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なぜ未だに神を信じている人々がいるのか?

A 回答 (12件中1~10件)

頭の悪い人々がいるからです。


頭のよい人は、信じる(非思考)ということがありません。
頭がよいというのは、勉強ができるという意味ではありません。
物事の本質や真理を理解できるという意味です。
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オメガ点で実現された、


無限スーパーコンピューター

「神」と言うんだそうです。

世界も私達もそのスパコンのシミュレーションの一部……

アルケーはスパコンだった。

あ~
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科学で、物理法則を説明できても、では物理法則自体が何故存在しているのか?という事は解決できません。



物質はエネルギーと等価なので、つまり、物質はエネルギーに還元できるので宇宙はエネルギーそのものと言えます。

科学はエネルギーの変化の秩序(物理法則)は説明できても、何故エネルギーが存在しているか?
ということ自体を説明できませんし、説明するものでもありません、ではエネルギーという存在は何なのか?

存在が存在しているというのはこの先もずっと本当に不思議なことだと思います。

神が居るとしたら、神は髭を生やしたおじいさんではなく、物理学で扱うところのエネルギーという存在ではないでしょうか、つまり、私達という存在そのものではないでしょうか、何処かにいるのではなくて、私達自身を構成するものであるエネルギー自体。

だから、存在するという不思議さを解明できない以上、存在はある意味で神と言えるかもしれないと個人的に思っています。
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ボクは子供の頃 神の姿を見ていました。



いま思い起こせば笑えるのですが その神の姿は
今現在のボクの姿にそっくりであったこと。

それを踏まえて考えると いまボクが神と感じている
ものは ボクがお爺さんになったときの姿なんでしょうかね。

確率の波が 反慣性を示した結果でしょうか。
ああ ツァラトゥストラの声が聞こえる。
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科学的に否定しきれていないからでしょう。


かといって肯定など、現代物理学ではまだ無理。

すると確率論的に信じた方が後々得になりそうだからです。
非常に打算的な考えですが、一応の説明はつきます。

まず、世の中に神などいるはずがないとして行動した場合、
これは生きている間に唯物論に浸ったものの勝ちです。

しかし、あの世が存在した場合、
現世の数十年とあの世の数千年を天秤にかけるのですから
賭に失敗した場合の被害は甚大です。
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信じる物ではないんです。



いるんです。
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人類発祥から世界的に信じている神の存在を信じるのも


森羅万象の1%も立証できかたどうかの科学を信じるのも
大差ないから、どっちでもイイのではないでしょうか?
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「人智で太刀打ちできない大きな存在」を神と呼んでいいのなら、その存在を信じます。


 ↑コレに該当するものは、たくさんありませんか?
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たぶん、それが人間にとって必要だからでは


ないでしょうか。
脳にビルトインされているのでは、と思っています。

人間は食物連鎖の頂点に位置しています。
人間にはウィルス以外に、適当な天敵が存在しません。

そんな人間は傲慢になりかねません。場合によったら地球を破壊し
己自身を滅ぼしかねません。
そんな人間を謙虚にさせるために神の存在が必要
で、神は人間の脳にインプットされているのではないのか
と思っています。

この世、宇宙の整然とした法則性や、人間誕生に奇跡を見いだし
神を信じる人もいるでしょうが、それは数学的に問題があります。
現代の複雑系科学では、宇宙の法則性も、人間誕生も
それほど奇異なことではないことが立証されています。

これでは日蝕を観て神の存在を信じた人と変わりはありません。
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 こんにちは。



 そういった見解として自己表現を成す場合は 《無い神》を信じているということを意味します。

 そしてそのことは 〔有る〕神を信じているという場合とまったく同じ《非思考の場》が あなたの心に成っているということです。

 有る神か無い神か そのように名前または人間の言葉としての表現が互いに異なっているだけのことです。
 
 誰にとってもわが心に非思考の庭が成っているというのが 信仰です。

 そして非思考ゆえに それは神が有ると言っても無いと言っても(つまり信じないと言っても) ふたつの場合は 互いに同等のことを意味するというものです。

 信じたくない・信じないと自己表現する場合は 非思考なのですからそれは考えるではなく 《信じないという表現において 信じる》と言っていることになります。

 《信じたくない》と自己表現すれば その非思考の庭にともかく神という名のものを持ちたくないと言っています。ならば無い神を非思考において持ったことになるのです。

 《信じない・信じたくない》と言えば すでにその対象を――非思考であるにもかかわらず 人間の自然本性の有り方からしてふつうに誰でも――どこかに認めたことを意味しています。そのナゾの対象――つまり 神のことですが--をけっきょく認めたからこそ 《信じたくない・信じない》と自己表現しているに過ぎないということです。


 《神》にかんするこのような情報を まだ手に入れていない場合には
 ★ なぜ未だに神を信じている人々がいるのか?
 ☆ といったとんちんかんな疑問が持たれ 質問としても挙げられて来るのです。
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