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自分を所有しているのは自分だ。・・・リバタリアン
自分を所有しているのは自分ではない。・・・カント
答えは1つなのでしょうか?どちらも正しいのでしょうか?

A 回答 (7件)

 ANo.2です。


「リバタリアン(恐らくはホッブズの事を指しているのか)」も「カント」も一つのモデルであって、他にも「ソクラテス」もあれば「フッサール」「メルロポンティ」など多種多様なモデルがあります。これらも全て「過去のモノと比べて俺のとは違う」としてオリジナルのモデルを示した事と同じです。
 つまり「どれが正しい」のではなく、「どれを選ぶか」の問題である、と言い換える事も可能です。「公式に当てはめる」という姿勢を採ろうものならば、それは「過去の全ての先学から一斉にブーイングの嵐を受ける」ことにつながりますので、注意した方がよろしいですよ。「自分は何だ?」との問いかけから哲学は始まります。ギリシアの神殿に刻まれていた「汝自身を知れ」との言葉を見てソクラテスは「未だ未だ青二才なのか」と溜め息をつき、エジプトのオベリスクには「今の若い者は………」の言葉も刻まれていたそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「自己を知る」ですね。
リバタリアンもカントもどんな自分を作ろうとしたんでしょうか。
自己の潜在能力の90%は使ってないとしたら。
自己の何をしりたもうか?

お礼日時:2011/05/20 20:13

哲学に正しいとか正しくないなどは重要ではありません。



どちらが俺の哲学なのか、が重要です。ひとつ選んでみれば? 3年後に変更しても良いから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なるほど。

お礼日時:2011/05/20 20:04

答えは1つなのでしょうか?どちらも正しいのでしょうか?



○ 正しい答えは1つです。だからどちらかが正解でどちらかが間違いですね。
当然、カントが正しいのですが、これはどちらの哲学者が偉いか、あるいは本物かという真贋問題でもありますね。
カントであれば、「自分を所有しているのは自分ではないが、管理しているのは自分である。従って管理責任は当然ある。」と明快に答えるでしょう。
智慧あるものと智恵の無いものの差ということです。真理という目で見れば月とすっぽんの差がありありとでていますね。
この問題の基本は、自分自身を創造できるような自分は存在しない、つまり自分は作られた存在という基本を知っているかどうかだけのことなのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
この問題の基本は、自分自身を創造できるような自分は存在しない、つまり自分は作られた存在という基本を知っているかどうかだけのことなのです。
なるほど、私の娘も大変えらそうに、父、母の存在自体、邪魔みたいに言ってくることが、ありますが、
子供は今あるものは、環境も含め、あって当たり前ですものね。
そんな感じの事なのですか?

お礼日時:2011/05/20 20:02

自分=世界ゆえに、「自分を所有する」ことは、自分であれ


自分以外のものであれ不可能です。
「所有」という概念自体が、「自分=世界」の中に生じた、現象
表面的なものなので、それを本質的な考察に適用することは
実質的な意味を持たないのです(古典哲学は往々にして、
自分で現象的な概念を作って、それによって複雑な論考を
「可能にする」傾向があります<頭の体操としては面白いが、
自分の環境認識を深めるのに寄与しない)。
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この回答へのお礼

ありがうございます。
自分=1/1=2/2=.....一切/一切=1
所有という概念自体が意味をもたない。
なるほど、ある意味そうですね。

お礼日時:2011/05/20 19:51

導出される結論から考えたらどうでしょう。



所有している、というのは、それをどう処分しようが
使用、利用しようが自由だ、ということです。
従って、
自分が自分を所有しているのだ、とすれば
自分の生命をどう使おうが、人生をどう生きようが
自殺も自由だということになるでしょう。

反対に、自分を所有しているのが自分ではない、と
すれば、人生の生き方には種々の制約があり、自殺だって
許されない、ということになりませんか。

私は次のように考えています。
まず、自分は自分だけでは生まれません。
産まれたあと、母や父、親戚知人友人など
と色々なものをやりとりをします。
己の主体性と遺伝的素質と、このようなやりとりにより
人格が醸成され自分になっていきます。

つまり、生成から考えれば、自分は、自分の所有物である、というのは
一部にだけ当てはまる、ということになると思います。
即ち、折衷的な結論になります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
一部にだけあてはまる。ですか。
なるほど、一部だけに、
なんだか、考えさせられますね。

お礼日時:2011/05/20 19:40

 他の方も仰っていますが「共に正しい」というのが答え方です。


両者が違う表現をしてるのは、「人間をどうとらえるか」を考察する角度が異なっているからであって、それは「人間」の持つ側面が多様であることと不可分だからです。
 乱暴な言い方をするならば、「人間」という存在が“二次元的(平面的な)な存在”ではなく“三次元的な(立体的な)存在”として生きている事であらゆる関係を持っている事の証と言うこともできます。
 何となればリバタリアンが「所有」の言葉で表現しているのは「社会的存在としての自分が帰属している公共の単位社会」という意味であって、判りやすく言えばアリストテレスの「人間は社会的動物である」との言葉をもう少し捻った表現と同じです。そこには政治的な活動もあれば経済的な活動もあって、この分野から特化して考察しようというのが「政治学」であり「経済学」という学問です。
 なぜ「リバタリアン」と「哲学者」では表現の仕方が違うかというと、リバタリアンの興味や関心が人間そのものよりも人間と社会の関わり合いのあり方に関する考察の方に重点が置かれているから、としか答えようがありません。
 逆に「哲学者」が関心を寄せてきたのは人間の意識そのものであり、殊に「実存主義」や「現象学」と呼ばれる分野ではその傾向が強く打ち出されています。
 近年アメリカ辺りでは「政治哲学」なる学問分野が今将に誕生するかのように語られていますが、これとてもヨーロッパでは既に「社会思想」として既に確立されている学問分野であって殊に新規の学問分野ではありません。アメリカの一部に見られる風土が持つ「二項対立」的な価値判断である「答は一つ」の様に物事を是か非か、黒か白かで決めるスタイルも哲学的な価値基準からすれば、既に古くさいモノの典型にしかすぎません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
1+1=2であるかどうかわからない。
という世界価値基準からすれば、
古くさいモノの典型にしかすぎませんね。

お礼日時:2011/05/20 19:34

どちらも正しいです。


でもこれだけではダメです。

あくまでも考える材料。
数学でいう公式でしかないので。
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この回答へのお礼

返信ありがとうございます。
公式ですか。
当てはめたくなりますね。

お礼日時:2011/05/18 23:27

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