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感情・本能(あるいは信念や心の声など、自分の内的なものと言い換えてもいいです)と理性(現実の状況や社会規範など、自分の外の要素と考えてください)が相反するとき、皆さんはどのように対処していますか?

私はアスペルガーなのですが、その障害特性からか私個人の性質からかは分かりませんが、凄まじく苦しくなります。
身体的にも息が苦しくなる・胸が痛む・力が入らない・それしか考えれなくなるなどの症状が出ますし、酷いときには自分の足元が物理的に消失したかのような浮遊感や恐怖感を感じます。
精神的には、自分の存在を肯定できなくなり、すべてのものに不安感や絶望感を感じるようになります。
たとえて言うなら、京極夏彦氏の、ウブメの夏の冒頭で、関口が京極堂にやられた「アレ」が一番近いと思います。

その理由が「私は本当に私なのか?」や「世界は本当に私が見ているものなのか? 本当はすべて幻ではないか?」や「宇宙の成り立ちすら知らないお前に、世界の何が分かる」など、私の理解力では正直太刀打ちできない類のものなのです。
それが、頭の奥底で響き、私という存在を否定してきます。
どれだけ理性と知識で太刀打ちしても、すべてを「疑わ」れ、意味の無い空論を切り捨てられます。
確証は客観ではなく、心の納得するものなので、科学理論や宗教の救いなど、実際には多くの人が信じているものも効果が薄いです。

最近は、「ダイエットのときの空腹感と同じ」と考えたり、とにかく嵐がすぎるまで歯を食いしばって理性にしがみ付いていますが、辛いです。
これから年を取るにつれ、理性も心身の強度も落ちていくだろうと思うと、今のやり方ではいつまで持つのかが不安です。

皆さんは、自分の中のどうしょうもない気持ちが自分を傷付けるとき、どうやってそれと付き合っているのでしょうか?

教えて頂けると幸いです。

追記

この話をカウンセラーにしたところ「よくまともに育ちましたね」と、なんとも言えない感想をいただきました。
どうも、私の自己否定はそうとう性質が悪いものらしいです。

質問者からの補足コメント

  • 無我とは、本当に無我なのでしょうか?
    無我を感じるためには、自我というか主観を通さないといけないのではありませんか?
    また、自分がよりおおきなものの一部である事を、感じろということかと思うのですが、それはある意味、自我の拡張といえるのではないでしょうか。さらに言うと、その大きな実在に触れたとき、戻ってくる自分は、それに触れる前の自分と同じなのでしょうか?
    自己の連続性を担保できないのでは?

    などと一瞬のうちに組みあがってしまいます。
    また、そのより大きなものですら、万古普遍ではなく、移ろい消えてゆくものであれば、それはあまりにも切なく、また恐ろしいです。

    仰る事はそれなりに理解は出来ると思うのですが、共感というか、自分の腑に落としこめないのです。それは違うと、ささやかれ続けています。
    申し訳ありません。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/03/09 21:20
  • 私のこの気持ちは、アスペルガーを診断されるよりずっと前からあります。
    記憶の最古のものは、保育園の頃ですから、三十年近く前のものです。
    その頃から、目が覚めると世界が変わっているとか、寝るとそのまま世界が終わってしまうとか、自分は本当は人形や、実在しない架空のものではないか?
    などと、ぼんやり思っていました。保育園の頃には、飛び降りたいという気持ちが凄く強かったと覚えています。
    小学生のころは、世界が滅ぶ・自分が消える・自分は自分でなく、本物が他にいるなどと、かなり本気で恐怖していましたし、それらの恐怖は今でもくすぶっています。

    ここ数年ではなく、私の人格形成の核の部分に、質問文のようなものがあるのです。
    また、否定といましたが、より正確には「疑わしいものは認めない」だと思います。疑う余地の一切無いものを求められているといっていいと思います。

      補足日時:2015/03/09 21:36
  • >本物なんてどこにもないし今そこにいる虚ろな自分があるだけだし
    それが真実というか事実であっても「それはそれで良い」と思えるだけのキャパが必要だ。

    それはどういう境地で、どうすれば至る事が出来るのでしょうか?
    私は、例えば自分がパーマンのいコピーロボットだったり、プレイヤーの機嫌一つで電電を消されて、すべてを喪失する・そしてまた電源が入るたびに「失った」事すら気付かす自分を再開するのが、真実だと言われたときに、それを受け入れられるとはどうしても思えないのです。

    馬鹿な話と思われるかもしれませんが、もし真理がそうであったらという恐怖感を拭えない。感覚の全てが偽りで、実は自分は脳みそだけ試験管の中の存在で、今は夢幻かも知れない。
    理性で反論しても、「その感覚は信頼できるのか?」と問い返されます。

    どうすれば、仰るような境地へ達することが出来るのでしょうか?

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/03/10 07:08

A 回答 (5件)

私の質問に回答いただいたので、私も、回答になっていなくて申し訳ないですが、書かせていただきます。



「確証は客観ではなく、心の納得するものなので、科学理論や宗教の救いなど、実際には多くの人が信じているものも効果が薄い」というのを読んで、なるほどと思いました。
私は宗教は苦手ですが、科学理論は信じる方です。だから、あなたほどの恐怖を感じずにいられるんだと納得しました。
中学生のときに「人は本当に死んだら意識がなくなるのか、もしかして永遠に続くんじゃないか」と考えた事がありましたが、ネットで「死ぬと脳波が測定されなくなるので意識はない(?)」という記述を見て、そこで「やっぱり意識はなくなるんだな」と自分の中で結論を出したのを覚えています。
ある意味、これも宗教ですね。自分の中で「正しい」ものを決めて、そこに信頼をおき、自分の安定を確保していると思います。

「世界は本当に私が見ているものなのか? 本当はすべて幻ではないか?」→「幻だったらどうしたっていうんだ」「幻でもいいじゃないか」など思うのは無理ですか?
まあ無理だから悩まれているのだと思いますが・・・たぶん、絶対に結論の出ないような疑念ばかりで、疲れられているんだと思います。
そのような問題は、科学も宗教も信じないなら、腑に落ちる瞬間はなかなか来ない気がします。
なので、考えてもどうしようもないのだから、意識的に無理矢理にでも、その思考を逸らすことはできませんか?
思考すること以外に趣味があればそれに没頭したり、テレビやゲームなど思考を散らしやすいものに興じてみるとか・・・。(私のように、叫んで抜け出せる感覚なのであれば、叫ぶのもアリかもと思います。)
自分の世界の問題に比べて、趣味やゲームなどは本当に瑣末で無意味だと思いますが、限りのある(たぶん)自分の時間の中で、ストレスを感じる時間が多いよりは、「たのしい」と感じたり、ただ笑ったりする時間が多い方が、いいんじゃないかと思います。

ただ「頭の奥底で響き」というのが、比喩でなく本当に聞こえるのだとしたら、「幻聴」とか「統合失調症」などもあるかもしれないので、病院でよく診てもらう必要があるかとは思います。

貴方に回答いただいて、すごく優しい方だという印象を受けました。
実際の暮らしでは、そう上手くいかないことも多いようですが、根っこはいい人なんだろうなと感じました。
なので、少しでもストレスを感じる時間が減ってほしいと思います。
参考までに。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>ただ「頭の奥底で響き」というのが、比喩でなく本当に聞こえるのだとしたら、「幻聴」とか「統合失調症」などもあるかもしれないので、病院でよく診てもらう必要があるかとは思います。<

比喩と言えば比喩なんです。心の奥底から沸いてでる「何か」を言葉でからめ取るとそうなるというだけですから。
ゲームや好きなことなど、それから目をそらす方法も考えてみます。正面切て戦うだけじゃ、いつかつぶれてしまいますものね。

貴方が、それほど深刻に悩まされているのではなくて、良かったです。その状態から、私のほうに近づかないことを祈ります。
また、優しい言葉をかけて頂きありがとうございました。

お礼日時:2015/03/12 06:59

3度目のROKABAURAです。



手順・・であれば
まずは囚われず
こうなると怖い こうなると嫌だ 嘘か真か などを一旦置く。
泡立つ感情を水面のさざなみと見て それらが触れてきても拒否せず「そうか」と微笑む。
まずはそこからだが。

世界は不確かで到底全てを理解することなど出来ないが
それでも在るものは在るしなきものはない。
たとえどのように「自分」が認識しようとそれは変わらない。

地をはう蟻だって「本当は自分の暮らしているのは狭い箱の中かもしれない もしかしたら明日には踏み潰されるかもしれない」と考えてるかもしれないが だからといって怖れ慌てても何の意味もない。
事実が何であるか より 自分は何を選択するか の方が大切。
そこにしか自分はいない。
例え今が夢の中だとしても(こういう仮定はもう2000年以上前から存在する)
「俺はその中でもこういう選択をした」という今には変わりがない。

闇の中僅かな明かりを抱いて迷い進むのが人だ。
それでも歯を食いしばって足掻くのだ。
ちなみに神とか悪魔とかが上から笑ってそれを見ていたら 睨みつけてやれ。

それと「もしかしたら本当は自分はいないかも」って思うとしても
少なくともその思ってる奴は存在しているわけだ。
つまりその「疑問」そのものが正に存在の証ではあるのだな。
背理法ってやつか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>まずは囚われず

こうなると怖い こうなると嫌だ 嘘か真か などを一旦置く。
これがまず、苦しいです。心の声とでも言うべきものが、私という意識の掌握の及ばないところから、かなりの強制力で問いかけてくるので、知覚しながら答えないが精一杯です。
>「そうか」と微笑む。

これは一切の疑義をはさまないで受け入れる問うことですか?
これも厳しいです。数分とかの単位ならいけますが(実践経験は何度かあり)一日すぎると、下手を打つと恐慌状態になってしまうため、子一時間ほ
どで問いと答えの応酬になります。
>「俺はその中でもこういう選択をした」という今には変わりがない。

これを、肯定ができません。そうプログラムされているという疑義を喝破できないからです。

丁寧に教えて頂きありがとうございます。私の場合、基点が狂っているようです。頑張ってみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/11 06:56

2度目のROKABAURAです。



まあ深淵を見つめれば虚無に近いと思う。
というか「ではそれでも求めるものは何か」という問いかけがないとそうなる。
本物なんてどこにもないし今そこにいる虚ろな自分があるだけだし
それが真実というか事実であっても「それはそれで良い」と思えるだけのキャパが必要だ。

自分自身の身勝手な欲望やら苦しみよりも大切なものは確かにこの世界には存在するし
それが無情で無慈悲で悲惨な現状だろうとそれでも得難いこの世界に求められるもので
自分がたとえ訳の分からんものでもそれでも在るべきものは在るべきだと
守るため進めるため生きるために戦う意志さえあれば

認めるとか認めないの話ではなく例え1000年生まれ変わろうと
今すべきと思ったことを今するようになるかと思う。

どちらにせよ選択して生きるのが命の定めならば出来る限り足掻くのが真っ当だろう。
知ったかぶりをして何も選ばず何もなさず何も与えず何も幸せにならずでは
どこかの悪党が笑っているような気がして腹が立つのだ。
「ああ。虚しいかもしれんがそれがどうした これが命だ」と叩きつけてやる。
結果あえなく無駄に死んだとしても「それも俺らしくて良い」と笑って逝ける。
自分を選ぶのは・・・自分だ!
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

>自分を選ぶのは・・・自分だ!
どうすれば、そう思えるようになるでしょうか?
私の中には、現実や理性とは離れて、自分でも統制が出来ない存在があるように思えてなりません。ずっとそれを何とかしようと足掻いてきたのですが、具体的手段で手詰まりです。

普通の方、というか私以外の方は、こんな恐ろしい気持ちと折り合いをつけて生活しているのでしょうか?
自分の感覚も意識も世界も、何もかもがかりそめであると言われる付けるのに、自己肯定とか自分を信じて、自分の実存を疑わずにいるんですよね。
それとも、私の頭がやはりおかしくて、ありもしない恐怖を作り出しているだけなのでしょうか?

回答の意図するところは、何となく分かるつもりです。受け入れて、肯定するんですよね。補足に書いたようなことも含めて。
どのように手段を講じれば、私はその方向に歩き出せるでしょうか?

お礼日時:2015/03/10 07:16

それは「不信」だな。



根本的に認識は頭が行っているものだけに頼りとなるのは自分の感覚だけだし
頭のなかの情報も単なる神経組織と脂肪の連結程度だから「実在」を疑うのは当然と言えば当然。
ましてやアスペルガーで自己の人格に不信感があれば それが更に滑車をかけるだろう。

瞑想には「無我」というのがある。
自己を投げ出してたゆたうのだな。
水面に映る姿のように自分を捉え 本質はその水そのもので形なき そしてはるかに大きな実在であると。
「在る」ということは儚き一時の移ろいに過ぎない。
しかしその「時」を正しく本当に大切なものを見ながら歩むことが一番良く
生命として真っ当で幸せだ。

否定ではなく遥かにに大きなものの一部であり全てと繋がっていること感じる。
在るように在れ すべきことをせよと。
「それはそれで良い 出来る事をやれるだけ すべき時に行え」と。
ただこれだけで世界と調和する。

最も大きかろうが外の世界も当然そうだが完全で善なわけでもないので
苦しみや問題が在ることもまた内包し認める。
この不完全な世界では少しでも良くなるよう心がけ仕向けるしか方法はないのだ。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

不信とは、信仰心が無いという意味で捉えてよいでしょうか?
だとするなら当たりです。私はたぶん全能の神という存在を信じられません。その神が存在する前を説明できない限りは。また、前があるのなら、それは全能では有り得ず、前が無ければ存在として有り得ないと思っています。自然信仰の神であれば、信じれますが、それは自己の存在と同レベルの存在でしかないと思っています。
なので、信仰が持てないのです。

また、正直瞑想は怖いのです。大学が禅宗の大学だったので、禅の講義も取りましたし、永平寺にも参っています。
ただ、瞑想で自己の奥底を覘いたとき、そこが虚無であるかもしれないということ、自分の思考を抜けた先の広々とした感覚は、そこから立ち戻った自分の自己連続性に欠落をもたらします。落ち着くよりも、苦しく辛くなってしまうのです。

せっかくの教えを生かせない状況ですみません。

お礼日時:2015/03/09 21:27

人の少ない自然の多い地域で静養してみてはいかがでしょうか。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

静養はたぶん逆効果です。小人閑居して不善を成すではありませんが、ゆっくりと自然に抱かれれば、たぶんその状態をどう捉えるのか・目の前にある自然とは何であるか。何故心地よいのか、それは幻では?とか、色々と収拾がつかなくなってしまいます。
何度か、ゆっくりとするようなことはしているんです。でも、大概苦しむ結果でした。

この問題とは、すでに三十年近く付き合っています。小学校に上がる前から、この恐怖心はありましたから、今疲れて心が弱っているのではないと思います。
面倒な状態で、申し訳ありません。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/09 21:10

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