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あなたの無知の知を問います。
「だれも知らないこと」は何でしょう。

A 回答 (10件)

こんにちは。



現在、その事実を誰も知らず、かつ、理論的にも誰もが(演繹的に)想像できていないこと。
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この回答へのお礼

こんにちは。
事実と,理論という観点があるのですね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/18 20:20

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この回答へのお礼

簡潔な回答に感謝します。
同感です。

お礼日時:2011/05/18 20:38

科学を研究している人達がやっている研究対象はどれもこれも、だれも知らないこと、です。

誰かが知っていたら研究にはなりません。図書館にでも行って調べれば良いだけです。だから科学者って平気で知らないって言ってますよね。あたしの先生が言ってました。優れた教育者とは、何が解っているかを教えることが出来る人ではない。何がまだ解っていないかを教えることが出来る人だ、と。

あと、日本で哲学者と呼ばれている哲学輸入業者や、科学者と誤解されている科学輸入業者や、文学者と誤解されている文学輸入業者などは、他人の書いた本を読んで他人の気が付いた知識を詰め込んでいるだけです。研究などしておりませんから、誤解なきよう。彼等は殆どが先ず間違いなく西洋崇拝者で、日本人に馴染みのないカタカナ語を誰が一番早く使えるかなんて言うのが、彼等の至上命令です。そんな西洋かぶれのカタカナ語の例の一つに、アトモナドスなんてえのがあるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

猪突先生ご回答ありがとうございます。

輸入品で西洋かぶれしていると言えるでしょう。
自分のことを分かっていないと気付きました。

お礼日時:2011/05/18 20:44

 やっぱり、私って誰?なんてことかなぁ。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

科学研究の対象がそうだといわれてなるほどと思ったんですが,
「私」を研究するのは自分自身しかいないですから,
誰も知っていない可能性大ですね。

お礼日時:2011/05/18 22:06

>「無知の知」



全ての事です。
あらゆる有限な性質(=存在性)は、原理的に絶対的に
確定しようとすると、不確定性原理において無限不確定
に発散します。
その無限不確定性の潜在たる、認識可能性=自我仮説
と時空仮説の相補分化において、階層現象性を表面的
に定性化する(本質性を把握しない)事によって、存在性
は生じています。
つまり、「無」いとは分からない事が「有」なのです。
あらゆる「知」は、眼前の「有」を「無」に還元する過程で
あり、まさに「知無=無知」なのです。
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この回答へのお礼

全てですか!恐れ入りました。
自分をよくは知らないと思うものの,
全く知らないとまでは思えませんでしたから。
まだまだ未熟ですね。

「全ての人が全ての事を知らない」と人が言うのは自己言及のパラドックスですよね。できればこのパラドックスを避けたいので,
「全ての人が全ての事を知らない」と神は言う,としたいですね。

「知らないはずの人が知るのは」,言い換えると「無いはずの知から,有る知が生成するのは」無の中に潜在的にあったものが顕在化したということ。

その顕在化において,認識が可能となるためには,自我と時空の相互作用があるとする仮説を立てざるをえない。しかし,その認識は表面的かつモザイクのようなもので,自我と認識の相互作用が成長・進化しなければその像は鮮明にならない。


>あらゆる「知」

これこそが本当の知

>眼前の「有」を「無」に還元する過程であり

すなわち,生得的認識から本質把握の過程

>まさに「知無=無知」

対称形が何か物語ってますね。

このように理解しました。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/18 21:55

>「だれも知らないこと」は何でしょう。



人間の「知」(と称するモノ・コト)の源泉や人間の「知」の地平線の向こう側にあるコトではないでしょうか。
神については、神以外の「だれも知らないこと」になりますから。
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この回答へのお礼

人間知の領域と,その超越があるということですね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/18 21:58

#3です。



そこでは片面だけの議論をしたので、誤解されないように一つの逸話を紹介しましょう。

今から30年程前の話しですが、日本の銀行に勤めている何人もの優秀な人の方が私が勤めているアメリカの大学の中の、有名はビジネススクールに送り込まれて来ていました。私自身は理系ですので、そのビジネススクールには関係がありません。彼等は日本で選りすぐられただけ在って、ビジネススクールでも常にトップクラスでした。ところで、アメリカのビジネススクールでトップクラスであると言うことは、日本の会社では全く役に立たない人であると言うことです。アメリカでは、例えば、人の意見など聞くのでなく、妥協せずに自分の意見を押し通せる人であることが、優秀であることの条件の一つになっている。協調性は脆弱性として考えられいる。他にもいろいろ極端な文化の違いがあります。そんなところで成績優秀であるとしたら、日本に帰って来てから大変なことになってしまいます。それでも彼等は、優秀な成績で卒業することを日本の企業からは要求されていますので、かれらは必死でその文化に馴染む努力をします。そして、卒業時には立派なアメリカ人になっている。

ところが、彼等から聞いたのですが、彼等が卒業したら日本の銀行にいきなり返されるのではなくて、アメリカの大都市にある日本の銀行の支店に一二ヶ月に勤めるのだそうです。そして、上司から、「お前が今回ビジネススクールで教わって来たことを全て忘れろ、そして何も口をきくんじゃない。その間に日本のやり方を思い出せ。」と言われるそうです。彼等はこれをリハビリテーションと呼んでいました。


どうですか。日本の銀行はアメリカのやり方を学んで、その良い所を吸収しようなんてつもりは始めからないのですね。では、なんでそんな優秀な人を金と時間をかけてまで、アメリカに送ったのでしょうか。

その答えは、日本の銀行がアメリカの企業と丁々発止と戦って生き残るためには、アメリカ人の手の内を知っておく必要があるからです。こういうときにアメリカ人がこう出て来たと言うことは、彼等はどういう思惑や作戦を持っているかということを知る必要がある。そんなことは、一々アメリカ人に聞くのではなくて、アメリカのビジネススクールを優秀な成績で卒業した日本人に聞くのが一番だからです。

日本がアメリカのやり方を真似してしまったら、アメリカにはそのやり方に関して、日本よりも数十年、あるいは百年の経験を積んでいるので、所謂一日の長どころか百日の長がある。だからそんなやり方をしたら、常にアメリカの手玉に取られてしまうのは誰が考えたって解ることでしょう。ですから、生き残るためには、アメリカの土俵に乗ってそこの良い所を採ったり真似したりするのではなくて、こちらの土俵で相撲を取らなくてはなりません。その時相手方の手の内を知っておくことが大切だから、アメリカに行って学んできているのです。

この辺りを理解出来ずに、アメリカのやり方を見習えなんてことを言っている経済学の大学の先生なんかが、しばしば日本で大きな顔をしているのを見るにつけ、おいおい日本て大丈夫かい、って心配です。そんな人の中で、確か、竹中何とかとか言う名前の某大学の教授で、何でもアメリカのやり方の真似をすれば良いなんて捲し立ていたゴミみたいな人がいましたね。そして国政に口を出して、アメリカ式に派遣できるようにして、日本の若い人達の生活と夢をづたづたにしてしまった。そして彼はその後今では某派遣会社の重役かなんかに収まっているとか。所謂B層の日本人の方達から、まだ相変わらず支持されているらしいです。

他の例では、たとえば国際人になると言うことは、決して外国語を流暢に話せるようになることや、外国の歴史を詳しく知るようになることではありませんね。フランス人と会話するときに日本人がフランスの歴史を講義したって嘲笑されるだけです。へたくそなフランス語でも良いから、フランス人に「私はフランスの歴史については良く知りませんが、その頃の日本ではこうだったんですよ」と日本史を紹介してあげられる人のことを国際人と言うのですね。そう言う人にはフランス人も耳を傾けてくれる。だから、国際人になりたいなら、世界史ではなくて日本史を深く勉強しておかなくてはならない。でも、それを勘違いしている文科省の諮問機関の大学の先生がいたようでしたね。

質問者はまだお若いと察っしました。ここで肝に命じて置いてもらいたいことは、貴方が日本人であると言うことから逃れられないと言う事実です。貴方は日本で育ち、日本語で物を考えています。だから、どんなに逆立ちしたって、背伸びしたって、西洋人の考え方を進めることに関しては、西洋人には叶いません。しかし、貴方に出来ることは、西洋人には考えもつかないような視点から彼等の問題を見直したり、あるいは彼等には気が付かなかった問題を提起したりすることです。そのことは、今度は西洋人がどんなに逆立ちしたって、貴方には叶いません。

しかし、西洋文化が人類にやって来た寄与は巨大であり尊敬に値します。だから、西洋が覇を握っている現代に貴方がたまた生まれて来たと言うこの特殊な巡り合わせの中で貴方が貴方自身を認識するためには、たとえ貴方が日本人であっても、西洋人の手の内を知っておく必要がある。それは丁度上の日本の銀行家と同じように大変重要なことです。そして、そんな手の内を読む機会は若いうちにしかない。だから、若いうちに我武者らに西洋を学ぶことは、現代の日本人として大変重要なことです。そうすることができれば、たぶん四十才頃になると、「西洋はもう良い、ところで日本はどうなんだ」ってな気持ちが自然に出てくると思います。

ですから、私が#3の所で言った西洋かぶれの意味を誤解しないようにして下さい。決して西洋を無視せよなんて言っていないのですから。若いうちはどんどん西洋を勉強して、そのうちに西洋人に向かって、彼らの気が付かなかった視点が幾らでも存在していることを教えられるようになって下さい。
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この回答へのお礼

よいお話ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/20 21:19

「だれも知らない」=「今は存在していない」



だと思います。

逆に質問して恐縮です。
では「知っている」とはどういうことでしょう

「人はほとんど知らないうちに知っているのです。」
とかいう格言があったような気がしますが
ゲーテだったと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「知っている」とは,try50さんの思いにあわせて,「永遠に存在している」ということ,「永遠に存在していない」ということ,「今,存在している」ということ。

「PかつQ」として,その否定が,少なくとも一方が否定されるものとすれば,
(論理の訓練をしてないので自信はないですが)こうなると思います。

この「永遠」は,無限時間ではありません。なぜかというと,矛盾概念としてバランスが悪いのです。顕現している「今」に対しての潜在している「永遠」を矛盾概念としています。

「永遠」の相の[相対的]存在・[相対的]非存在が潜在的にあって,「今」の相に立ち現われたり消えたりする。

具体的なものをいえば,記憶なども永遠の相にあると思われます。
かつて想起されなかったことが,今に顕現する場合もそうだと思います。

「知っている(こと)」とは「無意識的に[絶対的に]存在する(こと)」といってもいいかも知れません。try50さんの思いから考えれば,こうなるのではないですか。

お礼日時:2011/05/20 22:42

 この世で一番不思議に思うことの一つに、命、生命と云うものがあります。



 生命なるものは我々自身でもあるので、命そのものがどんなものであるかは誰もが知っている(つもり)ものですが、それではなぜ生命活動なるものがこの地球上に存在するのか、或いはどうして“活動”することになるのか、なんて考えるとそれこそ誰も知らないのではないでしょうか。

 無知の知

 無機物は化学的反応で変化はしますが、有機物は、有機物として存在し続けるために、他の有機物を取り込んでエネルギーとします。
 この有機体はそれぞれ生物としてはたぶん“完成”された状態なんでしょう。その“完成”された生物は、雌雄合体することで新たな生命を生み出します。

 これらの仕組みは総て自然のなせる業、と思えばこれほど不思議なことはありません。

 頭弱いので・・・・・これだけ。

       独り言(捕捉を質問者さんにお願いしたいくらいだ!)
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この回答へのお礼

生命ですか。なるほど不思議ですね。

「生命とは・・・」と軽々しく言えないですね。気をつけよっと。

といいつつ,じつは,分からないこととして書きますが,
無機物にも命が有りはしないかと疑っているのです。
というのは,命の根源を歴史的にさかのぼっていくと,
父母,祖先・・・進化の逆をたどって,単細胞生物・・・単純な有機物,無機物。

それと,量子の寿命。個々の量子の寿命はばらばら。高等生物の生命の複雑さはないけれど,量子にも命というものがあるのではないかと。

石ころなどは,長寿命すぎて命が捉えられてないのではと思ったり。

もうひとつは,ライプニッツのモナド論。

これらのばらばらな考えをひとつにまとめられたらすっきりするのになぁ。

アトモナドスというのは「アトム」と「モナド」からの造語で,こんな思いからつけた名前です。

それで,生命の不思議が解決するわけでもないのにね。

お礼日時:2011/05/20 23:16

 生命という言葉は一つの個体が自身のチカラ、あるいは意志の働き、により活動するものに使うのだと受け止めての考えでした。



 養分を取り入れ成長し、新たな命を生み出すという活動をしない物質に於いては、命と云うものがあるかもしれないと、云うのではなく、生命活動をしない物体にも“精神”なるものがあるのではないか?と言い換えたくなります。

 モナド論は物質現象の“不思議”を精神作用と結び付けて考えてみようとする論ですか?

 科学者は精神についても、何とか物質的にとらえようとしているんですね。
 たとえると箸で空気を掴もうとしているように思います。

 
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この回答へのお礼

生命というより精神というほうがいいかも知れませんね。
ただ,考えるほどに「生命」「精神」「物質」というのが何なのか分からなくなってしまいます。

勉強不足で十分お答えできませんが,モナド論は,モナドという精神的実体が真のアトムであるという考えが基本のようです。

科学者がどうしようとしているかについては何とも云えません。論文を読まないし,科学者の知り合いもいません。

知らないということを"不思議"という観点で捉えられていたのですね。なるほどと今思いました。

お礼日時:2011/05/21 12:50

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