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高校の教員です。

ときどき「学校の勉強なんて役に立たない」という人がいますよね。
大人でも「数学や歴史なんて、私の人生において不要だ」と言う人がいます。
あれを聞くと、私はとても腹が立つんです。

ある教育書で、こういう説を読みました。

  教育は、個人がそこから利益を得るためのものではない。
  教育によって利益を得るのは、社会全体である。
  自分の利益をいったん置いてでも、共同体のために行動する、
  そういう人間が一定数いないと、社会は維持できない。
  (実際、そうでない会社はすぐに潰れる)
  ゆえに、そういう人間を生み出すために教育は存在する。

要するに、学校で習うことについて
「それは『俺にとって』何の得があるんだ」
「それを習っても『俺には』何の役にも立たない」
と聞くこと自体が、お門違いだということです。
そうして自分の欲望ばかりを押しだすことをやめ、
社会をよくすることを考えられるようになろう。
そのために色々なことを知らなきゃダメだ、ということです。
それは、したいとかしたくないとかではなく、しなければならないのだ、と。

私はこれを読んで「そう、そうなんだよ!」と両手を打ちました。
生徒にも訴えましたが「言い分は分かるけど、イヤだなぁ…」という感じでした。
まぁ、子供なので無理もないでしょうが……

さて質問は、これを聞いた大人の方は、どう思うのかということです。
特に「勉強なんて『俺の』役に立たない」という大人の方にお聞きしたいです。
もちろん学生の方でも歓迎します。
反対意見でも構いませんので、いろいろ聞かせていただければと思います。

A 回答 (16件中1~10件)

まあ、結局高校生ってのは「親の希望」というのが強いので自分で勉強を選んで進学したわけではないでしょうから本人を責めるのも現場と理想論の隔たりがあるきもしますね。

結局したいからというよりはいいなりですから。

 個人的な見解としては「教育」というのは「権利」という部分と「義務」という部分があると思います。要するに、日本人として生まれた以上教育を受けなくてはいけない義務があって、最低限その社会でいきていくためのルールや教養といったものを一方的に強制するのです。この点は必要かどうかは問いませんよね。極論を言ってしまえば「力ずくで物事を解決する方がいい」ということがなぜいけないのか、というのもあくまでそれがルールだからとかそういう次元の話になってしまいます。教養がある人=ルールや社会をよく知っているというのがすなわち国の求める「義務」教育の本来の目的と言えるのでしょう。

 高校生なら国からの義務は外れます。ただ、親に飯を食わせてもらっているならお金を稼ぐ=生きていく努力が免除されている一方で、高校教育を最低限受けるだけの義務があるといってもいいのではないかと思います。それが嫌なら働けと。まあ実際にはそれでいいと開き直る人もいるかもしれないところが、親の意思なのか、どうなのか、、。いずれにせよ、高校生(未成年)は法律的にも自分の自由というものが自分の意思だけでけっていされていない「未熟者」というわけですからそれには強制力のある「指導」があってよく、本人がいやだろうが周りの「保護者」や「指導者」が必要と思われる強制力を責任をもって指導する必要があるともうのです。そういう意味では、あなたはその生徒たちに最低限求められている学問を理解させてあげる責任がある以上、その一方で強制力を発して授業を受けさせる程度のことはあってしかるべきと言えるでしょう。親から学校を通じてそれが任されているのですから。

 しかし、もう少し社会というものがわかってくると人間個人の利益というものは必ずしも自己完結するものではないということにも学生は気付くのですけどね。たとえば、音楽は「売れる」ことが重要か「芸術的に高度か」という議論もありますが、たとえ高度な技術であっても誰にも評価されなければやっぱり満足できる人って少ないと思います。大学の研究者だって多くの人は、「好きだから」やってるとおもいますが、それでも論文で評価されることはお金を取ってくる以上に「やりがい」になってもいると思います。企業だって、大企業になればなるほど利益を出す一方で、社会貢献できる道を模索しながら理念とかを掲げているのですよ、実際は。学校教育だって、元をたどれば皆が安心して暮らせる世の中を作る上で出来上がってきた制度でしょうし(決してお国の都合のよい兵隊を作るのが今の日本では目的ではないはずです。)警察官に正当な業務で職務質問されたら怒るけど、困ったら110番するというのは自己中心的極まりない低次元の考えだと思います。

 長くなってしまいましたが、とはいっても結局は「親」は周りの子の成績や進路などどうでもよく、自分の子が良い大学に入ってほしい。そのためには、テストで回りの子を蹴落としていく。点数が取れない子は、、、といった世界が、高校生の住む「社会」ともいえます。競争というのは社会で必要なものである以上それから逃れることは不可能なのですが、その中で「皆のため」と言えるようになるには、まず自分の身が潤わなくては無理な話で多くの高校生にとってそれは「きれいごと」という認識はおそらく正しいでしょう。
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初めまして、中学校教頭です。



 質問者さんは、

>要するに、学校で習うことについて
>「それは『俺にとって』何の得があるんだ」
>「それを習っても『俺には』何の役にも立たない」
>と聞くこと自体が、お門違いだということです。
>そうして自分の欲望ばかりを押しだすことをやめ、
>社会をよくすることを考えられるようになろう。
>そのために色々なことを知らなきゃダメだ、ということです。
>それは、したいとかしたくないとかではなく、しなければならないのだ、

 このように結論づけられているのですが、四十路を過ぎた管理職の私が読ませて頂いても「きれいごと」に読めてしまいます。聞かされる側の高校生ならばよけいに「ウザ」となるのではないでしょうか。

 教員には「思い」は大切です。だから相手の思いも大切になさる必要があると感じます。

>「それは『俺にとって』何の得があるんだ」
>「それを習っても『俺には』何の役にも立たない」

 このような生徒の「思い」をまず理解したいです。勉強が嫌なのか、押しつけられる教育が嫌なのか、単なる教師への反発なのか、本心からの学校教育に対する考えなのか・・・。

 その生徒の「思い」に対して、応(答)えなければならないと思います。

 となると、状況も教科も生徒の言う「それ」が何なのかも判らないので、答えようがないかと思います。

 【方程式も年号も構文も「社会をよくするため」に学習するんだ!】

 では、子どもたちには通じないです。

 学業全般に対して「得か損か」と言う問いならば、答えは分からないでしょう。多くの方々が指摘されているように、その答えは将来分かるようになるから、今は判らないんです。判断できないんです。

 長くなりました。

 結論として私の意見は、【生徒の考えを理解してから指導しましょう】です。
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この回答へのお礼

大勢の方の意見を聞かせていただき、勉強になります。
本来ならば個々にお礼をすべきですが、
長くなりそうなので、こういう形で失礼いたします。

まず感想は「やはり多くの方が『勉強は役に立つ』と仰るなぁ…」です。

もちろん勉強は役に立ちます。
それを分かった上で、それでも私は、
生徒への説得に「有用性」を持ち出したくないんです。

「勉強をすれば、君の役に立つよ。有利になるよ」という台詞は
「じゃあ俺は不利でもいいから勉強しない」という台詞に反論できません。
人間は、自分が少々不便でも、楽な道を選ぶものです。
だって、サボっても迷惑を被るのは、自分しかいないのですから。
その自分が「べつにいいよ」と言ってしまえば、サボりを止めるものはなくなってしまいます。

(一人暮らしをいいことに、掃除もせず、授業にも出ず、
 自堕落な生活をしている大学生は多いですよね。それがいい例です)

いろいろ考えた結果、それを防ぐには、
「勉強は自分の利益のためにするのではない」と言うしかないのかな、と思いました。
「世のため人のため」といって他人を巻き込むことで、
勉強せざるをえない必然性が生まれると思ったからです。
(一人暮らしなら自堕落でも、同居人がいると少しは改善されませんか?
 一人なら「掃除なんか面倒くさい。汚くても俺が我慢すれば済む」ですが
 同居人や家族がいればそうはいかないでしょう?)

この意見は、皆さんはどのように思われるでしょうか?
また皆さんは「自分が損してもいいから勉強しない」という相手をどのように説得されますか?

お礼日時:2011/10/15 00:00

理系の大学院生です。


教職課程もやっていたので自分なりの教育観(現場を知りませんので机上の理論かもしれませんが)も持っているつもりです。
社会を良くすることを初めに持ってくるか、自分が食べていくことを最初に考え、そのためには社会に貢献しなければならない、その結果社会を良くすることに尽力しているとなるかは考え方の違いであると思いますが、私は後者です。
社会がなければ自分もないわけですが、個人の考えとしては社会より自分です。

とまあ、それは置いておいて、勉強が役に立つか立たないかに関して、私は役に立たない勉強はないと思います。
最も槍玉に挙げられるのが数学でしょうか、実生活に因数分解など必要ない、というようなことは何度も聞いたことがありますし、私が塾でアルバイトをしていた時もそのようなことを言い訳にする生徒もいました。
因数分解そのものは実生活で使わないかもしれませんが、数学を学ぶことで論理的に物事を考える力を養い、その力はどこかしらで役に立っていると思います。
また、役に立たないということがどうして言えるのかとも思います。
先のことは誰にも分かりません。
勉強しておけば良かった、と思っても後の祭り、ということもあるかもしれません。
現在放射線のことでいろいろ議論が起こっており、大した線量でもない(私が放射線施設で実験したら1日で1桁上の線量を浴びます)のに怖がっている無知な方々も見受けられます。
学生の時に、物理や化学を役に立たない、と言ってきた結果がこれなのではないかと思います。

ですので、役に立たないのではなく、役に立つのは分かっていても他に優先したいことがある、というのが言い分ではないでしょうか。
1日は24時間、その中に食事、睡眠、入浴などを入れて、残った時間に何をするかでしょう。
教員の方ということで相手にしているのは高校生だと思います。
勉強した方が良いのは分かっているけど、他に優先度高くやりたいことがある、が彼らの言い分ではないでしょうか。
遊びたい年頃でしょう、私も高校生のころは興味のない科目を勉強するよりは遊びたいと思いました。
今になって、勉強しておけばよかった(特に英語)、と思うことはありますが、勉強漬けになっていれば良かったかと聞かれればそんなことはありません。
遊びを通していろいろ楽しい思い出は作れました。
高校生の時の生活が間違いだったとは微塵も思いません。
少々大変ですが今、英語を勉強しています。
今でも、教養を広めた方が良いのは分かっていても自分の中で優先順位を付けて下位のものはほうっておくことが多いです。
高校生の時にしか作れない楽しい思い出などもあると思いますから、いわゆる役に立つことだけで時間を使ってしまうのもどうかと思いますし、先生として一見役に立ちそうもない数学や歴史を時間をかけてやることでのメリット、デメリット、人生での意味を人生の先輩として意見してみて、それをどう判断するかは生徒に任せる、というのが良いのかなと思います。
結局は生徒の人生は本人が決めるものです。
我々が役に立つ、良かれと思って強制してもそれを本人が役に立った、と思える人生を送るかどうかは分かりません。
自分で決めて後悔するならば納得も行くと思いますが、人に強制されて結果に後悔するのは納得いかないと思います。
生徒のためを思って、良かれと思うレールを強制的に走らせるのが良いか。
本人のことは本人が最終的に決めるものとして、距離を取るか。
正解はない問題だと思うので…、教育は難しいですね。


役に立たない勉強はない。
しかし、限られた時間の中、他にもやること、やりたいことが色々ある中で、勉強に時間を費やすかどうかはその人の考え方次第。


というのが私の思う結論です。
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私は無責任な大人なので


「教育は、個人がそこから利益を得るためのものではない。
教育によって利益を得るのは、社会全体である。
自分の利益をいったん置いてでも、共同体のために行動する
そういう人間が一定数いないと、社会は維持できない。」
などと言われると、反発したくなってしまいますね。
もちろんその意見にも一理あるとは思いますが
「社会のためにおまえが犠牲になって勉強しろ」と言われている感じがして嫌です。
さらにまずいのは、教育者が個人に対する教育の意味を説明できていないところです。
上記のような説を出したら
「じゃあ、勉強するのは俺じゃなくてもいいんじゃない?」ということに当然なるでしょう。
『俺が』という人は社会全体を俯瞰する視点が欠けているのかもしれませんが
その教育書にある説やそれに無条件で賛同する方には
個人を大切にする視点が欠けているのではと考えてしまいます。

それはそれとして、私自身は「知識は力である」と考えているので
勉強を無駄であるとは全く思っていません。
私が理系ということもあり、自分の専攻分野の専門的知識は非常に大事で
仕事にも直結していますが
専門的知識の基礎をなすのは、結局は数学や理科であったりします。
また、外国と関わるような仕事をしたいなら
英語はもちろんのこと、外国文化等の理解のために世界史・地理・現代社会は役に立ちます。
さらに、外国のインテリと付き合う場合はいわゆる教養が必要になりますし
自国文化の話もできないような人は相手にしてもらえません。
そうなると自国文化を理解するための日本史や古典も学ぶべきですし、各国思想の基本を学ぶという観点では倫理にも学ぶ意味はあります。

まあ、こんな感じで
ちょっと将来大学にでも行って、それからそこそこ以上の企業で働きたいというのであれば
高校で履修するほぼすべての科目は学ぶべきであり、また有用であることに気付くと思います。
とは言え、一介の高校生がここまで考えを巡らせるのも中々難しいかもしれませんので
そこはやはり教師の方が勉強の意義をうまく教えてあげるべきでしょう。
「社会のために云々」と言うよりも「今やってる勉強は、将来こういうことで役に立つんだよ」と言ってあげるほうが、聞くほうも素直に聞くんじゃないかなと思いますよ。
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必要最低限以外のものは・・・



『自分が必要としているから』ではなく、
それを『周りが必要としているから』なのかなって最初は思いました^^

一流企業に就職するにも学歴など必要とされますし、
世の中が『勉強の出来る出来ないを基準としている』のが大きな要因かなと。

知識を受け入れ学ぶことによって、
人間は学習し、さらに上を目指そうとするものかと思います。
終わりなき勉強は人に秩序をもたらすものかなと、

今の私はそう感じております^^
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「そんな考えの奴は社会の役に立たない」


とあなたが思っているから、腹が立つのではないですか?

「学校の勉強が役に立たない」と考えていても、
社会生活の中で「勉強になる!」と思える場所で
社会の利益になる勉強をする人もいるでしょう。

共同体のために行動できる一定数の人間が、
学校からだけ生み出されるわけでもないと思いますし・・・。
一定数の人間だけが、社会の利益を全て生み出している
わけでもなさそうですし・・・。

「学校の勉強なんて役に立たない」と考えてしまう
まだ発展途上の子供たちが、進学した先で、
社会に出てから、随分年をとってからでも、いつか
「社会をよくすることを考えられるようになろう」と
思えるようにする。そういう人間が
役に立てる機会を得られるようにすることが
教育ってことだと思います。
その教育をするのが教育者であり、
その教育を「全員」に伝える努力を惜しまないのが
教育者だと思います。
子供を通して出会った先生方(教育者)が
素晴らしい方ばかりだったので教育者を尊敬しています。
(教育者への理想が高いです。)

「俺には役に立つ勉強」を教えてやってください。
まだ気づけていない世代の者に腹を立てるのは
教育者としてまだ未熟かなぁ、と思います。

私自身も、学校で習うことについて
「それは『俺にとって』何の得があるんだ」
「それを習っても『俺には』何の役にも立たない」
と思ってたところが、少なからずありますが、
色々役にたってます。教育を受けられた恩恵を、
少しでも社会のために役立てる大人になりたいものです。
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こんにちは。



私がいつも子供に言うのは

『知ってる』と『知らん』では、『知ってる』事が多い方が役に立つ

です。
うちの主人は学生時代は地理と歴史が苦手だった様で、いつも言うのは「そんなん知らんでも生きていける」です。

でも私の考え方は

どこで何の知識が役に立つかわからん

です。

例えば大人になって仕事をしていた時、仕事の上司であったり取引先の方であったりが「歴史マニア」であった場合。
「自分は歴史、嫌いでしたから知りません」
で終わるのと
「どの時代ですか?日本ですか?」
などと会話を進めるのでは、その後は天と地程に変わります。

私自身、海産物を取り扱う会社が取引先だった時に、高校時代にやたら「お徳用だし昆布」を食べまくっていた話をすると、営業さんが苦手がっていた社長と笑いながら話せる様になりました。

どんな「どうでもよさそう」に見える事でも、その後の長い人生ではどこで役に立つのかわかりません。

知っておいて『損』はないです。
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>教育は、個人がそこから利益を得るためのものではない。


  教育によって利益を得るのは、社会全体である。
  自分の利益をいったん置いてでも、共同体のために行動する、
  そういう人間が一定数いないと、社会は維持できない。
  (実際、そうでない会社はすぐに潰れる)
  ゆえに、そういう人間を生み出すために教育は存在する。

この考え方自体は、力点の置き方次第で震災など災害時の相互扶助の思想にもなり得ますし、戦前の「滅私奉公」的な全体主義思想になるおそれもあると思いますので、一概には良いとも悪いとも判断できません。また「個人の利益」とひとことで言っても、高賃金が得られるなどの物質的な利益もあれば、知識欲が満たされる充実感など精神的な利益もあり、「教育は、個人がそこから利益を得るためのものではない。」と断言してしまうのには抵抗感があります。この文章の作者は「個人の利益」を金銭的・物質的なものだけに限定して考えているのかもしれませんが。

ただ、日本の現状を見ますと、実際の社会で教育を動かしている考え方は、この質問サイトに寄せられる教育関係の質問の多くを見ても明らかですが、上記のようないわば理想論ではなく、非常に功利的、あるいは打算的な現実論です。そのアンチ・テーゼとして上記のような考え方は一服の清涼剤として貴重だとは思います。また好意的に解釈すれば、「自分の利益を「いったん」置いてでも、共同体のために行動する。」と述べていて、「いったん」の後は自分の利益を得ることも認めると示唆しているようにも受け取れます。ご質問に引用されたこの文章の作者の真意はともかく、少なくともそのくらいのゆとりがないと現実の社会はうまく回ってゆかないと思います。

学校の勉強、特に高校までの学習はどうしても与えられた問題を解くことが中心になりがちで、与えられた問題に効率的に解答できることが「勉強ができる」と思われがちです。しかし就職して社会の現実を知るに連れて、(私は学校を卒業して30年余り経ったおじさんですが)本当に重要で困難なのは、問題を解くことよりも、問題を作ること、つまり自分の職業に関連して実社会が直面している現実の課題を見いだして、的確に(解答を出しうる形に)問題として提起することの方だと気づきます。的確に問題を提起できれば、衆智を集めて解決の方向へ踏み出すことも可能となるからです。

学校の成績は抜群に優れていたのに、就職してからはどうも仕事がうまくゆかない人をしばしば見かけます。その人の性格に原因がある場合もありますが、多くの場合学校の勉強がそれだけで完結してしまっていて、仕事に使える道具となっていないようです。この場合、学校の勉強は役に立つ・役に立たないではなく、役に立てられる・役に立てられないではないかと思います。同じように勉強して、同じような知識を得ても、Aさんは社会に出て、問題の提起や解決にそれを役立てることができ、別のBさんは同じ知識を役立てることができない。このような例は多いです。

Aさんは学校の勉強が私には役に立ったと言い、Bさんは学校の勉強は自分には役に立たなかったと言うかもしれませんが、よく考えますと学校の勉強が役に立ったか立たなかったの違いではなく、活用できたかできなかったかの違いでしょう。ただし、学校で学んだことを仕事に活用(応用)できるかどうかの能力の基礎を最初に習得するのが学校(能力を伸ばすのは職場ですが…)であることも確かで、話は複雑だと感じます。
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あまり固く考えないことです。


学問は他人から押し付けられてするものではありません。
自ら進んでするものです。
その人が役に立たないと言うなら、役に立つものを自分で勉強すればよいことです。
ただ、貴方が言うように義務養育の教科がなぜ必要かは、全て「読み、書き、そろばん」からです。
文字が読めなければ全て口約束になり騙されるだけです。
書きができなければ証拠がなくなり、またまた詐欺に合うだけです。
そろばんができなければ、計算ミスの指摘ができないので、高い買い物をするだけです。
高度な知識を持つことで、騙されない騙さないことができることを生徒に教えるのが良いと思います。
理科、社会については、理科の現象を知っていれば、危険を予知し多くの命を助けることができる。
社会の地理では、他の国の人の暮らしを知ることで、習慣や考え方を事前に知ることができるから、容易に親しくなれる。
歴史では、過去の人の行いを知ることで、二度と繰り返さないことや参考になることが多くあることを学ぶのです。
要は、生徒の身近なことから論じてやらなければ理解はできないと思います。
頭ごなしに自己主張しても聞き入れてもらえないし、聞く耳を持ちません。
生徒と目線を合わせることが大切ではないかと思います。
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大人の男性です。



>これを聞いた大人の方は、どう思うのかということです。


「それは、したいとかしたくないとかではなく、しなければならないのだ、と。」

勉強はしないよりはしたほうがいいし、

社会のためにいろいろ尽くすことが、結局は廻りまわって自分のためになる。

とは思いますが、

他人に、特に目上の人間に子供がそういう考え方を押しつけられることには

非常に違和感を感じます。

高校の教員には随分と、思考の浅い人がいるなぁ。。というのも率直な感想。

勉強なんて他人に押し付けられてするもんじゃない。

小学生ならともかく、高校生にもなったら特にそう。

ずいぶんと幼稚な話だと思いますね。

教育関係者がその話をすると、自分の教育力のなさをすりかえてるだけ。。

のようにも聞こえるし。
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