに言うと、僕は「諦めたい」のです。自分を。

>方法を変えてみれば上手く行きますよ
もしかして、諦められる人は諦めるために色々な方法を持っているのでしょうか?
「諦める」という、感情のコントロール方法を色々持っているのでしょうか、知らないうちに。
それがあるなら教えて欲しいです。

お礼日時:2011/05/06 09:16

今まで注ぎ込んできた金・時間・ヒューマンリソースに対して感情的なバイアスがあって、論理的で客観的な判断、つまり無条件での放棄という選択が(それがベストであると分かっていても)出来ないものです。

不良債権として処理できない。

行動ファイナンシャル理論とか行動心理学という話になりますが、「人間は必ずしも合理的な判断で動く訳では無い」という事で深層心理が行動にどう影響を与えるのかというテーマになると思います。

#上手く説明できなくてスイマセン。熟考してみたのですが・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>今まで注ぎ込んできた金・時間・ヒューマンリソースに対して感情的なバイアスがあって

そうですねぇ・・・。
今まで過ごしてきた人生に対する愛着みたいなものがある、とプラスに考えたらいいんでしょうかね。
かといって、「諦められる人」が自身の人生に愛着が無いわけじゃないでしょうし。
「感情」はキーポイントですね。
頭で感情のことを考えるのは意味無いですかね。

お礼日時:2011/05/06 09:07

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