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No.15
- 回答日時:
精神や心についての知識と、精神と心が成長するということは別物です。
知識を仕入れても、心がそれだけで成長するかと言うと、往々にして知識だけを誇る口だけの人になってしまいかねません。本質をいくら突いていても、それに心がついていかないとしたら、そのギャップが人を苦しめるのかも知れませんね。この回答への補足
こんなにたくさんの人が貴重な時間を
割いてくださりびっくりしています。
私にはお答えが難しく評価する力量がありません。
ベストアンサーを選ぶのもおこがましく
このまま締め切らせていただきます。
ありがとうございました。
No.14
- 回答日時:
51歳、ふつうの旦那です(数えで52ですが^^)。
>40代で一度トンネル内でパニックを起こして以来、ずっといつか心を病むのではないかという漠然とした不安があります。
(トンネル内の)暗い所や狭いところが苦手な人は、いっぱいいます。思うに、車の中で本を読んでいた人が「車酔いする」のと同じではないでしょうか?。それは哲学を学んだからとは、無関係な気がします。
以下はかなり強引な話で、誇張していますが、敢えて書きます。
自分もけっこう哲学書は読みます。キエルケゴールの「死にいたる病」なんて平気で読んでました。その後35才で競技スキーに目覚め、現在もブンブン丸です。で、どうして競技スキーに目覚めたかと言うと、リゾートスキー場では許されないくらいの高速で、素人スキーヤーにその高速ぶりを見せつけてやると、脳内にドーパミンが溢れ出すかるからです。自分は、オリンピックなどで一番速いダウンヒル(滑降)競技選手です(と思ってるだけですが・・・^^)。
でも「それは、死にいたる病」だと気づきました。何故なら、「スピード狂」で「大酒のみ」だと気づいたからです。これらは自動車運転の大敵です。その時点で免許を捨てました・・・。そうしなかったら、いつか「峠の走り屋」になり、崖から転落して死ぬと思ったからです。
でもですね、その事が「キエルケゴールの死にいたる病」と、何の関係があるんでしょうか?。自分の意見では「無い」と思います。だから「トンネル内でパニックを起こした」事は、ニーチェの著作を読んだ事とは、何の関係も無いと思えるのです。なのでその事は、「船酔い程度」の事に思えます。
癇に障ったら、すいません・・・。でも、どんどん哲学書は読んで下さい。
大学の倫理学で、恩師が最初に読んだのは
「死に至る病」だった、と言っていました。
だから岩波のその文庫本は今も私の本棚にあります。
ごめんなさい、私の質問の書き方が悪かったかもしれません、
私はニーチェを読んでおりません。
哲学を学んでおりません、パニックはニーチェと関係ありません。
けれども励まされた気がします。
ありがとうございました。
No.13
- 回答日時:
みんな、やさしいんですね。
哲学、なんか貧乏な響きがここちよいですね。お金持ちの哲学者?
太った哲学者?似合わないな。
昔読んだ絵本に、ファンタジーは、あなただけにその扉を開く、と書いてありました。
哲学も、あなただけに、雷が落ちるような体験をもたらすかもしれません。
こわいような、しかし、どうしても抑えきれない、この気持ち。
のぞいてみてください。ちょっと、やさしすぎるかな?
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2010/radio …
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2010/radio …
真理の探究は、終わりがありません。よい指導者と出会えるとよいですね。
「これが人生だったのか!ならば、もういちど」尊敬する哲学者の本のなかの、
ニーチェの引用でした。
大いにお励みください。
参考URL:http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/
No.12
- 回答日時:
問題整理の為の「補足質問一」
基本的によい意見が出ているようですが個別に判断する手懸りを
探していくのが哲学です。
つまり、
「俺はわからないから教えろ」
「日本人には、バカが多い。質問する俺様は最高である。」
「俺は今まで働いてきた。」
「ニーチェは古典である。」
というような意見について考えて見ましょう。
共通点は、なんでしょうか。
ヒント=話者の性別をお考えください。
まとめ
>ここの哲学カテには、哲学ぶっている病人や変人が大変多いです。
>精神を病んだ者が哲学もどきに逃げ込んだらどうなるかが、よく分かると思いますよ。
さて、病人や変人の性別を想定いたしますと問題は明らかです。
基本的に「哲学に逃げ込んでいる」という妄想を持っている方々には、特別養護老人ホームの座席指定という観点から見ると、
受け入れ先が限定されてきます。
受け入れ先を見つけるだけでも恐ろしいほど大変な思いをしますが、
本人は屁とも思っていません。
それがこの方たちの哲学です。役立たずの寝言と思ったらいいですよ。
>学ぶのが趣味なら哲学は、OK。
「哲学者で かつ 学ぶことを趣味としている人」というのは、日本にはほぼいないのではないでしょうか。
イメージの問題です。
権威主義の老いぼれは、自分のイメージ戦略に躍起になっています。何人犠牲になっても関係ない。
自分の保身のことしか頭にない。わかものはがんばれ。後は頼んだと教育を放棄し、責任回避するが給料だけはもらう気満々というのが、今の日本権力ジェネレーションの特性です。
「甘い汁は必要だった。俺たちは有用である。残りかすはお前らのもの。処理はお前らの権利である。」
分析してみてください。
キーワードは数の論理です。
数学は不得意だが俺は経済に詳しいという。そろばんは得意だと訳のわからないことを言い出す。
原発は詳しいといいながら、問題を大きくし世界を混乱させる。「原発は詳しい」は文法的に間違っていないという主張をし
おれは、どう考えても正しいと信じ込んでいるからです。そう考えるオレ様は哲学者だと勘違いしている。
そうならないようにするのが本当の哲学ですね。性別から考えるとそうならないことは非常に簡単なことです。哲学とは簡単なことなのです。
ここでは私は他人が悪人でも変人でも気にしません。
私は何も知らないから質問しただけでお答えはみなありがたく思います。
私には理解が難しいですけれど
考えるヒントをいただきありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
次元上昇した哲学ならばともかく、既存の哲学を学ぼうとする姿勢でしたら僕は余りおススメしません。
今の時代、特に日本人にとっては心が繊細ですので、西洋から始まった学術的理解方式、学術的認識方式は肌に合いません。Made in Japanが躍進していた頃の日本、或いはそれまでの日本でしたら良かったのだと思いますが、プラザ合意が起こり、日本経済の長期沈滞が20年間も続き、アメリカ・西洋の文明の腐敗・崩壊が明確になっている今、心が繊細な日本人にとっては病的なダメージを蒙る事が多かろうと思います。
歴史的な流れを追いながら、大雑把ではありますが整理してみたいと思います。遠回りに思えるかもしれませんが、少しばかりの間お付き合い下さいませ。
人間は、動物とは違います。
人間は、考える存在です。
生きる意味と価値を追求する様になっています。
その中で、自分と自分以外をどの様に解析し意味や価値を見出すのか?という蓄積が、後の学問体系へと進化する様になりました。ですので、自分と自分以外の関係を整理し、解析し、理解したいし、説明したいのが人間の欲求です。それが人間としての出発です。
昔々。
まだ人間が動物の猛威や自然の猛威と戦っていた頃。
あれもそれもこれも、とにかく分からない事だらけでした。そんな中で、全てをシンプルに整理した人たちがいます。お釈迦さま、老子、孫子、ソクラテス、プラトン、イエスキリストなど、複雑怪奇な世界をシンプルな理解方式・認識方式によって整理した時代があります。
それが知の第一の爆発です。
その中で、徐々に社会の新しいプレートが出来上がっていきます。宇宙自然の仕組みを理解するのは、神・聖書・教会・牧師によって語られました。王様がそこと繋がった時に、その国はとても勢力が大きくなりました。
当初は、知の第一の爆発と、神・聖書・教会・牧師による宇宙自然の仕組みの理解や認識は大ヒットしました。自分と宇宙自然の関係は、とても複雑に見えてしまう人間にとって、神・聖書・教会・牧師による理解方式・認識方式はとてもシンプルに整理してくれたからです。
ところが、知の第一の爆発も十分に広がりきり、神・聖書・教会・牧師による理解方式・認識方式も大概の事をやり尽くすという供給過剰時代に入りました。一言で言えば、パンパン状態、もう要らない状態、です。
ですが、未だ神・聖書・教会・牧師がやってきます。
人間は、動物とは違います。
人間は、考える存在です。
生きる意味と価値を追求する様になっています。
やがて、神・聖書・教会・牧師による理解方式・認識方式では説明が付かず、納得のいかない現象も数多く出てきました。人間は、動物とは違い、考える存在ですし、生きる意味と価値を追求するので、果たして、こんな生き方で良いのか?ホンマにそうなんか?と疑問が出るのですが、それでも信じて仰がなければならない状況に、そろそろウンザリ、嫌気がさす頃でした。
そこに大事件が起こります。
何と、天が地球の回りを回っているという天動説が覆り、実は地球の方が天を回っているという地動説が登場しました。天地がひっくり返るとはこの事です。
当時の人にとっては衝撃でした。
何故ならば、宇宙自然は神・聖書・教会・牧師によって語られてきましたが、何とそれが間違いだった・・・嘘を言っていたのか?・・・ともなればショックでした。その為に流れた血も多くありましたし、本当に意味と価値のあった事だったんだろうか?と色々と疑いが出ます。
ありとあらゆる事が信じられなくなり、そこから一斉に疑いだします。
それは新しい社会のプレートを生み出すに至りました。
第二の知の爆発です。
神・聖書・教会・牧師によって出発するのではなく、疑っている母体・・・我から出発する理解方式・認識方式が盛んになります。それが学術です。物理学・数学・経済学など、日本や東洋の国が学術を通して教育を受ける様になっているのは、西洋の第二の知の爆発の恩恵によります。
当然、当初これは大ヒットしました。
正直、神・聖書・教会・牧師にはもうウンザリでしたし、王様の横暴はもうウンザリでした。ですから、学術の開花によってフランス市民革命やイギリス産業革命にも繋がり、当時、市民(多くは商人)であった人たちが社会の主導権を執る様になりました。今まで、一部の人たちによって解析され語られた宇宙自然の仕組みは、一般市民にとっても、個人一人ひとりにとっても宇宙自然の仕組みを解析し、語る事が赦される様になりました。
社会のプレートも農業社会から産業社会へと、中心が移動します。
なぜ、西洋列強諸国に対して日本・アジアが無力であったのか?西洋は、個人が夢から目覚め、王様による支配権力から自由を勝ち取り、宇宙自然の仕組みを理解・認識できる物理学・数学・経済学などが発達する事で、個人の能力が全体的に高まり、それが社会や文明の発展に寄与したんですね。
昔は王様だけが夢やビジョンやプランを立てれましたが、この頃からは個人が王様の真似をする様になり、夢やビジョンやプランを描きます。また、王様の真似をしますので、自分のお家、自分の部屋、自分の食べ物、自分の・自分の・自分の・・・という所有が起こります。
そしてそれは商人たちにとっても、嬉しい事ですね。
学術的理解方式、学術的認識方式は、日本・東洋にも広がります。そうして僕たちは、まず覚えて覚えて・・・の暗記を強いられる訳ですが、インターネットも登場している今は、凄まじいまでの情報量が世界中に溢れる様になりました。勿論、支えているのは学術です。
しかし今はどうでしょうか?
もうこれ以上は広がらない状態が来ました。そして、学術としても大概の事をやり尽くしたのにまだまだ情報が供給され続けるという供給過剰時代が来ています。
今の時代、特にこの国、日本の話です。
一言で言えばパンパン状態、もう要らない!状態です。
如何でございましょうか?
今は、一昔前とは違います。
rmtdncgnさんが以前に楽しかった頃は、まだ少しは学術の余地はありました。宇宙自然の仕組みも、自分自身との関係性も、意味や価値と繋げて接する余地がありました(暗記とは言え・・・)。
ところが今の時代、この日本ではもう限界です。
アメリカ・西洋は、学術を土台とする一切のものが倒れていきます。一流大学を出た人たちが戦争や紛争を煽動する立場となり、一般市民から搾取する仕組みを創り、経済学者や政治学者が溢れている今の時代なのに金融バブル崩壊に対して代案を提示する人は一人もおらず、遂には資本主義経済が崩壊する一歩手前にまで黙って見過ごしている昨今。
産業にも、これ以上の技術革新は見られず、基礎的な技術を生み出しえる最先端の研究分野でも行き詰まりを見せ、世界の産業や経済を引っ張ってきた物理学・数学の学者たちが、限界を見てしまいました。もうこれ以上は進む事が出来ない、という事を彼らこそが分かってしまったんです(西洋の学者たちは、本当は宣言しなければなりません。何も分かりませんでした、と)。
分からない事が、分かった。
それはある意味チャンスで、潮時であり、変化の絶好のチャンスなのですが、恥ずかしいしプライドもあるのでそれが言えません。アメリカ・西洋の文明が崩壊しているのは、土台である学術に限界が来ているからです。
誰も、代案を出せていませんよね?
長くなりましたが、そろそろ戻ってきます。
そんな今、日本において。
rmtdncgnさんが、哲学を学ぼうとしましても、それは時代を逆行する事にはなりませんか?特に、土台となっている学術的理解方式・学術的認識方式が腐っています。供給過剰でパンパンで、もう要りません!
我から出発する学術は、逆に我が分からないという結論に来ました。
だから、真面目な人ほど、我から出発した人ほど、混乱・錯乱します。
当然です。
そこを突破するのは、第一の知の爆発でもなく、第二の知の爆発でもありません。
第三の知の爆発です。
それが今の時代、日本からおきます。
神・聖書・教会・牧師から出発しても限界、我から出発しても限界。
それが、アメリカ・西洋からのメッセージです。
「私たちは、分かりませんでした。助けてください」と。
ここに対して、答を返せるのは東洋です。
取り分け、西洋のエネルギーを最も受け入れ吸収しているところ。
日本です。
今までの爆発とは比較にならないくらいの大きな社会の発展と文明の発展が起こります。また、日本・東洋の時代、日本から始まる東洋のルネッサンスにより、黄金時代がスタートします。
そんな事を明確に観ている僕ですから、rmtdncgnさんが哲学を学ばれるのはおススメしません。寧ろ、勉強されるのでありましたら第三の知の爆発について触れるのが最も宜しいかと思います。
第一の知の爆発を補った第二の知の爆発であった様に、
第二の知の爆発を補い、第一の知の爆発までも整理整頓、
そんな第三の知の爆発にこそ、
今のこの時のrmtdncgnさんを喜ばせるパートナーではないでしょうか?
人間は、動物とは違います。
人間は、考える存在です。
生きる意味と価値を追求する様になっています。
供給過剰、パンパン、もう要らない!
そんな心を無視する旧い知の爆発にピリオドを打つ時です。
新しい知の爆発にこそ、今のrmtdncgnさんに直結するのではないかと思います。20年間も続く日本経済の長期沈滞、そして崩壊するアメリカ・西洋の文化文明・・・そんな中だからこそ。
第三の知の爆発!
難しいですね。これはニューエイジ系のご意見かな?
なんとなく、しか理解できませんでした。
ごめんなさい。
供給は過剰でも私の中には何もない気がするんです。
でも時間と労力を私のために、ありがとうございました。
No.10
- 回答日時:
一番は、家族や親戚に不安神経症の人がいないか調べることじゃないかと。
例えば、阪神大震災で、二人の主婦が寝込んだ。
どちらも家族が怪我をし同じような被災具合。
ところが数日して、片方に主婦は炊き出しに参加しボランティア活動をした。
もう片方はそのままベッドから起き上がれなかった。
精神科医に言わせると、震災は原因じゃあない。
寝込み続けた人は、うつ病の因子を持っていて、大震災のときにトリガーがひかれ、表に出たため寝込んでしまった。
大震災じゃなくて離婚や子供が家出したとき、引き起こったかもしれない。
だから震災がうつ病の原因じゃあない と。
人間はショックなことがあると、うつ状態になる。
危険回避するために、活動を休息して安全確保をするわけです。
台風のとき、おびえないで、楽しんで畑仕事を続行したら、死んじゃうかもしれない。
だから、危険に対しては警戒するし、被災したら、ショックを受けるのは、普通のごくごく当たり前の精神反応。
で、トンネルというのは、方向を失いやすい。
どっちが上でどっちが下か、人間の方向感覚は視覚でやっているので、狂いやすい。
目を閉じてぐるぐる回ると、止まったとき目が回って、まっすぐ歩けないのは、足が疲労したからじゃあない。
視覚で方向性が定められないから。
目を閉じてぐるぐる回った後から、まっすぐ歩ける。
ということで、トンネルの中でどうして事故が起きやすいかわかったと思う。
さらに、圧迫感から緊張が生まれ、ささいな音に怯えたりするのがトンネルの中。
だから、トンネルが長ければ、普通 イライラするものです。
正常反応。
ただし、わーわーわめき散らして、車から飛び出して走り出したというのなら、ちょっとそれは・・・・
で、閉所恐怖症の人だって、普通に仕事しています。
すごい権威ある人だけど、エレベータの中にいると、冷や汗をかくひとがいる。
ずっと乗っていたり、混んでいると、イライラして「まだなのか なんでこんなに人が多いんだ」といつもの冷静さが無くなる人がいる。
だけど、その特定の環境以外だと、思う存分能力を発揮できる。
ということで、トンネルの中でパニックを起こした人は、要職につけない とか、精神病になりやすいとか、それは無いと思う。
考えすぎで頭がおかしくなるといわれるが、頭がおかしくなるから、考えすぎてしまうのだと思う。
例えば罪と罰。 創作文学ですが、このサスコーリニコフ。
考えすぎたから殺人を正当化したのではなく、彼の様子からして、統合失調症とかの病気を抱えていたと思える。
そのような設定でなら、彼が殺人を正義だと考えるに至るって表現は納得がいく。
彼の正義の考え方が納得がいったのではなく、精神のバランスを崩したからこそ、自分の利益目的の殺人を正当だと自分に言い聞かせることができたのだと思う。
ということで、考えすぎて頭がおかしくなるのではなく、精神疾患の因子があったため、壊れていくのだと思う。
ただし、ニーチェのあれは、自己実現っぽいので、狂ったとは私は思えない。
悟りを開いたとか、そういう感じ?
例えばですね、仏陀が「あなたの妹がレイプされたらどうしますか」と聞かれ「別にぃ」と答えた。
「じゃあ あなたが拷問されたり殺されたりしそうになったら?」と聞かれたら「別にぃ」とやはり答えた。
それを聞いた人が、仏陀が狂ったと思ったか。
超越したと思いこそすれ、狂人だとは思わなかったですよね。
そんな感じで、ニーチェは狂ったのじゃあないと、私は思うんですけどぉ。
ありがとうございました。
とても興味深いお話でした。
だれもが鬱になる可能性があるわけじゃないということですね。
はっきり表立ってはいないけど
残念ながら私の場合は答えはYesだと思います。
危険を回避しながら生きていくしかないのかもしれません。
No.8
- 回答日時:
知識は他人が考えたもの。
他人を理解するのに少しは役に立つかもしれないけど,反対に誤解することだってある。自分を知るためには,ほどんど役に立たない,ほんとに邪魔と言っていいくらいです。
という僕も気付いた時は,すでに他人の言葉で頭は埋め尽くされていた。
悪い考えが入り込んだので,感情が害されてるのではないかと考えたんです。
(これも人の考えなのかもしれないが)
それで,できればそういう言葉はなくしたい。でもいい言葉は残しておくと精神にとってよいと思った。
心の一番奥の魂まで美しく磨きあげるようなそんな言葉かのこっていれば・・・・。幸せではないかと。
でも言葉が,直接感情に働くのではない。「汝自身を知れ」って記憶しても自分を知ることはできなかった。
これは,言葉の受け止め方の仕組みのところの悟性が,感情を動かす仕組みのところの感性に(さらには本能の仕組みの本性ところにも,ではないかと思う)リンクして,仕組みがよくもわるくも相互作用しながら成長していき,それによって感情がゆれ動き形が定まるのだと考えるようにした。(カントの考えを意識している。認識形式というやつ。カントは生まれつきの感性(覚?)形式を説いたけど,動的感情は説いてないので応用。カントは読んでなく『西洋哲学史』で理解した程度。エッセンスのみ覚えている)
うまれつき自然を整然と認識できるように,本能の中にも感性のなかにも生きるために進化してきた形式がある。
ところが,言葉をあつかう悟性の中には,潜在的な理性がささえているだけで,先天的に悟性があったわけじゃない。
悟性は可塑性に富んでいて,文化の中で成長する。で,いつのまにか日本語をしゃべるようになった。
悟性を整然としたものに(実際は整然としてないが)理性が働いたのだと思う。
例をあげると,矛盾概念できちんと二つに分けるのは,言葉においては悟性の働きだけど,それを顕在化し,支えているのは理性。
そんな考えをもつと,理性はとても大切に思える。価値観の区分も理性に負う。真偽,正邪,善悪。美醜。聖俗。
俗に言う理性そのものが働く領域。この領域は,たとえていうなら気体。とてもうつろいやすい。ちなみにこのたとえでほかの相は,液体(悟性),半固体(感性),固体(本性・本能)
以上,ぼくの素人哲学でした。乱文は悟性のせい。悟性をお許しくださいと理性が言ってます。
読書歴は,図書館でかりて読んだプラトン全集,なぜか代表的『国家』『法律』は興味無く,読み終えてない。ソクラテスが理想。プラトン『パイドン』がお勧め。魂のことについて書いてある。ゆるぎない理性の死生観だと思う。ただ本人は「ぼくがまちがっているかもしれないから気をつけないといけないよ」とくぎをさしているので良心的。それともレトリック?
ぼくは魂の浄化を望んで哲学書を読む。これは精神にとって善いことだから,善いことをしていて悪い影響をうけることは考えられない。それと難しい記述のものや,抽象的なのは最後まで読み切れない。断念した著作の数のほうが多いのではと思う。
同世代なので親しみをこめて書きました。仲良くしてください。(って,なんか勘違いしてる?)
No.6
- 回答日時:
正直に言えば哲学にはまるのはあまりよくありません。
少し難しくなるのですがコメントさせて下さい。
浅学で恐縮ですが宜しくお願い致します。
一般的に哲学はなぜ必要なのかというと、動物ではない人間が学究的探究心による哲理的理解を自己回帰的に必要としているから、という回答になるのではないかと思っています。
簡単に言い換えれば、「人間ってなんで生きているんだろう」というような事を、人間誰しも一度は考えます。こうした抽象的な疑問があって何となくすっきりしなかったりします。場合によっては悶々としすぎてしまって日常生活に支障が出たりします。
ここで、ある程度「こういう事なのか」と誰かから教えられたり、書籍を読んで理解したり、自分で考えたりして解消してすっきりしておけば、その後は煩わしく思い悩む事が無くなるからいい、という事です。
ただ、現在ある哲学は既存のものから学ぼうとすると、上記にあったような一般的な疑問は簡単に解消できないケースが多々あります。
「我々は我々の生活をどこまで富ませるべきか(原発は今後も継続すべきか否か)」「社会はどのように構成されるべきか」に始まり、そこから次第に「そもそも人間はどこまで発展を許されているのか」「人間とはなんであるか」「宇宙とはなんであるか」「存在とはなんであるか(その定義は何か)」と段々と思いつめていくシーンが多くあるのではないでしょうか。
勉強しようとすると、その思いつめた究極の形からいきなり入るので一般的に人間が自然に持つ基本的な疑問の解消に向かず、実用的とは言えません。
思いつめると実生活に関係の無いところまで思索を巡らす事になります。
現実にそぐわない事まで思索の対象になったりするので、よくない、となるのです。
人間にとって本当に必要なのは、実生活上で素直に出てきた抽象的疑問である「人ってなんだろう」とか「どうやって生きればいいのかな」というような簡単なお題などを消化すればそれで良いと思います。
私自身は「哲学とは、人間が何かの物事を判断する際に必要な判断材料の土壌となる考え方の事」だと考えています。普通、「あの人はこういう人生哲学があるんだね」と言えば、簡単なロジックでは説明できないのだけれども、そうした判断基準がその人に備わっていると我々の社会ではみなします。
我々自身は、我々自身の人生哲学に組み込める哲学を学べば良いのであって、思いつめた人のケースについては必要がある時だけ学び、それ以外は「どうしてそんな事を考えたのか、自分にとっては訳が分からないけれども、まあそんな事を考える人もいるんだな」くらいに捉えて胸の内に整理すべきです。
勉強した哲学のお題に囚われて悶々とするのは、他人から悩みの種を知らずに与えられたようなもので、哲学を勉強する意味があまり無いと考えています。
(哲学に触れうる事は、人間に内在する知的欲求に応えるという意味において、意義が無い訳ではないのですが、総合的に捉えて触れている人の害悪になるのであればやめるべきです。)
----
話しは少しそれます。
私が触れえていないだけだと思うのですが、「訳の分からん学問なんじゃないのか」という世間一般における現在の哲学体系の認識には若干の不満があります。
哲学とはそもそも何なのでしょうか。
元々は歴史上で発生した諸問題に対し、当時の人間がどう判断したか、どう判断する風潮があったか、当時はどのように考えるべきかという発見があった、などの哲理的理解が記録され、このプロセスが哲学として記録される。
これを、必要に応じて自己の哲学に組み込む事が本来の役割なのではないのかなと思うのです。
背景が一緒だと「あーあるある、プラトンが言っているのは正しいわそりゃ」とか「理論家よりも経験家の方がよく当てるというのは、技術が経験知という意味のTechneであって、知体系(Logic)としてまとまっていないギリシャ時代だったからからかな」とか思うのですね。
聖書を基礎教養としないギリシャ哲学は非常に分かりやすいです。
ただ、中世の政治哲学でホッブスのリヴァイアサンという書籍は聖書が下敷きになっているようなので、まず聖書を読まなければならんというのは大変ですね・・・。
現在はその当時の背景や社会事情を無視した上で、いきなりお題目から入る事もよくある事で、哲理的理解を先行して与えられる為に、足が地についた理解をできない状態にしてしまうのではないかと。
この教育体系は、現在、大学の先生などは「じゃあまず哲学の初歩から入りましょう、まずここにA4の一枚の紙があります、これはなぜ紙であるか」という所から入ろうとして様々な工夫をされ、努力をされているのですが、私は逆にこれは分かりずらいんじゃないかな、と思っているのです。(決してこの先生を卑下している訳ではありません。こうした方々は学生に教える努力をされており、立派な人達です。ただ、「なぜ紙であるか」というお題に対して、普通に考えれば答えが無いような・・・)
こうした実用的でない哲学(勉強の為の勉強、哲学の為の哲学)というのは、教養としては基本的に不要です。繰り返しも含みますが、個人個人がその人生において必要なものを取捨選択して、過去の人が見つけた哲理的理解のロジックを、自分の中に組み込めばそれで良い、それが哲学の本来の役割と私は捉えています。
深い所まで考えるのは専門職の人(哲学者)に任せるとして、普段の我々は簡単に考えて生きていきましょう。
元々は人の為に哲学があったのに、それに毒されるのは本末転倒ですから。
私は概して幸せな人間だと思っていますが唯一、
心の病への不安が漫然とあります。
日常生活の些細な悩みにくっついていたり
嵐の夜などにふと頭をもたげたりします。
哲学はそれを軽減させてくれるか、それとも
おっしゃるように新たな悩みの種をもらうようなものか…
昔のまじめな英文科学生はまず聖書を読めと言われ
聖書を読みました。クリスチャンではありませんが
聖書の言葉はそれなりに力をくれてきたと思います。
ダ・ヴィンチ・コードが人より楽しめたと思えるし(おまけ)。
もう少し考えます。ありがとうございました。
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