アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

挙げる必要はないかもしれませんが(先程締め切ったばかりなので)、こちらの続きになります。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3486060.html

回答者様に悪いので、いったん締め切らせて頂きました。
難解な質問になりますが(答えがあるのかどうかも怪しいですが)、ただ少しづつ私なりに分かりかけてきたような気がします。
アドバイス・書籍の御紹介程度でも構いません。
皆さんのお考えをお聞かせ下さい。

A 回答 (10件)

昔ちょっと考えていたことを書きます。



人間は他の生物に比べてとても汎用性が高いです。
肉体的、知能、感情・・・
しかし、現実の生活、例えば仕事は基本的なルーチンワークの繰り返し、想像力が必要だとしても人間が持っている機能からすればとても限定的です。
医者は病人の体のこと、パイロットは飛行機の操縦、営業マンは商品を売ること・・・
フル回転で動いているようだが動いているのはごく一部分ということです。ひどく専門的でまるで工業用ロボットのようです。
そういった現代人の生活から、人としての何かが声を上げるんじゃないでしょうか。
何かとは使っていない残りの部分です。
人間らしさとはなんだと、自分が自分に問いかけているんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど…。
とても深いご意見ありがとう御座います。

仰るとおりだと思います。
しかも、人間は自分のなりたいものになれる人は、「全体のわずか5%に満たない」とか何とか聞いたことがあります。
でも、そうしないとたぶん社会が運営できないんでしょうね。
だから、知らず知らずのうちに(?)、感情を押し殺して、仰るとおり心もロボットのようになっているのかもしれません。

そうした現状に、心のどこかが嘆いて、虚無のような感情に陥るのかもしれませんね。
肉体的な思考はまだしていなかったので、なるほどそういう見方もあるのか!、と感心させられました。
虚無とは一つの原因だけではない、のかもしれません。

ありがとう御座います。
とても参考になりました。

お礼日時:2007/11/05 06:37

 あなたの質問が難解である理由は、自分の心の事は結局のところ、自己洞察、内省をするしか解明の仕様が無い為です。


 他人がいくらあなたの心の状態を考察しようとも、個に分割された現世においては、推測にしかならない、それ以上突き詰めようがないのです。自分で自分の心を分析するしかありません。

 あなたが、前々から仰っている、
「夢を諦めて、妥協して、適当な仕事で上手くいっている。でもそれは本当の自分じゃない」
という自己洞察は、どうなのですか?。それを数時間ごとに思い出すから、数時間ごとに虚無感が起きるのではないのですか?

違うとしたら、何故違うと思われるのですか?

自己分析とは、そうして進めていくのです。
 

この回答への補足

>自分の心の事は結局のところ、自己洞察、内省をするしか解明の仕様が無い為です
私もそう思い、初め自分自身に問いました。
しかし、実は自分自身こそが最も分かりづらい存在ではないでしょうか?

私がこちらで質問しているのは、「他人の方が客観的に曇りなき目で他人を見られるのではないか?」と思ったからです。
自問自答しているうちに、何故かいつもだんだんと自分が分からなくなってくるのです。
「夢を諦めたから?」「淡々と生きているから?」これも一つの答えです。
しかし、これだけではない。
「何故、これに至ってしまったのか?」
「こうなってしまったのは何故なのか?」
もっと根本的な何かがあるような気がしてならないのです。
しかし、これを突き詰めていくと、矛盾と混乱と迷走の袋小路に迷い込み、発狂しそうになってしまうのです。
「どうして産まれてくる所を選べなかったんだろう?」
「何故、関係ない罪なき者にも雨を降らすのだろう?」
「全ては偶然なのか?必然なのか?何故、私なのか?」

自分だけではない、「何か」がそこに存在しているような気がしてならないのです。
だから、皆様のお知恵をご教授願おうと思い至った次第です。

ありがとう御座いました。

補足日時:2007/11/05 10:49
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迷ってますね。

参考になるかな?
[しかし、実は自分自身こそが最も分かりづらい存在ではないでしょうか?]
その通りです。これ全員が持っている宿題、人生の問題集の問題のひとつですね。これが判れば大きな宿題の一つを解いたことになるのですね。
「もっと根本的な何かがあるような気がしてならないのです。」
疑いなくあるんでしょうね。その答えも現代の日本にありますよ。
「どうして産まれてくる所を選べなかったんだろう?」
これは選んできています。少なくともご両親の同意を得た上で生まれてきてるんですね。現代の日本に生まれるのは宝くじに当たるぐらい困難なことですから選ばれた上で両親を探し両親の同意を得た上で生まれてきてます。ただみんな忘れてますけどね。
「何故、関係ない罪なき者にも雨を降らすのだろう?」
この世は修行場ですから楽ではないんですよね。善人も悪人も平等ですね。そういう特殊な世界なんです。でも高々人生80年でしょ。我に艱難辛苦を与えたまえという人もいるぐらいですからね。それに比べれば楽でしょう。
「全ては偶然なのか?必然なのか?」
ずべて必然ですね。あなたが決めてきたことですよ。
「何故、私なのか?」
あなたなら人生の問題集が解けると踏んだからあなたを送り出したんですよ。
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この回答へのお礼

>迷ってますね。参考になるかな?
またの御回答、ありがとう御座いますm(_ _;)m

>その通りです。これ全員が持っている宿題、人生の問題集の問題のひとつですね。これが判れば大きな宿題の一つを解いたことになるのですね。
しかし、これがなかなか難しい…;

>これは選んできています。少なくともご両親の同意を得た上で生まれてきてるんですね
これはちょっと…(^^;)
宗教的境地は分かりますが、「例え仮にそうだった」としても、「現在にいる私」が記憶もなければ、理解も出来ないわけですから、結局はないも同じのような気がします…;

ただ、この国生まれたことは感謝しています。

>この世は修行場ですから楽ではないんですよね。
>善人も悪人も平等ですね。そういう特殊な世界なんです。
>でも高々人生80年でしょ。我に艱難辛苦を与えたまえという人もいるぐらいですからね。それに比べれば楽でしょう。

楽という問題より、私はどちらかといいうと「何故、悪人が裁かれないのか?」という事に苦悩しております。
もし、「平等」であるなら善人は優遇され、悪人は罰せられるべきではないでしょうか?
そうすれば、より善い社会になるはずです。
私はむしろ、「この世は不平等」ではないか?、と考えています。

>ずべて必然ですね。あなたが決めてきたことですよ。
確かに私が選んだ「必然」もあるかと思います。
しかし、同時に進化の過程のように、この世は「偶然」によって動かされているようにも思うのです。

>あなたなら人生の問題集が解けると踏んだからあなたを送り出したんですよ
だとしたら、いいのですが…。
いえ、例えそうだとしたら、今の私は不甲斐ないですね…;
でも、ありがとう御座います。
私にも解けるといいです。
度々答えて下さり、ありがとう御座います。

お礼日時:2007/11/05 17:06

それでしたら 《絶対(絶対者)》の問題であるかも知れません。



《Q:〈絶対〉の概念を日本人は理解できないのですか》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html
を読んでみてください。
みなさんの考えも出て来ますから よいかも知れません。
特に いまは 回答を提出することも控えます。
不案内ですが――長い質疑応答になっていますが―― 興味が起きれば どうぞ。
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この回答へのお礼

ありがとう御座います。
時間が掛かるかもしれませんが、読んでみたいと思います。

お礼日時:2007/11/05 17:09

少々「思いつき」に近い回答かも知れませんが。



思考って、自由に止めたりすることが出来ませんよね。
寝ているとき以外は、だいたい何か考えている。
思考が湧き出してくる。
考えるネタが少ないからといって、思考の量を自由に減らすことも出来ませんよね。
寝呆けていなければ、だいたいいつも同じような量感で脳は思考している。

己を忘れるくらい対象に没頭しているとき、いわゆる「無我夢中」のときは
まず虚無感を感じるようなことはない筈です。
見方を変えれば、その人の思考力はほぼ100%対象に向っているので
それ以外のコト、例えば虚無感に通じるようなコトに回す思考力は
もはや残っていないのだと思います。

でも、己を忘れるくらい没頭できる対象なんて、そうそう多くない。
普段やっていることなんて、きっと60%ぐらいの思考力しか使わないんじゃないか?
残り40%の思考力は暇してるんじゃないか?
で、余計なことを考え出すんじゃないか?
その余分が、ときに虚無感や疎外感を生み出すんじゃないか?

よく、仕事が暇になると孤独感を感じてしまうワーカホリックな方がいますよね。
(結構、自分もそうだったりするのですが。)
あれなんかもそうで、仕事に没頭している間は
何だかんだ言いながらも幸福感があるんですよね。
暇になると思考が暴走してバランスを崩す。
また忙しくなると精神的には元気になる。

年をとると、身体は徐々に言う事を聞かなくなってきますが
思考の暴走は段々コントロールできるようになってきたな、と
最近感じます。
虚無感と付き合ってもあまりロクな結果を生まないことが
経験的に分かってきたから、余った思考を他に回すのね。
今は、泳いだり、自転車で走ったり、そういうコトに回してます。
何でこんな辛い坂登ってんだ~?なんて時は
あとどれだけ走ればラクになるの?だけが関心事で
絶対に虚無感なんてやって来ないから。
坂を登りきってやってくるのは爽快感だから、これまた虚無感とは無縁だから(笑
映画を見まくっていた時期とか、本を読みまくっていた時期もあります。

> 自問自答しているうちに、何故かいつもだんだんと
> 自分が分からなくなってくるのです。
年をとってよかったな、と思うことのひとつは
答を急がなくなったことです。
分からなければ、分かるときが来るまで待っていればイイのです。
きっと死ぬ間際まで分からないんだから。
考えることは大事です。
考えるという行為の積み重ねはとっても大事です。
でも、短絡的に答を求めるものではないと思います。
武道や柔道などは、考えて動いているうちはダメなんですよね。
考えずに身体が反応するようにならないと勝てないと言いますよね。

>「どうして産まれてくる所を選べなかったんだろう?」
>「何故、関係ない罪なき者にも雨を降らすのだろう?」
>「全ては偶然なのか?必然なのか?何故、私なのか?」
これって、俯瞰から見ると
結構、煩悩まみれのエゴイスティックな問いだと思いますよ。
(10年後に読み返すと、絶対そう感じる筈。)
こういうときには「諸行無常」「諸法無我」を思って下さい。
一旦深呼吸をし、空でも眺めて下さい。
そして、今、目の前のコトや目の前のヒトに、意識を集中し直してみて下さい。
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この回答へのお礼

仰るとおりです。
確かに虚無と向き合ってもあまりいい事がありません…;
しかし、仕事や趣味に打ち込んでも、何故かいつも最終的には現実逃避になってしまうんです。
何というか、何かに打ち込もうとすればするほど、あとでより強烈な虚無感が襲ってくるんです。
うまく説明できませんが、何というか壮絶なイタチゴッコに最後はなって、プッツン…という事が昔ありました。

>答を急がなくなったことです。
>分からなければ、分かるときが来るまで待っていればイイのです。
なるほど…。
何となくですが(おそらくまだ理解できていないのでしょう)、分かるような気がします。
しかし、やはり苦しみ(漠然としていますが)から逃れたい為か、どうしても「答え」が知りたくなります。

>結構、煩悩まみれのエゴイスティックな問いだと思いますよ。
すみません…;
既にこれを思って20年以上も経過しております…;
やや大仰かもしれませんが、でも日常でこういう事を感じた事はありませんか?
日常の事を細かく書くわけにはいかないので、簡単に書いたら何故かこんな壮大な問いになってしまいました。

ありがとう御座います。
参考になりました。

お礼日時:2007/11/05 17:22

>自分自身が一番分かりにくい…



 仮に自分自身が最も分かりにくかったとしましょう。それは自分の尺度から見ての話です。しかし、現世の中で自分の心に最も詳しいのは誰ですか?それはあなたです。
 
 他人はあなたから表現される断片的な言葉を、勝手に解釈して言を述べるしか方法がありません。あなたの全体像を知るのは、あなたしかいません。自分自身が最も分かりにくかったとしても、他人はあなたの事がもっと分からないのです。
 あなたから発せられる断片的な言葉から、何か考えられる事を考察するだけではあなたの根本的解決にはなりません。他人は、あなたの自己分析の方法をサポートし、誘導してあげる事しか出来ないと思われます。
 
>他人の方が曇りなき目で見られるのではないか…

 それは、あなたから発せられる断片的な言葉についての、客観的解釈なら可能です。しかし、話を深めようとすれば、どうしてもリアルから脱線して行ってしまう危険性が払拭出来ません。

>夢を諦め…淡々と…それだけではない…なぜこれに至ったのか…

 これは、夢を諦めたのは何故か?…という事でしょうか。何故なら、淡々と生きてしまっているのは、夢を諦め、安定の道に入ったからと思われ、「何故」の指すのは夢を諦めた事について、に聞こえるからです。
 夢を諦めたのは、生活の為に止むを得なかったからじゃないでしょうか?(これも他人である事の限界により、表面的な事しか理解出来ませんが)。よろしければ、夢を諦めたその判断や、気持ち、状況などの細かい表現をして頂ければ、もう少しましな事を考えられるかもしれません。

 やむを得ず夢を諦めたのを、未だ未練に思ってらっしゃるのなら、その未練を解消する方法を探っていく作業を考える、という事になります。
 
 以下の質問は、ちょっと前の死後についての質問でもご覧になって下さい。あなたは自分自身の霊性の向上を目指して、自らの意思でその環境に生まれ、その苦しみを浴びるのです。

この回答への補足

度々ありがとう御座いますm(_ _)m
長くなるので2つに別けました。

難しいのは、「自分では自分を客観的に見れない(外から見れない)」事だと思います。
そして、仰るとおり、「他人は人の心の中まで見れません」。

しかし、だからこそ「他人」がいて「自分」があるのだとも思います。
ところが、事が簡単でないのは、この「他人」によって「自分」が攻撃されたり、破壊されそうになったりする所です。

>他人は、あなたの自己分析の方法をサポートし、誘導してあげる事しか出来ないと思われます
これだけで十分です。
むしろ、これを望んでいます。

>話を深めようとすれば、どうしてもリアルから脱線して行ってしまう危険性が払拭出来ません
仰るとおりです。
ご忠告、感謝致しますm(_ _)m

>夢を諦めたのは、生活の為に止むを得なかったからじゃないでしょうか?
仰るとおりです。
ただ、未練があるならそれを解消すればいいのですが、そう簡単ではないのです。
以下、お礼に書きます。

補足日時:2007/11/05 17:32
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この回答へのお礼

幼少の頃から、親が某宗教団体の熱狂的な狂信だった為、私自身も洗脳され暴力などの虐待を受けて育ちました。
しかし、あまりの苦しみから逆に洗脳が解け(洗脳が強過ぎた為)、真実(現実)を知りましたが、ここからが本当の地獄でした。

以後、後遺症に苦しみ、更には洗脳が解けた事による目的の消失・自我(アイデンテティ)の崩壊に苦しみました。
しかも、周囲は敵ばかりで、誰にも理解されず、手を差し延べてくれる人はいませんでした。
心身共に疲弊し、一時期は、死にまで追い込まれました。

命からがら助かっても、今度は生活が迫っており、結果、私は間違いと知りつつも感情を殺し、望まぬ道を選びました。
結果、生活は安定しましたが、今では何の喜びも感傷も沸きません。
しかし、ただ漠然と虚無はこみ上げて来ます。

今更、自分のかつての道を歩もうとしても、何の感情も沸いて来ません。
以前、昔大好きだった油絵を描こうとしましたが、気が付くと辛くなりビリビリに破いていました。
クラシックも読書も、最早何をやっても何の感傷も沸いて来ないのです。

ただ、虚無だけがそこにあります。
言いようのない、漠然とした苦しみがそこにあるだけです。

お礼日時:2007/11/05 17:54

 私は今、あまりの事の重大さに、ただただ驚かされています。

現代日本が抱える最たる社会問題の一つに、自分は関与してしまったのかと。

 しかし、私はこう考えるのです。私は何のために今まで苦しんで、考察の道を歩んできたのか。自分が救われる、確かにそれもある、しかし、自分を救えるというなら、他人も救える筈であると。

 私に他人が救えるとするならば、それを遂行する事こそ私に与えられた試練である。
 だから私はその考察能力を尽くしてあなたの助力となる。考えるという事は、感識出来得る全ての事に対して可能な事である。何事についても、考えられないという事は無い。私は今それを自らに誓う。

 それでは、現在のあなたの状況から、お伺いしましょう。あなたは現在、その宗教団体とは完全に絶縁しているのですか?

 あなたを取り巻く人物、ともに生活をしている人物は、全員その団体とは関係ないのですか?あなたは今、その団体とは一切関係ないのですか?

 あなたの職場の人々は、あなたが元それである事を知っていて、態度が冷たいなどの問題はありますか?

 最も重大な質問があります。「望まぬ道を選んだ」という事についての内容です。
 どうも、文章内容をトータルで解釈すると、あなたはまだ、その宗教団体の思想の道の事を「望む道」とし、一般社会的な生活の事を「望まぬ道」と感じてらっしゃるように、取れるのですが。

 普通は、洗脳が完全に解けてしまえば、一般社会生活の中で徐々に自らのオリジナリティ、アイデンティティを確立していくものであると思われます。
 虚無である、というのは、あなたの心の中の部分に、まだ某宗教団体の思想が根付いており、その思考回路と一般社会のギャップにより起こる孤独感的なものかと思われますが、いかがですか?

この回答への補足

ありがとう御座いますm(_ _)m
(長くなったので、また2つに別けますね。長くてすいません;)

>その宗教団体とは完全に絶縁しているのですか?
思想的なものは全て根絶しました。
しかし、現在、私のアイデンティは空白もしくは崩壊しております。

洗脳も破壊しましたが、精神も破壊しました。
そうしなければ生きて行けなかったからです。

結局は、自分自身の精神を守りきる事が出来なかったんですね。
洗脳を自力で解いただけでもましかもしれませんが、私の行った事は精神(心)の「自爆」です。
精神は砕け散り、代りに器たる肉体が残りました。

今、私の心には砂漠に広がる、戦争後の廃墟が続いています。
何だか自分で言っていて、冷酷な独裁者フセインを処刑したが、街(国)も空爆されたイラクのようですね(苦笑)

>あなたを取り巻く人物、ともに生活をしている人物は、全員その団体とは関係ないのですか?
>あなたは今、その団体とは一切関係ないのですか?
これは半々ですね。
どうしても社会のシステム上、就職・社宅・購入に地位と保障が求められます。
どこの馬の骨とも分からぬ存在より、宗教団体でもマシだと思うんですね人々は(これは洗脳が解けた時に肌で感じました)。

>あなたの職場の人々は、あなたが元それである事を知っていて、態度が冷たいなどの問題はありますか?
もちろん、これはあります。
そして、宗教団体(親族)からも冷たい目で見られます。

結局は、抜け出してもより過酷な状況が待ってるだけなんですね。
ただ、それ(抜け出した方が良かったのか、それとも)をどう思うかは本人次第ですが。

補足日時:2007/11/05 21:07
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この回答へのお礼

>あなたはまだ、その宗教団体の思想の道の事を「望む道」とし、一般社会的な生活の事を「望まぬ道」と感じてらっしゃるように、取れるのですが。
これは逆、というかちょっと違いますね。
完全に抜け出す事が出来なかったんですね。
私一人に何が出来ましょう?
しかも、洗脳が解けた時は当時まだ14歳でした。
辺り一面敵だらけです。
心を殺して従うしかないんですね。

>一般社会生活の中で徐々に自らのオリジナリティ、アイデンティティを確立していくものであると思われます
これがなかなかうまくいかないのですよ。
抜け出して、ハイ終わり、とはならないのです。
命からがら手に入れた今の生活も、所詮は砂上の楼閣。
安定しているように見えますが、1年先は分かりません。
「君、明日から来なくていいよ」と理由も分からず命ぜられる事だって、今の日本では普通の事です。

ありがとう御座います。
どうも、やや深みに貴方を引きずり込みそうになっているようですね。
ここまでで十分です。
ありがとう御座いました。
いいのです。貴方にはあなたの世界と生活がありましょう。
それだけでも大切にしてあげて下さい。
私のようにならないだけでも、意味はあったのかもしれませんし。

お礼日時:2007/11/05 21:07

日光をちゃんと浴びていないから?


睡眠不足?
セロトニンが適切に生産されていない?


などなど思って眺めていたんですが、他の方への返信に書かれているのを見て、「喪失から立ち直れないからじゃないか」って感じました。


http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%81 …

この物語の主人公は「王子様と王女様はめでたく結婚しました」の後の世界が描かれています。
力があり何も怖いものなどない 竜だ? そんなもの真っ二つに引き裂いてやるわ って青年ではなく、元王子様 元王女様が主人公なんです。

魔法を喪失した元王子様 元王女様の魂の再生が描かれています。

あなたのエピソードが少ししか書いていないので、考える上での材料は不足しておりちゃんと吟味できず、推測でしかないのですが、、、、


あなたは絶対を持っていた。
宗教 そして 親を絶対とした。
しかしオズの魔法使いのドロシーが、オズは偉大なる魔法使いではなく、ただのチビでハゲた中年の人間で、職業はペテン師だと暴いたと同じことをした。


偉大なる魔法使いオズは実は魔法使いでもなんでもなく、詐欺師で魔法じゃなく手品で人々を騙していたわけですが、この作品のいいところは、それでもこのペテン師の手品による幻影を克服する試練を受けたため、ドロシーたちは自分の中にある今まで気づかなかったものに気づかされたことです。

喪失して損だ じゃなくて本性を暴いたとしても、何かを得ている。
ペテン師の詐欺はドロシーたちの成長に必要な人だったわけです。


で、ドロシーはオズの正体を知ったわけですが、本物は他にいるはずだ と求めるところが、まだまだ若いって作品なわけです。
よく宗教ショッピングする人いますよね。
こっちの宗教が詐欺集団だとマスコミに暴かれたら、今度はあっちの主教、今度こそ本物だとして また騙され それでも懲りずにまた別の宗教って渡り歩く懲りない人。
宗教フェチといいましょうか。
絶対に手放そうとしないドケチ。


ところが、大人のための童話は、徹底的に喪失するんです。
いやだいやだと喪失を拒んでも、喪失はやってきた。
で、絶望で自殺するかというと、元の生活をちゃんとしているんです。


肩書き、権力、名誉 若さ。これらは魔法です。
印籠みたいなもので、これさえ見せれば一声で他の人を動かし望みのものを得られる。
でも、やがて手放さなければならないし、真実をいやおうなしにも知ることになる。

空をビュンビュンと飛ぶ生活から、地べたをのろのろ這う生活になる。
それでも、人は死なないし、元の暮らしに戻るだけ。
魔法が使えたときよりハッピー。

魔法を手放さないと、自分の本来の本当の人生は獲得できない、あるいは取り戻せない。


絵をビリビリに破ってしまったそうですが、、、

こんなものじゃない 俺は絶対が欲しいんだ。とかんしゃく起こしたのでしょうか。

でもですね、結局他人に依存して成り立つ絶対は、他人の馬脚が見えたとき、喪失してしまい、他人次第ですよね。

他人は自分の思い通りにならない。
着飾った羽が偽物だと気づいたとき、騙した相手を恨みたくなるでしょう。

親に対する信頼も、親は自分が想像したとおりの絶対ではないと思ったとき、喪失するわけです。
それは親のふりまいから、そうだと思い込まされたのかもしれない。
その幻影を幻影だと気づかず本物だと思わされただけ。


でも、、、自分は自分を騙さない限り自分を裏切りません。
自分は騙せない。
自分の真実を一番知っているのは自分。


ショーシャンクの空って映画あったじゃないですか。
他人によって自分の人生を何十年も奪われた男。
偉大なる魔法使いの刑務所所長により自分の人生を取り上げられてしまった男。

でもこの男はその環境に生かされているとされながら、それでも「人には誰にも立ち入ることができない領域が存在するんじゃないか」と思ったわけです。

刑務所の所長は自分が王になったと思い、他人の人生をどうにでもできる 支配してしまえる って思ったわけですが、この主人公はそのような力を持った人間ですら、自分のある場所には決して近づけないし、影響を与えることができないし 打ちのめすことなどできない 奪えない って気づいたわけです。

この映画は実話を元にして作られたそうですが、絶対の存在をほのめかしている作品だと思えました。

絶対など存在しないとしたら絶望→自殺です。
他人の押し付ける絶対じゃあ駄目なんです。
他人が変化したら消滅する偽物の絶対だから。

というわけで、あなたが絶対と思ったものは偽者だったことに呆然自失しているのかもしれませんが、偽物を本物の絶対だと思った自分を受けとめ、あるいは認め、そして喪失したとちゃんと認めたら、後は得られるはずじゃないかと。


得るには手放さなければならない。
辛いでしょうけど、手放さないと手に入らないものもある。
絶対はそういう性質のものかもしれない。


って思ったんですけど、的外れならすいません。
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この回答へのお礼

私の話に付き合って頂いてありがとう御座いますm(_ _)m

問題なのは、オズの魔法が解けた時、悲しいかな現実は、その後「暴動」が起きてしまったところです。
社会は崩壊し・秩序は乱れ・人々は争いに走りました。
「魔王を倒して終わり」ではないんですね。
今のイラクを見れば分かりますが、冷酷な独裁者が消えた事で、今度は人々が略奪に走ったんです。
テロ・紛争・空爆…etc

(現実版)ドロシーは思います。
オズは詐欺師で厄災の元凶だった。
しかし、そのオズが消えても、厄災はなくならない。
それどころか、より状況は厳しくなっていく…。
果たして、私はどうしたらよかったのだろう…?

むろん、新しい課題が出されたらそれを解けばいいだけの話です。
しかし、問題はどんどん難易度が上がっていきます。
まるでこちらが潰れるのを待っているかのようです。
そして、潰れます…。

休めばいい、そう人は言います。
しかし、悲しいかな、人生は期日と制限時間が設けられています。
早く解かなければ、針は無常にも刻々と過ぎていき、やがてドカン!

そして、私は吹っ飛びました…。
まだ、ニーチェや太宰治のようにならなかっただけ、私の問題も実力も軽かったのかもしれませんが…もう、分かりません。

>こんなものじゃない 俺は絶対が欲しいんだ。とかんしゃく起こしたのでしょうか
むしろ、どこか冷めた気持ちでした。
淡々と破きました。
絵を描いていて、何故だか発狂しそうになったんです。
そして、気が付くと破いていました。
破く時、何処かすーっと何かが消えていく感じでした。
そして、虚無が残りました。

ありがとう御座います。
本の御紹介、感謝致します。

お礼日時:2007/11/05 21:42

>やや深みに…



 私はあなたの事が、まだ分かり切っていないだけで、その部分が闇であるに過ぎないと感じております。

>思想的なものが全て根絶し、現在アイデンティティが崩壊し、精神が破壊されている、そうしないと生きて行けない…

 あなたは、精神(心)が破壊されているにしては、随分と理路整然と、色々と述べてらっしゃるようなのですが。あなたの定義する精神の破壊とは、情緒などの精神疾患ではなく、やはり思想的なことではないのですか?
 かつての思想、それにより派生したものの考え方を否定され、自分でも否定し、現在何も考え方が無い状態…そうおっしゃりたいのではありませんか?
 というのも、思想と、それから派生するものの考えという繋がりがないと、思想と同時にものの考えを破壊しなければならないという事にならないからです。
 教団の思想と言いますが、思想が言及できるのは理念的な部分に過ぎず、生活の中の具体的判断は、個々人の思想の解釈によらなければなりません。つまり同じ教団の中でも、個々人によって考えに差がある、そこが派生したアイデンティティとか、精神のような部分なのかなという考えが出来ると思われるのですが。

>完全に抜け出す事が出来なかったんですね…

 つまりこれは、社会状況的な問題もあり、元それ同士で固まって社会的生活をしなければならない、それだとかつての考えの仕方などを想定しながら関わって行かねばならず、完全にその雰囲気から脱却出来ない、それは望まぬ事だが、仕方が無いのだ、という事ですか?

 今は自分は少しでも社会に適応して行かねばならないから、何らかの支援機関などを通じて(かどうかは分かりませんが)、民間企業に勤めている、しかし、会社の人は事情を知っており、冷たい。

 親などが、その頑張るあなたに冷たいのはどういう事ですか?

 抜け出した、というのは、あなたは今一人暮らしなのですか?
 

この回答への補足

洗脳は解けました。しかし、その環境から抜けださなければ結局は何の意味もないのです。
それどころか、洗脳が解けてる分、その現状がより過酷な状況となって圧し掛かります。
戦争などの極端な状況を見れば分かるように、過酷な状況を強要された場合、人間は最終的に物事に対して何の感傷も抱かなくなります。

しかし、情勢が変わり、やがて開放されたとします。
また、元の生活に戻ろうとしますが、環境が変わっても、もう昔のように感情が沸いて来ないのです。
ただ、喪失感(?)のような虚無感だけが残りました。

もう一度、絵を描こう、音楽を聴こう、散歩をしよう。
しかし、楽しいという感覚そのものが、何故かあまり沸いてこない。
むしろ、時に苦痛な時さえある。

周囲の状況に至っても社宅には入りましたが、社会のシステム上、親族(教団)とは完全に関係を切れない。
そして、周囲も冷たい。
しかし、生活の安定(先行きの保障はありませんが)だけは残りました。

これが現在の状況です。

補足日時:2007/11/05 23:22
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この回答へのお礼

度々、回答して下さりありがとう御座います。m(_ _)m

お礼日時:2007/11/06 10:31

 質問者様が対峙していらっしゃる事態に対してどれだけの意味を与えることのできる言葉になるかどうかはわかりませんが、あまり複雑になりすぎない程度答えさせていただきたいと思います。

私自身にとっても、昔から何度も考えるこうした古典的なテーマを質問者さまの問いを通して、定期的に答えてみたくもあります。

0.これに答える私はある人から言わせればニヒリストだと言われる立場になります。ですが、私は自らをニヒリストだと考えません。現実にそれなりに不満を持ちながらも、人よりもそれなり以上に希望を持って生きています。

1.生きることにも世界にも根源的な意味などという話を、メタ的につきつめていくと究極的には意味や価値など存在しなくなるように思います。世界がいまこのようになっている根拠はないし、究極的には無為です。

2.ただし、それは単に「メタ的に」考えるからそうなのだと、いうところがあります。そして、我々は世界を無根拠や無為と考えずに生きることが可能です。おおざっぱに二つの方向性に整理します。
 2a.一つは宗教によるものです。宗教は世界の価値に説明を与えるための方法です。メタ的に、神の視点というトップダウンの意味づけの可能性を与えます。まず、神ありき。

 2b.一つは我々の身体によるものです。我々はセックスをしたり、人を好きになったり、何かに情熱を燃やしたり、現代社会の関係性の中に生きます。関係性の中において意味がある、ということがあります。ボトムアップの意味づけの可能性はこちらにおいて与えられます。

 以上の見取り図を前提に考えます。
 宗教は世界に意味や価値を与えます。ユダヤ教は現世におけるつらい体験を「やっとられん」と思うのではなく「試練」と考えるという意味づけを与えられることによってそれに耐える。どんなに、自分の実身体/現実が辛い経験にあっていても、その辛い目に遭っている実身体を「価値がある」と見なす、神の視点が与えられていればそれは辛いことではなくなります。
 しかし、辛い現実の身体を価値付けるための神の視点が、そこからスポッと抜けて辛い生身の身体しか残らなかったとすると、それは確かに空虚だろう、と思います。自分の辛い現実に価値を与えていたものが、無くなるわけですから。
 絵をお描きになると辛い理由は――明確にはわかりませんので、非常に無責任と言われても仕方のない憶測なりますが――どのような絵をお描きになられているのか、にも拠ると思いますが、絵を描くことが現実からの逃避、あるいは現実に愉悦をもたらすものとしてではなく、なんの意味も持たない自分の身体とまざまざと向き合うことを強制させられる気分になるからなのではないか、という気が致します。例えば、その状態で自画像などお描きになられれば、そういう気分はいやがおうにも高まってくるように推察致します。もし、そのような絵をお描きになっているのであるとすれば、絵を描くという行為は質問者様にとっては自傷行為のような辛い作業になるのではないか、と思います。

 と、すれば他の回答者様と言っていることは逆になりますが、質問者さまにとって自己分析を徹底することがよいことだとは私は必ずしも思えません。十分に辛すぎる現実を前に、自分の存在とむかあわなければならなくなっている質問者さまが、自己分析を推し進めるのは、むしろ自分を鞭打つ行為であるかのようにも思います。もちろん、哲学の森に分け入りたいのであればそれもいいかもしれませんが、それが質問者様の求めることではないように思えます。
 現在、質問者さまがおいくつであるかは、存じ上げません。どれほど辛い状況に置かれていらっしゃるのかも存じ上げませんので、以下の処方がどれだけ妥当なのかもわかりませんがいくつか思ったことを提示させていただきたいと思います。

1.「質問者さまが絶対的な何を求めているように見える。それは愚かである」という責めるような見方はいささか酷な答えのように存じます。質問者さまにとって自己を肯定し、価値付けるための枠組みが何もなく、しかもかつて強力に宗教的な意味によって世界を生きていた人であるのならば、それは致し方ないという気がします。虐待をされていたのならば、特に宗教は救いの物語として極めて有効に、強力に機能したことでしょう。よって、私は質問者さまは救われない状況にはあるが、けっして愚かではないように思います。

2.ただし、質問者さまが、今後、自分の価値づけるための世界観をさらっと得る、というのは読ませていただくと、すこし難しそうだとは思います。
 2a.一つの方法は社会的に自らが価値のある存在になるように努力する、ことですが、これは楽観的にそのことができる人と、気がついた時にはそういう可能性に諦めを付けたくなるような状態になっている人がいる、というのは悲しいながら事実だと思います。例えば、ドラッグでぼろぼろになった35歳以上の中卒の方が生きていくのはこの社会では至極困難なことだろうと思います。また、その他にも障害がなくとも、社会で生きづらい人というのはいろいろといらっしゃることは了解しているつもりです。そういう人にむかって「頑張れ」という言葉を無邪気に投げかける気は私は起きません。「夢を持て」だとかそんな話を40手前の人とか、あっけらかんにするのは、馬鹿げていると思っています。
 2b.もう一つの方法は、社会的な/他者からの価値付けを想定するのではなく、もう少し内的な快楽を得る手段を見いだすことが一つです。ただし、ドラッグやアルコールのような依存性の高い手段はとるべきではない。個人的には、徹底的にマンガオタクとか、ゲームオタク、映画オタクとかになることをおすすめしたいところですが……いままでのものを読ませていただくと、多分そちらはダメそうなので、スポーツとか、ダンスとかそういうもの方が質問者さまにはいいかもしれません。間抜けな回答に聞こえるかもしれませんが、マッサージめぐりとかをやってみるのもいいような気もします。芸術で感傷がわかなくとも、身体に直接訴えかける手段を取るのがよいのではないか、と。自分にとって、ある程度、コンスタントに悦楽を確保できる何かに時間を投じることができれば、それがまずはよいのではないか、という気がします。

*

 現実が辛い/さもしい/過酷であることの実態は、その現実の解釈を変えることによってしか対処できないように思います。「今を耐えれば、後においしい何かが待っていると思えるならば耐えられる」というのは現実を<試練>と見なす発想の典型ですが、これがおそらく質問者様には通用しない。となると、現実について、ある程度のわりきった諦めを持ちつつ、現実を生きるための何かしらの悦楽を確保する。社会的に質問者さまが価値があろうが、なかろうが関係ない。そして、そういう悦楽の手段を保ちつつ、過酷な現実を生き延びている自分を、自分で好きになれるかどうか。そういうことがとりあえずの手段であるように思います。

 ちなみに、僭越ながら、質問者さまのいままでのやりとりを多少読ませていただいて、ご自分では虚無感にさいなやまされているのかもしれませんが、何度も悩みを反芻しつきつめた意識をお持ち方だな、という気が致しました。私はそういう方はけっこう好きです。少なくとも凡庸なものとは少し違う、近くにいたら話を聞きたいと思えるような方だという感触を抱きました。

 以上、あまり考え無しの言い回しを書き走った形になってしまいましたが、何かしらの足しになりましたら幸いです。

この回答への補足

お答え下さりありがとう御座います。
長くなるので、2つに別けさせて頂きました。

仰るとおり、私は「洗脳」によって「この世界に意味(価値)がある」、と思わされていました。
しかし、皆様のご指摘の通り、それは「虚偽」だったのです。
とてつもない衝撃と苦痛と崩壊でした。

光に向かって走っていたのに、辿り着いたら、何とろうそくの炎だったのです。
そして、そのろうそくの炎は、辿りついた瞬間消えました。
あとには深い暗黒が残されたのです。
しかも、迷路でした。

何より苦痛だったのは、仰るとおり現在(当時)の苦痛に「意味がない事」にまで気が付いてしまった事です。
これは悲劇でした。
もはや耐えられませんでした。
だから、全て諦め「なくす」事にしたのかもしれません。

私のかつてのアカデミーの講師からの受け売りで恐縮なのですが;、神とは人間が悲劇(無意味)に耐えられないから創った世界最大の発明だそうです。
人間は物事に意味がないと耐えられないそうで、この無意味に打ち勝つ為に考え出されたのが、神だという一説もあるそうです。

しかし、今の哲学(もしくは社会)では、もはや神という発明では限界なのかもしれません。

補足日時:2007/11/06 00:31
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この回答へのお礼

>なんの意味も持たない自分の身体とまざまざと向き合うことを強制させられる気分になるからなのではないか
仰るとおりです!
ありがとう御座います。
ようやく謎が解けました…。

私にとって、もう、絵を描く事の意味は崩壊しました。
そして、今の無意味な自分を絵を描く事で仰るとおり見せ付けられてるのかもしれません。

>私は質問者さまは救われない状況にはあるが、けっして愚かではないように思います
ありがとう御座います…(;;)

>マッサージめぐりとかをやってみるのもいいような気もします。芸術で感傷がわかなくとも、身体に直接訴えかける手段を取るのがよいのではないか、と
ありがとう御座います(涙)。
ただ、こんな事をcompequal様に申し上げるまでもないかも知れませんが、やはり最後には自分と向き合う嵌めに陥っています…。

>酷な現実を生き延びている自分を、自分で好きになれるかどうか。
仰るとおりです(涙)

>何度も悩みを反芻しつきつめた意識をお持ち方だな、という気が致しました。私はそういう方はけっこう好きです。
ありがとう御座います(;;)

>近くにいたら話を聞きたいと思えるような方だという感触を抱きました
もっと早くあなたの話が聞ければ…。
いえ、今ここでこうして出会えた事に私は感謝しましょう。

>あまり考え無しの言い回しを書き走った形になってしまいましたが、何かしらの足しになりましたら幸いです
ストレートなお言葉、ひしひしと胸に伝わりました(;;)
ありがとう御座います。

恐らく、私は自分に向き合わねばならないのでしょう…。
それが、よくない事だというのは認識しています。
しかし、いつか越えなければならないのもまた事実なのでしょう…。

神(意味)は死んだ。
いえ、初めからそんなものが存在していなかった事に、私達は気づいただけなのかもしれません…。
ありがとう御座います。
もし本当に、人間が現実(真実)から目を背ける為に作り出したまやかし(旧来の発明:神)でない真実があるとするならば、いつか出会えるといいですね。

お礼日時:2007/11/06 10:25

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