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世界の宗教と神道を比較すると、どんな特徴が見えてきますか?

何か気づいたことを論じて下さい。

たくさんの回答をお待ちしております。

A 回答 (8件)

 こんにちは。



 聖書・とりわけキリスト信仰にもとづくその世界観と神道のそれとをくらべて見ます。

 まづ聖書のほうから:
 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 ☆ この見方をあえて図式において示したのが 次のかたちです。《ひとはカミの似すがたである》という或る種の命題です。

 ○ (三位一体なる神とひとと社会とについての図解) ~~~~~~~~~

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ これとほぼそっくりの図式を 神道から拾い上げます。

 ○  (神道におけるカミの三位一体および人)~~~~

 かみ:ヒトコトヌシ・・・オホタタネコ・・・オホモノヌシ
 __________________________
 ひと:オホタタネコ( S )・・・・ミマキイリヒコ( A )
 __________________________
 もの:・・・・・自然および社会・・・・・・
 こと:・・・・・自然および社会・・・・・・


 ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~

 モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)
 コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)
  ↓        ↓            ↓
 自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ

 * この範式において 次の図式も得られます。

 モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木
 日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 (註)
 1. カミの子であるオホタタネコは じつは ヒトコトヌシのカミのではなく オホモノヌシのカミの子です。あたかも聖母マリアに当たるのは イクタマヨリヒメ(活玉依姫)と言います。

 2. ネコ(根子)が 大地の子を意味し スサノヲ市民に当たり ヒコ(日子)が 理性の光にも相当しその光つながりで アマテラス公民にたとえます。

 3. ヒトコトヌシは カミでありつつ現実の姿になったところを 雄略ワカタケルに葛城山で見せたし かれと話もしたと言います。そのくだりでカミは こう名乗ったと言います。

    《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言
    言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》
      (古事記)

 ここより或る程度の類似において 《父なる神》に当てます。

 4. ヒンドゥイズムにおける梵我一如は 梵(ブラフマン)は 三位一体なる神のひとまとまりであり 我(アートマン)は ちょうど《市民‐公民》の要素を合わせて持つひとりの人間にたとえるかたちで捉えるとよいと考えます。あるいはすでに自然および社会の全体をもその一如のうちにつつむと見るべきでしょうか。

 5. ブディズムは ちょうどこれらの場合において《神》のところを 空として捉えた場合のごとしです。ただし とは言っても もし仏性を持ち出すなら それは おそらく《神の霊 つまり 聖霊なる神 もしくは オホモノヌシのカミなる霊》がひとに宿るという場合のその霊に当たると思われます。
 つまり 無神論のようであり 有神論のようでもある。のではないでしょうか?

 6. その他。その他。・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!!

とても詳しくわかりやすく回答して頂いたおかげですごく色々わかりましたし、自分は神道のことしかあまり分かってなかったのですが、他の聖書等のことも図式などでなんとなく分かってきました。

ちなみに神道は多神教ですが仏教は一神教なのでしょうか?

お礼日時:2011/07/09 12:52

 No.7です。



 ★ ちなみに神道は多神教ですが仏教は一神教なのでしょうか?
 ☆ 信仰は その信じるものを取り出せばそれは 一であるものです。この一は むしろ全体という意味です。そういう一です。
 重ねて言えば 全体としての一なるものを信じるということは それは唯一であって ほかにはありません。
 
 そして 有神論が嫌な場合には この全体としての一であってしかも唯一なるものを 神とは呼ばず 《無い神》として捉えるのが 無神論です。
 有神論のカミの名前が ヤフヱーやらキリストやらアッラーフやら あるいはブラフマンやアミターユス(阿弥陀如来)やマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらといろいろあっても すべて《全体としての一であって唯一なる神》のことです。それと同じようにこの神の名前を《無い神》としても 同じことです。
 しかもこの《全体として一であってしかも唯一なる神》が あたかもその分身をつくるように多くの神々になって仮りに現われると見たとしても やはり 人の信仰としては まったく類型的に同じことです。
 つまり多神教というのは 一神教の分身形態であるに過ぎません。

 ちなみに 何々教というようにいわゆる《宗教》というのは 個人の信仰のその内容が――そのカミの名前から始まって カミはどういう属性を持つのか・カミを信じるなら どういう生活態度を持つのかなどなど倫理にまで広がって物語として編まれ観念体系としてつくられるようになったあと そのあと―― わざわざその組織にとっての教義であると見なされたものです。これをさらには 組織に属する者は規範として守らねばならないというようにして取り決めていったものです。

 個人の信仰は 良心・信教の自由というように・あるいは表現の自由というように いっさい自由です。信仰は 組織のためにあるのではないからです。宗教は 個人の信仰にとって すでにその魂を抜かれてしまった亡き殻です。
 おしえは 勉強すれば身につくかも知れませんが カミは勉強すれば身につくというわけには行きません。もしそんなことが出来たら 街のいたるところのそこらじゅうにカミがうようよしていることになります。

 
 ブディズムでは ゴータマ・ブッダは 仏性というものを直接みづからは説いていません。

  【Q:ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5224310.html

 ブラフマニズムのブラフマンのような《他に依存せずひとり世界のすべてを主宰する存在》を認めませんでしたし 無我(アン-アートマン)と言っているように そのブラフマンと一体(梵我一如)となったとブラフマ人ズムで説かれた我(アートマン)をも否定しています。その点で 無神論に立ちます。
 ただし のちのち仏性が説かれるに到りました。けっきょくカミの霊 霊なるカミとひとしい存在が想定された模様です。浄土系や真言系では むしろ有神論になっていると考えられます。禅は 無神論でしょうか。

 《多神教》の神道も 一神教であったり無神論であったりする仏教も すべてみな互いに類型的に同じ《一元論としての信仰》のもとにあります。多神は 一元(カミ ないし無いカミ)の分身としての現われだと見なすと分かりやすいでしょう。どうでしょう。
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この回答へのお礼

回答有難うございます!

お礼日時:2011/10/18 15:06

キリスト教は 邪悪な者を好む。


ですから 殺人鬼など 大犯罪者を好む。
逆に正義 清らかなものを嫌う。
邪悪であればあるほどウエルカム。


神道は真逆で、清らなか者を好む。
邪悪なものは寄せ付けない。


これが大きな違いですね。
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この回答へのお礼

そうなんですか!!??
それはビックリですね・・・

知らなかったです。

神道は確かにその通りですね。
よく浄明正直と言いますからね^^

回答有難うございました。

お礼日時:2011/07/09 20:12

 個人的意見です。



 世界宗教という事で考えれば、キリスト教圏と仏教圏になると思います。教圏と言ったのは、キリスト教圏にはイスラム教なども、仏教圏にはヒンズー教なども含めたいからです。

 キリスト教と仏教の絶対的違いは、人の生きる意味を、絶対的に認めるか、積極的に却下するかだと思います。キリスト教は、神の御名のもとに人の生きる意味を絶対的に認めます。人は神の被造物だからです。神が無意味なものを創造なさるはずはない、というのが、その根拠だと思います。

 一方、仏教においては、人は無意味であっても良いのですが、人が無意味だとは絶対に言いません。しかし無意味に「見える」と。仏教は、そこにバイアスをかけます。それが諸行無常です。

 現実的には、自分の生に「意味がなければ、生きていけないのか?」、それとも「意味なんか無くても生きて行けるのか?」の究極の選択になると思います、

 神道は明らかに、「意味なんか無くても生きて行ける」方だと思います。ただしそれを、積極的に肯定します。

  ・意味なんて無くたって、桜は綺麗だし、神社の御神酒は上手い、となる訳です。

 日本人は、なんだかんだ言っても、こういう感覚が大好きなんだと思います。だって今でも、神社のお祭りは大盛況ですもの。
 という訳で、神道の「体系付け」は、世界宗教に比べれば明らかに「弱い」気がします。逆に言うと、それが神道が世界宗教になっていない理由だと思います。世界に出るためには体系化して、先の究極の選択に応えばければならないからです。でも日本人は、神道にそんな事を、きっと求めないんですよ。

 そりゃ、道祖神だって参加します。
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この回答へのお礼

仏教とキリスト教にはそんな違いがあったのですか。
あんまり神道以外に携わった事がなかったので、初めて知ることばかりです。

でも神道は確かにその通りですね。
意味などに拘ること無く、ただ真っ直ぐに神道という道を、神様を中心に歩んで行ってるような気がします。

回答有難うございました。

お礼日時:2011/07/09 20:21

救済主義ではない、ということ。


他の古代信仰と同じ自然崇拝で、
それらの特徴は
「救いを求める」
のではなく
「畏敬の念を示す」
ということ。

だから強力な唯一神を必要としません。
葉の一枚
虫の一匹にも
私たちの神は宿る。

2番さんに賛成で、私は「鎮守の森」が日本文化の礎だと思っています。
あたかも、ローマ街道が西欧文化の礎であるのと同様に。

余談ですが、
よく「キリスト教は一神教」と言いますが、
カトリックはローマ時代の名残である各地の農耕神をマリア崇拝として取り込み、家々の守護神を守護聖人としてとりこんだのだろうと思っています。故に西欧は多神教の気配を残しているのではないかと考えています。
ま、詳しくは専門家に聞いてみなけりゃわかりませんが(全否定されるかもしれません)。
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この回答へのお礼

そうですね。
全ての神々が平等に偉い神様ですので、唯一強力な神様なんてものはいないですね。

鎮守の森フェスティバルこの前ありました。
たくさんの人々で賑わっていましたよ^^

お礼日時:2011/07/09 20:40

一番特徴的なのは、多神教で偶像崇拝を基本的に行わないということですね。

では神社には何が祭られているのかと言うと、御神体つまり神様がいるわけです。分霊されている場合もありますが、基本的には神社では直接神様に会っている(本殿の扉を挟んでますが)ということになります。

あと、他の回答者様がおっしゃられていたことの訂正となりますが、仏教も多神教ですよ。
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この回答へのお礼

そうですね。
神棚を置いてる家でもすごく身近に神様がいらっしゃる感じがします。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/09 20:48

1,キリスト教みたいな一神教ではなくて


  八百万の神々が存在する多神教ですね。
  そのため、宗教戦争なんてのはほとんどないです。
  相手にも神様がついているので、敵であっても
  祟りを怖れ、死ねば祀ります。
  又、仏教もキリスト教も八百万神々の一人に過ぎません。

2,中国の道教も多神教ですが、これは宗教に
  特有な聖なる部分に乏しく、不老とか長寿
  という極めて俗的な宗教です。
  それが中国人のあの、俗的な国民性を基礎づけて
  いると思われます。
  これに対して、神道は、清浄という聖的な面を
  有しています。反面、穢れ思想てのが付随しています。

3,キリスト教は一神教なので、教義も体系もしっかり
  していますので、他に教え伝えるのが簡単です。
  その為、世界的宗教になり得ました。
  しかし、神道てのは、そんなものはありません。
  後で無理矢理造ったものは沢山ありますが、それは
  本来の神道とは言えないものです。
  本来の神道てのは、先祖を想い、人間は自然の一部だと
  いう程度の、プリミッテッブな、日本人の民族感情とも
  いうべきもので、他に伝達するのが困難です。

  そもそも、神道においては、信者であるとの自覚すら
  不要なのです。
  文部科学省調べでは、神道の信者は1億1千万ということ
  になっていますが、それはこれを裏付けるものです。
  日本人のほとんどは神道の信者なのですが、ほとんどの人は
  そんな意識も無いでしょう。

話が長くなるので、この辺りで終わりますが、私は、この神道こそが
日本人の国民性を決定しているものだと思っています。
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この回答へのお礼

本当にその通りですね。
私も今は神道の信者でいるつもりですが、意識するまでは全然何も感じなかったです。

他の宗教に比べるととても自由度の高い宗教な感じがしますね。

お礼日時:2011/07/09 20:31

日本神道は「多神教」、世界の宗教のうち多数派を占めるのは「イスラム」「キリスト」で、どちらも「一神教」。

ココが一番違っていますね。

ちなみに、歴史的に見て比較的早期に文化が成熟した国々の宗教は多くが「一神教」で、「多神教」を信じる国々の多くは、比較的文化の成熟が遅いです。ですので、日本を神道の国として「多神教」の国の例外と考えるか、早期に仏教を導入して「一神教」の国になっていると考えるかで、結構見方が変わってきます。
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この回答へのお礼

成る程!
たしかにそうですね。
仏教で完全に染められていたらもしかすると、今現在神道というものが存在しなかったかもしれないですね。

そう考えると神道はいくつもの困難、危機を乗り越え、今も存在しているんですね。
感動しました。

回答有難うございました

お礼日時:2011/07/09 20:35

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